第3話 「失踪」と「死」の真相
秋田が父親の死に疑問を持ったのを知った麻美は、石狩教授のところを訪れていた。
「息子が、夫の死に疑問を抱いたようなんです」
と麻美が切り出した。
場所は石狩教授の屋敷、石狩教授の奥さんは体調を崩して入院していた。大学には妻の入院を理由に、休講を増やしてもらったり、午後から病院に通うため、休みをもらうように心がけていた。
この頃になると、仕事第一時代だった頃に比べ、
「家庭の事情」
を重視するようになっていた。
社会的には、
「有給休暇を有意義に使って、福利厚生も積極的に利用して」
という風潮が多くなってきた。
政府の狙いは、
「休みを増やして、その間に消費をさせることで、経済を活性化させる」
ということだった。
実際に、有休を使う人が増えて、一時的に消費が増えたのも事実だったが、給料が上がるわけではないので、消費も頭打ちになった。それでも、一旦有休を使うことを奨励したことで、その流れを止めることはできず、以前であれば、
「仕事も終わっていないのに、有休を使うなんて」
と言われていたのが、
「当然の権利を行使して何が悪い」
という形で、従業員の力が強くなったのだ。
その一番の原因は、少子高齢化が深刻に進む中、
「人手不足」
という問題が大きく頭をもたげてきたのだ。
それまでの会社が圧倒的な強さを誇っていた時代は鳴りを潜め、
「従業員を大切にしない会社に未来はない」
とまで言われるようになってきた。
そこに持ってきての、政府の休みを使うことを奨励したことで、余計に従業員の力は強いものになった。以前のような労働組合の結成などしなくても、個人で会社にモノが言える時代になってきたのだ。
優秀な社員の離職率は過去最高になった。
「自分を正当に評価してくれる会社にいく」
というのが彼らの言い分であった。
他の先進国のような、圧倒的な実力主義ではないだけに、今まではいかに優秀であっても、離職はリスクを伴った。実力主義ではない国にとっての会社社会というのは、旧態依然とした年功序列の終身雇用が主流だったことで、何よりも安定が手に入った時代である。中途半端に優秀な人であれば、他に移るようなことはしなかった。しかし、時代が変わってくると、優秀な人材を引き抜くということも公然と行われるようになり、一時期、
「無政府状態」
とまで言われるような無秩序が蔓延りかけた時期があったのも事実だった。
そんな時代になったことで、大学でも企業と同じように研究所が営利を追求する時代になってきた。
もちろん、研究者の中には理想に燃えて、営利目的に走ることをよしとしない精神の下、研究に没頭している人もいる。石狩教授、秋田教授もそうだった。そして、息子の時代になっても、それは変わりなかったのだ。
研究所の中で、大きな派閥が生まれたのも無理もない。最初はその派閥は目に見えた形ではなかった。しかし、社会の変革とともに、研究所内でも、営利目的の研究室と、理想主義の研究所とが二分された。一般企業が手を結ぶのは、営利目的の研究室で、理想主義の研究所は一時期孤立してしまっていた。
「俺たちの研究も、そのうちにできなくなるかもな。このまま行ったら、研究所を去ることになるか、あるいは妥協して営利目的に走るかのどちらかしか道は残されていないんじゃないかな?」
という話がもっぱらだった。
しかし、
「捨てる神あれば拾う神あり」
ということわざにもある通り、彼らに助け舟を出すものが現れた。
「まさか国家が俺たちを助けてくれるとはな」
今までの国家であれば、決して助け舟を出すことなどなかっただろう。
彼らに助け舟を出したのは、国家の中でも秘密部門とされている部署で、公にできない部分も大きく含まれていた。
「これから先は、国家の最高機密に触れることもある。口外すれば命に関わると言っても過言ではない。それだけの覚悟が皆にあるかどうかだな。中途半端な気持ちだったら、今すぐここから去ることをお勧めする」
と、国家秘密組織の代表が、研究員に対して話をした。
その話を聞いて、さすがに恐ろしくなったのか、半分の人はいなくなった。そのうち数人は、営利目的の研究所に籍を移すことになったが、
「今のままいるよりも、よほど人間らしい」
と語ったという。
確かに、研究員の集まりである場所での新参者というのは、他の会社などに比べて、辛いことも少なくはない。それでも国家の機密に関わるよりも、はるかに気は楽だった。
そんな研究所において、秋田教授も石狩教授も、国家機密の研究所に残った。
最初は、いろいろ制約されて、
「まともに自分がやりたいことはできないかも知れない」
という危惧もあったが、実際にはそんなことはなかった。
しっかりとした研究スケジュールを立てて、それが承認されれば、営利目的の研究所に比べてはるかに自由がきいた。しかも、口出しされることもなく、黙々と研究ができる。
だが、表では常に監視の目が走っている。研究に没頭することができない人は、精神的に押しつぶされるのがオチだった。
実際に、精神に異常をきたして、入院した人もいた。
国立精神科病院へ入院することになったが、完全に表の世界とシャットアウトされている。
「まるで牢獄内のようだ」
という噂があったが、さすがに大きな声で言えることではないので、信憑性には欠けていた。それでも、誰もが感じていることだったので、そのことを信じない人もいなかったのも事実である。
石狩教授は、すでに研究員を卒業していて、自分で研究するというよりも、研究スケジュールを練ったり、各人の研究スケジュールの管理をする仕事をしていた。そういう意味では国家機密に直接かかわっていないこともあって、比較的表の世界との交流も自由になっていた。
ちなみに、秋田教授も同じで、石狩教授と二人三脚の状態であることは、誰もが認める事実だった。
さらに、二人が研究員として残した功績は一定の評価を受けていた。石狩教授は後三年もすれば、名誉教授の地位も約束されている。したがって、研究所内で一番自由に立ち回れる立場だと言ってもいいだろう。
石狩教授が奥さんの見舞に行くのは、毎日の日課だった。
午前中、研究所に顔を出して、研究所で昼食を摂ってから病院へと向かう。
病院は、国立の大学病院だったが、普通の病院で、病院内も自由だった。
「毎日、ご苦労様です」
毎日来ているので、看護婦さんとも顔見知りで、挨拶も気楽なものだった。
年齢的にはそろそろ五十歳を迎えようとしている石狩教授だったので、貫禄は十分だった。
「旦那さんは、教授だと伺っていますけど、どこから見ても教授としての貫禄に溢れていますね」
と、看護婦さんたちは、奥さんにそう話していた。
石狩教授が見舞いに来る時に、何度か麻美と一緒になることもあった。別に示し合わせているわけではないが、病室に二人で現れる姿を見て、奥さんはどう感じたのだろう?
実は奥さんは、そういうことにはあまり気づかない人だった。
もし、石狩教授が誰かと不倫をしていたとしても、気づくような人ではなかったのだ。
石狩教授が不倫をしていたという痕跡はなかったが、実際には不倫をしていた。相手は麻美だった。
いつから二人がそんな関係だったのかというと、秋田少年が小学生の頃だっただろうか。その頃になると秋田少年も、手が掛からなくなり、麻美もふっと気が抜けた時期だった。
その頃の秋田教授はというと、研究に没頭していて、まわりを見る余裕もなかった。
そんな旦那を見て、物足りなさを感じたとしても、不思議ではないだろう。
麻美は自分では、
「他の一般の旦那を持っている奥さん連中と、自分は違うんだ」
という意識があった。
本人はあまり意識していないつもりだったようだが、意識していないだけで、燻っていたものが見えてきた時は、自分の気持ちに気づいた麻美は、
「もう、後ろを振り向くのはやめよう」
と思った。
前を向いて歩き始めると、そこにいたのが石狩教授だった。
石狩教授は懐が深く、研究所では誰からも一目置かれていたように、教授に正面から見つめられると、誰もが自分の気持ちに正直になるようだった。
石狩教授に惹かれていく自分を感じていた麻美は、さすがに不倫というところまでは意識していなかった。
「あの方は尊敬できる人だけど、男性として見てはいけない」
と感じていたが、そう思えば思うほど、自分の気持ちにウソをついているように思えてならなかったのだ。
麻美は、石狩教授の懐の深さに溺れてしまった。
過ちは突然にやってくる。それまで警戒していたはずの気持ちがふっと切れた時、そんな時に限って、相手の気持ちを感じてしまう。そうなると、抑えが利かなくなるのだ。
「ここで後ろを向いてしまうと、私はここから動けなくなる」
と感じた。
「前に進むも、後に戻るもどっちも地獄なのかも知れない」
と思うと、前に進むしか選択肢は残されていなかったのだ。
「麻美さん」
「教授」
二人の長い夜は、こうして始まった。
今思い出しても、麻美は頬が紅潮してしまう。石狩教授からは、
「もう昔のことだ」
と、すでに過去のこととして意識が記憶に変わっていることを知らされると、一抹の不安を感じながらホッとしている自分を感じ、複雑な思いに駆られる麻美だった。
お互いに若い時に始まった不倫ではなかった。
それだけに、濃厚な気持ちが二人を包む。
若い頃であれば、勢いと情熱で燃え上がって、歯止めが利かないが、二人のように熟年と言われるところから始まった不倫は、歯止めというよりも、お互いの結びつきがすべてだった。
どちらかが離れようとすると、相手は離さないようにしようと必死になる。自分だけが取り残されるのを怖がるからだ。
離れる方だって必死だ。
「このまま一緒にいれば、破滅は目に見えている」
と、我に返ったことで、不倫の恐ろしさを身に染みて感じるのだろう。
だから、熟年不倫のカップルが別れるというのは、なかなか難しく、一歩間違えれば泥沼の地獄絵図が待っているのかも知れない。
しかし、石狩教授と麻美の場合、別れる時はスムーズだった。
「もう終わりにしよう」
という言葉を聞いた麻美は、ショックを隠せなかったが、まったく予期していなかったわけではない。
それも、彼の態度から感じたことではなく、自分の中で感じていたことだっただけに、
「そら来た」
とも思ったはずだ。
さすがにいきなり切り出されると、どうしていいのか困惑を隠せなかったが、冷静になれば、別れることも最初から覚悟していたことだった。
「始まりがあれば、終わりは必ずやってくる」
という当然ではあるが、一番認めたくない言葉が脳裏をかすめた。
「このあたりでいいだろう」
何がいいというのか、すぐには分からなかったが、それが石狩教授の覚悟の表れであると分かると、麻美もそれに従うしかなかった。
別れたのが今から五年前、今では二人は一番のよき相談相手だった。
この日、麻美が訪れたのも、その相談からだったのだが、どちらからの相談になるのだろう。
「まあ、ゆっくりしてください」
「ええ」
何度も訪れている石狩教授の家、勝手知ったるとはいえ、さすがに緊張を隠せない麻美だった。
石狩教授の家を麻美が訪れるのは、本当に五年ぶりだった。
麻美の中ではもっと昔のことのように思えたが、そんなことはどうでもよかった。
「あまり変わっていないようだわ」
という言葉には覇気はなく、力の抜けた声なのに、低音は響いているように聞こえたのは、屋敷がそれだけ大きいという証拠でもあった。
ここで、石狩教授は一人で住んでいた。
ちょうど、奥さんとは別居中で、息子の健一もまだ幼かったので、一緒に家を出ていた。別居の理由に関しては、奥さんは何も言わなかった。
「言わなくても分かるでしょう?」
麻美のことを言っているに違いなかった。
別居と言ってもいるのは実家だから、別に心配はしない。石狩教授としては、別に離婚してもいいという思いを持っていたのだ。
石狩教授の先祖は、元華族たったという。子爵か伯爵と言ったところだろうか。没落したとはいえ、隠し財産がかなりあったのだろうが、今の石狩教授には、この屋敷は広すぎて、感覚などマヒしているに違いない。
――もし私が一人この屋敷を任されたら、どうなってしまうんだろう?
一人と言っても、世話をしてくれる人を何人か雇っていたので、本当の一人ではない。それでも、暖かさを感じることができないであろうことくらいは、麻美にも想像ができた。
麻美が以前、この家に遊びに来ていた時、麻美自身、すぐに感覚がマヒしてしまった。この家で最初から不倫をしていたわけではないが、何度目かの不倫の時、ホテルのベッドで石狩が言った。
「今度家にこないか?」
という言葉を思い出していた。
いきなりの申し出にどう返事していいのか困っていると、
「一度見せたいんだ。僕がどんなところに住んでいるかということをね」
家にやってきた麻美は、その大きさに愕然としたが、それは、家全体がまるで影のように黒く見えたからだ。
――黒くて重たい物体――
それが石狩教授の住んでいる家だった。
その日は、世話をする人たちにそれぞれ暇を出していた。あらかじめの措置である。麻美はこの屋敷にいる石狩教授が、自分の知っている石狩教授ではないという意識を持ち、違和感だらけだったのだが、
――これが本当のこの人なのかも知れない――
と思うと、次第に自分の身体が硬直していき、指先に痺れを感じるようになっていった。
――こんな状態になるなんて――
と思いながら、石狩教授の顔を見ると、恐ろしさでゾッとしてしまった。
石狩教授は微笑んでいたのだ。
――この人は私が金縛りに遭ったように動けなくなっていて、そして震えているのを分かっていて、微笑みかけているんだ――
そう思うと、これから一体何をされるのか、何をされたとしても、自分は拒否してしまうような気がして仕方がなかった。
奥の方にリビングがあり、そこに紅茶が用意されていた。リビングと言っても普通の家のリビングではない。まるで西洋のお城の晩餐会が行われるような無駄に広い空間で、たった二人の晩餐であった。
「どうぞ」
石狩教授が進めてくれたが、
――ひょっとして毒でも入っているんじゃないかしら?
と思うと、簡単に口をつけるのが怖かった。
「ふふふ、毒なんか入ってないさ」
といって、自分は一口口に含んで、紅茶の香りを楽しんでいた。
――これが華族というものなのかしら?
石狩教授という人は、表にいる時と、屋敷にいる時とで、まったく違う人格になる人だったのかも知れない。今まで誰にも見せたことのないこんな姿を、麻美に見せたいという思いになったとすれば、それだけ麻美のことを好きなのか、それとも逆にわざとこんな姿を見せて、嫌われようとしているのか、判断がつかなかった。
麻美も同じように口をつけて、一口飲んでみた。確かにおいしい紅茶ではあったが、すぐに味が分からなくなった。気持ちに余裕がなくなると、味覚はマヒしてくるようだった。
いや、味覚だけではない。他の感覚もマヒしてきていた。
最初屋敷に入った時に感じた「カビ臭い」という思いも、次第にマヒしてきた。ただこれはマヒしてきたというよりも、慣れてきたのかも知れないので、嗅覚に関しては、マヒしているという思いを抱かなかった。それなので五感の中で最初に感じたマヒしているという思いは、味覚だったのだ。
紅茶を嗜んでいる時間がどれほどだったのか、自分でも分からない。時間の感覚、これは五感ではないが、これも最初からマヒしていた。しかし、そのことに気づいたのは、紅茶を飲んでいる時間が終わってからで、
――ここに来てどれくらいの時間が経ったのだろう?
と思った時、我に返った自分は、今その場にいること自体、まるで夢のように思えていた。それも普通の夢ではなく、完全な悪夢だったのだ。
「麻美さん、こちらにどうぞ」
紳士のたしなみとしてのレディファーストを演じているつもりなのだろうか。完全に華族の血がよみがえっていた石狩教授は、この屋敷では絶対的存在だった。
従うしかなかった麻美は、石狩教授についていく。その時も、
――気持ちは拒否しているつもりなのに――
と、身体が動かないことを訝しく思っていたが、前を歩く石狩教授の顔は見えないのに、見つめられて金縛りに遭っている自分しか想像できなかった。
石狩教授が招き入れた場所は、寝室だった。
Wベッド並みの大きさのベッドが二つ、部屋には置かれていた。部屋自体も大きいので、ベッドがそんなに大きくは感じられないが、今まで二人で通ったホテルのWベッドを思い出し、目の前にあるのがWベッドであることに対し、一点の疑問も抱かなかったのだ。
さすがにこの部屋に入る時、麻美はたじろいでしまった。それでも吸い寄せられるように入ったのは、ベッドを見たからだろう。
――心では拒否しながら、身体は……
と、自分の身体が昔の自分を思い出していることに気づいて、戸惑っていた麻美だった。
――あの時の想いはすでに消えてしまったはずなのに――
身体が覚えているということは、もしここで彼に愛されるとすれば、まるで昨日のことのように感じることになるだろうと麻美は思った。
「麻美」
石狩教授は、それまでの紳士の皮を一気に剥いで、オオカミになった。羽交い絞めにされた麻美の顔に、石狩の顔が覆いかぶさってくる。完全にオオカミと化した石狩を、麻美は凝視できなかった。
「いや」
と、手で払いのけるようにして腕を突っ張ったつもりだったが、これが男と女の力の差なのか、抵抗らしい抵抗はできていなかった。
いや、それともこれこそが、
「女の性」
なのかも知れないと感じた。
もし、そうであるとすれば、女の性というのは、
「これほど悲しいものはない」
と言えるのではないかと感じていた。
この思い、以前にもした記憶があったのだが、それがいつだったのか思い出せない。相手があってした思いなのだとは思うが、それが石狩教授だったのか、それとも夫の秋田だったのか、はたまた、他の誰かだったのか、それによって今感じている女の性が、これからの自分の運命を左右するものになるのではないかと思っていた。
ベッドに押し倒された麻美は、あっという間に、着ているものを剥ぎ取られ、あらわな姿になった。
「綺麗だよ」
と言って身体中にキスの嵐を浴びせる石狩教授の愛し方は、懐かしさしかなかった。
――まるで昨日のことのように思い出せるのに――
さっき感じたことをやはり感じた。
昨日のことのように思い出せたということだが、それなのに、懐かしさを感じるというのもおかしなものだった。
ただ、この懐かしさは、どれほど前の懐かしさなのか分からない。身をゆだねる想いで思い出した感情だったのに、その感覚を分析しようとすると、ベールに包まれてしまう。
――神秘的なことに対しては、分析などいう野暮なことをしてはいけないのかも知れないわ――
と、感じた。
「ああっ」
麻美の中の血が逆流を始めた。
静かな部屋に響く二人の息遣い。普段よりもハスキーに聞こえたのは、それだけ部屋が閑散としているからなのだが、それとは別の感覚が、その時になって初めて感じられた。
――そうだわ。この屋敷全体が乾燥しているんだわ――
という感覚だった。
ベッドの中で貪るように愛し合っているのだから、淫靡な匂いが部屋全体に蔓延っていてもいいはずだった。それなのに、どこか感情を高ぶらせるような匂いを感じることができない。そのせいで、
――いつもの感情の高ぶりには、あの時の淫靡な匂いが大きな影響を及ぼしているんだわ――
と感じたのだ。
この部屋の乾燥に気づくと、最初に感じたカビ臭さが脳裏によみがえってきて、それを感じると、今度は違う意味での興奮が麻美を襲った。
「あああ、私を自由にして……」
思わず叫んでしまったその言葉を感じた麻美は、我に返って、カッと目を見開いた。
――私は何というふしだらなことを言ってしまったんだ――
と、感じ、とっさに横で自分に抱きついている石狩教授を見つめた。
彼は、何もなかったかのように、麻美に貪りついていた。
――どうしてこの人は、何も反応しないの?
まるで麻美がそんなことを口走る女だということを分かっていたかのようではないか。麻美は、それを見た時、なぜか悔しいと思った。
それでも、一気に駆け上がった快感は、次第に頂点が見えてくる。二人は同時に達した頂点で、何かを叫んだと思ったが、気が付けば、憔悴した状態で、二人は息を切らせていた。
石狩教授は何も言わなかった。
――ここまで憔悴している彼を見たのは初めてだわ――
それだけ麻美を必死で愛したということなのか、それとも、最近していなかったことで、ペースが分からなかったから、疲れが倍増したからなのか、麻美は前者であってほしいと願った。
そんな麻美が横から自分の顔を見ているのを知ってか知らずか、石狩教授は、そのまま眠りに就いてしまった。
――どうやら、深い眠りのようだわ――
寝息というよりも、鼾に近い声だったので、麻美もそれを見ていると睡魔に襲われるのを感じた。
――こんなに激しかったのって、今までにあったかしら?
と思えるほどで、本当なら満足していていいはずなのに、さすがにそこまでは感じていなかった。襲ってくる睡魔に身を委ねるようにうたたねていると、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
その時、夢を見たような気がしたが、意識があるだけで、まったく覚えていない。覚えていないということは少なくとも怖い夢ではなかったということで、怖い夢を見たという感覚が身体に残っていないので、そこは安心していた。
かといって、幸せな夢でもなかっただろう。もし幸せな夢を見ていたのだとすれば、目が覚めて我に返るまで早かったはずだからである。幸せな夢から覚めるのは、現実を最初から意識していたという証拠で、
――一番目覚めが早いのは幸せな夢を見ていた時だ――
という感覚は、今まで持っていたものだった。
麻美が、目を覚ましてから石狩教授が目を覚ますまでにどれほどの時間が経っただろう? 麻美は石狩教授の寝顔を見ながら、昔の不倫時代を思い返していたはずなのに、石狩教授が目を覚ました時、麻美は自分が考えていたことを忘れてしまっていた。そのせいで、どれほど時間が経ったのか、意識がないのだろう。
本当の時間は分かっても、意識というものがないと身体が覚えていない。
これは身体が覚えていないから意識がないのか、それとも意識がないから身体が覚えていないと思うのか分からないが、少なくとも、身体が覚えていないということが根底になることには違いないだろう。
「う~ん」
石狩教授が目を覚ましそうだった。
彼が目を開けるまでに時間が掛かることは分かっていた。徐々に意識を取り戻そうとしている姿を見ていると、
――私も同じなのだろうか?
と、自分は少し違っているように思えた。
それは、自分が他の人と違うのか、彼の方が他の人と違うのか、それとも、二人ともそれぞれに違うのか、考えてしまう麻美だった。
「おはよう、麻美」
この時になって初めて麻美のことを呼び捨てにする。
それまでは、ほとんど名前を呼ぶことはなく、呼ぶとしても、
「麻美さん」
と、他人行儀な呼び方しかしなかった。
そのことに不満はなかったが、この日は少し不満だった。麻美は彼に何を望んでいるというのだろう?
「今後、僕の身に何が起こっても、君は気にすることはない。いずれ君の前に現れて、二人だけの生活をすることになるだろう」
麻美は一瞬、
「何を言っているの?」
と言いかけた。
もちろん、その言葉が発せられたとしても、それは当然のことであり、却って言葉を呑み込んだ方が不自然だ。言葉の重みはそれぞれで、教授の言葉にどれほどの重みがあるのか、麻美はすぐには理解できなかった。
その言葉は複雑な思いを抱かせる。
前半は破滅的な話だが、後半はその破滅からは救われるという話である。
元々麻美にとって石狩教授の存在は、そばにあっても、存在だけを感じることができて、触れることはできないもののように思っていた。かつて天文学者が創造したと言われる「暗黒星」。
天体の星は、自分から光を発するか、光に反射して、自分の存在を明らかにさせるものであり、それは地球上の物体すべてに言えることでもあった。しかし「暗黒星」というのは、光を自ら発しないどころか、自分に放射される光をすべて吸収してしまって、光をまわりに自分から放出することはない。
つまり、そばにあるにも関わらず、まったく気配を感じることのないものであり、存在自体、誰にも分かるものではない。こんなに恐ろしいものはないではないか。
「すぐそばにありながら、近づいてきても分からないということは、衝突して初めてその存在を知ることができる。『気が付いたら死んでいた』という笑い話が、笑い話ではなくなってしまうシビアな話である」
そんな星の存在を、今麻美は考えていた。
麻美は、SF小説を読むのが好きで、誰の小説だったが、そんな星の話を読んだことがあった。石狩教授の今の話とは少し焦点がずれていたような気がしたが、結果的には、この「暗黒星」の話に結びついてくるような気がした。
何かの根拠があるわけではないが、しいて言えば、
「私が最初に思い浮かんだのが、『暗黒星』の話だったから」
というのが、根拠と言えば根拠であろう。
石狩教授の話を額面通りに受け取ると、決して悲観的な話ではない。
「少しの辛抱だ」
と言ってくれているだけのことなのに、麻美は「暗黒星」の話を思い出してしまったがために、せっかくフォローしてくれた後半の話が、かすんでしまっていたのだ。
「人の話を聞いて、イメージが湧かない時は、自分の意識の中にある類似の話を思い出して、そこからいろいろな発想を思い浮かべることで、理解していくようにすればいい」
と言ってくれたのは、他ならぬ石狩教授だったではないか。
――石狩教授と一緒にいるだけでいい――
麻美はいつもそう思っていたが、次第にそれだけでは我慢できなくなる自分を感じていた。
最初は確かにそれで我慢できていたはずなのだが、それは石狩教授だけを見ていればよかった時のことだった。
しかし、麻美には現実の生活があった。自分には夫があり、子供があり、家庭がある。それを壊すことは、何があってもできないことだった。
優先順位でいけば、石狩教授は、家庭ありきの二番目だったはずである。
つまりは、気持ちに余裕がなければ、石狩教授を意識してはいけないと分かっているはずなのに、石狩教授といる時は、どうしても家庭を忘れてしまう。逆に言えば、家庭を忘れなければ、石狩教授と一緒にいる意義はないのだ。
言葉だけを並べれば、石狩教授への気持ちは「余計なもの」であり、冷静に考えれば考えるほど、
――あってはならないことをしようとしている――
と分かってしまう。
だから、なるべく石狩教授のことを考える時は、冷静になってはいけないと思った。矛盾が矛盾を呼び、収拾がつかなくなる。それが、
「不倫にのめり込む主婦の悲しい性」
であるということを、麻美は次第に気づいてくる。
しかし、気づいた時には遅かった。
元に戻ることはできなくなっていて、今取れる最善の策としては、
「家族に知られないこと」
ということしか考えられなくなっていた。
――どうして、こんな風になってしまったのだろう?
その時、思い出したのが「暗黒星」の話だった。
「暗黒星」の話を思い出したのは、今日が初めてではない。石狩教授との不倫が泥沼に入り込んで抜けられなくなった時に、初めて感じたものだった。
――そばにあるのに、まったく気づかなかった――
それが不倫をしてしまう人の悲しい性であった。
まるで不倫の相手を運命のように感じる人もいるだろう。不倫が悪いことだというのは一番自分が分かっていて、
「私にとって不倫なんて、他人事」
と思っていた人がほとんどだったはずである。
なぜなら、自分の中にある優先順位を絶対のものだと信じて疑わない自分がいるからで、夫の存在や家族の存在に対して、何ら疑いを持っていないはずだったからだ。
本当であれば、そんな完璧な気持ちの中に、他の男性が入り込むなどありえないはずである。そのありえないことが起こったということは、不倫相手の問題ではなく、自分の中で信じて疑わない優先順位の変化に自分が気づいていないということになるのだろう。
「優先順位の中にも優先順位がある」
つまりは、家庭を一括りにして最優先だと思っていたとすれば、最大の優先順位が夫になるのか、子供になるのかが分からなくなっているのではないか。
結婚した時は、夫が一番のはずである。その思いはたとえ子供が生まれたとしても、変わりはないと思っているだろう。
しかし、実際に子供が生まれてくると、母性本能から、子供が一番になることもある。
夫が一番だと思っていても、子供が生まれたことで、夫を見る目が変わる人もいるだろう。
麻美も子供が生まれたことで少し変わっていた。自覚があったわけではなく、夫への気持ちは、子供への愛情と違うものだということに気が付いたのだ。
急に夫が他人に思えてきた。
麻美は、あまり親から愛情を受けて育った方ではなかったので、今までの家族に対して、家族愛などというものを感じていなかった。もし子供が生まれたら、
「愛情を持って育てよう」
という思いを強く持っていたが、実際に生まれてくると、どのように愛情を注いでいいのか分からなかった。
自分が愛情を持って育てられたわけではないので、当たり前のことであり、それでも、
――唯一の肉親――
という思いで子供を見ていた。
そうなると、夫はやはり他人である。
確かに愛しているという気持ちに変わりはないのだが、子供に対して、愛情を感じてくると、夫への愛情が分からなくなってきた。なぜなら、自分がどうやって子供に愛情を注げばいいのか分からないからだ。
本当は、どこの家庭でも、その思いは同じはずなのだ。
まわりの母親も、
「どうやって子育てしていいのか分からないわ」
と言っていたが、麻美はその言葉をまともに信じられなかった。
――あなたたちは愛情を持って育てられているので、子供にどういう愛情を注いでいいのか分かっているはずでしょう? それを分からないなんて、本当にバカなのか、それとも、私をコケにしているのかのどちらかだわ――
と、考えてしまい、麻美は子育てグループから孤立してしまった。
頼れる人は誰もいない。
夫に対しても、一旦他人のように思ってしまうと、元の気持ちに戻ることはできないように思えた。
そんな時、目の前にいたのが、石狩教授だったのだ。
石狩教授は、麻美に対して別に愛情を持っているわけではない。本当に他人として接してくれていた。
ただ、優しかったのだ。
同じ優しさでも、夫として今まで愛してきたが、その相手を他人だと認識してしまったことで分からなくなった秋田と、それまで意識していなかったが、優しさが身に染みてきた石狩教授。自分のポッカリと空いた心の隙間に入り込んできたという意識はあったが、その心地よさに溺れてしまった麻美、不倫をする主婦というのは、そういう気持ちを持っている人も多いのではないだろうか。
そんな石狩教授に対し、「暗黒星」を麻美はかなり早い段階から結び付けていた。
確かに危険な星であるが、近寄ってきて心地よさを感じることで、今の自分の雁字搦めになっている精神状態を緩和させる作用があるのを感じたのだ。
夫である秋田教授は、妻の麻美の気持ちの変化にすぐには気づいていなかった。
――何かおかしい――
最初は、育児ノイローゼではないかと思っていた。
実際に、神経内科の診察券を発見したこともあったからだが、その時はあまり深く気にしていなかった。
「育児ノイローゼで精神内科に通う主婦はたくさんいる」
という話を聞いていたからで、自分の妻がもし精神的な病でも、すぐに治るだろうと思っていた。
秋田教授は、それよりも、
――麻美が自分で自覚して、自分から神経内科に通ったということに意義がある――
と考えたのだ。
しかし、実際は麻美が自覚したわけではない。
石狩教授が麻美を見て、
「神経内科への通院をお勧めしますよ」
と言ったからである。
実際に一度は神経内科を受診してみたが、当たり前のことを言われて、まともな治療もしてくれていないのに、お金ばかりが取られたという意識があったので、二度目以降は行っていない。
この時代には、医療費が社会問題になっていて、医者が過剰な治療や投薬によって、儲けようとする風潮があったのは事実で、麻美が怒りを覚えたのもそのせいだった。
「しょせん、病人を食い物にしているんだわ」
と思うと、病院嫌いの人が増えているというが、それもよく分かる気がした。
そのことを石狩教授に話すと、
「そう、君がそう思うのなら、病院にこれ以上通う必要はないよ」
と言った。
患者と医者の気持ちが一致していないのに、どんな治療を施そうとも、完全に元に戻るということはありえないというのが石狩教授の考え方だった。それは彼自身が医学に精通していて、医学以外の研究もしているからだった。そんな石狩教授を麻美は敬愛していたのだ。
石狩教授に麻美が急接近したのは、その頃からだった。
石狩教授も家庭内で、あまりうまくいっていなかったこともあり、麻美の接近に危険性を感じながらも、どこかワクワクした気分になっていた。
最初は相談相手だという意識だったはずなのに、いつの間にか麻美に傾倒していた。
――これが麻美の言っていた「暗黒星」の影響なんだろうか?
と、すぐに感じた。
石狩教授は、「暗黒星」の話を初めて麻美から聞いた。
――自分の知らない話を知っている女――
というだけで、石狩教授は麻美に興味を持った。
しかも、「暗黒星」の話は石狩教授にはセンセーショナルだった。
今まで、SF的な話はいろいろ知っているつもりだったのに、どうしてこの話を知らなかったのか不思議だった。
だが、本当は聞いたのは初めてではなかった。
石狩教授は覚えていないだけで、以前に聞いていたのだ。本当であれば、これほどインパクトの強い話を忘れてしまったというのは、、自分でも信じられないだろう。しかし、子供の頃に聞いたこの話は、石狩教授の中で、恐怖の話として、覚えることを拒否したという数少ない話だった。
石狩教授は、本当に恐怖に感じた話であれば、
「覚えないようにしよう」
という意識を持つことができるという能力があった。
簡単そうで、非常に難しいことであるこの能力は、限られた人間にしかないもので、彼らは少なからず、将来世の中の役に立つ功績を残せる人であった。
そういう意味でも彼らは、
「選ばれた人間」
と言えるのではないだろうか。
麻美が自分のことを「暗黒星」のような存在だと意識していることを、石狩教授は知らなかった。人のことが分かる人は、意外と自分のことを知らないもの。麻美も石狩教授はそんな人間だと思っていた。
尊敬できるところは、言葉を尽くしても余りある。しかし、自分のこととなると無神経なところがあり、人に対して失礼な言い方になってしまうことも往々にしてあった。
「学者肌だから仕方がないのかも知れないわ」
と、他の人は言っていたが、その言葉には痛烈な皮肉が含まれている。
「どうせ私たちとは、住む世界の違う人」
というイメージを持たれていた。
特に奥さんからそう思われているようで、別居の原因はそのあたりにあるようだった。
石狩教授は、それも仕方のないことだと思っていた。
「僕は女房のためを思っていろいろ考えているんだけどな」
と、教授は言っていたが、同じ女性として、奥さんの気持ちもよく分かる。
何といっても、自分だって大学教授の奥さんという立場だからである。
秋田教授の場合は、石狩教授ほど極端ではない。研究していることは、非現実的なものであることから、学者肌がもっと鮮明に出ていると思っていたが、そうでもなかった。研究の時が非現実的なのだから、逆に現実の生活の中では、却って現実的になっているのかも知れない。
「ここには秋田教授ほど、人間臭い人はいないかも知れないな」
と、石狩教授が一度話してくれたが、それ以降、秋田教授の話をすることはなくなった。大学に行けば交流はあるのだろうが、私生活では、あまり会う機会はなくなってしまっていた。
石狩教授の学者肌に対しては、
「これがこの人のいいところなのかも?」
と麻美は感じるようになった。
学者肌ではあるが、言っていることは、すべて本当のことである。他の人なら、オブラートをかぶせて話すようなことを、石狩教授は素直に話す。
――これのどこが相手の気持ちを考えているというの?
と最初は思ったが、逆の方向から見ると分かってきた。
石狩教授は、絶えず相手の身になって考える人だった。
「この人は、自分の口から本当のことを知りたいんだ」
と思うことで、本当のことにオブラートなど必要あるはずもなく、すべて正直に話していた。
相手の気持ちを考えていないように思うのは、自分が第三者として、第三者の目でしか見ていないから、無神経に見えるのであって、当事者間であれば、教授の態度は決して間違いではないだろう。
むしろ知りたいことを教えてもらえて感謝しているかも知れない。それがどんなに自分にとって悲惨なことであっても、受け止めなければいけないことであれば、石狩教授の態度は、
「相手のため」
と言ってもいいだろう。
麻美は、そのことに気が付いた。
――私なら、ちゃんと正面から話してほしい――
ということを、ちゃんと目を見て話してくれる。
そこには諭しているような様子も、
「自分が知っていることを話してやっている」
という恩着せがましい上から目線は感じられない。
――やっぱりこの人は、新鮮な人間なんだわ――
麻美は、人間臭い人は嫌いではない。そこに妬みや恨みと言った感情が表に出ていたとしても、それがその人の本性であるならば、嫌いになる必要はないのだ。
しかし、それが自分に向けられることであれば話は別だった。正面切って挑戦してくるような相手に、立ち向かうだけの勇気があるかと言えば、自信があるわけではない。
――自分だって、計算高いところがある――
と自己嫌悪に陥りそうになるが、それも、
――これが自分の人間臭さなんだ――
と思うと、自分を許すこともできるからだ。
石狩教授には、そういう意味での人間臭さはあまり感じない。
聖人君子のような人がいるはずはないと思っている麻美だが、石狩教授を見ていて、
――何を考えているんだろう?
と思うこともしばしばだった。
しかし、そんなことを考える必要はなかった。
彼はいつも相手の立場に立って話をしてくれる。麻美は、自分の中に、時々違う人がいるのではないかと思うことがあったが、それはひょっとすると、自分の立場に立って話をしようとしている石狩教授の「目」になっているからなのかも知れない。
石狩教授の屋敷の奥には、教授の研究室があった。西洋屋敷の奥に密かに作られた研究室。麻美は一度だけ入ったことがあったが、不気味以外の何物でもなかった。
教授は、大学での研究とは別に、家で密かに何か違うことを研究しているというのは、自分の夫である秋田教授から聞かされていた。
石狩教授は本来であれば、医学博士であった。大学では不治の病を治すという永遠のテーマを掲げ、日夜研究に励んでいた。秋田教授のタイムマシンの研究のような、漠然としたものではないが、難しいことには変わりない。
「不治の病を治す研究も、タイムマシンの研究も同じようなものだ」
と石狩教授は秋田教授に語ったことがあった。
「どうしてですか?」
秋田教授も相手がいくら大先輩とはいえ、自分の研究の何たるかも知れないのに、おのれの研究と一緒にされたことに違和感を覚えた。少し口調が荒くなっていたが、そのことは石狩教授にも分かっていた。
「僕たちの研究は、不治病を治すということをテーマにしているけど、このテーマには二つのことで矛盾が発生するんだよ」
「矛盾……ですか?」
頭をもたげながら、不思議そうな表情を浮かべた秋田は、石狩教授の真意を知りたかった。
「まず一つは、不治の病を治すということがどういうことかという発想に繋がってくる。つまりは、『死ぬはずだった人が死なずに、延命する』ということなんだよ」
「はい、医者としては、研究冥利に尽きるということですよね?」
「私も最初はそう思っていて、研究に何ら疑いを持っていなかった。しかし、人間というのは寿命というのがあるんだ」
「ええ、確かにそうですね。でも、天命を全うできた時の年齢のことを言うんじゃないんですか?」
「僕もそう思っていたんだ。しかし人間は自分たちだけで生きているわけではない。自然の中で生きているんだよ。そこには『自然の摂理』が存在する」
「ええ、分かります。『自然界のバランス』というやつですね?」
「ああ、そうだよ」
ここまで聞くと、さすがに秋田教授も話についていけるような気がした。
「じゃあ、先生は寿命というのは、不治の病に罹った時点で、その人の死を邪魔してはいけないものだって思われるんですか?」
「医者の立場としては、そんなことを考えてはいけないんだろうけど、昔から伝わる話の中に出てくる『不老不死』の話、うまくいった試しがあるかい? 私は宗教を信じているわけではないが、宗教では『人間が死んだ後の世界を考えて、今の世の中でどう生きるか?』ということがテーマになっているじゃないか。要するに、『不老不死』などという発想は矛盾に繋がることであり。『不老不死』が矛盾なら、『不治の病の治療』というのも矛盾に繋がるんじゃないかって思うんだ」
「なるほど、分かりました。では、もう一つの矛盾というのは?」
「もう一つは、不治の病というものだけに限らず、医学界が抱えている矛盾と言ってもいいかも知れないのだが、それは『副作用』の問題なんだ」
「副作用というのは、どうしても、投薬の世界では避けて通ることのできないものですよね。大なり小なり、ほとんどの薬に副作用というのは付きまとっているんじゃないですかね?」
「ああ、その通りなんだ。いくらその病気に対しての特効薬が開発されたと言っても、副作用というものを避けて通るわけにはいかない。せっかく目の前の病気を治しても、その副作用が潜伏していたさらにひどい病気を呼び起こさないとも限らないからね」
石狩教授の話は、説得力があった。
専門外と言っても、医学と薬学は切っても切り離せないということは分かっていたつもりだ。
特に副作用という考えは、他の人に比べて持っているつもりだった。その証拠に、石狩教授と話をする前に、その発想があったことは自分でも意識していた。それなのに、石狩教授と話をしている間に、いつの間にか副作用という考えは消えていたのだろう。
石狩教授の口から副作用という言葉を聞いて、忘れていたというよりも、最初から発想していなかったかのような驚きが、秋田の中にあったのである、
特に秋田にとって、副作用というのは、忘れることのできないものだった。
自分が子供の頃大好きだった祖母が、病気で入院していた。小さな子供だった秋田には、それがどんな病気なのか分からなかったが、時間があれば祖母の病室にいたような気がする。
「おばあちゃん、早く良くなって、また遊んでね」
「ああ、いいよ」
毎日いろいろな話をしたはずだったが、覚えているのはこの会話だけだった。
「おばあちゃんは、毎日この薬を飲んでいるんだよ」
と言って、白い錠剤を見せてくれた。
腕には点滴の針が刺さっていて、刺さっている場所はテープで止めてあって見えないが、痛々しさは感じられた。
その祖母が、ある日容体が急変し、あっという間に亡くなった。
「あれだけ元気だったのに」
両親は、涙ながらに消え入りそうな声でそう言った。
秋田はその時、涙が出なかった。
――どうして涙が出ないんだろう?
その時は真剣にそう思ったが、大人になると、
「本当に悲しい時、他の人に先に悲しまれると、涙が出てこないものなんだ」
と感じるようになった、
――自分は他の人と違う――
そう感じるようになったのは、祖母が死んだこの時からだったのかも知れない。
その後、しばらくして両親が言い争っているのが聞こえた。
「病院を訴えるって、証拠はあるのかい?」
「いいえ、証拠はないわ。でも、看護婦さんが話しているのが聞こえたのよ。おばあちゃんの死は、投薬のミスだったって」
「間違った薬を与えたということ?」
「そうじゃなくて、副作用が起こったらしいのよ」
「副作用だったら、それを証明することは余計に難しいぞ。それに、人的な単純ミスではないわけだから、不可抗力として片づけられるかも知れないよ」
「それでも、いいのよ。あなたはこのまま泣き寝入りしてもいいっていうの?」
「そんなことは言っていないさ。何事も冷静にならないといけないと言っているだけだ。どちらにしても、弁護士の先生に相談して、今後のことを決めないといけないよな」
「ええ、分かったわ」
そんな会話だった。
しかし、それから一向に祖母の死についての裁判はおろか、話をする人もいない。後から思えば、弁護士に説得されて訴えないようにしたのか、あるいは、示談金で事が済んだのか、どちらにしても、秋田にとっては、消化不良だった。
そのことがあってから、薬の副作用に関しては敏感になっていた。
――それなのに――
どうして、副作用という発想を今しなかったのか、とにかく悔しさが込み上げてきた秋田だった。
「なるほど、確かに矛盾だわな」
秋田の言葉には怒りが籠っていたが、そのことに石狩教授が気づいたかどうか、分からなかった。
「それで、君たちの研究しているタイムマシンの方なんだが、僕は専門家ではないが、『パラドックス』という発想は分かっているつもりだよ。これも医学を志す人から見ても、同じような矛盾を孕んでいるんじゃないかな?」
「ああ、そうですね。でも、僕は同じ矛盾を考えるなら、『不老不死と薬学の関係』に矛盾を感じますね」
「確かにそうだね。不老不死の薬は薬学を志していると、目指したくなる研究なんだが、それが開発されると、今度は人が死ななくなる。そうなると、薬が売れなくなるという発想だよね」
「そうですね」
「でも、それこそ、漠然としていないかい? 不老不死という発想はまず、さっき話をした自然の摂理の発想と結びつくのがより自然な発想になるはずだよね。だから、僕は敢えてここに矛盾を持って来なかったんだ」
「でも、パラドックスという発想を説明するには、不老不死と薬学の関係の方が、分かりやすいし、説得力があるような気がするんだ」
「それは、見解の違いというものかも知れない。医学を知っている者と、知らない者のね」
秋田教授は、
――ここは譲れない――
と言わんばかりの口調だった。
「確かに、医学をタイムマシンのような世界の話に結びつけるのは、あまりいいことではないかも知れない。人の生死にかかわることを、軽々しく他と比較するというのだからね」
と石狩教授がいうと、
「それはそうなんですが、我々タイムマシンを研究している人間は、最初から『矛盾ありき』で研究しているんです。ここが一番の違いではないかと思うんですよ」
「医学も似たようなものかも知れない。矛盾というものは、何においても、絶対に存在するものだと思うんだ。光があるところに影があるようにね。だから、素直に矛盾というものを認め、いかに矛盾が結果を悪くしないようにしないといけないかを考えないといけないんじゃないかな?」
「そういう意味では、すべてにおいて、矛盾という観点から見れば、共通点があるということですね」
「そうだね」
二人がそんな会話をしていたのは、ごく最近のことだった。
石狩教授が忽然と消えてしまったのは、それから一か月のちだったのだ。
石狩教授がこの世から消えてしまうなど、想像もしていなかった麻美は、いつものように自分の中にある邪悪な「穢れ」を、石狩教授が癒してくれるのを待っていた。
石狩教授に招かれるまま、夫婦の寝室に入り込んだ麻美は、一糸纏わぬ生まれたままの姿になった。
最初の頃は、
「どうして、夫婦の寝室なの?」
と、いくら出て行ったとはいえ、かつてはここで違う女を愛したことは紛れもない事実だった。
「ラブホテルと同じじゃないか」
石狩教授は、平気でそういうことを口走っていた。
――この人は優しいんだけど、こういうところはデリカシーがないのね――
と、人間性を疑ったが、それを差し引いても、もう後戻りのできないところまで、麻美は来ていたのだ。
――私は、この人を愛しているんだわ――
と感じてからというもの、逃げ出しそうになるのを抑えながら、石狩教授の腕に抱かれた。
本当に最初の頃は、吐き気を催すほどだったのだが、最近では慣れてきた。
――慣れてくるというのも、なんだか……
と、自分がだんだんと違う性格になってくるようで恐ろしかった。
石狩教授に身体を預けるようになった最初の頃は、ほとんどラブホテルだった。本当は、もっとムードのあるところがよかったのだが、石狩教授にその気はないようだ。彼にデリカシーがないということにその頃から気づいていたが、
――これが学者肌というものなのかしら?
と感じたが、夫の秋田には、ここまでのデリカシーのなさはなかった。
それなのに、なぜ石狩教授に惹かれたのか?
自分の心の隙間に気づいた時、目の前にいたのが石狩教授だったのは確かだ。
「麻美さん、何か心配事があるのでは?」
「えっ?」
ふいに声を掛けられてビックリした麻美だったが、声を掛けられたことや、心配事を看過されたことに驚いたわけではない。それまでいつも、
「秋田さん」
と呼んでいた彼が、その時初めて、
「麻美さん」
と呼んだのだ。
これにはビックリしたというよりも、身体に電流のようなものが走った。夫の秋田に一度も感じたことのない感覚だった。
――この人に声を掛けられたのは、運命なのかしら?
と感じた。
今まで運命などというものを感じたことはなかった。夫の秋田と結婚したのも、秋田の強引さに負けたのが原因と言ってもいいだろう。
――決して自分の意志ではなかったんだわ――
という思いがあったが、それを肯定してしまうと、息子を否定してしまうことになる。それだけはしてはいけないことだと思っていたのだ。
石狩教授に対しては、完全な一目惚れだったと言ってもいいだろう。その後に感じたマイナス面を差し引いても、石狩教授に惹かれているという気持ちをくつがえすことができないのは、麻美が初めての一目惚れだったからに違いない。
「ずるい人」
ベッドの中で何度か独り言のように呟いた言葉だったが、
「どういう意味だい?」
と言って笑っていた石狩教授だったが、麻美の気持ちを分かっているに違いない。
――それなら、聞かなかったふりをしてくれればいいのに――
と思ったが、それが石狩教授の性格なのだから仕方がない。
この性格を理解できたからこそ、今の石狩教授にも惹かれてしまうのだろう。彼のそんな性格を、麻美は決して嫌いではなかった。
石狩教授は、ベッドの中では豹変する。
それまでの紳士的な態度とは違い、麻美に対して積極的に辱めを与えようとする。恥ずかしがっている麻美を見ながらほくそえんでいる姿は、最初気持ち悪かったが、次第に快感に変わっていった。
――この人、S――
ラブホテルにいる時から分かっていた。
元々ラブホテルを利用したのも、その性格によるものだった。彼のような紳士的な人であれば、高級ホテルで食事をして、
「今日は、上に部屋を取ってあるんだ」
と、ルームキーを渡してくれるという、テレビドラマなどでお馴染みの光景が想像できるのだが、彼は決してそんなことはしなかった。
予約もなしに当てもなく、ホテル街を歩く。
明らかに歩いていることを楽しんでいる彼を見ながら、心細そうに腕にしがみつく麻美は、自分をいじらしく感じるのだった。
「麻美さん、今日はここにしよう」
と、ランダムにホテルを決める。
時には、すべて部屋が埋まっていることもある。金曜の夜などは当然のことであろう。
「ああ、ここはいっぱいだったね」
と言って、すぐに他のホテルを物色し始める。そんな時は、なかなか空いている部屋がなく、ひたすら夜の街を彷徨っていた。
その時は、どうしていいか分からず、次第に不安になってくるのだが、石狩教授の表情に、一切の変化はない。まったくの無表情でホテルを探しているのだが、その横顔を見て、何度、
――怖いわ、この人――
と感じたのか分からない。
「あった、あった」
やっとの思いで部屋が見つかった時、初めて彼の表情に明るさが戻ってきた。
麻美は部屋が見つかったことよりも、その表情にホッとするのだった。
部屋に入ると、石狩教授は麻美を蹂躙する。麻美も縛られることがこれほど快感なのかと初めて感じる。縛られる快感に単純に目覚めただけなのか、それとも、相手が石狩教授だから快感なのか、どちらなのか分からない。しかし、その時は、
――どちらでもであって、どちらでもないんだわ――
と感じていたように思う。
その時にどうしてそんな感覚になったのか、冷静になって思い出そうとしても思い出せるものではない。それだけ、その時自分はその時間と空間に酔っていて、夢の世界に連れて行かれたような気がしていた。
「女房がね。家を出て行ったんだよ」
と麻美に話しかけた時、麻美はどんな表情をしていいのか分からなかったが、心の中では、
――これでこの人を私が独占できる――
と感じた。
その時にはすでに頭の中に夫の秋田教授の存在はなかった。石狩教授に比べれば、秋田は明らかに幼いイメージだったからだ。
なぜなら、秋田が家で麻美に話すことと言えば、石狩教授の話題が多い。研究に関して家で話すことはあまりないので、どうしても石狩教授の話が多くなるのだろうが、それも仕方のないことだった。
しかし、秋田教授は石狩教授を尊敬していた。尊敬というよりも、崇拝していたと言ってもいいくらいである。それだけに、石狩教授の話をする時は嬉々としていて、自分が石狩教授の弟子であることに誇りを感じているため、どうしても、自分がへりくだった表現しかできないのだ。
妻としては、そんな夫に頼りなさを抱いていた。
本人は、もちろんそんなつもりはない。自分がいかに石狩教授を尊敬していて、石狩教授についていけば、間違いないということを言いたいのだろうが、麻美としては、
――なんて、情けない人なのかしら? それにしても、教授にまでなった夫にここまで言わせる石狩教授というのは、どんな人なのかしら?
と感じるのも無理もないことだった。
麻美は石狩教授に近づいた。
石狩教授のことは、夫から散々聞かされているので、どうしても贔屓目に見てしまう。しかも、贔屓目に見た感覚と彼の雰囲気がピッタリ合致してしまったのだから溜まらない。それまで一目惚れをしたことのない麻美が惹かれたのも無理もないことだった。
麻美は、最初に感じた石狩教授のイメージは百パーセントというよりも、百二十パーセントと言ってもいいくらいで、少々のマイナス要因があっても、まだ百パーセント以上だったのだ。
そんな麻美を石狩教授はどんな目で見ていたのだろう?
奥さんが家を出ていったくらいなので、麻美が感じているような思い以外の一面を彼は持っているに違いない。
いや、麻美も感じている部分なのかも知れないが、一目惚れしてしまったことで、
「痘痕もエクボ」
に変わってしまったのだろう。
もちろん、麻美も石狩教授もそんなことに気づいていない。奥さんが出て行ったことに関して最初の頃は少しショックが残っていた石狩教授だったが、すぐに奥さんのことを忘れてしまっているようだった。
そうでなければいくら無神経でデリカシーのなさが目立つとはいえ、自分の家の寝室に、不倫相手を招き入れるはずはない。招き入れることで自分の中にあるS性をさらに湧きたてようというのだろうか。
麻美はそれ以外のことを考えられなかった。
麻美は石狩教授の寝室で、何度愛されたことだろう。
蹂躙もされたし、拘束もされた。そのたび、二人の興奮は最高潮に達し、
「君は最高だ」
という言葉を一点の曇りもなく、信じることができた麻美だった。
「嬉しいわ」
抱き着くことが麻美は一番の癒しだった。
――本当は、これを求めていたはずなのに――
すっかりSの石狩教授に自分のM性を引き出されてしまった麻美は、恥ずかしさを感じながら癒しを受けていることに大満足だった。
――このまま時間が止まってくれればいいのに――
と、あまりにもベタだと思いながらも、口から出そうになるのを必死に抑えていた。
そんな麻美の顔を覗き込んでニッコリと笑う石狩教授を見て、
――この人は、私の考えていることが分かるんだわ――
と感じ、悦に入っている麻美だった。
しかし、石狩教授は、他の人に比べて相手の考えていることが分かる人だった。持って生まれた性格なのだろうが、そのことに気づいたのは、石狩教授が小学生の頃だった。
他の人にも同じ能力があると思っていたが、実際にはそうではなかった。
そのため石狩少年のことを、友達は、
「あいつは、自分ができることは皆にもできると思っているようだ」
として、あまり彼に近寄る人はいなかった。
下手に近寄って、分かっていないことを叱責されるのを嫌ったからだ。クラスに一人くらいそんな人はいるが、苛めの対象になったり、苛められなくても、無視されるくらいのことはあるだろう。
石狩少年も、そのことで悩んでいた。中学に入学する頃には、大体のことが理解できるようになっていたが、その感覚が将来学者を目指すきっかけになったのだから、分からないものである。
この性格は遺伝するもののようだ。
息子の健一にも同じところがあり、子供の頃には結構人間関係に苦労したようだ。中学に入って、父親が昔考えていたことが分かったのか、そのおかげで、自分も学者を目指すようになった。
ただ、父親とは違う形の学者になりたいと思ったようだが、その理由は、自分でも理解していないようだった。
石狩教授が行方不明になったのは、麻美と最後に愛し合ってから一週間後だった。最初は、誰も石狩教授が行方不明になったということに気づく人はいなかった。屋敷には身の回りの世話をする人がいたのだが、
「ちょっと出張に出るので、二週間ほど留守にします。その間、自由にされていてもいいですので、いい機会ですから、お宅でゆっくりされたらどうですか? もちろん、その間の給料はお支払いします」
というと、
「旦那様、それはありがたいことです。ではお言葉に甘えまして、二週間ほどお暇をいただきますね」
「ええ、どうぞゆっくりされてください」
誰もその言葉に疑いを抱く人はいなかった。
教授は年に何度か出張があった。学会への出席などがほとんどで、出かけたら、二週間はおろか、一か月留守にすることもあったくらいだ。
二週間が経ってから皆が帰ってきても、少しの間、誰もおかしいということに気づかなかった。四日ほど経って、さすがに誰かが、
「ちょっとおかしいんじゃないか?」
ということで、研究所に問い合わせてみると、その時初めて教授の失踪が明らかになった。
元々、出張というのも真っ赤なウソで、どうして教授がそんなウソをついてまで屋敷から皆を遠ざけたのか分からなかった。一日、二日なら分かるのだが、二週間というのは、今までにはなかったことだった。
二週間という期間、屋敷は誰もいなかったわりには、綺麗なものだった。誰かが毎日掃除していたような感じなので、教授がいなくなったのは、二週間のうちの後半ではないかということは明らかなようだった。
その間一人で屋敷の中で何をしていたというのだろう?
失踪は最初から計画されていたことなのか、それとも突発的に起こったことなのか。突発的なことであれば、何かの犯罪に巻き込まれたとも考えられる。警察も、事件と事故の両面から捜査するようで、簡単には見つけ出すことはできない雰囲気が漂っていた。
奥さんと健一は実家から戻ってきた。
奥さんとしては、戻ってきたというよりも、連絡を受けて、
「呼び戻された」
と言った方がいいかも知れない。
「夫はどうなったんですか?」
警察の人に聞いてみたが、
「今のところ捜査中です」
というだけで、ハッキリとしたことは分からない。
奥さんとしても、とりあえず聞いてみただけで、教授が無事でいようと、何かに巻き込まれて失踪したのであっても、どちらでもいいように思えていたのである。
まさに他人事だったが、自分がここまで無神経になれるものかと奥さん自身も信じられないと思っていた。元々嫉妬深い方であるのは自分でも分かっていた。しかし、相手を疑うことをほとんどしてこなかった奥さんにとって、夫が不倫をしているという事実を知った時、許せないという気持ちよりも、何がどうなったのか分からないという思いが、感覚をマヒさせたようだ。
感覚のマヒがそのまま嫉妬に繋がったわけではない。実際に自分の中では嫉妬しているという意識はなかった。自分が孤立したという意識はあったが、寂しさはあまり感じなかった。
そんな時、相談相手は秋田教授だった。
秋田教授も、自分の奥さんの様子がどこか変であることには気づいていたのだが、どこが違うのか、正確には分からずに、悩んでいた。そんな時、石狩夫人の様子を見ていて、
――僕と同じような悩みを持っているんじゃないか?
と感じたことで、いろいろ話をするようになった。
話を聞いてあげているうちに、石狩夫人の感覚がマヒしていることに気が付いた。
「あの時は、魔が差したんだ」
と後から振り返った秋田教授は感じたようだが、石狩夫人の孤立した雰囲気に呑まれてしまったと言っても過言ではないだろう。
石狩夫人の感覚がマヒしている様子が乗り移ったのか、秋田教授には罪悪感が薄れていくのを感じた。
――どうせ、妻だって好きなことをしているんだ――
という思いが強い。
二人の気持ちはドーナツのような空洞状態だった。表では愛し合っているような感覚でいるが、実際には中身は何もない。感覚がマヒしているというのは、そういうことだったのだ。
お互いに自分の配偶者が勝手なことをしていて、その態度に対してのやりきれない気持ちを誰にぶつけていいのか分からない中、結果としてお互いに相手を交換してのW不倫、まさに泥沼と言ってもいいのだが、皆孤独を抱えながら、実際には寂しさから結びついたわけではない。本当であれば、すぐに瓦解しても不思議はなかった。
しかし、瓦解しなかったことで、今度は本当に愛し合っている二人の結び付きよりも別の意味で離れられなくなった。惰性と言ってしまえばそのままなのだろうが、離れることで自分に寂しさがよみがえってくることを、全員が恐怖に感じていたのだ。
――負と負の連鎖で結びついている関係――
まさしく、腐れ縁とはこのことなのかも知れない。
石狩教授がいなくなった後の自室を、警察はくまなく探したが、そこには遺書のようなものは発見されなかった。石狩夫人も彼の部屋を探してみたが、失踪に関わることは何も発見できなかった。
警察の捜査は、あくまでも「遺書」の存在を捜査することであって、少々のプライベートなことは、事件と直接関係がなければ、ほとんど無視していたと言ってもいい。
奥さんの方も、感覚がマヒした状態で探すのだから、ほとんどが上の空。まだ警察の捜査の方が真剣だったと言ってもいい。
結局、この部屋からは何も発見されず、
「原因不明の失踪」
ということで、失踪届を提出し、七年経って、正式に死亡をなったのだ。
石狩夫人は、秋田教授にそばにいてほしかった。
しかし、秋田教授は石狩教授が行方不明になった時から、石狩夫人の接触を拒み続けてきた。
石狩夫人は、孤立と寂しさに苛まれ、精神異常の状態に追い込まれ、しばらく入院を余儀なくされたが、退院後は実家に戻り、実家で生活をしていた。
健一はちょうどその頃、研究所への入所が決まっていて、もう母親の助けはいらない状態だった。
研究所に入所し、落ち着いてから今までのことをいろいろ思い出していた。
父親が失踪し、五年後、秋田教授が急死、七年後父親の死亡が法律上確定し、母親も実家に戻ってしまった。
波乱万丈の人生であったが、あの屋敷だけは売却せずに残っている。何を隠そう、健一が住んでいたのだ。
健一は、自分が父親と同じように研究員になったことで、父がどのように考えていたのかが知りたくなった。屋敷の中でも、掃除以外は何もしていない父の部屋に入り、いろいろ机の中や書棚を物色してみた。
その中に父の日記が隠されているのを発見した。
机の中が二重底になっていて、その下段に隠してあったのだ。母親はまだしも、警察が見逃すはずもない場所である。
その内容を見て、健一が愕然とした。
そこには自分がいずれ失踪する計画であること、そして秋田教授が心臓麻痺で死んでしまうことなどが書かれていた。
どうして警察がその時に不審に思わなかったのかというと、自分の失踪以外は、未来に起こることであり、あたかもフィクションのような書かれ方をしていたからだ。しかも実名ではなく、架空の名前を使っていた。
日記に架空の名前で、しかも未来のことが書かれているなど理解できない警察には、それは空想小説にしか見えなかったことだろう。遺書を中心に探していた警察が、これを意識するはずもなかったはずだ。
しかし、これも石狩教授の計算だった。
息子がいずれこれを発見するだろうと思っていたのか、最後に、
「息子に捧げる」
と書かれていた。
本文の内容から、息子など一切出てこなかったので、最後の一文はいかにも異様に映ったことだろう。だからこそ、、余計に架空の話だと思って相手にしなかったに違いない。
母親にしても同じことだ。
もし、日記を見ていたとしても、現実主義の母親には、架空の話に見えた時点で、日記を閉じたに違いない。健一にはその時の光景が目に浮かんできそうで、それを想像していた父が、どこかでほくそ笑んでいるのが分かるようで、おかしな気分になっていた。
これを見た時、
「これが父の本心だったのか?」
と感じたが、読み終わって冷静になると、どこか納得のいかないところがあった。
デリケートな部分を秘めているこの日記には、少しでも納得のいかないところがあれば、信憑性はかなり下がってしまうと健一は感じていた。
そのため、日記のことは頭の片隅に置いておきながら、納得のいかないことが解決しそうに感じた時、再度日記を見ようと思ったのだ。
しばらくしてから秋田教授の息子が入所してきた。
彼は父親の死について、何も疑っていなかった。しかし、母親が見舞金と称した「保険」を受け取ったという事実を聞いた時、健一は、
「父親の日記」
を思い出したが、まだ納得のいくところまで来てはいなかった。
秋田研究員は父親の死について、何ら疑問を抱いていなかったのに、健一の言葉を聞くと、今度は自分からいろいろと調べ始めた。
「先生は、以前この研究所にいた釧路睦夫という官僚をご存じですか?」
といきなり聞かれてビックリした。
なぜなら、その名前が父の残した日記に書かれていたからである。
これを聞いた時、さらに納得できないことがまたしても増えてしまったようで、
――余計なことをしやがって――
と、釧路の名前を口にした秋田研究員を忌々しく思えたほどだった。
父の日記に書かれていたのは、秋田教授が心臓麻痺で死ぬことが分かっていたようだったが、本当に死んでしまったのかということが疑問符で書かれていた。
しかも、死に関わっている人が他にもいると書かれていたが、その人は秋田教授が死んでしまうことで得をする人だった。
「一歩間違えると、殺されるかも知れない。そのために『死』という先手を打つのだ」
と書かれていた。
「殺されるかも知れないのに、『死』という先手を打つというのはどういうことだ?」
そこに欺瞞が隠されているのではないかと考えるのも不思議のないことだ。
特に心臓麻痺ということであれば、いくらでも細工ができるのではないかと思ったのは、健一のような研究員だったからである。
――ということは、秋田教授の死には、何か他に秘密が隠されていて、父の失踪にも大きく関わっているのかも知れない――
そう思うと、自分が行方不明になってから、秋田教授が死ぬまでの五年間、いや、計画から考えると、健一がこの日記を発見するまでの間、石狩教授の壮大な計画が形にはなっていないまでも、漠然と見えてきたのだった。
しかし、健一がこの日記を発見してからどう対応するかによって、せっかくの計画もどちらに転ぶかわからないはずだ。せっかく長い年月をかけて積み重ねてきたものをいかに完結させるかを考えると、何かが足りないような気がする。
――そうだ。失踪したお父さんの存在だ――
石狩教授は、法律上では死んでしまったことになっているだけで、実際に死んだわけではない。しかも、秋田教授の心臓麻痺にも疑問が満載である。そう思うと、最後の大団円は、主役である二人の登場が待ち望まれるのではないかと思えてきた。
石狩教授の書き残した日記には、失踪する前のことは、完全な日記だった。
毎日のことが克明に描かれている。そこには、麻美の話も赤裸々に描かれていて、読んでいて顔が真っ赤になってしまいそうだった。
「お父さんは何を考えていたんだ」
息子としては、母親が可愛そうで仕方がなかったが、父の日記を読んでいるうちに、母も秋田教授と不倫をしていることが分かってきた。
それは、なるべく暈かして書かれていたので、よほど注意深く読まないと分からないほどだった。
「お母さんもお母さんだ。これなら、精神に異常をきたしても仕方がない」
と思い、母親の弱さが招いた悲劇にしか思えなかった。
要するに母親の場合は、
「自業自得」
にしか思えなかったのだ。
だが、ここで出てくる政治家の釧路睦夫という名前、最初に出てきてから、しばらくその名前はなかったが、ある日をきっかけに頻繁に出てくるようになった。
それが秋田教授と母が不倫を始めた時期だったのだ。
これも注意深く見なければ分からない。
しかも巧妙に書かれていて、母親には分からないが、息子である健一にだけは分かるように書かれていた。
「やはり血の繋がりが関係しているんだろうか?」
と、考えさせられた健一だった。
それは、医学を志すものではないと分からないようになっていた。同じ医学を志す息子にとって、暗号にも見えるこの手紙を解読することなど、朝飯前のことだった。
そこに書かれていた内容は、大きく二つに分かれていた。
一つは、秋田教授が不治の病に侵されていて、当時の医学ではとても治すことのできないものだという苦悩が書かれていた。
治すには、未来に行って不治の病ではない時代から、特効薬を手に入れるしか手はなかった。その時代では高価すぎて手には入らないが、過去のお金を持って行けば、闇で高価に取引ができた。金銭的には問題ないのだが、それをしてしまうと、自分が犯罪者になってしまう。そのため、秋田教授の病を治し、自分が失踪したことにして、ほとぼりが冷めた頃に、今度は秋田教授が心臓麻痺で死んだことにする。
遺体は未来において「ダミー」を手に入れれば、簡単に作ることができた。ここまで計算してのことだった。
もちろん、またほとぼりが冷めれば、子供たちの目の前に戻ってくることになるのだが、すぐには無理だという。
ここから後半になるのだが、失踪の理由の前半が「認められる理由」になるのだろうが、後半は、
「果たして、許されることなのか?」
という思いが、石狩教授の中にあったという。
健一もウスウス感じていたことだが、石狩教授と麻美の不倫、そして、秋田教授と石狩夫人の不倫というW不倫が、この計画の原因になったというのだ。
元々、最初に不倫をしたのは、秋田教授と石狩夫人だったという。
石狩夫人は、猜疑心が強く、しかもプライドの高さはかなりのものだった。息子の健一も、嫌悪感をあらわにし、母親だと認められないと何度感じたことだろう。
石狩教授は自分がそんな妻と結婚したことを、最初から後悔していた。
石狩教授の先祖は華族であったが、夫人の先祖も同じ華族であった。
同じ華族でも、夫人の方は親から英才教育を受け、恥ずかしくないような娘に育てられた。
しかし、石狩教授の方は、長男ではなかったので、英才教育のようなものはなかった。しかも没落華族の末裔では、英才教育などあったものではない。夫人の方の家庭の方が、まだまだ過去の栄光にしがみついていたのかも知れない。
さらに、夫人の性格が気の強いところもあり、結婚前はお嬢様の仮面をかぶっていたのだ。
しかし、結婚してからというもの、その本性を剥き出しにし、家の中での態度が大きくなってきた。
ちょうどその頃、お腹の中には健一がいた。
二人の結婚は三十歳を過ぎていたこともあって、初産としてはギリギリだったと言ってもよかった。
子供が生まれてから、完全に結婚前と性格が変わってしまった。嫉妬深く、猜疑心が強い。石狩教授は子供ができてしまったことで、離婚もできなくなり、精神的には窮地に追い込まれていた。
大学で親交の深い秋田教授と、家族ぐるみでの付き合いが始まったのは、ちょうどその頃だった。
石狩教授は、麻美を見て完全に一目惚れだった。そのことを石狩夫人も分かっていたのだ。
石狩夫人は、そんな夫に対して、愛想を尽かしていた。今度は目の前にいる秋田教授の存在が気になり始めた。石狩教授は夫人のことなど、もうどうでもいいと思っていることもあったので、夫人も行動しやすかった。
秋田教授を誘惑することはそれほど難しくはなかった。
秋田教授も、実は麻美と結婚して少し後悔していたのだ。
こちらがいくら愛情を注いでも、何を考えているのか分からないような態度を取る麻美を見て、
――まるで仮面夫婦じゃないか――
と、考え始めていた。
だからといって、離婚までは考えていない。離婚しようと思うほど、秋田教授は肝が据わっていなかったのだ。
秋田教授が石狩夫人の張り巡らした糸に引っかかるのは、造作もないことだった。
しかも、嵌り込んだら抜けられなくなったことで、研究以外のことには、何も感じなくなっていた。
秋田教授の研究が飛躍的に向上したのは、その頃からだった。
研究が一段落するのが、それから五年後だった。
その間に、麻美に子供ができた。まさか、その子供も研究員になるなど想像もしていなかったのだろうが、秋田教授の研究が実を結ぶことになったのは、息子が小学生の頃だった。
そして、秋田教授の心臓麻痺による突然の死、石狩教授の失踪に続いてセンセーショナルな出来事が続いた研究所だったが、秋田教授の死が、ただの心臓麻痺だとして片づけられると、次第に二人の話題が出ることはなくなってしまった。
秋田教授が存命中は、石狩教授の話題も時々出ていたが、二人ともいなくなると、まるで二人がこの研究所にいたこと自体が否定されたような雰囲気になっていた。
手紙には、そこまで書かれていたのだ。
実際にその内容は事実であり、まるで見ていたような内容だった。少なくとも石狩教授が消えた時はもっと前のことだったので、石狩教授が失踪したことで、その後の未来がこの手紙の通りに展開した。
つまりは、失踪の瞬間から、未来は確定していたのである。
そして、こう結ばれている。
「私の失踪、そして秋田教授の心臓麻痺は、秋田教授の不治の病という、どうしようもない現実を何とかするため、そして、人間の性格や運命といった、その人に決められた運命を変えることができるかという発想でもあった。私は、この二つを天秤にかけてみた。どちらが重いのか、比較にならないもののはずなのに……。しかし、それは同じ次元で考えた時のことだ。次元の違う天秤にかければどうなるか? 私は答えを見つけることになるだろう。息子の胸に天秤が見える。それが答えなのかも知れない……」
二人の計画は、そのまま息子たちに受け継がれた。
麻美と石狩夫人は、今は落ち着いている。
過去のことを清算しようとは思っていないようだが、二人が落ち着くであろうことも、石狩教授の手紙には予言されていた。
――これも、次元の違う天秤の影響なのだろうか?
二人は、しばらくしてこの世界に戻ってきた。
誰もが二人が消えていたことなど知らなかったように、記憶が操作されていたのだ。
そして、秋田教授は石狩夫人と、石狩教授は麻美と新しい生活をスタートさせた。
いや、それも最初からそうであったかのように自然な形でである。
「俺たちの存在って、いったい何なんだ?」
健一は、研究所の奥で秋田助手を遠くから眺めた。
その姿に気が付いた秋田助手は、
「お兄さん」
と言って、手を振りながら、健一に向かって歩いてくる。
弟は、子供のなかった秋田家に、養子となった。それもすべてが公認のこと、お兄さんと大きな声で呼ばれても、誰も不思議には思わない。
「今日は大変だったね?」
「ああ、お父さんが失踪して死亡ということになったのに、今また戻ってきたのだから、俺も弁護士として、いろいろ大変なんだよ」
本当は、タイムパラドックスに違反したことで、父は起訴されていた。研究所での仕事は表の顔、裏では、タイム警察の弁護士をしていた。健一は、胸の弁護士バッチを指で弄るのが癖になってしまっていた……。
( 完 )
次元を架ける天秤 森本 晃次 @kakku
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