第2話 がんばってね

 倉敷美和が僕を好きだという話はB組とC組を飛び越えて、とうとううちの組まで回ってきた。

 めんどくさい。

 興味に満ちた目が、常に僕を見ている。


 坂本祈里はススキ野原が風にさざめくように、友だちとなにかを話すのに夢中だ。

 動画だ。

 彼女たちの真ん中に、誰かのスマホが置かれている。

 指をさして女の子たちはやさしく笑っていた。たんぽぽの綿毛が風にふわりと舞うように。


 英単語のプリントを書き込みながら、気づくと目に入る。

 なんだあれは。

 気がつけば袖にとまってるテントウムシみたいに、そこにいるんだ。ちょこまかと、ちっともじっとしないで。


 シャープペンシルを置いて頬杖をついて考える。

 いつからこうなったんだろう? なにかきっかけがあったんだろうか? あの子は僕を知っているんだろうか――?

 現実的に考えたら「知らない」というのは不自然だ。同じクラスなんだから。


 でも目が合うことはまずない。こんなに見てるのに。それでイラッとすることはないけど、面白くないなとは思う。

 夏服になっても衿元の赤いリボンが目の中に揺れる。あの子のリボンだけ、妙に鮮やかに。


 ◇


「⋯⋯桐生くん、あの」

 放課後、帰ろうとすると女の子が三人、こそこそっとやって来た。これはなんだ? なにかの探りを入れにきたとかそういうやつか?

 よく見ると級章はA組で、同じクラスの子だった。


「なに?」

 同じクラスの子たちなら、あまり失礼な態度は取れないよなと思い、できるだけフラットに、少し感じ良くなるように意識して質問する。

「あの」

 あの、と、中でも少しぽっちゃりした女の子がそこで止まる。あの、の先が見えない。僕は半分背中を向けたままだったので、彼女たちの正面に立った。


「あの、今週、桐生くん、教室の掃除当番で。それで、昨日いなかったし、今日も帰るところだったんで」


 彼女はどうも三人の中ではリーダー格らしい。やや後ろに控えたふたりは大人しそうに見えて、それでいて怯えているようにも非難しているようにも見えた。

 話しかけてきた子だけが、なにかの意志を強く持った様子で僕を強く見た。


「あれ、ごめんね、本当に忘れてた。今日はまだやってるとこ?」

「はい」

「わかった。迷惑かけてごめん」

「⋯⋯いいえ」

 リーダー格の子はそう言うと何故か唐突に真っ赤になって教室の方へ走っていってしまった。あとのふたりが追いつこうと慌てる。


 僕もそれは悪い事をしたなと思いながら廊下を歩いていると、ふわっとなにかを感じた。ふわっと、お日様の匂いみたいな。


 驚いて振り向くと、坂本祈里とすれ違っただけだった。よくあるニアミス。坂本祈里はいつもと同じように一重まぶたの目を細くして笑っていた。彼女の前では、僕は林の中の木と同じようだった。


「あ」


 あ、見てたのがバレる。

 坂本祈里が振り返った。よりによって僕の方へ。

 目が合うかもしれない。それは避けなくちゃいけない。だって普通に見られてたら気持ち悪いだろう。


「桐生くん、さっちゃんたちが探してたよ。掃除当番だって」

「あ、うん、さっき聞いて教室に戻るところ」

 ところどころ噛みそうになる。自分の口から出ている声という実感が薄い。


 彼女は僕のことを見てにこっと、いつものように無邪気な笑顔を見せた。防御力ゼロのやつ。

 まだ子供のような。まろやかで、それでいて触れたら割れる薄い硝子みたいなアンバランスさを感じる。


「そうなんだ。余計なことで呼び止めてごめんね。掃除がんばってね」

 振られたのは小さな手のひらだった。白くて小さい蝶のように、それは空中でひらひらと振られた。

 僕がなにか返す前に、彼女は背を向けてさっさと廊下を僕が来た方に歩いていった。


 言おうと思ったのに。口をぽかんと開けたまま、行き先のない言葉が飛び出すこともないまま、どうしてか木偶の坊のように立ち尽くしていた。


 ――僕を避けるように、みんな、目的地へと歩いていく。魚の群れ。僕だけが、違う魚みたいだ。


 いつまでも途方に暮れているわけにもいかないので教室に向かう。ああ、さっき呼びに来たリーダー格の子、あの子がたぶん『さっちゃん』だ。出席番号が一番だった気がする。


 もし、そんな理由でみんなのリーダーに押し上げられてるんなら、ちょっと気の毒に思う。だって彼女はとても一生懸命で、とても虚勢を張っているように見えたから。

 本心はもっと内気そうに見えた。


 ざわざわ、ざわざわ。

 きらめく銀色の鱗を持った魚たちの中を、逆方向に歩いていく。

 ざわざわ、ざわざわ。


「あー、桐生、遅刻だよ」

「ごめん、マジで忘れてた」

「『爽真』の『爽』を『掃除』の『掃』に変えるぞ?」

 あまりにバカらしい話で、つい笑いが漏れてしまう。センスない、小学生みたいだ。

「笑ってないでちりとりでも持て」


 なんだか笑いが止まらないまま、掃除用具入れからちりとりを持って来る。視線を感じてそっちを向くと、さっきの子たちが安心したように僕を見ていた。三人かたまって。


 さっちゃんたちは、坂本祈里とは別グループなんだろうか? とりあえず彼女たちは僕を許してくれたようで、非難がましい目で見られることはなかった。


「て言うか、お前も昨日サボったんじゃないかよ」

 今井は同じ当番だった。『荒川さっちゃん』から始まる五十音順に決められた掃除当番に、僕より前に今井が入るはずだ。

「忘れてたんだよ。お前も同罪だろ?」


「あとは今井と爽真が昨日の分も働くからみんなもう帰っていいよ」

 今井と一緒についてきたのか庄司は片付けられた机のひとつに座って、そう言った。


 どうする、どうする、と女の子たちはまたさわさわ揺れるように相談し始める。でもそこに坂本祈里はいない。僕の目の前で帰ってしまったから。

 やっぱりさっちゃんたちとはそれ程仲がいいわけじゃないのかもしれない。掃除が終わるまで待ってる程。


「えっと、昨日のことはもういいから、今日からみんなでやろう」

 さっちゃんは女子一同を代表するようにそう言った。


 出席番号っていうのは、ただの管理ナンバーだと思っていたけど、一番ていうのはなかなか重責だなと思う。みんな静かになって、それぞれ動き出す。命令オーダーが行き届いた。


 事務的に進めれば、教室掃除なんてすぐに終わる。

 なにしろ僕たちは小学生の時からそれを仕込まれている。なんてことはない。

 なんてことはないけど、つまらないと思うのは。


 揺れる赤いリボン、本格的に夏が来たら外されてしまう。


 ガタンゴトンと机が動かされる。

 少女マンガみたいに黒板の上の部分が掃除できないさっちゃんに声をかけて、代わってあげる。

 彼女はちょっと俯きがちに、「ありがとう」と小さく言った。こじんまりした彼女の体が、更に小さく見える。


「さっき、あんな風に言ってごめんなさい。別に責めたかったわけじゃなかったの」

「うん、大丈夫。気にしてないよ。今週、残り、ちゃんとやるから」

 ごめんね、と消え入りそうな声でそう言うと、さっちゃんはまたグループに戻った。机を戻せば終わりだ。


 黒板も実に誇らしくキレイになって、変な達成感を感じる。僕は上を拭いただけなのに、勝手な話だ。


 坂本祈里は昇降口でさっちゃんたちを待っていた。友情が薄かったわけじゃないらしい。

 何人かにまとまった女の子たちは水槽の中の熱帯魚のように、群れてはわっと離れた。

 たくさんのグッピーの中でもやはり僕の目を引くのは、坂本祈里だった。


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