第3話 熱帯魚
六十センチの水槽の中に、これは例えばの話なんだけど、グッピーをいろいろ買ってきて入れてやる。
グッピーには本当にいろんな色のものがいて、一様にひらひら長い尾びれをシルクのストールのようになびかせて泳ぐ。
いろんな色、多様性。
赤や橙色、白に黒、黄色、そして青⋯⋯。
キレイだな、と思いながら世話をしているとグッピーは簡単に繁殖できる。水槽の中で繁殖して、どんどん彼らの体色は混ざっていって。
僕の好きなのは青いグッピー。
いつも目で追う、美しい青。
ところがある程度、繁殖が進むと何故か青いグッピーは一匹もいなくなる。青の色素は劣性遺伝なのかもしれない。
みんな、黄色っぽい同じような色になっていく。それがグッピーの交配させられる前の本来の姿なのかもしれないと思う。
でも僕は、あの青いグッピーを見ていたかったとそう思う。
水草の林の中をヒラヒラと優雅に泳ぐ僕の青いグッピーは、何度買って入れても同じ結末を迎える。
◇
水槽の心地よいコポコポという音を聴いている気がして目を開けると、それは気のせいで、窓の外はしっとりしていた。
黒板にはさっきまでなかったはずの化学式が書かれていて、ハッとする。ちっとも説明を聞かなかったらしい。
居眠りがないわけじゃないけど、化学の時間というのは珍しい気がする。もっと、国語とか、英語とか、流れるような文章を聞かされていると人は眠りに落ちがちだ。或いは体育のあととか。
まぁ、でもこれはきっと陽気のせいだろう。
春と夏の間には、厳密に言うと『梅雨』が存在するわけなんだけど、なんだかそれも最近もやって、梅雨らしい梅雨というのはよくわからない。
けど今は確かに雨が降っている。
中庭の方を見ると、植えられた植物の緑が雨の中いっそう映える。一般教室と特別教室は棟が違っていて、間に中庭がある。ふたつの棟は廊下で繋がれている。
坂本祈里だ。今日は珍しく難しい顔をしている。
シャープペンシルを片手に持って、黒板と睨み合ってる。そして、教師の話に自分にもわかるなにかのとっかかりが見つからないかと必死にそれを探しているようだった。
見ているばかりで口はへの字口。教師は一連の流れを書くと、自然にチョークを置いた。そしてまた長く話を始めた。
面白い。
シャープペンシルを走らせ始めたと思うとそれを止めて、教師の顔をじっと見る。まるで読唇術を使っているかのように。
そして忘れていたことを思い出したという勢いで、ノートに戻る。んー、という顔をする。「わからない」と顔に書いてある。
僕はふと、授業が終わったら今日のところを教えてあげようかなと思う。化学は自分で言うのもなんだが、結構いい線いってる。居眠りしててもわかるはずだ。無機化学は電子の個数に気をつけてあげればそれ程、問題になることはない。
想像する。
授業が終わる。教材を持って友だちと一緒に、また無防備に笑って彼女は化学室を出て行く。僕は後ろから声をかける。
「坂本さん」
坂本さん、だなんてそれだけでおかしい。坂本祈里はまさか僕に声をかけられるなんて思ってなかったという顔をして振り向く。僕は微笑む。余裕を持って。
彼女は混乱するだろうし、周りも好奇心でいっぱいになるだろう。僕は普段、女の子に声をかけたりしない。
そうしたら僕は彼女にこう言うんだ。――なにを? 「今日の授業、わからないところ教えてあげようか?」とか?
ない、ない、ない。そんなのはない。
いきなりそれはおかしい。頼まれたわけでもないのに。僕と彼女はかろうじて同じクラスの一員、という繋がりだけを持っていて、それ以上でもそれ以下でもないのに。
ハァ。調子狂うなぁ。
ダメだ、坂本祈里は。このままじゃクラス替えまでずっとこの調子かもしれない。
⋯⋯なんなんだよ、まったく。
◇
後ろから情けない気持ちで歩いていくと、ポンと竹岡が僕の肩を叩いた。
「なに暗い顔してるの? 化学は得意でしょう?」
「別に。なんでもないよ」
「すごく疲れた顔してるけど。テスト前でもないのに」
遠い目で見ればいつでもテスト前だ。中間は確かに終わったけど、期末が迷わず大型台風のようにこっちにゆっくり近づいてるはずだ。
「なんでもない。心配事もなにも」
「それならいいけどさ」
「⋯⋯吹奏楽、部員増えたの? この前、困ってたじゃん」
竹岡はパッと顔を輝かせた。この男は普段はなにを考えているのかわからない、少し憂鬱そうな顔をしているが、部活のこととなるといきなり人が変わる。
「それがさ! 倉敷さん目当ての男子部員ばっかりたくさん増えてさ」
「なにそれ?」
「美人て得だよな。僕も生まれ変わったら美人になりたいよ」
よくわからない。いや、倉敷美和が美人だというのは散々聞いた。
◇
彼女に興味のなかった僕は、ある日親切な友人たちに引きづられてその姿を見に行った。僕と並ぶと「きっと似合う」と意味不明な説明を受けて、僕は怪訝な顔で、彼女のクラスの前を通り際にチラッと見たというふりをして、その姿を見た。
一言でいえば、普通の女の子だった。
身長は百六十くらい。肩までのツヤツヤなロングヘア。表情は豊か。女友だちは多そう。付け加えるならスカート丈が、ほんの少し、短い。膝が見える。そして不自然に色の濃い唇。顔の両脇に、細く垂らした髪を指で弄ぶのは癖らしい。
アルファベット三文字と数字で作られたユニット名のアイドルたちの中にいそうなタイプ。
ふぅん、とそれを見て僕は頭を切り替えた。予定通り、そのクラスを通り過ぎる。
前から廊下を跳ねるように、坂本祈里が紙パックの八十円のジュースを持って(あれはイチゴオレだろう)、たまたま目が合うという現象が起こり、彼女は反射的に、というより自然ににこっと笑った。それは確かにイチゴがよく似合う微笑みだった。
にっこり笑うとすぐに前を向いて、さっきまでと同じスピードで教室に向かって歩いて行った。
ふたつに結んだ髪が、彼女が歩く度に揺れる。
僕はなんとも言えない気持ちになってしまって⋯⋯今まで僕に笑いかけることなんてあったかなと思いながら、その場に立ち止まってしまった。まだ背中側から彼女の囁きのような笑い声が聞こえる気がして。
「桐生くん」
僕が通り過ぎようとして立ち止まったのは、奇しくも倉敷美和の教室の前扉近くだったらしい。声の方を見ると、さっき見た女子が大きく目を開いて僕を見ていた。その目は自信に満ちていて、人生楽しそうだな、と僕はつまらない感想を持った。
「あの、なにかな?」
「なにって言うか⋯⋯。今、ひとり?」
「購買に行くところ」
「じゃあ」
チラッと彼女は斜め下を見た。そこにカンペがあるかのように、一瞬。
「一緒に行ってもいいかな?」
意味不明だった。
確かに僕はひとりだったけど、RPGのゲームのように仲間が必要なわけではない。自分の好きな飲み物を、自由に選んで買うだけだ。
「買うものがあるの?」
「⋯⋯まあ。いいよね?」
お財布取ってくる、と彼女はするりと教室に戻った。知らない女の子たちの間で嬌声が上がる。「やったね」とか「がんばって」とか。
僕の休み時間は着々と減る。僕のクラスの方がずっと遠いのに。(彼女はD組で僕はその奥のA組だ)
僕は居心地悪く、D組の前で突っ立ってることしかできなかった。
坂本祈里の姿はもう見えない。倉敷美和は教室に入ったんだろう。きっと席は奥の方だ。
時計の針の音を聞きながら、僕は立ち尽くす。なんのために? わからない。倉敷美和のことはわからない。さっきまで顔も知らなかったのだから。
「お待たせしてごめん。じゃあ、行こうか?」
主導権は彼女にあるらしい。彼女は僕の隣を、肩が触れそうな距離で歩いている。彼女が何気なく持った財布は、ロゴの入った海外有名ブランドの物だった。
短い距離だったけど、何人かは僕らを振り向いた。
「なんで?」
「え? わたしが桐生くんを好きだって噂、聞いてない?」
その答えになんだかイラッとした。だったらなんだって? 僕を自分のモノのように扱う権利があるとでも? それとも彼女に好かれた僕は、彼女を好きになるに違いないと?
「それ、やめて」
「なにを?」
鼻歌でもうたい出しそうな機嫌のいい顔をして、余裕を持って彼女はすぐ隣にある僕の顔を見上げた。
「君が僕を好きだという噂の真偽は知らないけど、僕は噂になるのは迷惑だから」
ほんの少し、彼女の表情が止まって、驚いたのがわかった。彼女の足が、ゆっくりになって、止まった。
「あの、なにか迷惑なことしたかな?」
「迷惑? 噂になるって十分迷惑じゃない?」
「⋯⋯そうなんだ。なにが気に入らないかな?」
僕は少し考えた。彼女が僕を苛立たせるその理由を。
「悪いけど、君が僕を好きだからって僕は君を好きにはならない。噂なんてものに振り回されて迷惑だよ」
「⋯⋯ひどい。普通、そこまで言うかな?」
「ほかの人のことは知らない。ただ、僕はそうだってこと」
立ち止まった倉敷美和は別に泣いたりしなかった。ただ、くるりと僕に背を向けて教室に戻って行った。後ろ姿は妙に冷静だった。
やれやれ、と僕は予定通り、坂本祈里が手に持っていたのと同じ、紙パックのジュースのカフェオレを買った。八十円だ。売り切れのことが多いので珍しい。
D組の前を通ると、数人の廊下にいた女子から嫌な顔で見られる。もうさっきのことを知っているのかもしれない。
彼女たちはなにも言わず、僕がそこを通り過ぎるまで僕をじっと見ていた。そして誰か不特定の女子が「顔がちょっといいからってサイテー」と言った。明らかに周りに聞こえる声の大きさだった。
行き過ぎる生徒たちの何人かが、僕を見る。
サイテーか。まるで顔がいいとサイテーみたいな口ぶりだな。倉敷美和が美人だからと彼女を取り巻くくせに、と思うとおかしかった。
顔がいいからって、性格がいいとは限らないという良い例のひとつだ。
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