第4話 壁ドン
その時、僕と倉敷美和との間に起きたことは少なからず地下通路をとおって様々なところで密やかな噂になって広まったんだろうと僕は思っていた。
曾祖母のお陰で、通りすがりに僕の顔をまじまじと見てくる人は子供の頃から多かった。それがこのところ、数を増したことに僕は気づいていた。
だから僕に倉敷美和の話を振ってくる竹岡が少し面白かった。
「倉敷美和はなんのパート?」
「フルートだよ。彼女らしいだろう?」
竹岡はまるですっかり彼女の信者になってしまったように見えた。心の底まで。なんだか哀れだ。多分、思ってるような女の子じゃない。
「彼女のフルートの音色は掠れることなく、優雅に力強く流れるんだよ。なぁ、次の公演も見に来てよ」
「予定がなければ行くよ」
パッと表情が輝き、本当に部活バカだよなぁと呆れる。そんな風になにかに没頭できることがうらやましい。
僕にはこれと言った取り柄はなにもない。まったくもって平凡。面白みのないやつだと言われたら反論できない。
凡庸であることは罪だろうか?
◇
坂本祈里は今日も明るい。
彼女の取り柄はなんだろう? 他人より優れているところのことだ。
うーんと頭の中をのぞいて考えてみる。
成績は特に良くはない。中くらい。たまに答案返しで固まってるところを見ると、平均を下回ることがあるのかもしれない。でもそんなことは誰にでもある。僕も英語で二十五点を一度取って、再試になった。
運動は詳細は知らないが、体育の授業は好きではないらしい。小さな体に緩めのジャージを着て、まるでやる気がなさそうに腕をまくるどころか、いわゆる萌え袖状態で集団の後ろの方にそっといる。
バレーボールはアンダーからの天井サーブで、バドミントンは彼女がラケットを振ると、奇妙なことに毎回カツンとシャトルは高い音を立てた。
クラス対抗リレーでは、バトンを受け取るまでは気合いの入った顔をしていたが、いざ走り始めると、本人は全力疾走しているのだろうが、実際は上体をあげたままとことこと走り、クラスのテント前で見間違いでなければ真っ赤な顔で下を向いて走り抜けた。そして僕は声援を送ったりしなかった。
運動部ではないやつに、男女問わず誰も期待なんかしてないんだから、ただ指定された距離を走ればいいだけなのに。要領が悪いのか、責任感が強いのか。
坂本祈里の良いところはそういうところではなく、もっとほかの、彼女にしかないものだ。
僕はそういうもの、小さな砂粒の中に隠れた小指の爪ほどの桜貝のようなものを時々見つける。見ていなければ見失う程度の、小さなものだ。
それが僕に小さな驚きをもたらす。
彼女の微笑みが、僕の毎日を少し退屈から救ってくれる。
それだけ。僕が彼女を求めてるわけじゃない。
惜しげもなくこぼれ落ちていくその光が手のひらに零れ落ちる。ただそれだけのことだ。
何故か、ほかのどの子にも、同じ現象は起こらない。それが不思議なところだ。
◇
「爽真、来てるぞ」
うれしそうな顔で、昼休み、庄司が調子よく僕に声かけてきた。なにがだよ、と指をさされたその先を見る。
――倉敷美和だ。
がくんと食欲が落ちる。
どうしたら回避できるのか、考えてみる。
いや、どうにもできない。教室から出るにはあの扉を通らないわけにはいかないし。いっそベランダか。外は本格的に雨降りなのに。
どうしようもないことを考えていると、明るい声で「桐生くん、お客さんだよ」とよりによって坂本祈里が僕を呼ぶ。いつもの笑顔で手まで振っている。そう言えば坂本祈里のグループがお弁当のために陣取ってるのは、丁度、前扉の近くだ。
僕はもう諦めて渋々と呼ばれた方に向かった。呼んだ方の坂本祈里は動き出した僕を見て、自分の仕事をきちんと全うしたという充実感に満ちた顔をした。それから倉敷美和を見て「ちょっと待ってね」といつものように、ふわっと微笑んだ。席に座る時、ふたつ結びの髪が揺れる⋯⋯。
「うらやましいぜ」とニヤニヤする庄司に見送られて、僕は席を立った。多分、この世の果てに向かう旅に出る追放された罪人のような顔を僕はしていたと思う。動作は緩慢になる。どちらかと言うと早く動けば、早く用事を済ませられるはずなのに。
「桐生くん」
僕は彼女の言葉を右手で遮った。
「ごめん、ふたりきりで話そう」
倉敷美和はそれをどう受け取ったのか、テレビの中のアイドルが作るみたいな笑顔で「わぁ、うれしい」とそう言った。中身もまだ開けたわけでもないのに。
僕たちはB組とC組の間にある、屋上まで続く階段を上った。もちろん屋上には施錠してあって、入ることはできない。ただ、屋上前はちょっとしたスペースになっていて、誰も掃除しないそこで僕たちはふたりきりになった。
「あのね、この間の話なんだけど⋯⋯」
そこまで言って彼女は伏せ目がちになった。
坂本祈里とは違う、ぱっちりした二重の目、長い睫毛はしっかり生えていて小説風に言えば『影を落としていた』。眉の形も美しい。でもそれは人工的に整えられたもので、しかもダークブラウンの粉が付着しているのは明らかだった。
今は自立して家を出た少し年上の姉がいる。間違えることなく日本人顔だ。姉は僕の顔を面白がって、なにかがぎっしり詰まった重そうな黒いポーチを開けると、僕にメイクをした。
正直、不愉快だった。
確かに男性も化粧をする時代だというのは知っていた。でも、僕の顔にいろいろな色を乗せていく姉の楽しそうな姿が僕には不愉快だった。
そういう経緯もあって、校則を違反してまで化粧をしてくる女の子のことを自己責任でどうでもいいと思ってはいるけれど、好ましいとはあまり思えなかった。
彼女たちは粉っぽく、またはツヤという名の脂っぽい。更に人工的な香りが強いと最悪だ。
倉敷美和からはこうして間合いを取っていても、百合の花のような華やかな香りがした。
「いきなり迫られても困るよね? 正直に言うと、わたしが桐生くんに一目惚れしたの。去年の定期演奏会に来てたでしょう? ほら、舞台裏まで来てクラリネットの子と話してた時。
あの時に『この人しかいない』って思って、それからずっと忘れられなくて。でも同じクラスにもなれなかったから見てるだけの毎日で」
見てるだけの毎日、というところで、僕は背筋がぞっとした。それはつまり、僕の目に坂本祈里がつい見えてしまうように、倉敷美和の目には近くにいると僕の姿が目に入るということなんだろうか。
それはちょっと、引く。
僕だって坂本祈里に恋してるわけでもなく目が行ってしまうことがもしも本人にバレたら、きっと引かれることくらいわかっている。それが僕にはどうにもできない不可抗力だとしても。
背筋を通り抜けた寒気は、雨のせいもあり、次第に気温が下がっているように感じさせた。
彼女は僕がなにを思っているかは相変わらず関係がないようで、今度は微妙に角度にして十度くらい首を傾けて、僕にその完璧に作られた笑顔を見せた。
「好きです、桐生くん。もっと一緒にいたら、わたしを好きになるかもしれないよ? それにわたしたち⋯⋯」
嫌な予感がして、その場から逃げたくなり及び腰になる。
「きっとお似合いだと思うの」
膝の力が抜けて、床に制服がつかないように気をつけながら行儀悪い不良座りの体勢になった。
これ以上、僕にどうしろって言うんだ。君は僕をどんどん、どんどん嫌いにさせる。
これなら僕を好きな女の子がいるらしいって話に「へぇ」と言っているくらいの距離感の方が、期待値が上がったかもしれない。
「⋯⋯僕はそうは思わない。
君の知らない僕はなんの取り柄もない、無愛想で口数も少ない陰キャだよ。普通ならきっと君は僕みたいなタイプには近寄らないと思う。
もし外見を気に入ってくれたんだとしても、身長だって百七十ギリギリくらいしかないし、キスするのに理想の身長差は十五センチ。僕と君は適さない。たったそれだけのことでさえ」
倉敷美和の顔は一気に勝気な女の子のそれに変わった。彼女は歯ぎしりをしそうに口元をぎゅっと一瞬強く閉じると、素晴らしい迎撃体勢に移行した。
「わたしはそうは思わない! 桐生くんにはこの学校でいちばんわたしが似合うと思う。それに対する反論がある? つき合ってみればお互いの性格なんていくらでも擦り合わせできるし、身長差だって!」
なにが起きたのかわからなかった。
とにかく制服に埃がついたことは確かだ。僕は勢いよく尻もちをついたから。これまで誰かにこんなに強く押されることなんてなかった。
倉敷美和は、その加工された唇をどういうわけか手の甲で拭った。自分から汚したのに。
汚らわしいものには触れなければよかったのに。
「キスなんていつでも立ってするわけじゃないから。そうでしょう?」
キュッと彼女の室内履きの靴底が鳴って、彼女はターンすると自分の教室の方向に走って行った。少し、涙目だったかもしれない。奪われたのは僕の方なのに。
あれが、壁ドンてやつか。
なかなか手強い。避けようがない手を使ってくるなんて。
僕も唇を拭った。
触れた感触と、強い花の香り。顔にかかった人工的に真っ直ぐな髪は、思ったより軽くやわらかかった。
姉の存在が、僕に女の子というものを十分に教えたと思っていた。違ったみたいだ。
僕は女の子の素体のようなものを、今日、改めて、不本意ながら教えられた。
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