第8話 彼女のことなら

 今朝の出来事はまるで号外が配られたようにすごい速さで噂が回った。


『桐生爽真が倉敷美和をフッた!』


 まるで場外満塁ホームランのような騒ぎだった。

 本人に突撃インタビューをしてくるようなヤツはさすがにいなかったが、本当のところをすべては知らない庄司が「もったいない」と一言いった。僕の気持ちを知っている今井がなにか言おうとサッと動いたけど、僕は庄司に「ほかに気になる子がいるから」と言った。


 庄司はそんなことは想像したこともないという顔をして、それから「それなら早くそう言えよ。勘違いして軽蔑するところだったじゃないか」とちょっと気まずそうに言った。


 不思議なことに、あの、僕が坂本祈里に声をかけたという出来事はクラスの中で秘やかに隠されているようだった。

 あの場にいたクラスメイトはみんな、あの出来事の続きを、静かに見守るつもりらしい。


 優しい出来事は、静かに囁かれて、波紋のように広がっていく。それがまだ庄司のところまで届いてなかったようだ。


 視線を向けると坂本祈里はこっちを真っ直ぐに見て、見間違いでなければ「くすっ」と微笑んだ。春の陽光のようにささやかに。暖かい気持ちに包まれて、自分のしたことに間違いはなかったと、自分の中の自分たちを納得させる。満場一致で今朝の振る舞いは可決された。


 そんな風にホッとしていると、スマホが鳴る。ポケットから取り出すと、それは坂本祈里からで、その一言に僕はとても動揺した。


『それでキスはしたんですか?』


 いのり、と書かれたトーク画面の一番上のメッセージはそれだった。前途多難だ。これが最初の一言だなんて。

 彼女は知らん顔をして、それでも赤らんだ頬を隠しきれずにスマホに熱中している顔をしていた。


『情けないけど、壁ドンされました』


 三秒考えた。

 でも誤解は解きたかった。

 送信ボタンを押す。

 デジタル化された文字は、目に見えるところにいる彼女に届く。


 彼女は顔半分を手で覆った。言葉が足りなかったのかもしれない。でもやり直すことはできない。

 彼女の反応を見守った。

 しばらくそれを見ていた彼女は、国語教師が入ってくるのを見て、スマホをそっとしまった。


 どういう気持ちでいるんだろう?

 僕はまったくバカで、世の中にはああいう女がいるということを身をもって知っていながら、あっさり油断した。知識だけじゃ意味がなかった。いつでもそれに備えなければいけなかったんだ。


 ――身長差、十五センチ。

 坂本祈里の身長がいくつなのか、僕はそれを知らない。倉敷美和よりは低いだろう。さっちゃんとは同じくらいかもしれない。

 身長差ばかり考えている自分に気がついた時、不純だと恥ずかしくなった。


 坂本祈里とキスすることを考えている?

 彼女は今、そのことで悩んでいるようなのに?

 好きでもない女に押し倒された男を、どう思っているんだろう? やっぱり汚らわしいだろうか?


 ああ、僕の青いグッピーが悲しげに尾びれを震わせている。熱帯魚はすごく魅力的だ。けれど、どんなに丁寧に扱っても、小さな熱帯魚たちは次々に死を迎える。僕は白いネットでそれを引き上げ、別の日にペットショップに行って、新しいグッピーを買い足す。水槽に入れる。


 ◇


 新しいグッピーは美しいけれど、移りゆく水槽の中に僕の心は少し寂しくなる。

 青いグッピーは、とりわけ弱い。このままダメになってしまうかもしれない。

 もう決意してすべてを包み隠さず話してしまおうと、昼休みまでに頭の中で何度もその話を考えた。

 伝えなければ伝わらないことをすべて。


 これは僕にはすごく勇気のいることだったけど、それでも越えなければならない壁のように感じた。

 僕は坂本祈里とこのままでいたくなかった。

 誤解に蝕まれたまま、終わりたくなかった。


 ◇


 化学教師の言葉は耳を通り抜けて、いつの間にか授業は終わり、化学室から教室へと向かう。途中、自販機に寄ろうという話になったけど僕は断った。大切なことがあるからだ。


 さっちゃんたちのグループは、いつも通り、穏やかにゆっくり、魚の群れのごとく列の後ろ側を歩いていた。――坂本祈里がいない。待て、トイレかもしれないし、購買に一足先に行ったのかもしれない。

 もう一度振り向くと、さっちゃんたちはひそひそ、僕の方を向いてなにかを囁きあっていた。


「ねぇ、坂本さんは?」

 みんなで頷きあって、さっちゃんが前に出た。

「桐生くん、お願い、祈里ちゃんを助けてあげて」

「なにがあったの?」

「祈里ちゃん、ちょっと行ってくるって言って、多分D組に行ったんだと思うの」


 ――僕は荷物を今井に押しつけると、急いで廊下を走った。庄司が「転ぶなよ!」と忠告してくれた。

 振り向く間もなく、階段を駆け下りる。化学室は四階で、二年生は三階。そのたった一階の差が忌々しい。

 もつれそうになる足を叱咤して、僕の中の僕も総動員して、彼女の元へ向かう。


 なんだって、そんなとこへ? いや、今はそんなことはどうでもいい。彼女が傷つかなければ。


 ◇


「嘘つき!」

 先ず耳に入ったのはその言葉だった。刃のように鋭い言葉が横切った。

「桐生くんの悪い噂、流さないで!」


「なんのこと? 全部本当のことだけど。あなたなんかどんなに憧れても桐生くんには届かないわ」

 なんて言い草だろう。坂本祈里の純粋さと比べたら自分の台詞を反省しなければいけなくなるに違いないのに。


 僕はとりあえずふたりの間に割って入ろうと、「坂本⋯⋯」と声を出したところで、形勢逆転した。それはほんのひと刹那のことだった。


 ――坂本祈里は倉敷美和の顔を平手打ちした。音はしなかった。時が止まった。


「これ以上、桐生くんのことをつけ回したら許さないんだから!」

「何様のつもりよ!」

「わたしは、わたしは⋯⋯これから桐生くんにちゃんと『好きだ』って告白するから。それで」


 もう走る必要はなかった。

 坂本祈里の顔は遠目には見えなかったけど、涙でぐちゃぐちゃだった。よかった、ティッシュくらいはポケットに入っていて。ハンカチは持ち合わせてなかった。

 坂本祈里は僕の顔を見ると力が抜けたようで、僕の腕の中にぽすっと入ってきた。


「フライング禁止だよ。好きになったのは僕が先なんだから」


 誰かが口笛を吹いた。

 その口笛は試合終了のサインとなり、倉敷美和は「サイテー!」と捨て台詞を吐いて教室に消えて行った。倉敷美和の心配はいらない。たくさんの取り巻きがいるんだから、僕があれこれ悩む必要はないだろう。


 坂本祈里は――いのりは、僕の背中に腕を回してぎゅっと抱きしめた。みんなが見ている中だ。余程、怖かったんだろう。なにしろ普段は波立たない海底で静かに暮らしているような毎日なんだから。


「もう大丈夫」と小さく言うと「ひゃっ!」といのりは飛び退いた。まだ残っていた観客は暖かく笑い、「がんばって」と誰かが声をかけてそれぞれの目指すところに帰って行った。


「購買でジュース、奢るよ」

「ジュース?」

「ピンクの。坂本さんによく似合うとずっと思ってた」


 彼女は俯いて、しばらくなにも言わず僕と一緒に購買方面に歩いて行った。その間、クラスメイトの何人かに会ったけど、誰もなにも言わなかった。

 さっちゃんたちでさえ、音も立てずにすり抜けて行った。


「わたし、おかしくなかった?」

「なにが?」

「だって、毎日⋯⋯見てたでしょう?」


 ドギマギする。セクハラだと言われても仕方がない。まして恋を自覚しないで見てただけなんて、気持ちが悪いに違いない。


「桐生くんみたいにキレイな男の子にずっと見られてるって、すごく気が抜けなくて」

「緊張させてごめん」

「だって、嫌われたくなかったから⋯⋯。ごめんね、手が届かないって知ってたのに、見られてるって気づいてからどんどん好きな気持ちが膨らんじゃって。そんな妄想、迷惑じゃない?」


 ズズッといのりは鼻をすすった。鼻の先が真っ赤になっている。ふたつに結んだ髪も、今日は何故かみんな下向きだ。湿度のせいかもしれないけど。


「わたしみたいのなんか、なんにも取り柄ないの、見てよく知ってるでしょう?」


 なんとも言えなかった。本当に自分が恥ずかしかった。ここに来て自分がどれくらい変質的なのか、よくわかった。


 彼女のことなら知ってる。

 スッと切れ目を入れたみたいな一重の瞳。

 白くて小さい顔に小さい鼻、薄い唇。

 小さい子みたいにいつもふたつに結んだ髪は、歩くと微妙に揺れる。

 頬杖、欠伸、居眠り、そして笑顔。

 それらを見てるだけで満たされるなにかがある。

 存在自体が、僕を赦してくれる。


「あの、坂本さん。本末転倒だから。僕が君を好きになって、ずっと見てたんだ。取り柄とかそういうのじゃなくて、その、気持ち悪いかもしれないけどもっとよく君を見ていたいんだ⋯⋯」

「じゃあ、イチゴオレ、奢ってください。それでチャラで」

「了解」


 ポケットの中には百円玉が三枚、いつもの遊びのために入ってる。三枚全部使ってイチゴオレなら三本買ってもお釣りが来るんだよ。

「じゃあわたしが二十円足したら、桐生くんもなにか買えるね」

 真剣な目でそんなことを言うから、僕もつい気を許してしまう。


「かわいいね、やっぱり」

 ぼっと火がついたようにいのりの顔は真っ赤になり「そういうのはやめてください」と消え入りそうな声で言った。

「了解」と少し残念に思いながら、僕は答えた。


 ――始まりだ。


 ◇


 家に帰ると母が台所に立って僕を振り向いた。

「爽真、お姉ちゃん、結婚決まったって」

「へえ。よかったね」

「それだけなの? あんなにかわいがってもらったのに。男の子って、そういうところがやっぱり⋯⋯」


 あんな姉でも結婚が決まるんだから、倉敷美和だってそのうち、壁ドンしなくても彼氏はできるだろう。


 小さく鳴ったスマホを手にする。

『明日、お昼は一緒に食べられますか?』

 いのり、と書かれたトーク画面、彼女の二言め。

『喜んで』。

 迷わず、送信を押す。


(了)

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囁くように、笑う 月波結 @musubi-me

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