第6話 愚かな男
掃除当番は本当の話で、今日はさっちゃんたちが終わるまで、坂本祈里たちは廊下で待っていることにしたらしい。みんなで小学生みたいに小さくなって、楽しそうになにかの話を熱心にしていた。
なにが話題の中心なのかはまったくわからなかった。でも少なくとも韓流アイドルや僕に関する噂話などではなく、もっとたわいもないもののようだった。
話していることが楽しい。
坂本祈里の周りにはそういう子が多かった。
「坂本ってそんなにかわいいか?」
ちりとりを持ってしゃがみ込んでいると、箒を持った今井が感情のない声でそう言った。びっくりして、思わず今井を見た。
「いや、悪い、失言。人の好みにとやかく言うのは野暮だよな」
今井は間違えた式を書いた黒板を急いで消すように、言葉をなかったものにしようとした。しかし一度口にした言葉は帰らない。僕たちは無口になった。
「悪かった、許してくれ。こういうのは干渉しないことにするのが俺たちの不文律ってもんだ。倉敷美和は別だけど」
「⋯⋯そんなにおかしいかな?」
「いや、人それぞれだし」
僕は心の中のもやもやを分類した。
あまり分け過ぎたらいけない。僕のルールでは、この件はかなり高度でセンシティブな問題として扱われていたから。
「まぁ、どっちかっつーと、かわいいかもな。よく笑うし。でも悪いがぺたんこだし、小中学生とあんまり変わらないように思えなくもない。
俺、あいつとずっと学校一緒だから、小さい頃から変わったようには思えないんだよなぁ。チューリップみたいな濃いピンクのランドセル背負ってたよ」
僕は口を閉じた。
そうか、同じ学校だったのか。
そうじゃなくて良かった。もしそうだったら、僕の目は行き場を失い、成績はガタガタだったかもしれない。
「好きなわけじゃない」
そう言うと、今井は少しホッとした顔で「俺もやっぱり勘違いかなって思ったんだよな」と笑った。
「ただ、気がつくと坂本祈里しか見てないことが多い」
「おい! ほかにも女子はたくさんいるだろう? 倉敷美和じゃなくたって」
「よくわからない。考えてもわからない。どうして坂本祈里なんだ?」
「⋯⋯かわいいと、思うぞ?」
「それもよくわからないんだ」
掃除が終わろうとしていた。机はキレイに並べられた。各自、掃除道具をロッカーに戻す。廊下にいた女子たちが一斉に立ち上がる。仲がいいなぁと思う。
坂本祈里は今日も笑顔だ。「お疲れ様」とピカピカの笑顔でさっちゃんたちを
その時、坂本祈里はチラッと、ほんの一瞬、本当にチラッと僕を見た。いつもよりパッチリ開いた一重の目で、僕の目をのぞき込むように。
こんなことは今までなかった。見てるのは僕ばかりで、彼女は僕に用もないのに笑いかけたりしなかったから。決して。
どうしたらいいのか、戸惑う。
この一瞬を逃したらいけない気がする。
ここが勝負どころだと、頭の中の何人かに分裂した僕が口々に喋り出す。
「坂本さん、じゃあね」
勇気を振り絞って言葉にすると、場はしんとした。今井も、僕たちを待っていた庄司も黙った。さっちゃんは口をぽかんと開けた。
間違った、という思いだけが頭を占有して、早く逃げ出そうと、一定数の僕が僕に叫んだ。
つま先に力を入れる。
「き、桐生くん、じゃあね」
坂本祈里だった。僕が逃げ出す前に振り絞るようにあの、やわらかな午後のピアノみたいな声でそう言った。そして「⋯⋯また明日」とうつむくと、小さな声でそうつけ足した。
僕はその時、なにかごにょごにょと言ったかもしれない。だけど自分がなにを言ったのか、これっぽっちも覚えていない。
無理もない。僕の頭の中は、NYのカウントダウン並みに、期待と喜びでいっぱいだった。
結局僕はその場から走り去った。消えてしまいたい気持ちと、明日が待ち遠しい気持ちが同居した。
僕の背中の方から、なにかすごい賑わいが起こっていた。それこそパレードのような、クラッカーが鳴りそうな。
人生最高の日かもしれない。
こんなことならずっと大切にしまっておかないで、両手に持って渡してしまえばよかった。苦しかったのは、この気持ちに名前をつけないようにすることだったんだから。
その一方、これはただの挨拶でしかないという事実に打ちのめされていた。名指しではあったけど、分類すればただの挨拶。特別なイベントではない。
なにも終わってないし、また、なにも始まっていない。
スキップしそうな足取りを戒める。違う。そうじゃないんだと。まだなにもないのと一緒だと。
僕から見たら、倉敷美和は大したものだ。自分の知名度と外見だけで、僕が自分を好きになると過信していたのだから。
それを考えると、この前よりずっと強く、汚されたという思いが強くなった。
――十五センチ。
坂本祈里とは、何センチ差なんだろう?
僕たちがそんな仲になるとは思いも寄らないけど。そういうことを考えてしまうのは、僕がやはり男だからかもしれない。どんなに女みたいな顔立ちだとからかわれても、ほら、こんな風に女の子のことばかり、しかもひとりのことばかり考えているんだ。
僕は愚かな男共のうちのひとりだ。
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