囁くように、笑う
月波結
第1話 無防備
ぼんやりしてる。
黒板に書かれた漢文を見ているようで、目がぼんやりしてる。
目はつぶらかもしれないけど一重。
口はへの字。唇は薄い。
あざとい、というよりまるで幼稚園児のように髪をふたつに結んでいる。黒と言うより茶色。前に体育の授業のあと、髪を下ろしてるのを見た。日に透けて、どれくらいあの髪が細くて少し癖毛なのかわかった。
きっと、風が吹いたらふわっと舞い上がるんじゃないかな。たんぽぽの綿毛のように。
彼女は、肩肘をついた姿勢でぼんやりと黒板を見つめ、適齢期は過ぎたんじゃないかなと思う女教師は確実にブロックを積み上げるように、朗々と漢文を読んだ。
あ、欠伸。結構、大胆に。
細い二本の腕は、さすがに伸びたりしない。まるで伸び始めたばかりの枝のように、或いは伸びをした猫のように、彼女の腕は細くて長い。
見ていて飽きることはない。別に美人なわけじゃないけど、なんか気になる。誰も見てないところで健気に毎朝新しい花を咲かせる、朝顔のように。
◇
爽真、と僕の名前を呼びながら、向こうの方からわざわざ机を越えてやって来るヤツがいる。
「漢詩なんてちんぷんかんぷんなんだよ」
半ばキレ気味に、竹岡は授業が終わるとそう言った。いつものことだ。悪いヤツではないが、意外と内気で、ほかに特に『話せる』友だちはいないらしい。鈍い金色の細い眼鏡のフレームを、くいと指で持ち上げて直す。
眼鏡をかけてるヤツはみんな同じように、くい、とフレームを指先で上げる。まるで敬虔なイスラム教徒が、決まった時間になると膝をついて祈りをするように。
「まぁ、漢文がわからなくても生きていけるよ。中国語習った方がよっぽど役に立つのにな」
「げ。英語だけでもギリギリなのに、更に語学が増えても困るよ」
僕を非難するような目をして、竹岡はそう言った。
確かにそうだ。中国語ができると社会に出て役に立つと思うけど、今からいきなり始めて身につくとは到底思えない。そういう根気が、ない。
比べて昔の人はレ点入れたりして中国語を読解する方法を見つけたんだ。
「中国語しか話せない中国人に会わないことを願うよ」
「職種にもよるんじゃない?」
「どうかな? 観光に来てる中国人も多いんじゃないの?」
そう言うと僕はその中身のない会話は放っておいて、イスから立ち上がると揃えていた化学の教科書類を持ち上げた。移動教室だ。
ふと席を見る。ふたつ結びの小さな頭は見当たらない。仲のいい女子ともう教室を出たんだろう。子供みたいに無防備に全開の笑顔で。
なんだかつまらない。
竹岡のおしゃべりが、まるで横を通り過ぎる車の走行音のように行き過ぎる。
つまらない。弾むような足取りが視界の中に、ない。
どうしてあの髪は、歩く度に揺れるんだろう? 風船がついてるわけでもないのに。
◇
僕と
なんの、ではないかもしれない。同じ駅を使っている。但し電車は路線が違う。
僕の学校は地方都市の中心部にあって、学校の最寄り駅には数本の路線が走っている。
駅まで歩く間、彼女を見かけることはしばしばある。そもそも同じクラスだというのは接点のひとつではあるけれど。
彼女がいつものように目を細めて女友だちと髪を揺らして教室から出る。
僕は「なんだかつまらないな」と思いながら、大きな流行りのスポーツタイプのリュックを背負って教室を出る。一年から同じクラスの庄司と今井が大概、絡んでくる。
おしゃべりな竹岡は吹奏楽部でクラリネットを吹いている。せっかく女子が多い部活なのに、声をかけるなんてとんでもないと考えているらしい。
僕じゃなく、話題が豊富な女の子たちとおしゃべりした方が余程楽しいだろうに。
学校下の自販機は未だに値上げせず、一本百円。
駅までに設置された三台の自販機は、駅に近づくにつれて少しずつ値段が上がる。百円が百二十円になり、百五十円。駅で買うと百六十円だ。
ドライブスルーのように生徒たちはペットボトルを坂下で手に入れて駅に向かう。
庄司と今井、僕。百円玉三枚。時によってくだらない賭けをして、誰かが三枚負担することもある。
そんな、たわいもない。
ふと見ると、坂本祈里が笑いながら坂を下りていく。一緒にいる女の子たちも同じようにくすくす笑う。楽しそうだ。やっぱり赤い風船がついているように、彼女は弾んでいる。
ガタン、自販機の口にペットボトルが落ちてくる重い音。それを取る間に、坂本祈里を見失う。
それとなく目を動かしても、もう視界にいない。
「俺、今月、財布ピンチ。またなんか賭けようぜ」
「自分の財布の責任は、自分で取れよ。なっ」
ポン、と庄司が僕の肩を叩く。口角を上げて笑顔に見せる。三百円が少額なら、僕らはわざわざこの自販機でドリンクを買わない。そういう世代。
「あーあ」
今井はガクッとうなだれるポーズを作った。僕の笑顔と同じ。大した意味はない。
「そう言えばさ」
今井は人が変わったように打って変わった明るさで話し始めた。
「D組の倉敷美和、いるじゃん?」
「おおー、あの読モやってるとか噂のある?」
「そうそう。その倉敷さんがさ、
庄司が「おおっ!」と仰け反った。これは意味があるリアクションかもしれない。
「噂デショ」
「スカしてるなぁ、お前。そういう女子に無関心なヤツ程モテるんだから、世の中って不公平だよね」
「
僕の曾祖母はアイルランド系イギリス人らしい。
実話なんだけど、僕にしてみたら会ったことのない曾祖母の話なんて、フィクションと変わらない。もしくはファンタジー。
『外国人顔』とか言われるけど、うちでは父に似てるとか、母に似てるとか、誰も曾祖母と比べない。
写真で見たことはあるけど、J・アイヴォリーの映画に出てきそうだ。或いはシェイクスピアの映画。
彫りが深く、真摯な瞳。僕の中に流れているらしい同じ血は、遠い国のお伽噺の産物のようで、いつも上手く飲み込めない。
「俺も言ってみたい。『クォーターなんだよ』ってさ、さらっと」
「だよなぁ。倉敷美和だぜ。半端ないよ」
「話したこともないけど」
ふたりは顔を見合せた。
そして今井の方が身を乗り出すようにして「恋ってそんなもんじゃね? 知らんけど」
知らねぇんじゃないか、と庄司が突っ込む。恋なんて知らない。女の子なら知ってるのかもしれない。そんなものを例えもらっても、金のリボンのかかったプレゼントボックスは、「じゃあ」なんて気軽にいただけない。
恋愛を否定するわけじゃないけど⋯⋯少なくとも僕の内側にそいつはまだ巣食ってない。もしも恋を口にしたら、このつまらない平凡な毎日が少しは変わるんだろうか?
――そんな
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