第5話 女は怖い

 雨、雨、雨。

 水族館にいるみたいだ。

 教室の中は照明をつけても薄暗く、湿度が高い。

『お似合いのふたり』って、どんなだよ。壁ドンして男の唇を奪うような女と僕はお似合いなのか? つまり、なににしても受け身だってこと?


 確かにそれはあるかもしれない。

 姉に遊ばれても大きな声を出さずに泣くばかりで、姉は「アイラインが流れちゃうから泣くのやめな」と、そう言った。この後、写真撮るし。うちの弟、超美少年て有名なんだよ、と。

 逃げ出すことも、助けを呼ぶこともせず、されるがままに。


 ああ、PTSDかもしれない。ぶっちゃけ、姉のように強く迫ってくる女子は恐怖の対象でしかない。

 でももしかしたら僕はそういうのに適性があって、倉敷美和みたいなタイプと上手くつき合うのかもしれない。


 ない。

 それはない。


 第一、姉のそういった一連の遊びのことは最近はめっきり忘れていた。

 姉も結婚間近らしい彼氏しか目に入らないようで、うちに来ることもどんどん少なくなった。以前は母の手料理目当てによく来ていたのに。


 僕の青いグッピー。グッピーを飼い始めたのは姉が家を出てからだ。家の中が自由な場所になってから。

 教室という水槽の中を、群れになって泳ぐたくさんのグッピーの中に、僕は僕のお気に入りを見つける。だって目立つんだ。嫌でも目に入る。あんなに色鮮やかなんだから。


 日本史の教師は筆圧が強いらしく、カッカッと音を立てて板書する。坂本祈里はそれについていくために、たくさんシャープペンシルの芯を消費してノートを一身に取る。

 教室で彼女だけがそうしているというわけでもないのに、僕の視線は彼女の姿だけ追っている。


 坂本祈里を見ていると、ホッとする。

 さっきあった悪夢のような出来事さえも浄化されていくような。彼女からマイナスイオンが出ているわけじゃないのはわかっている。


 ただ僕の心の中の彼女は、聖なる泉を守る特別な役目を持った女の子だということだ。水鏡に映る彼女の姿も、いつも微笑みをたたえている。

 青いグッピーは無害で、穏やかで、そして狭い水槽の中でも不満はなさそうに自由を満喫している。


 いけないことだろうか?

 何度も僕は僕自身に問いかけた。

 でもまだ答えは保留中。

 いつも彼女に目が行ってしまうその理由となる、強い感情が心の中にあることを僕は無視し続けている。


 そういうのはいいんだ。

 彼女を離れたところから見ていたいんだ。

 穏やかな気持ちで、傷つけることもなく。

 僕に気がついてなければいい。それが僕の願いだ。


 ◇


 倉敷美和と僕は順調に交際を始めたらしいという噂が、水面下で背ひれ尾ひれをつけて広まり、もうキスもしたらしいと彼女自身が情報の発信源であるかのような話が僕の耳にも届いてきた。

 不思議なことに、クラスの女の子たちは僕と目が合うと一瞬驚いた顔をして、赤くなって、さぁっと逃げていった。あの現象がなんなのか、よくわからない。


「ほんと、お前、顔だけでツイてるよなぁ。ばぁちゃんに感謝しろよ」

「違うよ、ひいおばあちゃんだよ」

 庄司と今井のボケ、ツッコミは相変わらずだ。悪気がないので僕も笑ってしまう。僕の遺伝を、彼らは面白がり、そして本当にうらやましがっている。

 外見が人生に与えるものは多分、大きい。良くも悪くも。


 でもふたりも、竹岡も、キスについては一言も触れてこなかった。理由はわからない。けど言い訳をしなくていいので非常に助かる。いい友だちなのかもしれない。


 厳密に言うと、あれは僕のファーストキスではなかった。もちろん僕はこれまでも、僕に言い寄る女の子たちに倉敷美和にしたのと同等の受け答えをした。結果、つき合った女の子はいない。

 相手は例の姉だ。「かわいくなったね」と件のメイクレッスンのあとにチュッとやられた。あの時ばかりは僕も逃げ出しかけたけど、すぐに捕まって撮影されたあと、キレイに化粧を落とされた。


「爽真もさ、少しは肉食になればいいのに」

「そうだよ、少しつき合ってやれば、お前に向こうから飽きるかもよ」

 それはあるかもしれないと、口を開けて笑ってしまった。僕にこれと言って面白いところはない。ごく普通だ。


「爽やかな笑顔で、手、繋いで歩いてやれば気が済むんじゃないの? 飯は割り勘でいいし、割り勘なら高い店にも率先して入りたがらないんじゃないの? サイゼかマックで」

「高校生らしいぜ」

 庄司は親指を立てて、グッド、と言った。


 まぁそういうこともあるかもしれない。少しつき合えば、僕がどれだけ凡庸な男か彼女もわかるだろうし、なにも言わなくても愛想を尽かしてくれるかもしれない。

 僕はそのアイデアを一応、心の隅のノートに記しておくことにした。


 ⋯⋯あんな怖い目に遭わされたのに、そんなことができるのか? 次はホテルに連れ込まれるかもしれないのに。


 倉敷美和はまるで実在しない人物のように、僕の中で誇張され、肥大していった。姉とはまた異なる方向から、こっちに向かって歩いてくる。制服のポケットにはナイフが忍ばせてあるかもしれない。


 ◇


 そんな日が幾日か続いて、その間、倉敷美和は姿を見せなかった。彼女の吹くフルートの音色も届かなかった。

 僕たちはまた悪ふざけをして百円玉を投げては表裏を当てるという古典的なゲームをした。

 最終的に運が悪かった今井は、購買の自販機で僕たちにドリンクを奢ることになった。単なるいつもの遊びだ。


 三人で今井を冷やかしながら廊下を歩いていく。僕はすっかり気を抜いていて、一連の出来事は僕と彼女の胸の奥にしまって「はい、お終い」なのかと思っていた。倉敷美和だってプライドがある。自分からあんなことをして、しおらしく言い寄ってきたりはできないだろう、と。


 安心してD組の前を通り抜けようとする。すると、狙っていたかのように滑らかに倉敷美和は現れた。ピカピカの笑顔だ。


「爽真! お友だちと一緒?」

 倉敷美和はすげー演技力だなと思うほど、まるで僕の最愛の彼女みたいだった。

「あのさ」

「今日、クッキー焼いてきたの。お友だちも一緒にどうぞ。帰り、どうする?」


 ゾーっとする。この人、本当に大丈夫なんだろうか。怖い。それとも外堀から埋めて、既成事実で埋めていくつもりか?


「悪いけど」

「倉敷さん、ありがとう。いやー、爽真の友だちでよかったなぁ。倉敷さんみたいな美人の焼いたクッキー食べられるなんてさ。な、爽真」

 庄司は笑ってそう言うと、くるっと僕の方を向いて「なにも言うなよ」とばかりにアイコンタクトを送った。

 三文芝居もいいところで、僕は一言も発しないまま、庄司と今井がすべて蹴りをつけた。


 今井が決定打をうって「ごめんね、今週俺たち掃除当番なんだ」と申し訳なさそうに言った。

 倉敷美和は「そうなんだ。がんばってね!」とそれ以上、食い下がることなく退散した。庄司が彼女に手を振った。


「女って怖いな」

 今井がぽつりとこぼした。

「本当につき合ってないんだろう?」

「冗談はやめてくれよ」

 顔色が悪い、と庄司が言って、今日は血糖値の上がりそうな甘いジュースでも飲め、と今井からバナナオレを受け取った。イチゴオレではなかった。坂本祈里がよく飲んでるピンクのパッケージの。


「俺とつき合ってることにするか?」と本当に気の毒そうに今井は言ったので、「やれてくれよ」と言うと庄司が「本当にダメージ受けてるみたいだから、今日は優しくしてやろう」と気持ち悪いことを言ってきた。うれしそうに。

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