第2話 堂々巡りと副作用
タイムマシンの研究が進んでからというもの、誰もがタイムマシンへの興味に胸を躍らせていた。しかし、そんな時代から遡ること五十年、この世界にはタイムマシンはおろか、ロボットらしきものも、ほとんどいなかった。
簡単な頭脳を持ったロボットと呼んでもいいかも知れないものは存在したが、その時代の人でも、
「こんなものロボットと呼べるものでもないよな」
というほど、話題の割には、そこまで注目されてはいなかった。
それに比べれば、石狩教授が失踪した時代は、ロボットに対しての興味は旺盛で、研究する側も、民間の興味に答えなければいけないというプレッシャーを感じながら、開発をしていた。
中には、ロボットに、
「まずは、自分と同じような開発能力を持ったロボットを作ることで、自分の仕事を分散させたい」
と考えていた人もいた。
ロボット開発において、自分たちのような開発に突出したロボットを作る方が、一般市民レベルのロボットを作るよりもよほど難しかったのだ。
すべてに平均的で、いろいろな発想を抱くことのできる人間が、開発するには一番困難なものだった。
「何を考えているか分からない」
というのが人間で、人間に近いロボットを作るということは、そういう汎用性に長けたロボットを作ることになる。そうでなければ、今の人間とロボットの共存など、ありえないと思われていた。
それは、
「成長する頭脳」
を作ることであった。
人間とロボットの一番の違いは、
「肉体的な成長」
である。
しかし、精神的な成長であれば、肉体的な成長を実現するよりはるかに簡単なことである。
そのことは研究員もよく分かっているのだが、研究する方も人間であり、体力的にも精神的にも限界がある。
その点、ロボットは疲れを知らない。
命令してしまえば、いくらでも寝ることもなく活動する。もちろん、定期的に休ませることも必要だが、人間のように、一日の三分の一を寝ていなければいけないようなことはない。
彼らであれば、精神的なムラや起伏もなく、開発に勤しむことができる。
「元々、ロボットというものは、そういう意図で開発されたものではないのだろうか?」
と言われている。
しかも彼らの中には、
「俺たちが最高のロボットなんだ」
という意識が埋め込まれている。
それは、研究員である教授たちが密かに埋め込んだもので、彼らの一種のプライドのようなものだった。
しかし、それは彼らが開発するロボットがいかに複雑であっても、
「自分たちの方が優位なのだ」
という意識を持たせることで、開発に対しての疑念を抱かないようにすることに貢献した。ロボットの世界でも人間のように優劣をしっかりとつけておかないと、混乱をきたしたり、まったく同じものばかりできてしまっては、集団意識を持った時、人間に対抗するにあまりあるほどの力を有することになり、人間を支配する気持ちを持ちかねなくなってしまう。
百年以上前に考えられた
「ロボット工学三原則」
というものがあるが、この時代になっても、その理論を完全に掌握したロボットを作り上げることは不可能なのだ。
「人類にとっての永遠のテーマなのかも知れない」
とも言われるようになってきた。
まだ安全装置としての三原則が埋め込まれる前に、見切り発車の形で開発されたロボット。もちろん、研究員が慎重派だったことは言うまでもないのだが、それでも国家の決定事項としてロボット開発のプロジェクトが学者の思惑と違ったところでスタートしてしまった。
しかも、同じ動きが各国で始まったので、競争に巻き込まれた国は悲劇だった。
当然、各国の研究員も我が国と同じように反対派が主流だったが、国家の命令とあれば逆らえない。不本意ながらに開発するのだが、しかもそれは、
「他国に負けない開発」
という命題もあった。
他の国がどんな開発をしているかなど、そう簡単に分かるはずもない。当時の国際法では禁止されているスパイ行為やハッキングが横行する。しかも国家レベルでのしのぎ合いなのだから、手に負えない。
「困ったことだが、どうしようもない」
我が国の研究所では、本当はロボット研究にしても、タイムマシンの研究にしても、本来の目的は、
「不治の病をこの世からなくすこと」
だったのだ。
「医学と科学の調和が恒久平和をもたらす」
この思いは、我が国だけではなく、主要先進国の研究所の以遠のテーマとされていた。
ロボット研究においては秋田教授が第一人者だった。そして、医学部門での研究の第一人者は、石狩教授だった。
二人は、結構仲がよかった。
年齢的には少し石狩教授の方が上で、ちょうど今の息子たちと同じくらいの年齢差だった。
年齢差があるとはいえ、石狩教授は秋田教授を尊敬していたし、秋田教授も石狩教授に臆するところはまったくなかった。
二人は同じ研究所でそれぞれの研究に勤しんでいたので、しばらくはお互いの存在を意識していなかった。もちろん、それぞれ、
「第一人者がいる」
という話を聞かされていたので、興味を抱いていた。
最初に訪れたのは秋田教授の方で、少し時間ができたことで、思い切って大先輩である石狩教授の研究室を訪れた。
「初めまして、秋田と申します。一度石狩教授とお目にかかってみたくてお伺いしました」
と言って、恐縮している秋田教授を見た石狩教授は少し興奮気味に、
「これはこれは秋田教授。私もあなたと会ってみたかったんですよ。わざわざご足労いただいて、恐縮です」
そういって、ソファーに座るように促した
秋田教授の緊張も次第に薄れていき、
「ありがとうございます。気さくな方で安心しました」
秋田はじっと石狩の目を見ながら、ゆっくりと腰かけた。
「コーヒーを入れよう」
そういって、コーヒーを入れてくれる手先も慣れたものだった。きっと研究中にコーヒーが飲みたくなると、自分で作って飲んでいるんだろう。その姿が目に浮かぶようだった。
秋田教授の方は、助手と二人三脚のやり方なので、研究もいつも二人、休憩の時も、助手が入れてくれたコーヒーを飲むので、自分で作ることも珍しかった。ただ、いつも助手と一緒ということは、自分のペースでだけ動くことができないのが少し不満でもあった。今ここで石狩教授の姿を見て、
「羨ましい」
と思ったのは、本音だった。
「なかなかおいしいですね」
助手が入れてくれたコーヒーとはまた違った趣きがあり、コクの深さが石狩教授の性格を表しているようだった。
「石狩教授はいつも一人で研究をされているようですが、研究についての検証はどうされているんですか?」
「それは助手がやってくれているけど?」
「僕の場合は、研究も検証もずっと助手と一緒なんですよ。だから自分で作り上げたものを自分で検証するので、次へのステップにも容易に行けると自分では思っているんですが、石狩教授は助手に任せていていいんですか?」
石狩教授はきょとんとしている。
言っている意味が分かっていないのか、それとも、分かっていて、理解できないだけのことなのか、秋田教授には分かりかねていた。
石狩教授は話してくれた。
「そのあたりは大丈夫さ。僕は助手を信頼しているからね。たぶん、君のいいたいのは、自分の研究の検証を見なくて、次のステップに行くことができるかということだろう?」
「ええ、石狩教授は特に医学関係を研究されているのだから、検証や臨床に関しては、しっかりしておかなければ、先に進めない気がするんです。僕は医学に関しては素人なので恐縮ですが」
「それは大丈夫。検証を任せていると言っても、それはプロセスの問題で、最後の結果に関してはしっかりと見ているからね」
「そうなんですね」
「君もそうだと思うけど、研究をするということは、検証に回す時点で、自分の中で検証結果というものを頭に描いているはずだと思うんだよ。そうじゃないと研究しているとは言えないんじゃないかな?」
「ええ、もちろんそうです。でも、検証にもプロセスがあって、そこで生まれる副作用なども、医学に関しては特にあるんじゃないかと思うんですが、いかがですか?」
「君は医学に関して素人だと言ったけど、なかなか分かっているね。そうなんだ、医学を志す上で、避けては通れないものが、この『副作用』という問題なんだよ」
「僕の研究はロボット工学なんですが、こちらも、副作用で悩んでいます。その副作用というのが、ロボットが陥ってしまう『堂々巡り』ということなんですよ」
「どういうことなんだい?」
「今のロボット研究には、『超えてはいけない壁のようなものがある』と言われていることがあるんですが、それがこの『堂々巡り』の問題なんです」
「うむ」
「今のロボットは、やっと簡単な電子頭脳を有することのできるものはできています。それは今から数十年前から組み込まれているものなんですが、正直、ほとんど進化していない状態です。そこに絡んでくるのが、この『堂々巡り』の問題で、その問題に陥ってしまうと、ロボットは動かなくなってしまうんですよ」
「それは三原則の問題?」
「ええ、教授はさすがにご存じのようですね。三原則には第一条から第三条まで、完全な優位性を持った条文なんですよ。一条があるため、二条、三条はそれを超えることはできない」
「第二条の命令がいかに強いものであっても、第一条に抵触するようならロボットは従うことをしない。でも、第二条に従わないと、他の人に危害が加わるなどという場合もあると思うんだよ。そういう時にロボットはどうするんだろうね?」
「またこういうのもあります。第二条の命令が曖昧なもので、その命令にしたがえば、ロボット自身の危険に見舞われる。だけど本当は命令は絶対のものであったのに、人間が優しかったがゆえに命令に『できればでいい』などという曖昧で、猶予を与えるような言い方をした。しかし、実際にはロボットがその行為をしてもらわなければ、人間に危害が加わるという時なんですよ」
「その時は、人間は自分が危険に晒されるのを覚悟で、ロボットにそのことを理解させる必要がある。まさに命がけでね」
「ええ、その通りです。それだけ、ロボットに対しての開発には、いろいろな場面をこれでもかというほど検証しないと先には進めないんですよ」
「なるほど、分かりました。三原則というものは絶対のもので、揺るぎないものだとすれば、それも致し方のないことなんだね」
「その通りです。だから、もっと人間に近い研究をされている教授なら、余計に検証はしっかりしないといけないと思ったので、余計なことを申してしまい、申し訳ありませんでした」
「いやいや、いいんだよ。君の言っていることは正論だよ。でもね、私は少し違うことを思っている」
「というと?」
「さっき君が言った『副作用』という問題。僕も最初は助手と一緒に検証していたんだけど、どうしても分からないところがあった。でも、プロセスを助手に任せて、結果だけを検証するようにすると、それまでしっくりこずに違和感があった検証結果に、一筋の光明が生まれたんだ。それを口で説明することは難しいが、分からないということはしっくり来ていないということで、そんな時は、目先を変えてみるのが一番なんじゃないかって思うようになったんだ」
そういって、石狩教授はコーヒーを半分飲み干した。
「それで目先を変えたことで、何か見えてくるものがありましたが?」
「そう簡単にはなかなか見えてくるものではないよ。元々の研究があって、そこに副作用が伴ってくる。副作用と言っても、いいものもあれば悪いものもある。決して悪いものばかりではないだ。逆に元々の研究もいいものだけとは限らない。自分が望む望まないに関係なくしなければいけないものもあるんだ」
「それは上からの命令という意味ですか?」
「それもあるだろうけど、緊急を要する時だね。人が目の前で死を迎えようとしている。放っておけば確実に死んでしまうという時だね。そんな時は、検証が完全に終わっていないものに関しても使用してしまうことがある。当然、副作用など考えていない場合だね」
「でも、それは仕方のないことではないんですか? 人が目の前で死のうとしているのを黙って見逃すのは、罪以外の何物でもないような気がしますけど?」
「果たしてそうだろうか? 私は別に特定の宗教を信じているわけではないけど、人には寿命というものがあるんだ。自然の摂理に近いものだね。それを狂わすことが怖くなることだってあるんだよ。特に目の前に死を迎えようとしている人がいるという現実に面と向かった時などはね」
「ええ、でも自然の摂理というと?」
「自然界というのは、弱肉強食なんだよ。生物はすべて栄養を摂らなければ生存することはできない。だから、弱い者は、強い者の餌になるんだよ。餌になった動物だって栄養を摂るために、さらに弱い動物を餌にする。逆に餌として食べた動物も、さらに強い動物から食われることになるんだよ」
「ええ」
「でも、動物の数は変わらないだろう? 一番強い動物だけが反映して、弱いものが餌になることで絶滅することはない。そこに循環が存在するのさ。一番強い動物は餌にならないからと言って増え続けても、今度は餌になる動物がいないのだから、待っているのは餓死しかないよね。そうなると、結局最後にはすべてが絶滅してしまうことになるんだ。絶滅しないために存在する循環こそが、自然の摂理と言えるのではないだろうか?」
「ということは、人にはすべて運命があって、本当はそこで死ぬはずの人を助けてしまうことが自然の摂理に逆らうことになるとお考えなんですか?」
「それは分からない。ひょっとすると、自分たちが延命させることも、その人にとっての運命の内なのかも知れないからね。人を助けるのが医学を志すものの使命であるため、目の前に死にそうな人がいれば助けてしまう。でも助かってから、本人や家族からお礼を言われたりすると、余計に自分がしたことが本当によかったことなのかって思えてならないんだ」
「分かります」
「しかも、副作用に関しての臨床試験が完全でなければ、いくらその時に助かったとしても、もし副作用が悪い形で表に出てくれば、どうなるというのか? そのままあの時、死を迎えさせてあげた方がよかったと思うかも知れない。それが僕たち医学者には耐えられないんだ」
苦悩に歪んだ石狩教授の顔は、誰にも見せたことのないもので、後にも先にもその時だけだったかも知れない。秋田教授は、
――石狩教授の本音を見た――
と感じたのだ。
自然の摂理の話は、秋田教授にも理解できた。
自分たちが研究している世界は、そのほとんどが架空の発想であり、漠然としたものでしかない。理論だけが先走ってしまい、掴みどころのないものなのだが、社会的にも産業としても、期待されていることは間違いない。
医学とは違う意味で注目される研究。秋田教授も、時々やりきれない気持ちになることがあったが、そのせいでかなりストレスが溜まっていた。石狩教授の苦悩も分かるだけに、お互いに気が合うものだと信じ、
――この人とだけは、本音で付き合うことができる。いや、本音で付き合わなければいけない人なんだ――
と思うようになっていた。
「副作用というのは一種類なんですか?」
ふと秋田教授は不思議な質問をした。
「どういうことなんだい?」
「薬による副作用というのはよく聞きますが、薬だけではなく、精神的なところでの副作用というのもあると聞いたことがあります。石狩教授の研究していることが精神的なことに関わっているかどうかは分かりませんが、教授はいかにお考えなのかと思ってですね」
「秋田教授はさすがに架空の発想を研究しておられるだけのことはある。私も副作用の話を研究員といろいろしましたが、精神的な副作用にまで言及した人はほとんどいませんでしたからね。確かに秋田教授の言われる通り、精神的な副作用も存在します。精神的な副作用は、まわりから見ると副作用というイメージはないかも知れません。精神的に参っていく過程であったりしますからね」
「それは、躁鬱症という意味ですか?」
「それもありますね。躁鬱症というのは、誰にでも陥る可能性のあるものなんです。なぜなら躁鬱症に起因する精神状態を、普段から潜在させているからなんですよ」
「潜在意識?」
「ええ、その通りですね。潜在意識というのは、かなり漠然とした表現なので、なかなか潜在意識という表現で会話されることはないと思いますが、夢という形のものを話題にする人は少なくないでしょう」
「確かに、夢というものは潜在意識が見せるものだって聞いたことがありますよ」
「ええ、よく言われることですね。私もその考えに間違いはないと思っていますよ。でも夢のメカニズムに関してはまだまだ解明されていることはないですから、いろいろな憶測も言われています。それでも、火のないところに煙は出ませんから、それなりの信憑性はあると思っています。もっとも、そう思わないと、考えが先に進まないからですね」
秋田教授も石狩教授との話に共鳴できるところはかなりあった。科学の研究も心理学や医学のメカニズムなくして成り立たないものだという持論があるので、石狩教授の話を他の人とは違う切り口で見ることができるのだった。
「僕は潜在意識というのを科学の分野から考えたことがありましたが、特にロボットのように電子頭脳を埋め込まれたこれからの自分が理想とするロボット、つまりは『成長するロボット』にとっては、『ロボット工学三原則』の埋め込みになるんだって思っています。三原則は、ロボットが人間に対しての法律のようなもので、決して破ってはいけない戒律なんですよ」
「それは、安全装置のためなんだね?」
「ええ、そうです。ロボットに頭脳を埋め込むということは、心を持つと、いかに残虐性を持つかも知れないという発想ですね」
「でも、それって本当は虚しいですよね」
「どういうことですか?」
「だって、ロボットというのは、『疑似人間』であったり、人間のできないことをロボットに補ってもらうという意味で、考える心を埋め込むという発想ですよね。結局は人間が楽をするためのもの。SFなどではそのせいでロボットが人間に反旗を翻し、人間を襲うようになる。だけど、人間もそれに対抗するロボットを作って、結局はロボット同士の戦いに持ち込もうとする。しかも、ロボットには完全な善悪の違いがあるわけですよね。そこまで来るとテーマは勧善懲悪ですよね。『正義は必ず勝つ』ということになる。でも、これって完全に焦点の差し替えですよ。悪いロボットだって最初から悪かったわけではない。何かの問題が発生して悪くなっただけなんですよね。人間のエゴが作り出したと言っても過言ではない。そう思うと虚しいよね」
「……」
「人間だけに置き換えると、こんなことはありえないでだろう? 悪いロボットを自分の子供と考えた時、反抗期にぐれてしまって不良化してしまう。それを正義の味方がやってきて、勧善懲悪で懲らしめるなんて話、絶対に誰も見ませんよね。非難を浴びておしまいですよ。逆に人間に対してはできないことなので、架空世界のロボットに対して勧善懲悪を押し付ける。そして、そのおかげで見る人にはスカッとしたものを与え、ヒーローが生まれることになる。それって本当にいいんでだろうかね?」
「倫理や道徳という意味ではいいとは言えないでしょうね。でも、ロボット研究においては、そういう話を作ってもらってくれているおかげで、自分たちの研究にも役立てることができる。一種の『必要悪』なのかも知れませんね」
「医学の副作用という考え方も、同じ発想なのかも知れないんだ。小さくて影響がないものも副作用にはたくさんあります。この世にある薬のほとんどに副作用というものは存在するわけですからね。逆にいえば、完全に人間の身体に合致するものでなければ、副作用というものは免れないと言えるのではないだろうか?」
「精神的な面もですか?」
「精神的なものは逆ではないかと思っているんですよ。精神的な副作用はすべての感情に含まれていて、人間の考え方に合致してしまうと、さらに感情が膨らんできて、表に出てきてしまう。それを副作用とするならば、精神的な副作用は、稀なことなのかも知れないですね」
「そこなんですよ。ロボット研究においても、そのほとんどが架空のことなので、事例があるわけではありません。だから、目に見えているものだけが先行してしまい、見えていないものを考えるということは、果てしなく無限に近いものを追いかけてしまうことになる。それが堂々巡りであって、ロボットにおける副作用なんですよ」
秋田教授の口調は少し興奮気味だった。
石狩教授も会話をしていてツボに嵌ると、後で思い出しても思い出せないようなことを口走っていることも珍しくはない。後で指摘されて、
「俺がそんなことを?」
とビックリすることもあったが、冷静になって思い出すと、
「言ったかも知れないな」
と呟くこともあった。
その間はあっという間だったように本人は思っているが、その間の時間は本人が思っているよりも遥かに経っているものだった。
秋田教授の発想には、石狩教授についていけないものを感じていた。どうしても、自分が考えていることが架空の空想であるという発想に違いないからだ。大きな壁があったとしても、その壁は透明である。知らない人が見ると、そこにい壁があるなどと分からないだろう。
その壁を秋田教授は、結界だと思っている。
しかし、結界を感じているのは石狩教授も同じで、しかも先に感じていたのは石狩教授の方だった。
秋田教授はまさか石狩教授も結界を感じているとは思ってもいなかったが、石狩教授の方は、秋田教授が結界を感じていることを分かっていた。
そこに二人の間に優劣性が生まれていた。
石狩教授の方は、下に見下すような気持ちはなかったが、秋田教授の方は、明らかに相手を見上げて見ていた。そのことを二人とも分かっていたが、別に口にすることはなかった。
石狩教授は、二人の間のこの関係を悪い関係だとは思っていないし、上を見上げている秋田教授にしても、悪いとは思っていない。むしろ秋田教授の方とすれば、自分は上を見上げていても、見下ろされているわけではないので、ある意味では一番ありがたい関係にあると言ってもいいのではないだろうか。
秋田教授と石狩教授はすっかり仲良くなっていた。研究のことでいろいろ相談に乗ってもらうこともあった。
「まったく分野が違うのに、面白いものだね」
と石狩教授が言うと、
「いえいえ、そんなことはないですよ。お互いに共通点は多い。石狩教授も分かっておられるでしょう?」
と含み笑いを浮かべた秋田教授に、石狩教授も不敵な笑みを浮かべた。
二人の間の笑みは、ほとんどが、
「含み笑いを浮かべる秋田教授と、不敵な笑みを浮かべる石狩教授」
という構図が出来上がっていた。
それは、やはり二人の間に存在する、
「優劣な関係」
のたまものではないだろうか。
それでも、二人の間には結界が存在していた。結界というのはこの二人の間だけではなく、他の人にも存在する。
しかし、他の人は気づかない。この二人の間に存在するような透明の結界ではなく、本当の壁だからだ。
壁になっているということは、それ以上向こうを見ることができない。見えない部分は自分が感じることのできない部分なので、相手とは関係のないところだとして自分で納得してしまうことだろう。
納得できてしまうのだから、二人の間に結界が存在しているなどということを考えるよりも、よほど理解できるものであり、それ以上考える余地などない。だから、結界があっても、その存在に気づくことはないのだ。
この理屈は石狩教授には分かっていた。自分に結界があることも、他の人との間には、壁という意識のない結界が存在していることもである。
分かっているが結界の存在を必要以上に考えることはなかった。考えることがまったくの無駄だと分かったからだ。
無駄だというのは、考えてもまた同じところに帰ってくるという思いがあるからで、まるで結界という壁に当たって返される感覚だ。
超えることのできない壁にぶつかるだけ損だというものだ。
――人間には損をしてでも繰り返さなければいけないものがある――
という発想はあったが、結界に関してはその限りではないのだ。
秋田教授は完全に石狩教授の考えに陶酔していた。それも石狩教授の人間性によるものであることは言うまでもない。
石狩教授は、普段からあまりまわりの人と話すことはない。自分から話しかけるのが苦手なのだ。
相手から話しかけられると、本当に気さくに相手をする。いつも人が近づいてくるのを待っているのに、そのことに誰も気づかない。教授の権威がまるで後光のように眩しくて、近寄ることができない。
秋田教授は、そのことを分かっていた。秋田教授は、どちらかというと人と馴染むのは苦手だった。同じ考えの人であったり、会話を絶やさない話題性のある人間とであれば、いくらでも会話を続ける自信はあるが、大勢の中に溶け込むようなことは苦手で、いつも一人で酒を呑んでいるのが似合っていた。
秋田教授が石狩教授のところを訪れた時、石狩教授はすでに結婚していた。子供も生まれていたが、それがのちの健一であった。
「妻とは、幼馴染でね」
と初めて奥さんを紹介してくれた石狩教授の顔は微笑ましかった。
――この人がこんな顔をするなんて――
と思うほどで、さらに子供の顔を覗き込む時などは、本当にどこにでもいる父親をそのまま演じていた。
秋田教授は、石狩教授の家に何度も呼ばれて、よく家族同然の扱いを受け、夕食の団欒に付き合ったものだ。
「何もないですけど、たくさん召し上がってくださいね」
奥さんの手料理が、テーブルの上に所狭しと並んでいた。
「ありがとうございます」
と笑顔を向けると、今度は、
「じゃあ、まずは駆け付けの一杯」
と言って、石狩教授がビールを注いでくれた。
「秋田さんも、そろそろご結婚を考える年齢じゃないのかしら?」
と、無邪気な笑顔を秋田に向けて、奥さんは言った。
「いえいえ、僕はまだまだ研究員としたはこれからですから」
とは言いながら、最年少に近い形で教授になった秋田の研究員としての実力は、誰もが認めるものだった。
もちろん、そのことは石狩教授も、石狩夫人も分かっていることだろう。二人は照れながらそう言った秋田を見つめて、微笑んでいた。
それはまるで兄夫婦が、まだまだ未熟な弟を見るような表情で、暖かさが感じられる。ここではどんなに出世頭の人間でも、二人に掛かれば、
――未熟な弟――
だったのだ。
「秋田さんにいい人がいるんですけどね」
と、奥さんが奥から一枚のプレートを持ってきた。
それを開いてみると、和服の女性が写っている。明らかに見合い写真であった。
「この写真はね。近所の奥さんが持ってきてくださったんだけど、このお嬢さんに似合う男性がいないか、探してらっしゃったのね。地元の盟主のお嬢さんのようで、普通の男性では釣り合いが取れないということで、私のところに持ってきたのね」
なるほど、大学教授の奥さんであれば、旦那の知り合いも大学教授や、教授予備軍。相手にとって不足はないというところであろう。
写真を見る限り、清楚な感じのお嬢さんで、今まで女性を意識しても、自分から声を掛けることの苦手な秋田には、女性と付き合ったという経験は、ほとんどなかった。
秋田は、自分から行くのは苦手だが、相手から歩み寄ってくれるのは嬉しいことだった。別にずぼらというわけではないのだが、
――僕のことを慕ってくれているから、近づいてくれるんだ――
という思い込みがあった。
ある意味、恋愛にはまったくの素人と言ってもいい秋田だったが、こうやって家庭もしっかりしているという女性の写真を見せられると、眩しく感じられた。
――まんざらでもないな――
と秋田は感じたが、その様子を見た秋田教授と奥さんはどう思っただろう。少なくとも奥さんは、乗り気のようだった。
「私も、秋田さんが研究に没頭されていることは分かっているんだけど、研究というのも、奥さんが内助の功を示してこそうまくいくこともあるでしょう?」
そういって、意識的に石狩教授を見つめた。
見られた石狩教授は咳払いをしたが、ニッコリと笑って、悪い気はしていないようだった。
それでも、
「おいおい、いきなり話を進めるようなことはしない方がいいぞ」
と石狩教授は言うと、
「あら、そうかしら? 秋田さんも、まんざらでもないってお顔されているわよ」
と言って、微笑んだ。
「ええ、確かに、お二人ご夫婦を見ていると、結婚もいいかなって、僕も思います。微笑ましいというのか、本当に内助の功って大切なんじゃないかなって思うんですよ」
「そうでしょう?」
と言って、奥さんはしてやったりという表情をした。
教授はそれ以上何も言えなくなり、
「あなたは黙っていて」
という一言がダメ押しになったようだ。
奥さんは、堰を切ったように話し始めた。
「このお嬢さんを紹介してくれた奥さんというのが、今までこの界隈で結婚の斡旋を何十組と成功させてきた、いわゆる『結婚相談のプロ』のような奥さんで、最初はおせっかいと言われていたんだけど、次第に実績が上がってくると、近所ではまるで女神のように言われるようになってきたのよ。人間って面白いわね」
そういって、奥さんもビールを半分呑みほした。
ここからが奥さんの真骨頂のようだ。
「それでね。このお嬢さんというのが、地元の盟主のお嬢さんのわりに、決して世間知らずというわけでもないんですよ。花嫁修業としての習い事はもちろんのこと、スポーツでもテニスやダイビングなど、幅広く活動されているようで、そのおかげなのか、知り合いも幅広くおられるのよね。快活な女性ってお嫌い?」
「いえ、そんなことはないですよ。ただ、今まで自分のまわりにそういう女性がいなかったので、なかなか想像するのが難しいです」
「大丈夫よ。仲良くなれれば、すぐに馴染めるわよ。実は私もそのお嬢さんに会ってみたの。その時お話しながら頭に最初に浮かんできたのが、あなただったのよ」
奥さんの目は輝いていた。
「それは光栄ですね。僕のどこが印象として浮かんできたんでしょうね?」
「それはお嬢さんと面と向かわないと分からないことだったんだけど、あのお嬢さんなら、秋田さんのまだ表れていない可能性を引き出してくれそうな気がしたんです。しかも、今度は秋田さんを思い浮かべながら彼女を見ると、秋田さんも彼女の可能性を引きさせそうな気がしたんですよ」
「つまりは、お互いに相手の可能性を引き出せる可能性を持っているということだね?」
石狩教授が口を挟んだ。
この時は奥さんも、チャチャを入れることはなかった。
「ええ、その通りなのよ。あくまでも印象で感じたことなので、信じる信じないは、秋田さん次第ね」
というと、またしても石狩教授が、
「うちの妻がいうことは本当だよ。今のようなこういう顔をしている時の彼女が言っていることには信憑性が感じられるんだ」
と言っていた。
秋田教授も二人にこれだけ言われると、照れくさいという気持ちもあるが、信じないわけにはいかないだろう。
「実は私たちもお見合い結婚だったのよ」
と奥さんが照れくさそうに言った。
その横で、さらに照れくさそうにしている石狩教授は、いつも研究所で見ている存在感が薄れていくのを感じた。
――こんな夫婦もいいよな――
秋田は感じていた。
秋田も、研究している時は、まわりのことが見えなくなるほど集中しているが、研究所を離れてまで、没頭したいと思う方ではなかった。
――メリハリをつけなければ、できる研究も中途半端に終わってしまう――
と考えていたのだ。
メリハリをつけるための趣味も持っていた。
この趣味を知っているのは、研究所では石狩教授だけだろう。ただでさえ人との会話に入ることのない秋田のことなど、他の研究員誰もが気にするわけもなかったからだ。
「僕は学生の頃から、実はマンガを描くのが趣味だったんですよ」
「ほう、それは珍しい」
「何度かマンガ関係の新人賞に応募もしましたが、結局はダメでした」
「それなのに、どうして研究員になんかなったんだい?」
「僕の描くマンガは、SFが多かったんです。タイムマシンだったり、宇宙旅行だったり、惑星大戦争だったりと、壮大なものを勝手に想像し、勝手に描いてきた。僕は、『想像』じゃなく、『創造』だと思っていたんですよ」
「ということは、SFをサイエンス・フィクションではなく、サイエンス・ノンフィクションだと?」
「そうですね。実現できるはずのものを、僕がマンガで描くというのがマンガを描き続ける意義だったんですよ」
「それで、マンガだけではなく、『想像』の世界を、本当に『創造』してみたくなったというわけだね?」
「ええ、そうなんです。マンガを描きながらの勉強は辛かったですが、今から思えば楽しかったですね。責任を感じなくていいわけですからね」
「でも、責任のない目標ってどうなんだろうね?」
「僕はそれが夢というものだと思うんですが、今から思えば、夢を追いかける方が、こうやって研究員になって責任の下、研究に没頭する方が楽な気もします」
「君の言っていることには矛盾があるんじゃないかい?」
「確かにそうなんですが、僕は辛かったと言いましたが、嫌だったとは言っていないんですよ。嫌だったら、すぐにどちらかをやめていたでしょうね。それだけの選択肢はありましたからね」
「それでもやめなかったのは、君のいう『楽しかったこと』のおかげかな?」
「そうですね。僕が感じたのは、やっぱり、『想像』ではなく『創造』だという思いだったんですよ。その思いがあったからこそ、楽しかったんですよ」
「『創造』というのは、実現可能なものを、自らが作り出す。つまり先駆者(パイオニア)になるということだね?」
「その通りです。僕がマンガを描き始めたのも、何もないところから何かを作り出したいという思いがあったからです。それこどまさしく『創造』なんじゃないですか?」
「その気持ち、よく分かるよ。僕が研究員になった最初の意気込みも、君と同じ『創造』への憧れだったんだからね」
「教授と同じで光栄です」
「いやいや、その気持ちがあって、さらに努力が繋がることで、最年少での教授という地位を手に入れたという意味では、君は立派に功績を残したことになる。そして、君の研究の成果を待ち望んでいる人たちがたくさんいるのも確かなことなんだからね」
「それは教授にも言えることですよ。お互いに頑張ろうと思うのは、待っている人の存在を感じることができたからなんだって、僕は思うようになりました」
ここで話し疲れたのか、二人は少しトーンダウンした。
そのことに気づいたのか、
「そういえば、このお嬢さんも、マンガが好きだって言ってましたよ」
と奥さんが口を挟んだ。
「ほう、、それは面白い。同じ趣味を持っているというのは楽しみなことだ」
「さっき私が、秋田さんとお嬢さんがそれぞれお互いを成長させる力があるって言ったけど、同じ趣味を持っているということを聞いて、自分の感じたことに、いまさらながら信憑性を感じていますよ」
「僕もなんだか、そんな気がしてきました。奥さんが感じてくれたこと、大切にしたいって思いますよ」
「嬉しいわ。じゃあ、秋田さんもこのお話に乗り気だと思ってもいいのかしら?」
「ええ、よろしくお願いします」
この場の雰囲気というのもあったのだろうが、秋田はすっかりその気になっていた。
本当にその場の雰囲気だけであれば、一人になった時、
「どうしてあんなことを言ったんだろう?」
と、後悔の念に襲われるに違いなかったが、一人になっても、今度はワクワクした気持ちが湧き上がってくるのを感じ、
――こんな感覚今までにはなかったな――
と思うようになった。
彼女の写真が頭から離れなくなり、
「僕は、写真だけで女性を好きになってしまったのか?」
と思うほどになったのは、あの時に三人で会話した内容が、確かに興奮するべきほどだったはずなのに、時間が経つにつれて、次第に薄れてくるのを感じたからだ。
――こんなことってあるんだな――
と、あの時の会話が、まるで夢を見ていたかのように思えてきたのだ。
見合い相手の名前は朝倉麻美、二週間後の日曜日、ホテルのロビーで会うことが決まった。いつもの白衣とは違ってスーツ姿の自分も嫌いではない秋田は、内心心待ちにしていた。
「麻美さんに嫌われたくはない」
相手に好かれたいなどという思いは、おこがましいと思っていた。
本当は好かれたいはずなのに、正直に好かれたいという思いを表に出すと、露骨に見られて嫌われると思ったのだ。
「まずは嫌われないこと」
これが一番だった。
段取りは、「おせっかいな見合い斡旋のプロのおばさん」と、石狩夫人がすべて整えてくれた。相手の人はさすがにお嬢様と言われるだけのこともあって、世間知らずのようだった。
しかし、実際に会ってみると、その思いは少し揺らいだ。今まで女性と付き合ったことがなかったわけではない秋田教授だったが、お見合いともなるとかしこまった感覚になり、緊張で身体が固まってしまいそうになるのだった。
「秋田君、昨夜は眠れたかね?」
石狩教授にそう声を掛けられ、思わず苦笑してしまった。
「研究所に籠っている時間と違って、夜がここまで果てしなく長いなんて思ったことなかったですね。一時間が経っているだろうと思って時計を見ると、五分しか経っていなかったりしますからね」
石狩教授も、
――しょうがないな――
という表情を浮かべ、
「そりゃダメさ。時計なんか見たら、余計に意識してしまうさ。熱っぽい時に体温計を見て、余計に気分が悪くなってしまうってこともあるだろう。それと同じなんだよ」
「それもそうですね」
秋田は、基本的なことを忘れていたようだった。
それだけ緊張しているともいえるが、本番は大丈夫であろうか?
約束の時間まではまだ十五分以上あったが、この十五分も、秋田にとってそれほどの長さのものになるか、興味深かった。さすがに夜眠れない時間を過ごしているよりも気は楽であったが、まずは相手の顔を見て、第一印象をどう感じるかが、一番の問題だった。
「お待たせしました」
例のおせっかいと評されているおばさんが先に立って、挨拶した。
――どんなすごいおばさんが出てくるのかと思ったけど、普通のおばさんじゃないか――
それは、喫茶店などで大勢のおばさんの中心にいて、大声で仕切っているような迫力のおばさんを想像していたが、実際に見てみると、夕方のスーパーでかごを肘からかけて、生鮮品を一生懸命に物色しているようなおばさんだった。
――どこにでもいる、控えめにしか見えないおばさん――
だったのだ。
「本日は、どうもご足労をおかけいたしまして、恐縮です」
と挨拶した。
「あ、こちらこそ、お招きいただきまして、ありがとうございます」
と、石狩夫人が挨拶している
二人が一緒に段取りをしたのだから、こんな挨拶は茶番に思えるかも知れないが、これから行われることが、
「儀式である」
と考えると、二人の挨拶が決しておかしなものではない。
いわゆる「開会式」のようなものである。
「それでは、どうぞこちらに」
ここからの主導権は、「おばさん」である。結婚式であれば、仲人というところであろうか。
おばさんは、二人の事情をそれぞれの家庭から聞いていたのか、お互いの簡単な略歴を話し始めた。秋田教授の話はいいことばかりしか話していない。悪いところも石狩教授は知っているはずなので、おばさんに話をしていないのか、それともおばさんは聞いていて、うまくまとめようとしているのだろうか? どうやら、後者のように思えてきた。
話の中で、一見長所のように見えることでも、短所を掠めるような話し方をしている。
「長所と短所は紙一重」
だと言われるが、こうやって話を聞いてみると、一枚のオブラートに包むだけで、短所も長所に聞こえてくるのだから、面白いものだ。
次に相手の話を始めたが、何とか話を聞きながら、
「長所と紙一重である短所」
を見つけようと思ったが、そう簡単に見つかるものではない。
さすがに、おばさんもプロだった。
――まあいい。ゆっくり仲良くなって、いろいろ知って行けばいいんだ――
と思ったが、
「待てよ?」
ふと感じた。
おばさんがオブラートに包んで話をしている中のことをいかに知りたいと思わせるかというのも、見合いのやり方なのかも知れないと思った。相手の略歴を話している間に、いかに相手に興味を持たせるかというのが、見合いの最初の段階なのであろう。そういう意味では、秋田は完全におばさんの術中に嵌ってしまったことになる。
それなら、今度は相手におばさんの術中に嵌ってもらえばいいのだ。いかに、秋田のことに興味を持たせるかというところがミソになってくる。
――この人は、どんな話に興味を持ってくれるのだろう?
秋田の研究に興味を持ってくれるかどうかも心配だった。
さらに秋田の研究はその性質上、極秘事項もかなりの部分含まれている。いかに極秘事項を話すことなく相手に興味を持ってもらうかというのは、それほど簡単なことではないだろう。
「それでは、後は若い人たちに任せて」
テレビドラマなどでおなじみのセリフを聞いて、思わず笑ってしまった秋田だったが、相手を見ると同じように少し照れながら笑っているのを見ると、
――同じ思いがあったのかな?
と思うと、少し嬉しくも感じられた。
ここまであっという間だったような気がしていたが、すでに一時間半が過ぎていた。
「こんなに時間が経っていたんですね。ビックリですよ」
というと、
「ええ」
と、麻美も笑顔で返してくれた。
その笑顔は、まわりの緊張から解き放たれた笑顔に見え、自分に対してそれほど緊張していないのを感じると、
――馴染んでくれたんだ――
という安堵感とともに、
――もう少し緊張していてくれた方が、恥じらいがあって可愛いかも?
という思いも頭をもたげたが、そんなことはもちろん贅沢な思いであり、求めてはいけないことだと思った。
麻美はその日の晴れ着姿は美しかった。
ホテルの中ではさほど目立たなかったが、ホテルを出ると、さすがに目立っていた。待ち合わせは昼下がりだったが、気が付けば夕日も西の空に沈みかけていた。少し冷たさを感じられる風も吹いていたが、歩いているうちに、風がやんできているのを感じた。
「そろそろ夕凪のお時間ですね」
どんどん、夜のとばりが迫ってきているのを感じると、
――風があって当たり前――
という意識からか、風がなくなったとしても、そのことを意識することはない。それなのに、秋田は風のないことに気づいていて、麻美はその口から、「夕凪」という言葉を発した。
夕凪の時間というのは、
――風のない時間帯――
とも言い表せる時間で、昔から不吉な時間とも言われているが、人によっては、神聖な時間だと思っている人もいるようだ。
秋田は、神聖な時間というよりも、怖い時間帯というイメージの方が強い。
「麻美さんは、夕凪の時間を意識されたりするんですか?」
「ええ、結構意識する方ですね」
「夕凪の時間というと、昔から『逢魔が時』とも言われていて、魔物に出会う時間帯だっていう迷信もあるんですが、麻美さんもそれはご存知ですか?」
「ええ、知っていますよ。でも私はそれよりも夕凪の時間というのは、もっと神秘的で神聖なお時間だと思っているんですよ。この時間によく事故が起こったりするとか言われますよね。でも、それだって、本当は昼と夜の狭間の時間のため、見えるものがすべてモノクロに写ってしまうから、事故が起こると思っているんですよ。だから、夕凪の時間帯に事故が多いと言っても、それは迷信であり、理屈で考えれば当たり前のことだって感じているんです」
秋田も研究者の端くれ、それくらいの理屈は分かっているつもりだった。
それでも、敢えてそのことを理解しながら、『逢魔が時』を感じるのは、それ以外に何か神がかったところがあると思える。
しかし、逆に考えると、この時間が神秘的だからだと言えなくもない。プロセスがどうであれ、麻美と最後は同じところに着地することになるのではないだろうか。
そのことを秋田は理解していなかったが、麻美は理解していた。研究者である秋田であっても、麻美のような考え方をする人にはかなわないこともあるに違いなかった。
その日の会話で、秋田はそのことを思い知った。思い知ったことで、あらためて、麻美という女性のことを気に入ったのだ。
「秋田さんは、私にとって、なくてはならない存在になるんじゃないかって私は思うんですよ」
何度目かのデートで、麻美は秋田にそう言った。
秋田は、麻美のことを気に入っていて、プロポーズの機会を伺っていたのだが、どうやら先手を打たれたようだった。
「そのセリフ、本当は最初に僕がいうはずだったのに」
と言って、おもむろにカバンから小さな箱を取り出した秋田は、麻美の指を手に取り、箱から取り出した指輪をさりげなく嵌めた。
麻美は、照れくさそうに指輪を見つめたが、今度は誇らしげに指を二人の前に差し出して、
「どう、似合うでしょう?」
と言いたげに、指輪のファッションショーを催していた。
「君にしか、似合わないよ」
と、言うと、秋田は麻美を抱きしめて、夜景をシルエットにして、唇がゆっくり重なるのだった……。
結婚式から、新婚旅行、そして、新居での生活まで、あっという間の出来事だった。
気が付けば子供もできていて、
「本当に順風満帆の生活よね。怖いくらいだわ」
と、麻美は言っていたが、新婚の夫としては、一番新妻に言わせたいセリフだったに違いない。
しかし、秋田教授の様子が変わってきたのは、子供が幼稚園に通うようになってからだった。それまでは放任主義だった父親が、急に子供の教育について口うるさくなった。母親と教育方針でぶつかることもしばしばで、そんな両親を見ていて、父親に対しての「反面教師」の想いが浮かんできたのも、無理もないことだっただろう。
その頃から、秋田教授はある研究に没頭するようになっていた。研究所に何日も泊まり込むようになったのもその頃からで、たまに帰ってきては、子供のことについて妻と議論してしまう。
秋田教授にとって、研究室での研究は、どうやらタイムマシンのようだった。しかし、同じタイムマシンと言っても、他の人が研究しているものとは違っていた。どこが違うのかは分からなかったが、そのことを教えてくれたのは、石狩教授だった。
石狩教授は、秋田教授の変貌が気になっていた。実は妻の麻美が気づくよりも先に石狩教授の方が分かっていた。同じ研究所にいるとはいえ、研究はまったく別分野、同じ大学に在籍していても、学部が違う学生同士と同じようなものである。
しかも、自分の研究に没頭していれば、他の人のことなど分かるはずもない。それを思うと、
「ひょっとして、この時期、夫と石狩教授は一緒に研究していたのかも知れないわ」
と麻美は感じるようになっていた。
元々、頭の切れる麻美であった。夫のことを気にし始めると、他の誰よりも彼のことを分かっていると自負していた。だから結婚しようと思ったのだし、まわりには石狩教授夫妻のような頼もしい人がついているということも、結婚の決め手になったのだ。
それなのに、二人のことも、秋田の性格的なことも、最初に感じていた思いとは裏腹に、分かっているつもりだったが、急に変わってしまったことが、石狩教授に関りがあるとは、最初は信じられなかった。
麻美は、石狩教授に近づくことを決めた。もちろん、最初は石狩夫人にいろいろ聞いてみてのことだったのだが、その頃ちょうど、石狩夫妻には不穏な空気が流れていて、一触即発の様相を呈していた。
それは、秋田夫妻の間にも起こったことと同じことが起こったのだが、そんなことは誰にも分からない。分かっているとすれば石狩教授だけだっただろう。
しかも、そのことにいち早く気づいたのは、秋田教授だった。
秋田教授は自分の妻が石狩教授に近づいているのに気づいていたが、見て見ぬふりをしていた。秋田なりの計算があったのだ。
麻美は石狩教授と話をするのが好きだった。
――もし、秋田と結婚していなければ、私は石狩教授のような人を好きになっていたかも知れないわ――
麻美には、まわりの女性ほど結婚願望があったわけではない。秋田教授と結婚したのも、秋田教授のことを気に入っていたのは当然のことだが、結婚に至らなくても別にいいと思っていた。まわりがお膳立てを立ててくれ、
「もう、結婚しなければいけない」
という雰囲気になっていることに気が付いたことで、結婚を決めたのだ。
同じ結婚するにしても、他の人とは決断という意味では大きな開きがあった。
それでも、結婚してからの麻美は献身的だった。
夫が教授ということもあり、まわりからは、
「玉の輿に乗ったじゃない」
と冷やかされたが、それも別に悪い気はしなかったので、
「そう? そんなことはないわよ」
と、無表情で答えていた。
こんな時に、
「そら来た」
と思い、嬉々として自慢げに話す人がいるが、麻美はそんな人の心境が信じられなかった。まわりが冷ややかな目で見るのが分かっていたからである。
しかし、旦那に死なれてしまってからの麻美は、そんな主婦の小さな楽しみが羨ましく思えてきた。
――こんなことなら、もっといろいろな感情を表に出しておけばよかった――
と感じたのだ。
まさか、こんなに早い別れがくるなど思いもしなかった。子供はまだ中学生、しかも反抗期で、父親のことを憎んだまま父親と二度と会えなくなってしまったのだ。
――私が、石狩教授に相談に乗ってもらったことも、今となっては、無駄になってしまったわ――
というよりも、石狩教授に少しでも心を許す気になった自分が恥ずかしいとも感じていた。
石狩教授に話を聞いた時、
「そうだね、秋田君は少し今までに比べて神経質になっているような気がするね」
と言っていたが、それを聞いた麻美は、
「ちょっとなんてものではないですよ。元々冷静沈着だったあの人が、子供が見ている前で私を罵倒するようになったんです。私はいいんですが、それを見ている息子がどう感じるのかと思うと、自分が受けている恥辱よりも、子供がどんな気持ちでいるかという方が私には怖いんです」
それを聞いた教授は考え込んでいたが、
「秋田君は、そんなことをするような人間ではないんだけどね。やっぱり彼の中で何かのスイッチが入ったのかも知れないね」
「と言われますと?」
「人というのは、誰もが裏の面を持っているんじゃないかって思うんですよ。表の部分を強調しようとすればするほど、燻っていたはずの裏の部分が表に出ようとするんじゃないかと思うことがあります」
「それは、二重人格ということですか?」
「そうだね。躁鬱症と一緒に考える人もいるけど、躁鬱症とは分けて考えた方がいいんじゃないかって僕は思っているんだ」
「そうですね、実は私も躁鬱症のところがあると言われたことはあるんですが、二重人格だという自覚はないし、言われたこともないですね」
「躁鬱症の人が二重人格なのかというとここに関連性は薄い気がするんだけど、二重人格の人が躁鬱症である可能性は、結構高いんじゃないかって思うんだよ。人というのは、第一印象があって、そこからいろいろ話をしているうちに相手の性格が分かってくる。二躁鬱症というのは、二次的な性格であって、二重人格というのは、どちらもその人の一時的な性格だと思うんだよね。二次的な性格というのは、その人の性格を見て、その人の内面がどうなっているかと考えた時、躁状態になったり鬱状態になったりするのが見えた時、躁鬱症だって感じることになるんだよ」
「なるほど、最初に二重人格かどうかが分かって、そこから躁鬱が見えてくるという考え方ですね?」
「一概に皆が皆そうだとは言えないんだけど、普通に相手を見ていると感じる順番通りなら、躁鬱症の人が二重人格なのかどうかという可能性は、低いんじゃないかって思うんだ」
石狩教授の話は分かりやすかった。
石狩教授は医学部門の権威だと聞いていたが、心理的なことも十分に分かっているようだ。石狩教授の話を聞きながら麻美は、秋田のことを思い浮かべていた。
確かに結婚した時から、どこか余裕のない雰囲気は窺い知ることができた。しかし、他の男性のように、裏表を感じさせるところがなかったのが、麻美が結婚相手を秋田に決めた一番の理由だった。
麻美は、大学時代にある男性を好きになった。麻美が結婚についてそれほど深く考えないようになったのは、その時に付き合っていた男性が原因であった。その男性は音楽を志していて、バンドを仲間と組んでいて、その中のギターを担当していた。
メンバーは五人。その中でも彼はモテる方だった。
麻美は元々、あまりモテる男性は好きではなかった。
「モテる男性を彼氏に持ったら、いつも嫉妬していないといけなくなるでしょう?」
と言って、女友達の前で笑って見せたが、その気持ちにウソはなかった。
しかも、イケメンの男性というのは、裏と表を持っていて、その顔をうまく使い分けることで、何人もの女性と付き合っているという妄想を抱いていたのである。
それは学生時代に読んでいたマンガの影響である。
大学に入ってからマンガを読むこともなくなったので、マンガが好きだったということを知っている人は今では誰もいなくなっていたが、マンガを描いていたという秋田と、知らないところで結びついていたというのも、ただの偶然だったのだろうか。
マンガを読んでいて、イケメンの男性が出てくると、ヒロインの女の子が騙されるシーンがやたらと頭に残っていた。
いつも騙されているわけではないが、最初に騙されているのを見てしまうと、その印象が残ってしまい、どうしても、イメージを払しょくできないでいた。まるで生まれた時、最初に見たものを親だと思ってしまう雛のようではないか。
そういう意味では麻美は、
――思い込みが激しい――
と言え、それと同時に、
――思い入れが激しい――
ともいえるだろう。
そのイケメンバンドマンは、いつも誰かに騙されていた。
と言っても、それほど大きな事件になるわけではなく、
「少し、お金を貸してくれよ」
と言われて、
「しょうがないな」
と言いながらも用立ててやると、そのまま踏み倒されることが多かった。
金額的には些細な金額なので、それほど騒ぎ立てるものでもない。下手に騒ぎ立てて、貸した相手が開き直ってしまうと、今度はまわりから、
「まあまあ、ここは冷静に」
と言われて、まるで騒ぎ立てた自分が、その場の雰囲気を壊したことで悪者にされてしまう。
それでもムキになろうものなら、
「それっぽっちのお金でメンバーの絆を壊すこともないだろう。お前も早く返してやれ」
とリーダーに言われて、借りた相手は悪びれることもなく、
「はい、分かりました」
と、言ってのける。
こうなってしまうと、場が完全に収まってしまい、それ以上何も言えなくなる。下手をすれば、
「そんなはした金で、ギャアギャア騒ぎ立てるあいつも、大人げないな」
と思われかねない。
そんな雰囲気になってから、イケメンの彼は他の連中からも、カモにされるようになった。一番最悪の形である。
本人は知らなかったが、最初から彼をカモにしようというのは、メンバーの中で決まっていたことだった。中に入って諫めていたリーダーも、どうやらグルのようだった。
もちろん、お金の無心も、大した金額ではない。少額ではあるが、今まで一人だったのが、三人、四人になったのだ。溜まったものではない。
もし、断ったりすると、
「お前、あいつに貸したのに、俺には貸せないっていうのか?」
と言われる。
つまりは、今から思えばあの時騒いだのは、すべてこの既成事実を作るための計画だったのだ。
それにしても、そこまで綿密に計画しているというのもすごいものだった。
ただ、彼らはそうやってイケメンからお金をむしり取ってはいたが、そのお金を無駄使いしたわけではない。これから自分たちがデビューするために必要な金を貯蓄しておくためのものだった。
イケメンは、金持ちの家に生まれて、高校時代の反抗期の時に、バンドに軽い気持ちで参加したことから、バンドの虜になっていた。大学で、バンドを志す連中と知り合いになれたのも運命だと思い、一時は有頂天になっていた。それだけに、仲間の申し出には断れなかったのだ。
彼らとしても、
「このままあいつを傷つけるのはまずいんじゃないか?」
という話も出ていた。
リーダーとしても、
「そうだな。お金もだいぶストックできたことだし、取り返しのつかないうちに、彼に本当のことを話して、関係を修復しないとな」
と言って、メンバー集会と銘打って、メンバーが一堂に会した。
「実は、お前に折り入って話がある。本当に言いにくいことなんだが……」
と言って、リーダーは恐縮しながら話した。
それを聞きながら彼は俯いたまま、前を見ることができず、わなわなと震えていた。
「これはまずい」
皆、そう思ったことだろう。
しかし、彼は何も言わない。そして話がすべて終わった後、
「なんだ、そういうことか。それなら最初から言ってくれればいいのに。じゃあ、あのお金は俺も権利あるんだよな」
「ああ、本当に済まなかった」
と、全員で彼に頭を下げた。
「いいんだよ」
と言って、その場はそれで終わった。
しかし、一度傷つけられたプライドは、そう簡単には元に戻らない。
「何をいまさら、騙しているんだったら、最後まで騙し続けてくれればいいのに」
と思った。
彼の目からは、止めどもない涙が流れていた。今まで、騙されていた状態の彼を慰めてきたのが、麻美だった。彼も麻美がいてくれるから、自分の屈辱的な立場に我慢ができた。
しかし、メンバーから本当のことを聞かされてしまうと、今度は自分の気持ちのどうすればいいのか、持って行き所を失ってしまった。
「もう、麻美を相手に慰めてもらう気にはならない」
麻美に対しては、
――金をまわりからむしり取られて、まわりにカモにされている――
という情けない自分だから、相手をしてくれていたと思っていた。
立場が変わってしまうと、麻美と今度はどう接していいのか分からない。今一番会いたくないのが麻美になってしまった。
麻美の前から姿を消したくなってきた。どうせ、メンバーとはもう一緒にはいられないという気持ちを固めていたのだ。
彼は皆の前から姿を消した。大学も中退し、完全にどこに行ってしまったのか分からない。
麻美は彼のそんな事情はまったく知らなかった。いまさらメンバーに会って、彼のことを聞くという気にもなれなかった。
麻美の中で、
「彼から裏切られたんだわ」
という思いが浮かんだ。
それまでは、
「私が至らなかったからなのかしら?」
と思っていたが、ここまで煙のように忽然と消えてしまっては、何を信じていいのか分からなくなるのも当然であった。
それにしても、彼は本当に忽然と消えてしまった。
大学を中退したのも、あっという間の出来事で、まったく躊躇したということも考えられない。
「本当に煙のように消えてしまった」
そう思うと、今までの自分が彼の何だったのかを想像すると、怒りしか浮かんでこない。そしてその怒りは、笑いを誘った。
「何て滑稽なのかしら?」
喜劇を見ているようだった。
その時麻美は、自分がもう一人の自分になって、笑っている自分を見ている気分になっていたのだ。
――結婚なんて、私にできっこないわ――
恋愛すらうまくいかなかった麻美である。
しかし、麻美は肝心なことを分かっていなかった。
――結婚と恋愛は別物――
ということである。
――恋愛の延長が結婚であり、結婚は恋愛からしか生まれない――
という意識を強く持っていた。
その考えに間違いはないのだが、麻美の考えは強すぎるのだ。考えに遊びの部分がないため、余裕がない。その理由は、
――恋愛も、結婚も、それ相応の時期があるんだ――
という思いであった。
恋愛をする時期も、結婚の時期も決まったものであり、誰もその時期に逆らえない。つまりは、適齢期があるというのだ。
恋愛は、学生時代から三十代前半くらいまで、結婚は、二十歳過ぎから三十代中盤くらいまでだと思い込んでいた。しかも、恋愛も結婚も一度きりという考えも頭の中にあった。確かに何度も恋愛をする人や、今はバツイチやバツニも珍しくはない時代だという認識はあったが、最初にうまくいかなければ、その後いくら恋愛しても結婚しても、最初に比べてうまくいくわけはないという思いであった。
「最初で躓いたら、二度目がうまくいくはずなんかないのよ」
と、嘯いていた。
もちろん、友達の中に反対意見もある。
「そんなことないわ。最初に出会った人がたまたま最悪の人なら、その後はそれ以上ひどい人はいないわ」
と言われると、麻美もムキになって反論する。
「でも、それって結局最初の自分の目が狂っていたってことでしょう? 最初に躓いたら自分が信用できなくなるんじゃないかしら?」
「そんな人ばかりじゃないわ。最初に躓いたということは、その時に自分なりに学習したということでしょう? 二回目は最初に失敗した同じつては踏まないわよね」
「そうは言っても、二度目の相手は最初の人とは違うのよ。同じ考えが通用するとは思えないわ」
「だから、学習って言っているじゃない。自分が思い込んでいたことが違っていたということを認める気持ちになったり、今まで知らなかったことを受け入れる気持ちになったり、そんな思いが大切なことだと思うのよ」
二人とも、負けていない。会話は白熱し、最初は意見が割れていても、次第に歩み寄るようになる。
「そうね。あなたの言う通りだわ」
と、最後は笑顔で理解し合うのだが、麻美の場合は、そんな時でも、
――交わることのない平行線――
を感じ、そこに結界を見るのだった。
結界は透明であり、知らない人なら、そこに結界があるのを分からないだろう。麻美という女性は、そんな結界を持っていて、その結界は誰もが知らず知らずに身についているものだと思っていた。
麻美は秋田と結婚したのは、ちょうどその時が自分にとっての適齢期だと思ったのと、秋田の人間性が悪くないと思ったからだった。秋田の人間性が一番だったわけではない。
秋田が麻美のそんな性格を分かっていたのかどうか、本人が死んでしまったことで、永遠に確認することはできなくなってしまった。しかし、麻美が自分のことを決して嫌いではなかったことは分かっていたし、そのうちに心が通じ合えると思っていたのも事実だった。
秋田は、麻美の中に結界があるのを分かっていた。
秋田は、科学者である。人間の心理を読み取ることは難しいように思えるが、一つきっかけさえあれば、心理のメカニズムを読み取ることは容易なことだった。
「心理学者でもない科学者に、人の心が分かるはずはないわ」
と、思っている人もいるが、秋田は決してそんな気持ちはなかった。
「自分たちが開発しようとしている機械は、いかに人間の心理に近づけられるかということがテーマであり、ロボット開発などは、永遠のテーマなんだ」
と思っていた。
人間は人間しか見ていないから、自分の想定外のことが起こったりすると、その人と距離を置いたり、二度と話をしなくなったり、さらには憎み続けることにもなるのだ。
「人間というものが、まわりの中ですべての頂点であり、人間中心に世の中が回っているなどと考えていることで、そこに驕りが生まれ、他のことを決して認めようとしない思いが、必要以上の限界を自分の中で作ってしまう」
それは、科学者が考えたことではない。考えたのは、心理学者だった。
秋田の知っている心理学者は決して心理学を考える時、自分の見えている範囲だけを見て判断することをしない。絶えず、そのまわりに、
「他に広がっているものはないか」
ということを思い浮かべている。
秋田の信頼のおける学者は科学者だけにとどまらず、むしろ心理学者に多かったりする。彼らは、自分たちよりもより人間に近いところで研究をしている。その貴重な考えを、秋田は自分の研究に役立てようとしていた。
それは、心理学者でも同じことだった。
彼らは、科学者の中にある、
――いかに人間に近づけるか――
いわゆる、
――人間臭さ――
を求めてやまないのだ。
そんな秋田の尊敬する心理学の教授に坂口教授がいるが、坂口教授は麻美のおじさんに当たる人だった。
坂口教授は、他の心理学者の中から、少し離れたところにいた。
「異端児」
という言葉が当て嵌まるのかも知れない。
坂口教授とは、麻美と知り合う前から知り合いで、それを知った秋田は、次に麻美に会った時、
「君は、坂口教授と親戚だったんだね?」
と訊ねると、
「ええ、叔父さんに当たります」
と、答えたが、その時少し警戒しているようにしていた麻美の態度に、すぐには気づかなかった。
後になって気づいたのだが、結局、麻美がどうして警戒しているような態度を取ったのか分からなかった。もし、その時に気づいていれば真相に近づくことができ、ひょっとすると、二人が離れ離れになることもなかったのかも知れない。麻美は本当であれば、絶好のチャンスを逃した形になったのだ。
もちろん、その時にそこまで分かるはずもない。分かるとすれば予知能力のような特殊能力を持っていなければ無理であろう。しかもただ予知能力を持っているだけではなく、相手の気持ちを思い図ることのできる人でなければ無理なことである。
坂口教授は、麻美が話をした「結界」という発想を麻美の前では否定した。
「麻美ちゃんは考えすぎなんだよ。結界なんて発想を持っていると、何もできなくなるよ」
そういって笑った。
「いいもん。私、一生結婚できなくてもね」
売り言葉に買い言葉、麻美も負けていなかった。
しかし、坂口教授は秋田の前ではまったく逆の発想を語っていた。
「僕は、結界という発想を持っているんだよ」
と、秋田の前で、麻美が考えているのと同じような発想の話をした。しかし、知らない人が見れば、
「それって、麻美さんの考えをそのまま口にしているだけじゃないのかい?」
と言われがちだが、よくよく聞いてみると、若干違っていた。
しかも、坂口本人は、麻美の話した結界の発想とはかなり違ったところで結界という発想を持っていたのだ。
「同じような考えを、麻美ちゃんも持っているんだけどね」
と、秋田の前では正直に答えた坂口だった。
もちろん、自分が麻美の前では結界という発想を否定したなどということは一言も言っていない。言ってしまうと、秋田に余計な考えを抱かせないとも限らないと感じたからだ。
「それなら、最初から秋田に結界の話と麻美の関係をしなければいいのに」
と思われるかも知れないが、言わなければいけないという理由が坂口の中にはあったのだ。
それは、相手が秋田であり、麻美の夫だったからだ。
麻美という女性は、一人だけで考えてしまうと、その発想はとどまるところを知らず、妄想が想像に繋がり、そのまま創造してしまいかねかいからだ。
麻美は今までも、何もないところからの発想が、麻美発信で、形になって現れたということが何度かあった。
普通の人にもないわけではないが、一生のうちに二度あればいい方だろう。しかし麻美の場合は二度どころか、しょっちゅうそういうことがあるのだ。
麻美が他の女性と発想も違えば、現実世界で創造させてしまう力を持っていることに気づいているのは、坂口だけだった。そのうちに気づく人もいるのだが、それが秋田少年であることは、その時誰も分かっていなかった。
秋田少年は、麻美のことを好きでも嫌いでもなかった。
普通、自分の母親に対しては、好きか嫌いかのどちらかであろう。今までもこれからも関わりなくして生きていくことなどできるはずはないからだ。
――この子は、何か不思議な力を持っている――
と麻美は思っていたが、その想いには間違いはなかった。
父親も分かっていて、分かっているだけに、秋田少年には余計に「型どおりの人間」を演じた。秋田少年が父親を「反面教師」として感じたのも、このあたりに原因があるに違いない。
秋田教授は自分の子供も、麻美も愛していた。この気持ちに変わりはない。それだけに余計に気持ちの中に入り込もうとしたのだが、どうしても入り込むことのできないエリアがあった。
――やっぱり、息子は母親似なんだな――
と秋田教授に思わせたが、その思いに間違いはなかった。
秋田少年もそのことを分かっていて、
――母親に似てよかったな――
と感じていた。
秋田教授もそれでいいと思っていたので、それなりに悪い家族関係ではないはずなのに、どうしてもぎこちなくなるのは、それこそ人間臭さのたまものであろう。人間臭いという言葉、秋田教授は嫌いではなかったが、秋田少年は嫌いでたまらないくらいだった。あくまでも二人の間には結界があり、決して交わることのない平行線を描いていた。
夫婦間がギクシャクするのは確かに子供の教育にはよくないが、ギクシャクさせたくないからと言って、表面上を取り繕うのは、もっといけないことだ。
「子供って、見ているのよ。分かっていないようでも、見ることで理解しようとする。理解できなくても、善悪の区別くらいはついてしまうのよ。しかも、そこに妥協はないので、悪いことだと思うと、とことん悪いことに思えてくる。大人のように都合を考えたり、まわりを考えたりしないの。だから、子供って怖いのよね」
と話している奥さんがいたが、その話を麻美は他人事のように聞いていた。
本当は、一番自分が身近に感じているはずなのに、感じないのだ。やはり他人事だと思うことが一番楽だったからだろう。
「うちの子に限って」
何かあった時、お母さんが最初に口にする言葉である。
意識するしないにかかわらず、たいていのお母さんは、最初にこの一言を口にするに違いない。
麻美は口にこそ出さなかったが、息子が反抗期の態度を見て、心の中でそう呟いていたことだろう。そういう意味では、麻美もその辺のお母さんと変わりはなかった。
そのくせ、
――自分は他のお母さんたちとは違う――
と思っている。
小さな頃から習い事をさせたり、有名幼稚園に入れたりするお母さんとは違って、自由にさせてきた。だから反抗期であっても、親に逆らうことはないと思っていたが、実質父親を反面教師と思い、父親には露骨に対抗意識を燃やしている。
秋田教授も、研究者としては立派だったが、父親としてはどうだったのだろう?
何も言わないことが教育だとまで思っていた。余計なことを言うと、余計卑屈になることだろう。
しかし、実際には子供は親を見て育つもの。型どおりの家族を「演じていた」のでは、一番子供に分かることであって、デリケートな気持ちは傷ついてしまう。それが秋田青年であり、この時の経験が、いずれは自分の運命に何かしらの影響があることになると、思っていたようだ。
具体的には分からない。分かったところでどうすることもできないのだが、自分が親になった時、どうすればいいかくらい、今のうちから考えていたいと思っていた。
――このままなら僕も子供から反面教師にされる――
それだけは避けたかった。
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