第7話 空色の便箋

『桐生くんへ』


 書き出しは僕の名前。いつもまめまめしくノートを取っている、あの文字。それが女の子らしい便箋いっぱいに詰め込まれていた。

 薄青い空のような背景に、銀の縁取りのついた羽がプリントされている便箋。まるで僕のグッピーみたいだ。


 中身を読まなくても、それを見ただけで坂本祈里がここにあるということがわかった。僕の知る坂本祈里がここに書き込まれている。


 ◇


 この手紙はあの翌日、僕の下駄箱にそっと差し入れてあった。僕はスッとそれを取り出すと、とりあえず誰にも見られないよう、ポケットにしまった。その時の心臓が爆発しそうになった様子を上手く表現することができない。


 よりによって倉敷美和が視界に入って、アイドルみたいな笑顔で「おはよー!」と手を振ってきた。周囲は緊張した空気に包まれた。僕はそそくさと、坂本祈里からもらった手紙を持って階段を上った。教室のある三階まで、上るのが面倒だと思わない日はそれ程ない。


 とにかくこれをどこで読んだらいいのか、それが与えられた命題だった。


 迷った末、一度教室に入って荷物を置くと、なんでもないような顔をして教室を出た。その時、坂本祈里と目が合ってしまい、今度はお互いに落ち着いて「おはよう」と挨拶をした。多分、クラスメイトとして正しいやり方で。


 それからHRの時間、誰もいないのを見計らって、最上階、五階のラウンジでその手紙を開いた。バカみたいだ。そんな時間に、そんなところで。でも僕は待てなかった。


 ◇


『桐生くんへ

 今日は挨拶してくれてありがとう。とってもうれしかったので、手紙を書くことにしました。

 LINEでもいいかなと思ったんだけど、誰かに桐生くんのLINEを教えてもらうのは恥ずかしくてできませんでした。なので長い手紙になったらごめんなさい。


 本当は、前からずっと桐生くんがわたしを見てるんじゃないかなぁって、そんな気がしてたの。でも自意識過剰かなと思って、誰にも言わずにいました。


 はじめの頃はすごく恥ずかしかったんだけど、段々、桐生くんの視線に慣れてきて、もし嫌なところを見られたとしても前みたいにただのクラスメイトになるだけだし、と思ってあまり気にしないようにしていました。


 意識しないというのは結構難しかったです。


 だけど、倉敷さんが桐生くんとつき合うという話を聞いたら、なんだかガッカリしちゃって。そんなことでガッカリする自分にびっくりして、これは桐生くんがどう思っているかというより、わたしが桐生くんのことを思ってるんだということに気がついてしまって、このところちょっと辛かったです。


 でも、桐生くんの方から声をかけてもらえて、本当にうれしかったのでその気持ちだけでも伝えたいと思って今、書いています。

 桐生くんが見ていて嫌いにならないわたしになりたいなぁといつも思っています。


 声をかけてくれてありがとう。

 よかったらまたお願いします。わたしもちゃんと挨拶できるように、これからはがんばります。

 坂本祈里』


 ◇


 はぁ、と読み終えて最初に出たのはため息だった。

 胸の中がいっぱいになって、これ以上、一呼吸もできそうになかった。

 便箋を両手に持ったまま、視点は定まらず、ぼんやりしていた。


 そうか、坂本祈里は僕がずっと見ていたのを知ってたのか。それはそうだ、あの頻度で見ていれば。ストーカーと呼ばれても仕方ない。

 でも彼女はそれにマイナスの感情を持つことはなく⋯⋯。

 言葉にならない。


 開いたままの便箋を閉じなければいけないのに、ずっとこの時間が続くといいと、そう思っていた。

 まだ両思いでもなければ、手紙の返事さえしていないのに。

 このまま、今が透明なアクリルに閉じ込められてしまえばいいと、心からそう思っていた。良かった、君に嫌われていなくて。


 ◇


 HRが終わる頃合いを見てクラスに戻る。途中、D組の前を横切らないわけにはいかない。背筋を伸ばして、意志を強くもってそこに臨む。

 目ざとい倉敷美和がちゃっかり顔を出して、僕の名前を呼んだ。


「桐生くん? 話したいことがあるんだけど、お昼休みにこの前のところでどうかな?」


 鼻にかかった甘えるような声で、倉敷美和は僕の動向を探った。確かに今、これまでの僕とは違っていた。


 僕は倉敷美和に「嫌だ」と、ハッキリ言った。彼女は悔しそうな顔をして「どうして?」と訊ねた。どうしてもこうしても、男を押し倒すような女にひょいひょいついて行くか? 既成事実を作ればいいと思っているような怖い女について行く程、バカではない。


 倉敷美和のような女がどういう生き物なのか、それは姉を見て学んできた。僕の見た目だけで寄ってくる、それは暗がりの中の灯火にたかる蛾と同じだ。その灯火の持つ温度や意味をまるで考えず、明るさだけを求めてやって来る。


 害虫だとまでは言わない。

 けど、僕にとって利になることはない。

 それとももしつき合ってみたら、実は彼女は内面美人だったりするんだろうか?


 ⋯⋯今となっては、それを確かめてみる必要を感じない。悪いかもしれないけど、僕の嫌いなタイプにどストライクだったんだ。運の問題だ。


「また突き飛ばされたら適わないから」

 倉敷美和は言葉を飲み込んだ。

 僕は、昔、姉に言えずにいたNOをここに来て初めてはっきり口にすることができた。これで坂本祈里の前の障害物のひとつを除去できたと思った。


「キスまでしたくせに⋯⋯」


 渾身の演技だった。僕まで動きを止めてしまった。


「ひどい⋯⋯。それだけだったの?」


 それだけだったのは君の方で、と、混乱が混乱を呼ぶ。周りがざわめく。知らない女の子が、優しく倉敷美和の背中を撫でてやっている。彼女は「大丈夫?」と倉敷美和に訊ねた。


 誰かがティッシュを差し出し、倉敷美和はそれ以上、なにも言わなかった。僕はなにも言えなかった。唖然としていた。こんなところに落とし穴があるとは思わなかったからだ。


「コイツはそんなヤツじゃないよ」


 気がつくとすぐそばにいた竹岡が、僕の肘をぐいと引いた。


「僕が倉敷さんに憧れてるって話を黙って聞いてくれた。なのに、倉敷さんを陰で弄んだりしないと思う。考えてみれば倉敷さんが一方的に桐生を追いかけていたように見えたけど」


 涙でメイクが滲んだりしていなかった。泣き真似なのはもう明らかだった。場の空気がガラッと変わった。みんな、遠慮なく僕らに注目していた。いつの間にか、野次馬が増えていた。


「竹岡くん、わたしに憧れてたならどうして邪魔するの? 嫉妬?」

「これ以上、嫌いにさせないで。じゃあ、部活の時間に」


 竹岡の手は震えていた。緊張からなのか、それとも怒りからなのか。繊細で気の弱いこの男のどこから、こんな力が出たのか。


「倉敷さんがこれ以上なにか言ったとしても、僕はお前の味方だから。だからなにも言うなよ」

 口をつぐんで、僕はなにも言わなかった。ありがとう、も言えなかった。ただ、本当にありがたかったのに。こんな僕なんかに友情を感じてくれて。


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