次元を架ける天秤

森本 晃次

第1話 行方不明

 真っ暗な廊下の向こうには、かすかに差し込む光だけが影を作っている。元々、どこから伸びている影なのか分からない状態なのだが、シーンと静まり返った空間に、どこからともなく水滴が落ちる音が聞こえた。

 オカルトのような雰囲気だが、誰もいない場所での空間というのは、えてしてこういうものなのかも知れない。警備をロボットに任せるようになってからというのは、不思議に感じることはないが、人間が警備員をしていた時であれば、

「この建物、薄気味悪い」

 として、話題になったかも知れない。

 警備ロボットも本当はいらない。各部屋にはセキュリティが施されていて、昔から行われている指紋認証も当てにならなくなったこともあり、骨格認証や、指をあてただけで、可能になったDNA認証まで施されている最先端の建物だった。

 それも当然であった。その場所は国立大学の政府公認研究所で、国家機密に抵触するような研究も行われていた。最新鋭の整備が装備されているのも無理のないことだった。

 建物自体は三階建てと、あまり大きくはないが、知られていないところに地下室もあり、有事の際には、シェルターにもなっていて、一部の噂では、国会議事堂と地下道で繋がっているという根拠のないものもあった。

 今年は二〇六四年、我が国も変革を遂げた。国立研究所の中に政府公認の研究所が設立されて三十年になる。最初は国民は誰も知らない存在だったが、マスコミにリークする人が出たことで、世間に公表されることとなった。遅かれ早かれ公表は考えられていたが、思わぬ公表になったことで、一時、研究所は騒然となった。

 しかし、リークした人が政府関係者だと思われていたが、実際には研究所側からだったことで、研究所はそれ以降、世間には公表された反面、内部の規定は厳しくなり、研究員も選定されたことによって、かなり人が入れ替わったのも事実である。以前は、大手企業の研究員を引き抜いてきていたりしたが、今では生え抜きの研究員ばかりである。

 当初は、研究所運営のノウハウを得ることや、研究成果は民間にしかなかったこともあって、どうしても民間研究員が必要だったこともあっての、非公開だった。しかし、すでに民間研究員は必要なく、うちわだけでやっていけるのが分かったことで、公表も時間の問題だった。だから、リークは研究所にとってはそれほど大きな問題ではなかったが、それ以上に、リークということが、閉鎖された空間の中で行われたことが問題だったのだ。

 結局、犯人は分からずじまい、ただ研究所からのリークであるということだけは、履歴から分かった。

 外部からの侵入に関してと、研究結果や研究経過などの流出に関しては敏感だったが、個人の気持ちの制御や、待遇などは二の次になっていた。不満が鬱積していなかったとは言えないだろう。

 それ以降、研究員の福利厚生に関しては、十分なくらいに整備された。それまで過酷な労働条件だったが、残業も決まっていて、

「研究員の状態を一番に考え、万が一納期が遅れても、それは仕方がない」

 とまで言われるようになった。

 しかし、それは上層部が取り決めたことで、そこまでのことは一般には公表されていない。人間というのは、甘い考えを持つと楽しようと考えてしまい、身体や精神がついてこなくなる場合がある。もちろん、個人差はあるが、絞めるところは絞めていかないといけないのだ。

 それでも、研究所は時間で制御されるようになった。効率よく研究を続けるには、エンドレスはあまりよくないという心理学の先生の話もあり、まったくの無人の時間が研究所にできるようになったのだ。

 リークの前までは考えられないことだった。

「三百六十五日、二十四時間、必ず誰かが研究している」

 という状態が、設立時から続いた。

 それは、やはり民間企業から引き抜いた人の考えがあったからだろう。

 彼らは研究のためなら、三度の飯や、睡眠時間を削ってでもいとわない。二、三日徹夜してもいいと思っているような人が多かった。

 しかも、彼らには競争心が旺盛だった。元々民間企業にいた時から、

「ライバル会社には負けるな」

 と言われ続けてきたのだ。

 この研究所は、最初烏合の衆だった。いろいろな企業の研究員をかき集めてきていたので、競争心もあらわだった。

 もっとも、それは研究所を開設した政府の思うつぼでもあった。

「競争心を煽ることで、彼らの能力を最大限にまで引き出すんだ」

 と公言している政府高官もいた。

 ただ、それが本当に最高の結果をもたらすかどうか、疑問なところはたくさんあった。政府高官がそこまで計算していたかどうか分からないが、結果としてリークという形になったのだから、一概によかったと言えないだろう。

 それでも、民間から引っ張ってきた研究員は、それなりに研究成果を上げてきた。少なくとも彼らの功績が大きかったのは間違いのないことで、政府としても、満足の行くものだった。

 それでも、彼らへの待遇はあまりいいものではなかった。

 確かに民間企業のサラリーマンから見れば、けた違いの給料をもらっていたが、彼らには自由などまったくなく、研究所に缶詰状態だと言ってもいい。民間の時も似たようなものではあったが、その時は、ロボットのごとく働けばよかった。

 しかし、今度は烏合の衆に放り込まれたことで、自分でも理解できない精神状態に陥ってしまい、そのまま鬱状態から、身体を自分の意志で動かすことができないほどにまで、精神を蝕んでしまった人もいた。

 そうやってリタイヤする人もいたことで、政府は研究所の改革が急務であると認識するに至ったのだ。

 研究所の公表はもちろんのこと、研究所に市民権を与えることで、研究員の気持ちにゆとりを与える必要もあった。そして何よりも、生え抜きの研究員がいないことを問題として、各大学からの一定の人員を募集したのだった。

 募集の数は結構あった。

 民間の企業に内定していた人まで、募集に応募する人もいたりして、人気は上々、それでも人員には制限があるので厳正な試験に合格した人が入ってきた。

 募集の基準としては、

「偏った人ばかりにしない」

 というのが第一条件だった。

 個人個人は個性に特化した人が入ってくるのは当然だったが、

 化学部門、生科学部門、医学部門、心理学部門など、それぞれに特化した人を入所させた。

 今までは医学部門、心理学部門に特化した人はいなかった。この二部門に関しては、研究員を裏から支えるという目的もあったが、それとは別に他の目的もあった。

 ロボット研究に役立てるという意味もあり、

「ロボットに、人間の管理をさせる。管理と言っても、個人が自分では分からない部分、自覚していない部分を把握させることで、人間の可能性を追求し、いずれはタイムマシンなどの遅れている研究部門の推進を促す」

 という目的があったのだ。

 二十年前のこと、研究所がやっと軌道に乗りかかった時、世界的に大きな問題が勃発した。

 核兵器を持った国が暴走を始めて、まわりの国を挑発することで、世界は一触即発の危機を迎えたことがあった。

 その時は、偶然がいい方にいくつも重なったことで危機を逃れることができたが、国の上層部の一部の人しか知らない事実だった。どうして危機を免れたのかということを世界の大多数の人はハッキリとは知らされていない。毎日のようにニュースやネットで煽っておきながら、一気に収束してしまった結末に誰もが拍子抜けしたことだろう。

 そのことで、それ以降何度か国際的に危機があったが、一般の人の反応は冷ややかだった。

――まるで他人事――

 それも当たり前のことだった。

 政治や政府に対しては無関心になり、そういう意味でも、政府と関連のある研究所の存在を国民が知らなかったのも、うなずける。知ったとしても、別に大きな問題にはならないはずだったのだが、リークとなれば別だった。それだけ、国民は平穏を望んでおり、平穏を脅かすものには敏感なのだ。

 国民が刺激を求めていないわけではなかった。

 民間企業では、国民の刺激を誘発するような製品の開発を率先しておこなっていた。

 ゲームやギャンブル。コンピュータやタブレットのアプリ開発など、激戦だった。

 さらには、性風俗に対しても刺激を求めるという意味で、国民の間で市民権を得ていた。もちろん、国家的には市民権を得ていたが、どうしても後ろめたい気持ちもあってか、なかなか、性風俗というと、個人で正当化できない人も多く、ほそぼそとした営業を余儀なくされ、しかも、市民権がありながら、警察からの規制も受けている。

 だが、刺激を求めるという意味で、性風俗は爆発的に人気を得た。結婚しない人が増えたのもその一つで、

「お金で、癒しを買う」

 ということが倫理的に悪いことではないという評価を受け、幾種類もの風俗が生まれた。

 昔からの性風俗は伝統として、芸術として見られるようにもなったし、新たな風俗は、安価で手軽なので、

「コンビニ風俗」

 とも呼ばれた。

 しかし、それも最初だけで、物珍しさからの新興風俗はすぐにすたれていったが、その分、残った風俗の地位は完全に確立された。

「風俗なら不倫にも浮気にもならない」

 ということで、結婚していても夫に風俗を推奨する奥さんもいるくらいだった。

 また、女性向けの風俗もこの時に確立していた。

 それまで女性向けの風俗は限られていて、さらにあまりいいイメージを持たれていなかったこともあったが、

「男女同権」

 という見地からも、刺激を求める国民性が表に出てきた時、この思想も、一緒に爆発していた。

「二十一世紀も、最初の頃と、かなり変わってきた。科学の発展と、世の中いつどうなるか分からないという発想から、今を楽しみたいという思いが強くなったせいなのかも知れない」

 という分析をしている風俗学者もいた。

 国家公認の研究所が国民の知るところになると、国家に対しての興味を持つ国民も少しずつであるが出てきた。特に科学者を目指して大学で研究している人のほとんどが、

「民間に行くよりも、国立研究所の方がいい」

 という人が多い。

 待遇に関しては公になっていないのにそう思うというのは、それだけ民間に対しての就職に疑問を持っている人が多いということだろう。

 それは研究員に限ったことではない。一般でも同じことだった。

「民間に就職するより、公務員になった方がいい」

 というもので、その理由としては、

「民間の企業は、競争主義が根付いている。公務員は規制や制限も多いけど、神経をすり減らすところまではない。今を楽しみたいと思うなら、公務員の方がいい」

 昔も、民間より公務員の方が人気があった時代があったが、その時とは発想が逆である。昔の発想は、

「公務員になれば、給料は安いけど安定していて、将来を考えると公務員の方がいい」

 というものだった。

 国民性が変わったことで、同じ発想でも百八十度変わってしまうというのは、国民性というものが集団意識の塊だという意識を再認識させられるものだった。

 そんな状態が二〇六四年という時代である。

 科学の進歩は目まぐるしいものではあったが、民間の研究所ではたかが知れていた。裏で国家公認研究所が暗躍していたことは知られていないが、国家研究所が民間に介入するようになったのは、ここ十年くらいのものだった。

 生え抜きの研究員を育て、その中から今度は民間に派遣するようになる。

 もちろん、民間の方では、彼が国家公認研究所の出身者だとは知らない。履歴書も適当に作り変え、もし調査されてもいいように、マイナンバーも操作されていた。いずれは彼の身元が分かってもいいと思っていたが、それもタイミングがあった。それまではひた隠しにするのが必須だったのだ。

「いよいよ第二段階に入ったな」

「そうですね。リークがあった時はビックリしましたけどね」

「でも、それも元々計算してはいたからな。問題はタイミングなのさ。だから今度こそ、タイミングを逃すことのないようにしないといけないな」

「ええ、心しておきますよ」

 というような、政府高官と、研究所の所長との会話が聞こえてきそうだった。

 実際にそんな会話が繰り広げられていたかどうか、誰にも分からないが、今では結構解放された環境になっているので、研究所にはいつでも風が吹き抜けているような雰囲気だった。

「国家って何なんでしょうね?」

 そんな声も聞こえてきそうな研究所内部だったが、誰もが思っていることであり、口に出すか出さないかの違いだろう。

 ただ思っていても、そのことを確かめるようなことは誰もしない。そんなことをする必要もないほど、今は居心地がよかったのだ。

 狭く静かな通路に、靴音だけが響いていた。その音も次第に小さくなっていき、研究所内になる一室から人の気配が感じられたのは、それから少ししてのことだった。

 人の気配は一つではなかった。複数感じられたが、そんなにたくさんではない。二人か三人と言ったところだろうか。耳を澄ませば、話し声が聞こえてきた。

「石狩先生の父親が行方不明になったって話は聞いたことがあったけど、それっていつのことなんですか?」

「もう、五年になるかな?」

 どうやら話をしているのは、石狩健一研究員と、その助手に当たる秋田修二だった。

 石狩健一研究員は、年齢としては三十歳を少し過ぎたくらいだが、大学時代から秀才の名をほしいままにし、大学院から研究所員になったという研究者のエリートコースを歩んでいた。

 彼の父親は石狩健太郎博士で、彼もこの研究室での研究が長かった。医学博士としての地位も確立されていて、よくテレビなどのマスコミにも顔を出していて、行方不明になった時は、かなり話題になったものだった。

 石狩博士が行方不明になったのは突然のことだった。

 家族にとっても寝耳に水で、失踪した時、失踪に関する文章は何も見つかっていない。まるで神隠しにあったかのように忽然と消えたのだ。

 社会的にも知名度がある人なので、警察としても、何らかの事件に巻き込まれた可能性もあるとして、大々的に捜査が行われた。半年にわたっての本格的な捜査でも、まったく手掛かりは掴めなかった。まるで煙のように消えてしまったというのが、結論だった。

 当時すでにタイムマシンは完成していたので、

「タイムマシンを使って、どこかに行かれたのでは?」

 という話も出たが、

「主人は私たちに黙っていくはずはありません」

 という健一の母親の意見におされて、警察も他の捜索に力を入れることとなった。

 しかし、警察の中には、そんな母親の言動に疑問を抱いた人もいた。

「あそこまで頑なに何かを否定するのはおかしい」

 という考えだ。

 しかし、失踪に母親が何か関わっているのだとすれば、タイムマシンの発想に対してここまで固執するのもおかしい。もし、拉致監禁、その後に殺害したという最悪のシナリオができていたとすれば、タイムマシンに警察の目がいくことは、むしろ自分にとって好都合ではないか。

 いや、もし母親が関わっているとすれば、一人でできることではない。その後ろに誰かがいるとして、その人が単独であっても、何かの組織の暗躍であっても、そこにタイムマシンが絡んでいるという考えも成り立たないわけではない。

 考え始めれば、いくらでも疑うことができる。それだけ石狩博士というのは、研究所の中でも権威であり、知名度も高く、失踪というだけで大きな社会問題になるだけのことはある。発想が限りなく続いたとしても、無理もないことではないだろうか。

 しかし、

「人の噂も七十五日」

 ということわざもある。

 次第に興味は薄れていった。警察の方でも、このことばかりに手を割くわけにはいかなくなった。博士が失踪して半年が経った頃、政府の裏で暗躍していたグループが、ある政治家を殺害した。

 暗躍であれば、警察内部でも公安が秘密裏に動けばいいだけであったが、殺人事件ともなると、捜査一課が乗り出すことになる。しかも、それぞれの連携が問題になるので、他のことに手を割くわけにもいかなくなった。そのうちに石狩博士の失踪の捜査は、棚上げされていった。

 失踪届けが警察に受理されて、五年が経とうとしていた。七年経ってしまえば、死亡ということになってしまう。しかし、この五年という月日は、想像以上に長かった。もう博士の足取りを追うことは不可能に近かった。その当時の事情を知っている人もほとんどいなくなった。研究所員は、研究に没頭することが仕事なので、期間に関しての意識も、他の人に比べれば、数段薄いものだった。

 秋田は五年という言葉を聞いて、一人考えていた。

「そういえば、お前もそろそろ十年になるのかな?」

「ええ、そうですね。僕はまだ中学生でした」

 秋田は、今年二十四歳になる大学院生だった。

 彼も、大学を優秀な成績で卒業し、大学院に進んだ。自分の研究もさることながら、

「優秀な人を先生にして、その後ろ姿を見ているだけで勉強になる」

 というのが秋田の持論でもあった。

 そういう意味では、まだ三十歳を少し過ぎたくらいとまだまだ若い健一であったが、先生と慕うには一番の相手だと思った。

「年齢が近いというのも、先生として慕いながらも、兄貴のような思いで背中を見ていけるというのは、僕にとって幸せなことだと思います」

 と言って、健一の助手にしたのだ。

 助手と言っても、健一はまだ助手を持つほどの研究をしているわけではない。秋田も自分の勉強や研究に勤しみながら健一の背中を見て行けるのは、この上なくありがたいことだった。

 その秋田の身の上に、十年前に何かがあったというのだ。健一もそのことを知っている。ある意味、健一にとっても、

「他人事ではない」

 という思いがあったのだ。

 秋田の父親は、この研究室の研究員だった。

 助教授になっていて、あと少しで教授というところまで来ていたのだが、ある日突然、変死体で見つかった。外傷はなく、司法解剖でも殺害されたという痕跡はなかった。結局、心臓麻痺という死因で落ち着いたようだが、中学生の秋田にとって、父親の訃報は、あまりにもショックだったようだ。

 中学時代の秋田は、ちょうど反抗期で、

「親父のような研究者になんかなるものか」

 と言って、グレる一歩手前くらいまでいっていた。

 しかし、父親の死によって、どれだけの人が悲しみに暮れているかということ、そして、聞けば聞くほど、どれだけまわりから慕われていたのかということも分かってくると、

「人間としての器」

 を思い知らされた。

「親父の人気は研究していたことに対してだけじゃなかったんだ」

 と、自分が父親を一面しか見ていないことを感じた秋田は、

「これからは、俺が親父の意志を受け継ぐ」

 として、勉強に明け暮れ、高校、大学と主席で卒業。大学卒業の頃には、すっかり父親のように、まわりから慕われる人物になっていた。

 しかし、彼の素晴らしいところはそれだけではなかった。

 決して奢ることはない。謙虚な姿勢が彼の成長を支えていると言っても過言ではなかった。彼が健一の助手に自ら買って出たのも、その気持ちがあったからだ。

 健一の方としても、秋田の噂は耳にしていた。

「優秀な大学院生がいるんだが、まるで数年前の君を見ているようだよ」

 と、教授から話を聞いていたのだ。

 健一も大いに興味を持った。

 他の人にこっそり彼の噂を聞いてみたり、影から様子を見てみたこともあった。そんな彼を見れば見るほど魅力的に感じ、それはまるで「もう一人の自分」が目の前にいるような気持ちにさせられた。

「石狩先生の研究をお手伝いできて光栄に思います」

 と、彼は健一のことを「先生」と呼んだ。少し照れくさい気もしたが、相手が秋田であれば、それほどでもなかった。それは彼が少なからず健一と同じ道を目指しているような気がしたので、自分が先駆者という意味を込めて、先生と呼ばれることを励みにできる。

 先生と呼ばれることが照れ臭いのであれば、それは、自分の研究に確固とした自信を持っていないからではないかと思う。自信を持っていないから、相手におだてられているという思いを抱き、照れ臭く感じるのではないだろうか。

「秋田君は、自分の研究に自信を持てているかい?」

「正直、今は自信があるというわけではありませんが、まずは自信を持てるようになってから、その先が見えてくるんだって思っています。最初から自信を持っているなんて人、本当はいないんじゃないかって思うんですよ」

「確かにその通りだね」

「僕はそのことを父から教わった気がするんですよ」

「それはお亡くなりになられる前に教わったということ?」

「いえ、そうじゃありません。もし父が今も生きていたとすれば、ひょっとしたら分からなかったと思うんですよ。もっとも、父が生きていれば、僕は違った道を進んでいるんでしょうけどね」

 と言って、秋田は笑った。

 秋田の中学時代の心境に関しては、健一は最初の頃に話を聞いた。グレていたというのも聞いていたし、父親が死んで心機一転したという話も聞いていた。

「そうだったね。でもどうしてお父さんから教わったと思うんだい?」

「僕は中学時代まで、父親を反面教師だと思って見ていました。だから、人一倍父親を見てきたつもりだし、急に死んでしまった時は、ビックリしたというよりも、もうこれ以上観察できないという寂しさがあったと言った方がいいかも知れません。だから、父親が死んだことに関していろいろ考えたんです。その時、父親は本当に自分に自信を持っていたのかってね」

「それでどう思った?」

「まだまだ自信はなかったと思います。でも、自信を持つための対策はしっかり持っていたはずなので、時間の問題だったのではないかと思います」

――こいつ――

 秋田の話に、すっかり魅了されてしまった健一は、秋田の顔を見ながら、本当に感心していた。それと同時に、

――俺の二十五歳の頃って、こいつと比べて、どっちが前を見ていたんだろう?

 と、以前の自分と比較してみた。

 健一は、父親以外の人に対して自分と比較して見たことなどなかった。

 この研究室には、尊敬しても尊敬しきれないほどの博士がたくさんいる。しかし、健一はその人たちと自分を比較してみることはなかった。

――おこがましい――

 という思いとは別に、

――研究者というものは、自分だけの孤独なもので、人と比較するなんてナンセンスな話だ――

 と思っていた。

 それだけに、いくら自分の助手とはいえ、比較して見てしまうというのは、それだけ余計に親近感を持ったということに他ならない。この時の、

「自分に対しての自信」

 という話をしていてさらに親近感を持ったのだ。

――この男、話をすればするほど気持ちが接近している――

 と感じた。

 しかし、逆も真なりで、

――それでも、最後には決して交わることのない線の上にいて、限りなく近い距離を保ち続けることになるだろう――

 と考えていた。

 その間には、超えることのできない領域があり、そこに存在するものが「結界」だと思うようになっていた。

 結界というものは、分かり合えない人に対してのものではなく、むしろ、一番近しい相手にこそ存在するものではないかと感じた。

「秋田のそういうところが俺は好きなんだ」

「ありがとうございます」

 二人の間に照れ臭さはない。あるのは、アイコンタクトによるお互いへの納得だけだった。

「でも、反面教師というのは、あまり持たない方がいいかも知れないな」

「どうしてですか?」

「それは君も分かっていると思うけど、相手よりも自分の成長の方が早ければ、いつかは追い越すことになる。追い越してしまっているのに気づかなければ、反面教師をやめないだろう? そうなると、今度は自分が下りカーブを描くようになるんだぞ」

「なるほど、確かにそうですね。でもそれは自分の立ち位置を見失った時に起こることですよね。僕は決して見失うようなことはしないと思っているので、大丈夫だと思っています」

「それならいいんだ」

 秋田と健一は、お互いに父親がこの研究所に携わっていたという点、そして、その父親が事情は違っているが、二人ともいないという点で共通点を持っている。お互いに意識していないつもりでも、オーラは滲み出るものだ。少しでも気を緩めると、相手のオーラに包まれて、忘れてしまいそうな忌まわしいことをさらに思い出すことになる。

 二人の間で存在する忌まわしい過去は、忘れてしまいたいと思っても忘れられるものではない。そうであれば、

――思い出さないこと――

 というのが必須になってくる。

 お互いに完璧な人間ではない。完璧な人間なんかいないと思っているのだが、

「どこが自分たちに足りないんだ?」

 ということを理解していない。

 足りないというよりも気を緩めると、お互いに意識していないトラウマが自分の頭を支配してしまうだろう。トラウマというのは言うまでもない。お互いの父親に対しての想いだった。

 秋田が父親に反発していたように、健一はそこまで父親に執着していたわけではなかった。意識していなかったと言えばウソになるが、秋田が考えていたような反面教師だったわけではない。確かに同じ研究所で研究をすることになったのだが、

「父親の意志を受け継ぐ」

 というほどのことはなかった。

 そんな父親が謎の失踪、しかも、その話は一部の人が知っているだけのかん口令が敷かれていた。秋田はその時まだ大学生だったので、知らないのは無理もないが、何をいまさら話題にするのか、健一には分からなかった。

「石狩博士は、何の研究をしていたんですか?」

 秋田が聞いてきた。

 今まで一緒に仕事をしてきて、秋田から聞かれた初めての父の話題。健一自身、しばらく忘れていた話題でもあった。

「僕にもハッキリとは分からないんだ。何しろかん口令が敷かれていたので、身内と言えども詳しい話は何も聞かされていない。母なら何か知っているのかも知れないけど、母に聞くわけにもいかず、真相は闇の中だね」

「そうだったんですね」

 少し落胆した様子の秋田だった。

「でも、どうしていまさらそんな話をするんだい?」

「これは僕も知らなかった話なんですが、僕の父親が死んだのは心臓麻痺ということになっていますけど、本当はそうではなかったという話もあるんです。ちょうどその時何かの研究を行っているプロジェクトの一員になっていたようなんですが、父親が死んだ話題は研究所ではタブーになっていたようなんです。プロジェクトのメンバーも何も話さなかったようです」

「それで?」

「石狩博士が失踪した理由について、タイムマシンの研究をしていたからだという話を小耳に挟んだんですが、かん口令が敷かれているので、確かめることもできません。実は自分の父もタイムマシンの研究に一役買っていたという話を僕は昔聞いたことがありました。その時の父の研究と石狩博士とが関係があるのかどうかまでは分かりませんが、同じ研究所で、同じ研究が行われている。五年という月日の隔たりがありますが、これって偶然でしょうか? 僕にはこの五年の間に何があったのか、それが気になるんですよ」

 そう言って秋田は頭を下げて考えていた。

 秋田助手がそんなことを考えていたなど、想像もしていなかったが、これから秋田助手に対して見方を変えなければいけないのではないかと感じた健一だった。

 健一は秋田の様子を見て、ただ事ではないと思い、頭の中でいろいろ考えてみた。そして一つの仮説が思い浮かんだのである。

「秋田君は、お父さんの死に、何か疑問を抱いているということなのかい?」

「ええ、僕もそうなんですが、母親の方が疑問を抱いたようなんです。警察は心臓麻痺だという結論で着地しました。確かに変死体だったので、警察の捜査も入り、司法解剖も行われ、その結論が心臓麻痺だったんです。最初は僕も母も、その結論にしたがって、納得しようと思ったんですが、結局納得できなかったんですね。お母さんは、それからしばらくノイローゼのようになって、僕も大変だったのを覚えています」

「秋田君本人も、心臓麻痺には納得がいかなかったんだね?」

「ええ、実は母よりも先に僕の方が疑問を感じたんです。確かに父親には心臓に問題があったのは間違いないんですが、ちゃんと健康診断には定期的に行っていて、心臓に関しては本人も結構気にしていたはずなんです。それだけ大切な研究をしていたということなんでしょうが、そこで不思議に感じたんですよね」

「というと?」

「父はその時、研究所に泊まり込んで、研究に没頭したりしていたんですが、子供の僕から見ても、父が研究の中核を担っているのは分かっていました。時々着替えや荷物を研究所に届けるのは僕の仕事だったからですね。そんな時、本当は疲れているはずなのに、元気に僕に対して応対してくれている父を見て、本当に充実している研究をしているんだって思いました。それまでの反抗期だった自分が恥ずかしくなるくらいだったので、よく覚えています。とにかくいつも笑顔だったんですよ」

 秋田助手の顔は何とも言えない表情になっていた。

「和解できるチャンスだったわけだね」

「ええ、僕もそう思っていました。この研究が一段落したら。僕も研究所に入りたいって言おうと思っていたくらいですからね」

「それで?」

「父が研究所で倒れて病院に運ばれたという一報を聞いたのは、授業中に携帯に連絡が入ったからでした。相手は母親で、かなり取り乱していたので、僕もすぐに病院に駆け付けたんです。すでに集中治療室に入って意識不明の状態でした。ちょうど警察が来ていて、複数の刑事が母にいろいろ質問をしていました。その時は母も少しは冷静さを取り戻していたようで、受け答えは普通でした」

 少し言葉を切った秋田助手は、水差しにある水をグラスに注いで、一気に飲み干した。それは今までの会話でかなり咽喉が乾いていた証拠であるということと、この後、まだ話が続くのだということを示していた。

 秋田助手の呼吸が戻るまで少し待っていたが、呼吸が落ち着いてきた秋田助手はまた話始めた。

「少し不思議に思ったんですが、その時母親がいろいろ質問を受けていたということでしたが、どこで父が倒れたのかということを聞くと、倒れたのは研究所だというではないですか。つまりは、研究所での質問は済んでいて、今度は身内の質問に入ったということですよね。本当なら第一発見者だったり、倒れたのが研究所であり、しかも、その時は泊まり込みで研究所に詰めていたんだから、家族よりも研究所への質問の方に時間が掛かるはずですよ。それなのに、すでに母親に質問に来ているということは、父が倒れてから、かなりの時間が経って、僕に連絡があったということですよね」

「確かにそうなるね」

 秋田助手は何が言いたいのか、まだ分からなかった。

 秋田は続ける。

「変死体とはいえ、事件性があるかどうかは、見ればすぐに分かると思うんですよ。外傷があったわけでもなく、心臓に障害があった父がいきなり倒れたというのであれば、十中八九心臓麻痺を疑うはずですよね。特に警察というのは、すぐに事故や病気で片づけようとするからですね。それなのに、時間が掛かったということは、何か研究所の中であったのではないかと思ったんです。それを誰かが隠そうとしている。しかも、ちょうどプロジェクトに入っていたこともあって、父が何かの渦中だったという仮説も成り立つんじゃないですか?」

 どうやら、秋田助手は秋田博士の死に対して、いまさら疑問を抱いているようだ。

 ただその疑問は今までずっと本人の中で燻っていて、今話をしてくれたのだ。

――どうして今なんだろう?

 という疑問は生まれてくるのかも知れないが、秋田にとって、何が「今」なのか、時間的な感覚が父親の死という事件に関してはマヒしているのかも知れない。

 さらに秋田は続けた。

「実は、もう一つ気になることがあるんです」

「どういうことなんだい?」

「父が死んでからなんですが、研究所でプロジェクトが解散されることもなく、研究は続いたんですが、研究が一段落したのは、父が亡くなってすぐのことだったんです。父が死んでも、まるで何事もなかったかのように研究が続けられ、すぐに結論が出た。おかしいと思いませんか?」

「確かに」

「僕は二つの疑問があるんです。一つは父親の死によって研究が完成したことで、父の研究を誰かが受け継いだのではないかとですね。それがもし、根幹にかかわることであれば、父はその人に研究を横取りされたのではないかという考えです」

「もう一つは?」

「父の死によって、逆に研究が進んだのではないかということです。父だけが一人何か反対意見を持っていて、それが邪魔になった。それで父が抹殺されたという考えですね。こちらは、父が正しかったのか、それとも間違っていたのかは分かりませんが、結果研究は完成した。しかし、それは一切公開されなかったようです。極秘裏の研究ではなかったはずなのに、いつの間にか極秘裏になってしまった。それでも、父の事件があった因縁の研究ということで、公開を控えたというのがその時の話でしたが、それもどこかおかしいですよね」

「そうだね。でも、どちらにしても、警察が心臓麻痺として結論を出し、処理されたんだから、殺人の形跡はなかったわけでよね。そう思うと、どちらの意見にも無理があるんじゃないかな?」

「ええ、確かにそうなんですが、そうなると、気になってくるのが、僕への一報までに時間が掛かったことなんです。研究所の中で父が倒れてから何があったのか。いや、そもそも父が倒れる前から何かがあったのかも知れない。今となってはすべてが闇の中ですが、僕はずっと頭の中で燻っていることなんですよね」

 秋田助手の考え方にはかなりの無理があるように思えた。すでに十年も経っていることだし、それを証明することは困難を極めるはずだ。実際に、その時研究員だった人が今どうしているのかというのも問題だった。

「プロジェクトのメンバーは、どうなったんだい?」

 ほとんどの人が、その研究の成果で出世したようです。教授になった人、博士号を取得した人、さらには政治家に転身した人、バラバラです。

「政治家?」

「ええ、文部科学省に、釧路睦夫という官僚がいるんですが、その人がその時のプロジェクトリーダーです」

「君のお父さんはどこまでの立場だったんだろうね?」

「メンバーの中ではナンバーツーともナンバースリーとも言われていたようです。ナンバーワンを支える人は一人ではないので、そういう位置づけだったんだと思います。ただ、研究員としては、間違いなくナンバーツーだったという話でした」

「でも、かん口令を敷かれていたのに、よくそこまで分かったものだね」

「ええ、母親がどうにかして探ったようなんです。母は父が死んでから、夜はスナックに働きに出るようになりました。当時、その時の研究員が来ていたそうです」

「まさか、そこまで分かっていて、そのお店に勤め出したということなのかな?」

「そうかも知れません。でも、そのことを確認する勇気は僕にはなかった。憔悴しきっている母の姿も、父の死の真相を探ろうとして必死になっている母の姿の両方とも知っているだけに、とても聞くことはできなかったんですよ。でも、母が仏壇の前で、父に調査結果を報告するのが日課になっていたみたいで、その声が聞こえてきたんですよ。僕が完全に眠っていると思ったんでしょうね。その時の母の声は、声のトーンを変えることもなく、恐ろしいほどの冷たさがあり、今思い出すだけでゾッとします」

「秋田君としても辛かっただろう?」

「ええ、そうですね。辛かったというより、その時の母は、僕が知っている母ではないような気がして、気持ち悪さがありましたね」

 その思いは健一にも分かった。

 母親が自分の知っている人ではないと感じたことは、今までにも何度かあったからだ。

「その時に、釧路という名前が何度か出てきたんですよ。僕はその名前がいつも引っかかっていたんですが、何しろプロジェクトのメンバーや研究内容に関しては、一切研究所でも語られていなかったので、実際に詳細を知っている人は、ごく一部の人だけだったようです」

「なるほど、今もその傾向は残っているけどね」

「きっとそれは、元々の研究所という雰囲気に、父の事件が拍車をかけたことで、確立してしまったことなんでしょうね」

「君のお父さんの死に、その釧路という男が絡んでいるというのかい?」

「ええ、何しろプロジェクトリーダーですからね。ナンバーツーの父を亡き者にしようとするなら、少なくともナンバーワンが絡んでいると考えるのが当然ですからね。ただ、今は官僚になってしまったこともあって、手を出すわけにはいかない。母親も苦しんだようです」

 秋田はまた頭を下げた。

「冷たいことを聞くようだけど、君はいまさらそのことを調べてどうしようっていうんだい?」

 そういうと、秋田は頭を一気に上げて、健一を凝視した。

 その表情には危険なものを感じるほど、カッと見開いた目がこちらを睨んでいた。

「何かをしようという思いは今はありません。ただ事実を知りたいんです」

「しかし、もう十年も経っていることだし、そのことが判明しても、君のお父さんが生き返るわけではないんだよ」

「ええ、分かっています。でも、ここで解明しておかないといけない気がするんです。この先、何が起こっても不思議のない状況がこの研究所で起きるような気がしているんですよ。もちろん、妄想にすぎないんでしょうが、それならそれで、解明しておかないと、一生この思いを引きづっていきそうで、その方が恐ろしいんです」

 秋田の気持ちは分かるような気がした。

――ひょっとすると、僕も十年したら、父の失踪の原因を突き止めないと、どうにもしっくりこなくて、同じことをするかも知れない――

 と感じた。

 父は死んだわけではなく失踪したのだ。もちろん、今も生きているという保証はないが、死が決定しているわけではない。それを思うと、時々やりきれない気分になっていた。

「そのことを僕に話したのは、父が失踪した僕なら、君の気持ちが分かるのではないかと思ったからなのかい?」

「ええ、それもあります」

「他にも?」

「ええ、そうなんですが、今の段階では申し訳ありませんが、口にすることはできません。お察しください」

 そう言って、秋田は、深々と頭を下げた。

 秋田助手は、少し考え込んでいたようだが、意を決したのか、また話し始めた。

「この話は、最初するつもりはなかったんですが、ここまで先生にお話したんですから、話した方がいいですね」

「どういうことなんだい?」

「僕が先生にこの話をした理由についてなんですが、やはり同じ父親を亡くしていて、しかも、原因不明の失踪をされた父親をお持ちの先生だから話してみたいと思ったんです。そのことはさっきお話しましたが、それは先生なら分かってくれるという思いだけですよね。お話をするには、きっかけが必要になるんです」

「そのきっかけというのは?」

「背中を押されたとでもいえばいいんでしょうか? 僕にとっては、不可解であり、不愉快でもありましたが、そのおかげで今までモヤモヤしていたものが自分の中に鬱積していたことに気が付いたんです」

 少し大げさに思える前置きだった。

「最初は、今から三か月くらい前のことなんですが、ある雑誌記者という人が僕の前に現れたんです。見るからに胡散臭さが垣間見えました、元々雑誌記者という人種に免疫のない僕にとっては、最初から身構える相手だったんです。その人から見れば僕なんかは、実に与しやすい相手だったのかも知れませんね」

「それで?」

「その人が言うには、十年前の僕の父の死を調べているというんですね」

「君のお父さんは、心臓麻痺が原因で死んだんじゃないのかい? 警察もそう結論づけたんだろうし、それともその時にお父さんは、何か誰かに殺されるような様子でもあったというのかい?」

「いいえ、警察もそんな話はまったくしていなかったし、研究所の方からも、まったくそんな話はありませんでした。母も僕も心臓麻痺に間違いないと思っていましたからね」

「それだったら、どうして雑誌記者はいまさらそんな調査をするんだい?」

「そこなんですよ。僕も不思議に思ったのは。何をいまさら十年も経っていることを引っ張り出そうとしているのかですよね。考えられることとして、その雑誌記者がいろいろな取材を重ねているうちに、まったく関係のないところから、父の死に対しての疑念を抱いたということなんです」

「ということは、逆に言えば、お父さんの死がもし心臓麻痺ではないとすれば、その原因はもっと深いところにあって、広い範囲に影響を及ぼしていると考えることもできるということだね」

「ええ、そういうことになるんですよ。僕は最初その雑誌記者の話をまったく相手にしませんでしたが、いろいろ考えてみると、気になってきたんですよね。何しろ十年前のことで、僕はまだ中学生。警察の発表をそのまま鵜呑みにするしかなかったですからね」

「でも、その時は納得したんでしょう?」

「ええ、母も納得していたようです。もし少しでもおかしなことがあれば、母の性格であれば、警察にもっと食って掛かったでしょうし、研究所にも調査を依頼していたはずですからね」

「お母さんはしなかった?」

「ええ、確かに研究所からは、かなりの金額の見舞金が支払われたようです。父の突然の死で、僕たちの生活は大変なことになるところだったので、見舞金が大きかったことはありがたいことでした。もっとも、僕はそのことを最近まで知らなかったんです。でも、僕が大学を卒業して研究所に入る時に、その時の話をしてくれたんです。『あの時のお金があったから、お前を研究所員にすることができたんだよ』ってね。僕は、研究所からのお金で勉強し、父の跡を継ぐようにして、この研究所に入所できた。本当に嬉しいと思いました。きっと母も僕が喜ぶと思って話してくれたんでしょうね」

「でも、違ったのかい?」

「ええ、それを教えてくれたのが、雑誌記者でした。彼が言うには、『君は確かに研究所のお金で今こうして研究員として研究できる。自分の夢を叶えたと思っているようだけど、でも少しおかしいと思わないかい?』ってね」

「何となく分かる気がする」

 これまで自分のこととして歩んできた人生の当事者である秋田助手には気づかなかったかも知れないが、話を端折りながら根幹だけ聞いて、さらに他人の目で見ていれば、おのずと見えてくるものもあるというものだ。

「分かるでしょう?」

「ああ、要するにその見舞金が大きすぎることに疑念を浮かべなかったことを言いたいんだろうね」

「そうなんですよ。僕は当事者なんだけど、当時は中学生で大人の世界には首を突っ込んではいけないと思っていたこともあり、そのまま勉強して大学に入り、そのまま研究所に入所できたのは、ひとえに自分の努力のたまものだって思っていました。もう少し自分を客観的に見れば、まわりが見えたのに、それを見なかったというのは、逃げに近い心境があったのかも知れません」

「いや、それは仕方のないことだと思うよ。僕が君の立場であれば、どう感じたのか、自信がない。あまり自分を責めない方がいい」

 そう言って秋田助手を慰めた。

「でも、その話を雑誌記者から聞いた時、確かにその通りだと思ったんですよ。見舞金にしては大きすぎる額、だって一般企業とは桁が違ったそうですからね」

「ハッキリとした金額は確認したのかい?」

「いえ、全額という意味ではハッキリは分からないんですよ。年金のように分割で支払われたいましたからね」

「分割?」

 その話を聞いた時、健一には別の発想が浮かんできた。

「ええ、二十年単位だと思います。だから今も支払われているんですよ」

「それは、本当に見舞金なんだろうか?」

「どういう意味ですか?」

「見舞金というのは、一括で支払われるのが普通じゃないかな? この研究所は確かそうだったと思うけど。それについて、調べたりはしていないのかい?」

「ええ、自分は中学生だったので、母親が見舞金だと言えばその通りに信じるしかなかったんですよ」

「そうかも知れないね。でも、見舞金が分割だということはいつ知ったんだい?」

「雑誌記者と話をした後ですね」

「その時に、雑誌記者は、見舞金について何て言っていたんだい?」

「見舞金にしては金額が大きすぎるという話でした」

「じゃあ、分割という話はその時に出たわけではないんだね?」

「ええ、記者から聞いて、過去の預金通帳を見ると、毎月決まった額、研究所から振り込まれていたんですよ。それも、数十万単位のお金ですね」

 健一はこの会社の就業規則や福利厚生について、そんなに詳しいわけではないが、見舞金という名目に分割はないことを知っていた。それは一度上司が会社の帰りに交通事故で亡くなった人がいて、その人には会社から見舞金と労災が下りた。どちらも一括だったような気がする。

「そういえば、母は会社に労災申請をしなかったような気がする」

 秋田助手は思い出したように呟いた。

「労災には申請が必要で、結構大変だったりするよね」

「ええ、母はそれをしませんでした。今から思えば見舞金という名目のお金が大きかったからなのかも知れないな」

「でも、労災申請をしなかったというのは、本当にそれだけなんだろうか? 何か圧力がかかったとも考えられる」

「圧力? どこからですか?」

「研究所か、あるいは、研究所が委託している保険会社になるのかも知れない」

「保険会社……」

 その時、健一には別の仮説が頭をもたげていた。

「君たちが貰っていた見舞金という表現のお金は、本当に見舞金だったんだろうか?」

「どういうことですか? 母もそう言ってましたし、研究所の人もそう言っていました。そして何よりも、雑誌記者の人も、見舞金という言い方しかしませんでしたし、見舞金の金額が大きすぎるということに疑問は感じているとは言っていましたが、分割であることや、それ以上の話はしていませんでした」

「それがそもそもおかしいよね?」

「えっ」

「だって、その人はいろいろ調べて、見舞金が大きすぎると言ったわけでしょう? ということは最初から分割だったということを分かっていて、敢えて君にそのことを言わず、金額が大きいことだけを強調した。何かおかしいと思わないかい?」

「確かにそうですね」

「君は、うちの研究所の福利厚生についてはあまり知らないようだね」

「ええ、あまり興味もなかったし、会社から見舞金をもらっている立場で、福利厚生というのもないものだって思っていました」

「君がそう感じるのを研究所は分かっていたのかも知れない。つまりは、分割であるということをそれとなく知らせるというね」

「えっ、ということは、あの雑誌記者が僕の前に現れていろいろ話したのは、見舞金が分割であることを、僕に調べさせるため?」

「もちろん、その雑誌記者の本当の目的は分からないけど、一つはそれも目的だったのではないかと感じるのも、無理もないことではないかと思うんだ」

「でも、何のために?」

「君に、この会社の福利厚生に対して、あまり興味を持たせないためさ。ここは興味を持った人には福利厚生に関して公表するけど、それ以外は公表していないからね」

「どういうことなんですか?」

「福利厚生の中でも、今回問題になっているのは保険じゃないかって思うんだよ」

「保険ですか?」

「ああ、この会社はあまり知られていないんだけど、会社の内部に生命保険のような制度があるんだよ。名目は大手生命保険の代理店のような感じなんだけど、実質は研究所独自の保険なんだ。そういう意味であまり広く知られては困るので、そのために福利厚生に関しては、あまり公開していないのさ」

「そうなんですね。興味のないことだし、分割で会社からお金をもらっていると思ったから気にもしていませんでした」

「それが狙いだったのかも知れないな」

「何のためですか?」

「君たちが貰っているお金が、保険から払われているということを知られたくないからさ」

 そこまで言っても、秋田助手にはピンと来ていないようだった。

 秋田助手は、確かに研究員としては天才的なところがあるが、世間一般常識という意味では、ほとんど知らないと言ってもいい。普通の生命保険のシステムも、ほとんど知らないのかも知れない。

「君は生命保険とか入っていないのかい?」

「入っています。担当の人が話に来てくれたこともありましたが、チンプンカンプンでしたね」

「ひょっとして、母親任せのところがあった?」

「ええ、そうですね」

「なるほど」

「ということは、難しい手続きなどは母親が全部自分でやると言って任せていたわけだね」

「ええ」

 少し恐縮していたようだが、

「いや、責めているわけではないんだ。これで少し分かってきた」

「どういうことですか?」

「君たちが貰っていた見舞金というのは、本当は会社の保険だったんだよ」

「それが、大きな問題なんですか?」

「すごく大きな問題だよ。見舞金ということであれば、お金は研究所から出ていることになるんだけど、保険ということになれば、保険を掛けていたお父さんの保険から出ていることになるんだよ。決して研究所から出ているものではないので、君たちが研究所に遠慮することなどないんだ。労災だって、本当は貰っておくべきものだったんだよね」

「ええ」

 秋田助手にはまだ分かっていないようだった。

「まだ、分かっていないようだね。見舞金がお父さんの掛けていた保険だということになると、お父さんは何か研究所で自分が死んでしまうということを覚悟していたか、予感があったということではないかな? そうでなければ、一般の会社の生命保険に入ればいいんだからね。要するにお父さんは、研究所の生命保険に入っていることを家族には知られたくなかったんじゃないかな?」

 ここまで言うと、さすがに秋田助手にも事の重大さが少しは分かってきたのか、今までとは明らかに顔色が違っていた。

「おぼろげにですが、ゾクッとしている自分を感じます。何がどうなったんでしょうか?」

「見舞金が生命保険であり、しかもそれが研究所でもあまり知られていないシステムだということであれば、お父さんの死というのもいろいろ見方が変わってくる。君の元に現れたという雑誌記者が原因究明の引き金を引いたことになるんだけど、ただそれだけのことなのか少し疑問もあるんだよ。ところで君はその雑誌記者とそれから時々にでも会っているのかい?」

「いえ、最初に会ってから、数回会っただけです。それも間を置かずに会っていたんですが、今では会っていませんね」

「連絡は?」

「こちらから取ったことはありません。全部相手からのものでした。もっとも、僕も自分から話をしたいと思ったわけではないからですね」

「ということは、そこまでは相手の計算ずくだったということになるんだろうね」

 健一は、頭の中をフル回転させていた。

「君のお父さんがどういう研究をしていたのかということが気になるところだね。何か死にかかわることだったのかも知れないと思うと、少し怖い気もしてきたね」

「そうですね。今まで父の死に対してここまで深く考えたこともなかったので、雑誌記者が現れた時も最初は他人事でした。そんな僕を見て雑誌記者はおかしな笑みを浮かべていたのを今から思えば思い出します。あれは、僕が『いまさら何を』と思っているからだって思ったんですが、他人事の僕を見て、おかしな笑みを浮かべたかったのかも知れませんね」

「きっとそうだと思うよ。ここまで来ると、君のお父さんの死が本当に普通の心臓麻痺だったのかという信憑性は限りなく低くなってしまった。少なくともその時に研究していたことが何か秘密だったのかも知れない」

「ええ、父が研究していたのはタイムマシンのようなものだったと聞いています。だから、僕は子供の頃はSFが嫌いだったんです。父が反面教師でしたからね」

「そうだったね。でも、今ではタイムマシンに大いに興味があるだろう?」

「ええ、完全とは行きませんが。理論上の開発は佳境を迎えています。ですが、僕には理論よりも倫理の方が気になるんですよ。パラドックスのようなものですね」

「それは研究員であれば、皆そうだと思うよ。でも君を見ていると、同じ気になっていると言っても、他の人とは少し違う気がするんだ」

「はい、僕は最初、皆自分と同じようなことを考えていると思っていたんですが、かなり違っていたんです。始まりは一緒だったはずだと思うんですが、どこから狂ってしまったのか、分かりませんでした」

「今では分かっているのかい?」

「ええ、分かっているつもりです」

 秋田の表情は、それまでの中でも一番自信を感じられる顔になっていた。

「どう分かっているのかな?」

「僕は、いつも他人事という視線から入って行くんです。最初から主観で見ることはしない。その目があるから、冷静になれるんだって思います」

「人というのは冷静になる時、持って生まれた天性のようなものと、生きてきた中で培われたものとの二つがあると思うんだよ。君の場合は、生きてきた中から培われたものじゃないかって思うんだ」

「というと?」

「父親に対しての反面教師のような発想だね。君は反面教師にしてきた相手を父親だけのように思っているかも知れないけど、他の人も結構反面教師として見ているところがあるんじゃないかな? 自分と違う面を持っている人に対して、大なり小なり反面教師、下手をすると自分以外の人すべてが反面教師に見えているんじゃないかな?」

「それじゃあ、先生に対してもということですか?」

「僕は、時々君の視線に反発的なところがあると思っていた。それは他の人のように、自分の意見を持っていて、その意見と比較することで、反発的になるのとは違っていたんだ。君の場合は、まず反発的な感情があり、そこから相手の感情や感覚との違いを見つけていき、そこで自分の感情を形成するというやり方になるのかな? そこに『他人事』という発想が生まれてくるんだ」

「それが反面教師に繋がると?」

「そうだね。君はまず『他人事』という感覚から、一歩離れたところから相手を見る。それを冷静な目だって思っていると感じる。その思いが子供の頃の父親への反面教師という発想にフラッシュバックして、重ねてしまうんだね」

「僕は確かに『他人事』という発想は持っていると思うんですが、それと父親に対して感じた反面教師を結びつけているという思いはないんです。反面教師は反面教師、他人事は他人事、違うものだって思っていますよ」

 秋田助手がムキになってきているのに気づいた。頬は紅潮していて、目の輝きはあっても、研究の時のものとは違っている。

「秋田君。この研究所において、君のように反面教師の感覚を持っていたり、他人事というイメージでまわりを見る目というのは他の会社に比べると必要なものだと思っている。だから、ここの研究員にはいろいろな秘密があったり、孤立した感覚がマヒしてしまったりしている人も多いと思う。決してそのことを悪いことだとは言っていないんだよ」

 と、健一は諭すように呟いた。

 興奮気味だった秋田助手は、その言葉を聞いて、ハッと我に返ったのか、

「すみません。少し興奮してしまっていたようですね。でも、どうしてこんな興奮した感情になったんだろう?」

「人というのは、図星を言われると、自分でもどうしていいか分からなくなるものなんだよ。人と話す時というのはどうしても、相手との会話の先を読んで、人がこう言えば、次はこう言おうというように先読みするんだよね。その時人は無意識に、自分の考えていることを相手は言わないだろうと思うものなのさ。だから図星を言われると、せっかく立てていたその先の会話のイメージがすべて崩れてしまい、パニックに陥ってしまう。興奮してしまうのは、そういう時ではないかな?」

 秋田は少し考えていた。

 ただ、図星を指摘されたという意識はなかったのに、どうしてなんだろう?

「その表情は図星を指摘されたと思っていないということだね?」

「ええ」

「じゃあ、さっきの会話で、僕の言葉が君の意識していなかったことを口にしたことで、君はいろいろ考えた。その時、今まで繋がっていなかったことが急に繋がったんじゃないかな? 図星というわけではないが、繋がったことで、今まで自分の中で認めたくなかった思いを認めざるおえなくなった。逆に言えば、認めたくないという思いがあったことで、わざと繋げなかったのかも知れないけどね。これだって、言い方を変えただけで、図星を指摘されたという発想になりはしないかい?」

「うっ」

 秋田は、何か反論したかった。

 しかし、反論できるはずもない。ここまで見透かされてしまっていては、何を言っても、その後に返ってくる言葉が、自分にとって聞きたくないことであるに違いないからだ。

 最初は父親の話を聞いてもらっていたはずの会話だったのに、いつの間にか秋田の中にある深層心理をほじくり返して、さらにそこを抉るような感覚に陥っている秋田は、どうしていいのか分からなくなっていた。

――今まで人から指摘されるようなことはほとんどなかったのに――

 子供の頃に父親から指摘される程度で、母親も何も言わない。学校に行っても、秋田に対して何か指摘するような人はいなかった。下手に指摘しようものなら、その何倍もの指摘が返ってくる。

 実際に指摘されたことはないので、本当に何倍も指摘返すなどということはないのかも知れないが、何かの会話になった時の秋田の理論づけた話に、誰も口を開くことのできないほどの完璧さに閉口していた。

 秋田の意見は無駄な言葉が一切ない。結論づけるためのプロセスの会話でも、余計なことは一切言わない。それが秋田の性格であり、無駄なことを言わないかわりに、言わなければいけないと思われることは、一般的に言わなくてもいいと思えることでも言ってしまう。

 つまりは、無駄がないかわりに、融通も利かないと思われていたのだ。

 次第に会話に秋田が入ってくることはなくなった。

 まわりの人は、

「秋田が入ってこなければいい」

 と、思っていたが、口にできるはずもない。

 しかも、融通が利かないと思っている秋田が、自分から離れていくようなことはないと思われていた。

 それなのに、いつの間にか秋田は会話に入ることはなくなっていた。どうして秋田が会話に入ってこないのか、誰にも分からなかったが、その理由について言及する人は誰もおらず、暗黙の了解で、ありがたいことだと皆が思うようになっていた。

 その時の秋田は、すでにまわりとの会話に対して飽和状態になっていた。無駄なことを言わないということは、

「必要なこと以外は別にいらない」

 ということを示している。

 つまりは、もうすでに彼らのような会話の中に自分にとって必要なものはなくなったということである。

――あんな低俗な会話、僕には関係ない――

 という思いだったのだ。

 すでにその頃になると、クラスメイトは自分よりも下にしか見えなかった。相手をするだけ時間の無駄だったのだ。

 秋田がこんな性格になったのは、父親への反面教師だと思っていたが、実際にはどうだったのだろう?

 確かに当時の秋田は反抗期だった。しかし、何に対しての反抗だったのだろう?

 研究員の父親へどのような反発心を抱いていたというのか、そういえば考えたことがなかった。勝手に、

「反面教師だ」

 と決めつけていたが、考えてみれば、その時の自分のまわりの人は皆反面教師だったはずである。

 反抗期が終わると、気が付けば反面教師は父親だけだった。その時には父親は死んでいたわけだが、反面教師という反抗期の遺物を秋田は、

「死人に口なし」

 として、父親一人に押し付けていたのかも知れない。

 秋田は、父親と似たところをたくさん持っていた。

 秋田は知らないが、いつも他人事という発想から入るのも、父親からの遺伝だった。この性格を秋田は別に嫌いだとは思わない。この性格だからこそ、ここまで研究に行き詰ることもなく進んでこれたのだと思っている。

 秋田が自分の過去を、そして父親のイメージを回想しているのを、健一は黙って見ていた。

 秋田が一人自分の世界に入って瞑想するのは今に始まったことではないが、それはすべて研究に対しての時のことであって、会話の間に一人の世界に入るということは今までにはなかった。それは健一が感じているだけではなく、今まで秋田にかかわった人のほとんどが感じていることだろう。それほど、秋田が研究以外のことで瞑想するのは、稀なことだった。

 どれくらいの時間が経ったのだろう? 秋田はふっと我に返ったが、本人は三十分近くは瞑想していたような気がしていた。

「あ、すみません。何か考え事をしてしまっているようでした」

「いやいや、、いいんだよ。今までに見たこともないものを見せてもらった気がしたよ」

 と、健一は笑顔で言った。

 実際に健一が感じていた時間というのは、十分くらいのものだった。秋田が感じていた時間とはかなりの時間差があった。

 だが、普通の人が瞑想する時は、もっと時間差を感じるものだということを、この時の二人は知らなかった。

 瞑想に入っていた本人には三十分くらいだとすれば、目の前にいて見守っていた人には五分くらいのものなのかも知れない。それほど大きな違いがあったのだ。

 それは、見ている方が感じる感覚の差ではない。瞑想に入る人の方に違いがあるのは明らかだが、秋田のように、普段から無駄なことをしないと思っている人も、瞑想に入った時に感じる時間にも、無駄というのがないのだ。

 理論づけて考えていくと、最初のスピードは他の人と変わりはなくとも、考えていくにしたがって、スピードが速くなってくる。

 加速装置にスイッチが入った時というのは、時間的な感覚もマヒするもので、本当なら無駄がないのだから、もっと短く感じるのだろうが、無駄がないと思っているのは自分だけで、本当は瞑想の中の後ろの方で、無駄を省く努力が積み重ねられている。何が無駄なことなのかというのは頭の中で計算しなければ分からないもの。それは経験から来るものもあれば、持って生まれた感覚もあるだろう。

 秋田の場合は、これに関しては持って生まれたものから来ているようだ。

 瞑想を繰り返すというのも、持って生まれた性格からによるものではないだろうか。

――普段の自分とは違う――

 という感覚が、瞑想しながら浮かんでくる。

 普通の人は妄想している時、

――これは瞑想なんだ――

 とまでは感じるが、普段の自分とは違うという発想にまではいかないだろう。

 瞑想しているということをそのまま受け止めて、余計なことを考えないようにしようと無意識に感じているからに違いない。

「秋田君の父親の死に対して、本当に心臓麻痺なのかどうか。そうじゃないという発想を思い浮かべてみる時が来たのかも知れないな」

 と、健一は呟いた。

 そしてその目が虚空を見つめていることを秋田助手は見逃さなかったが、その思いがどこから来るのかまでは分からなかった。

 健一は、秋田と違って無駄なことを一切しないというような人ではない。

「無駄なことの中にこそ、必要なことも隠されているのかも知れない」

 という考えを持っている。

 そのことを公表したことはないので、知っている人はいないだろう。だが、秋田助手にだけは、何となく分かっている。それも分かってきたのは最近のことであり、そのおかげで健一と秋田は会話が多くなったと言っても過言ではなかった。

 秋田助手にとって、父親の死は、

「口にしてはいけないタブー」

 だった。

 しかし、なぜか健一と話をしていると、タブーと思っていることでも健一にだけは話せそうな気はしていた。無駄なことは口にしたくないという思いは、思ったよりも自分に重圧をかけていた。そのことを秋田自身も分かっているのだが、どうすることもできなかった。

 なぜ自分の中で父親の死をタブーだと思ってきたのかというと、父親の死について一番疑問を抱いていたのが秋田だったからだ。秋田自身はなぜ疑問を抱いているのか分からなかった。真面目に抱いている疑問を、下手に中途半端な形で他の人に話すと、ただの話題の中の肴にされてしまいそうで嫌だった。

 それでも誰かに話したいという意識は強く、一人で悶々としていた。相手がいくら健一であっても同じだった。相手が誰であれ、自分がしっかり話題の舵を取ることができなければ、結果は同じだと思ったのだ。

 しかし、健一は自分と境遇が似ていた。

 父親が同じ研究員であり、しかも、彼の父親は謎の失踪で、家族には青天の霹靂だっただろう。いきなり心臓麻痺で死んでしまったことで途方に暮れてしまった自分の家族の当時の心境と似ている。そんな人の助手でいるのは、秋田としてはありがたいことだった。

 健一に対しては、研究員としても尊敬していた。

 まだまだ研究員としてこれからの健一だったが、若さを考えれば、考え方や決断力には目を見張るものがあった。自分が数年後、健一と同じ年齢になった時に、果たして同じくらいのオーラを出せるかと言えば、自信がなかった。

――よほど、石狩教授という人がしっかりした人だったんだろうな――

 と感じた。

 父親と同じ研究員の道を目指す人も少なくない。中には研究員として未熟さが醸し出されている人もいる。そんな人を見ていると、

――父親はどうだったんだろう?

 と勝手に想像してしまう。

 逆に、研究員として尊敬できる人であれば、

――父親の遺伝によるものだ――

 と考える方が圧倒的に強い。

 もちろん、中には本人の努力によって父親を超えた人もいるだろうが、そんな人は稀だと思っていた。秋田自身、父親がどんな研究員だったのか知らないが、

――反面教師にしたのだから、少しは骨のある研究員であったと思わないとやりきれない――

 と思うようになっていた。

 子供を見て父親を想像するというのは、今に始まったことではなかった。子供の頃から子供を見て父親を想像するくせがついていた。自分の中では、想像した父親と変わりがないというイメージを持つことはできなかった。

 だが、父親が心臓麻痺で突然の死を迎えてから、しばらくは子供を見て父親を想像するようなマネはしなくなっていた。それでも、父親の死から一年が経った頃から、また子供を見て父親を想像するようになっていた。父親の死へのほとぼりが冷めたという意識はなかったのだが、一年という月日が一つの節目だったのは間違いないことだろう。

 その頃になると、今度は以前と打って変わって、子供を見ていて想像した父親が、イメージ通りの人であるという意識が強くなってきた。

――父親の死で何かが変わって、自分の中で何かのスイッチが入ったのかな?

 と感じたほどだ。

 しかも、時を同じくして、その頃から余計なことを口にすることはなくなっていった。

 元々無口ではあったが、口を開くと、重要なことだけを話せばいいのに、ほとんどが無駄なことばかりだった。その意識があったからこそ、無口になっていたのだが、この頃から口を開く前から、何が重要で何が重要ではないかということが分かってきた。そのため、必要なことのみを口にするようになり、無駄なことを口にすることはなくなったのだ。

 本人は、それでいいと思っていたが、まわりからすれば面白くない。一つの集団の中には、無駄なことを無駄と分かっていても、口にする人はいるものだ。まるでピエロのようだが、

「まわりが喜んでくれればそれでいい」

 と、敢えて面白いと思うことを口にして、ピエロを甘んじて演じているのだ。

 また今の秋田のように、無駄なことを一切口にしない。真面目を地で行っている人もいる。そんな人はまわりから見ればどう映っているだろう。

「面白くも何ともないやつだ」

 ということで、なるべく触れないようにされているに違いない。

 いつの時代も真面目なだけで面白くないやつとはかかわりになりたくないという意識を持たれるもののようである。

 秋田助手は、虚空を見つめながら、とても重要なことをボソッと呟いた健一を見ながら、その心境を思い図ってみた。

――どうして、そんなに虚空を見つめるんだ?

 そこに何があるというのだろう?

 虚空というのは果てしないものだという意識があり、じっと見つめていると、そのうちに視線を逸らすことができなくなるような気がしてきた。

 子供の頃に、何気なく遠くの山を見ていると、山に掛かっている雲が目に入ってきた。まったく動いているようには感じない雲だったが、じっと見ていると、ゆっくり動いているように思えてきた。

――雲を中心に見るべきか、山を中心に見るべきか――

 と思いながら見つめていた。

 最初は山しかなかったので、山が中心だったが、気が付けば雲がかかってきていた。あれよあれよという間に、雲が立ち込めてきた。その間は錯覚ではなく、本当にあっという間の出来事だった。

 雲が一定の大きさになってくると、目の焦点は山から雲に移っていた。雲は大きくなるでもなく、動きを見せるでもなく、本当に、

「動かざること山のごとし」

 という言葉通りだった。

 雲を中心に見ていると、雲が動いているという感覚はまったくなかったが、じっと雲を見ていると、次第に遠近感がマヒしてくるのを感じた。山の上に雲がかかっているのに、雲が独立して、少しこちらに近いところに位置しているように思えてきたのだ。

 山が近くに感じるようになったことで、動いていないはずだった雲がゆっくり移動しているのを感じた。

 これはさっきの雲が立ち込めてきた時と違って、自分でも錯覚だと思えてきた。そう思うと、今度は視線を切ることができなくなっていたのだ。

「僕はどこを見ているんだろう?」

 視線を切ることができなくなると、今まで雲を中心に見えていた視線が、いつの間にか山に移ってきているのを感じた。しかし、その前に視線を切ることができなくなってしまったのだ。

「まるで視線を山に移そうとするのを邪魔しているようだ」

 そう思った瞬間、目の前の雲と山の上下関係のようなものがしっかりしているのを感じてきた。

「山が中心で、雲は山を盛り立てるために現れただけのようだ」

 そう思うと、やっと視線を切ることができた。

 我に返った秋田少年は、自分に何が起こったのか分からなかった。

 山を見ていたはずなのに、雲が出てきたことで雲に視線を奪われ、本来の正体に視線を移そうとした時、視線を切ることができなくなった。そこで考えたことが二つの間の上下関係だった。それが視線を切ることができる合図となったのだ。

「これって本当に偶然なんだろうか?」

 偶然だと思っていると、気は楽だった。だが、この経験をしばらく忘れることができず、気が付けば、意識の中にはなく、思い出すことはあった。

 いつもふいに思い出すのだが、それが定期的なことであることに秋田は気づいていなかった。

 そんな時にいつも一緒に思い出すのが、父の死だった。

「本当にお父さんは心臓麻痺だったんだろうか?」

 いまさら考えてもどうなるものでもない。

 父親が亡くなったことで、研究所からたくさんの見舞金が支払われた。不自由をすることもない。母親はそれでも、働いて働いたお金で秋田を養った。

「お母さんは偉いよな」

 自分が研究員になったのは、父の意志を継いだというよりも、頑張って自分を育ててくれた母親への恩返しの想いもあった。

 もちろん、研究することが好きなのは当たり前のことで、サラリーマンになって上司のいうことに服従したり、営業に出て、客にペコペコするような自分の姿を想像することなどできなかった。そういう意味でも研究員になったことは自分でも天職だと思っているし、健一といういい研究員の助手につけたことは、上司として尊敬できる人でもあり、この人についていけば、自分のスキルアップにも最適だったのだ。

 そんな健一が虚空を見つめて黄昏れているような姿は初めて見た。時間的にはさほど長いものではなかったが、昔見た山から視線を切ることができなかった時のように、健一の顔を見て、焦点をどこに合わせていいのか分からないくらいだった。

――先生の言いたいことは分かるんだが――

 健一の言いたいことは、父親が死んだのは、ただの心臓麻痺ではないと言いたかったのだろう。

 父親が死んでから十年が経っているのだから、いまさら調べようもないが、一度湧いた疑念は、そう簡単に消えることはない。

 秋田も、今までに何度も抱いた疑念だったが、

――疑念を抱いても、それを証明することができないんだから、どうしようもない――

 と思い、すぐに考えることを止めた。

 逃げていると感じたことはなかったが、最近、

――逃げていたんじゃないか?

 と思うようになった。

 ただ、自分も今、父親と同じ研究所で研究をしている。父親の死について考えることは、してはいけないことだと思えてならなかった。ここが秋田の真面目なところであり、無駄なことは言わない性格に裏打ちされているのだろう。

 無駄なことを言わないという性格は、次第に無駄なことをしないということにも繋がってきた。

 研究員の助手としては、実に忠実で、研究員にはこれほどありがたい助手はいないだろう。

 自分の考えていることを忠実にそして正確に果たしてくれるのだ。これほどの人材はいないと思うことだろう。

 健一も、秋田を見て、ずっとそう思ってきた。

「真面目過ぎるところもあるが」

 と思いながらも、

「自分の思っていることを率先してやってくれるのは、彼の真面目な性格のゆえんなのかも知れないな」

 と感じさせた。

 虚空を眺めていた健一は、すぐに思い立ったように、

「僕の父親の失踪も、何か考え方を変える必要があるのかも知れないな」

 と独り言ちた。

 その言葉を聞いた秋田は、最初何を言っているのか分からなかったが、自分の父親の死についても、健一からの質問によって、今まで分からなかったことが分かってきた。まるで目からうろこが落ちたような感覚になったのと同じように、健一も自分でいろいろ聞きながら、自分の父親の失踪についていろいろ思うところがあったのであろう。

「僕の父は、タイムマシンに興味を持っていたようなんだけど、それ以外に研究しているものがあったんだ。それが何だったのか、父が失踪したために分からなくなった」

「どういうことなんですか?」

「父の失踪と同時に、父が研究していた資料のほとんどが消えていたんだ。もちろん、すべてではないが、肝心なものは何も残っていなかった。残ったものを分析すると、父がタイムマシンに興味を持っていたということと、何か他に研究していたということだけが分かったんだ」

「その研究については何も分からなかったんですか?」

「おそらくという前置きがつくが、医学関係だったんじゃないかって言われているんだ。もっとも父は医学の博士号を持っていたので、医学関係の研究をしていても不思議はないんだけど、失踪と同時にそのほとんどがなくなっているということは、何か医学だけではないところの研究もしていたんじゃないかっていう話もあったのも事実なんだ」

「でも、詳細に関しては何も分かっていないんでしょう?」

「ああ、そうなんだ。当時の同僚は父の研究の跡がどこかにないかっていろいろ調査していたみたいなんだけど、どこにも見当たらなかった」

「助手はどうなんですか? 助手の人なら何かを知っているんじゃないですか?」

「助手の人は、父が失踪する半年前に辞めているんだ。その後は父の助手はいなかった。辞めた助手にも調査は及んだんだけど、助手も知らないと言っていた。助手に黙って何かを研究していたのか、その時はまだ研究に入る前だったのか、それも分かっていない」

「助手が辞めたというのは?」

「女性の助手だったんだけど、結婚退職らしい。助手の方からの願いなので、父の意向は入っていない。だから、父の失踪には関係ないんじゃないかっていう話だったよ」

「そうなんですね。半年間、石狩博士は孤独に何かの研究をされていたということなんでしょうね」

「そういうことだ」

 秋田は自分も助手なので、助手の立場になって教授を見てみることにした。

――もし、目の前にいる健一に自分がいなかったら?

 と考えてみた。

 今の健一は秋田のことを本当に信頼している。二人で研究することが当たり前のようになっているので、健一にしてみれば、秋田がいなくなるということは考えられないことなのだろう。

 秋田自身もそのことを感じている。

――僕にはこの人だけが先生としてついていける人だと思う――

 と感じていた。

 もちろん、この研究所に来てから最初に助手としてついたのが健一だったので、他の人を知らないというのもあった。しかし健一には秋田が望む「理想の教授像」というものが備わっている。判断力、指導力、研究熱心さ、それでいて奢るところのない性格。

――この人なら、信じてついていける――

 と思えた。

 そんな健一が教授になるのを自分が支え、教授になってくれると、まるで自分のことのように喜ぶだろうと思っていた。

 秋田は、元々人のために尽くすタイプの人間ではなかった。

 研究員になるくらいなので、

――自分は人とは違うんだ――

 という自信を持っていてしかるべきだと思う。

 それくらいの気概がなければ、孤独な研究には耐えていけないだろう。

 大学院時代までの秋田はそうだった。団体で研究をしながらも、いかに自分が目立つかということを考えていた。自分の意見でメンバーが動くという快感もあり、常に頂点にいなければ気が済まなかった。

――そうでなければ、ずっと助手どまりで終わってしまう――

 と感じていた秋田は、そのまま研究所に残ることになっても、その気持ちを変えることなく自我を通すつもりでいた。

 だが、助手をやってみると、今までにない感情が浮かんできた。

 なぜなら、今までずっとトップでいようと心に決めて、突き進んできたのだ。相手が先輩であっても同じだった。しかし、それは学生だから許されたことだ。卒業してしまえばいくら研究所に残ると言っても、立場はまったく違うものになるからだった。

 秋田は研究所の中で、健一に会っていなければ、孤立していたかも知れない。学生時代から孤立には慣れていたが、卒業してしまうとそうもいかない。学生時代と何が違うのか、身に染みて感じたからだ。

 まず一番の違いは、

「結果を求められること」

 だった。

 いくらプロセスが順調でも、最後の詰めが甘ければ、結果がついてこない。そんな状態では研究員としては二流のランクを押されてしまう。

 また、いくら結果が出たとしても、今度はそこからプロセスを見られることになる。つまりは、息が抜けないということだ。

 そんな状態の中、孤立してしまうと、致命的になってしまうのは必至だった。実際に先輩の中で、かなり自意識過剰の人がいて、孤立してでも自分ならできると思っていたのだろう。ノイローゼになってそのまま入院を余儀なくされたという。鬱病を発症し、いまだに入退院を繰り返しているというから、心の奥に受けた傷は、かなりのものだったに違いない。

 しかし、中にはそんな先輩のことを見て、

「俺はあんな風にはならないぞ」

 と、息まいている人もいたが、その人は、気が付けば研究所を辞めていた。

 誰にも言わずに去ったようで、すでに人の顔を見るのも嫌な状態になってしまっていたのだろう。今ではそんな人がいたことすら、誰の脳裏にも残っていないのか、話題にする人は誰もいなかった。

――それも嫌だ――

 いろいろな話を聞いたり見たりしてきたことで、秋田は自分の考えを改める必要性に駆られた。

 だが、今までに培ってきた性格をそう簡単に変えるのは難しかった。

 それでも何とかなってきたのは、助手としてついた相手が健一だったということと、持って生まれた性格が、今までの性格ではなかったということが原因だったのだ。

 秋田が孤立してでも、自分が中心にいなければいけない性格になってしまったのは、父親が亡くなってからかも知れない。

「いくら研究に没頭していても、死んでしまえば同じことだ」

 と思ったのだろう。

 それでも、死ぬまでに自分の何かをこの世に残したいという思いは強く、その思いが秋田の中で、孤立を生む結果になったのかも知れない。

 秋田は遠回りをしたが、健一と出会って、やっと本来の性格を取り戻したと言っても過言ではなかった。

 秋田は、健一に出会って、

「目からうろこが落ちた」

 と思ったことだろう。

 一番ビックリしたのは、秋田の考えていることは、すべて健一に看過されていたことだった。

 しかも、健一はいいことしか言わない。決して自分でもいい性格だと思っておらず。欠点だらけの自分に対していいことしか言わないというのは違和感があった。だが、そのうちに心地よくなって、素直に受け入れるようになった。

――そんなに僕は卑屈になっていたんだろうか?

 と思っていたのだ。

 健一の一言一言が秋田の心に突き刺さり、次第に秋田は健一を慕っていった。

――人を慕うという気持ちがこんなにも気持ちいいなんて――

 と忘れていた何かを思い出したような気がしていたのだ。

 それにしても、自分の父親の死について、今まで疑問に感じたことはなかったのは不思議だった。その理由としては、

――それだけ父親のことを嫌っていたんだ――

 と思っていた。

 確かにそのことに間違いはないが、ただ嫌っているだけではなかったと思う。もし、反抗期が終わるまで父親が生きていれば、嫌ったままでいることはないように思えた。

 そういう意味でも、

――どうして、あのタイミングで死んだんだ――

 と悔やんでも悔やみきれない思いが残っていたのも事実だ。

 その思いはずっと燻っていたのだろう。自分で意識しないまま月日は流れ、健一と出会ってから、まるで今気が付いたかのように思い立ったのである。

――こんな不思議な感覚になったことはなかった――

 この思いも、秋田が自分の本来の性格を取り戻すために必要だったものである。

 健一が秋田をいつもねぎらいながら、本当は何かを探っていたということに秋田が気づくはずもない。秋田は健一にとって最高の助手だった。今までに健一は助手を何人か持ったが、その中でも最高だった。

 健一は、自分の助手の頃を思い出していた。

 健一は、秋田とは逆だった。

 学生時代までは、自分を表に出すことはあまりせず、人の助手のようなことばかりをしていた。

 しかし、そんな中で目だけはいつもギラギラしていた。自分の心を決して表に出すことをせずに、黙って中心人物のすることを他人の目から見ていたのだ。

 それはいずれ自分が中心になった時、まわりからどのように見られるかということを考えてのことだった。そのおかげで、研究所に入って自分が中心になると、その時に培ってきた目が生きることになる。

 そういう意味では健一は秋田と違って、計算高い人だった。

――学生時代はあくまでも、自分が本番で目立つためのリハーサルのようなものだ。リハーサルで目立ったって、しょうがないじゃないか――

 という思いがあったのだ。

 そういう意味でも、秋田とは正反対だった。

 しかし一つ言えることは、二人とも、助手のようなことも、中心になってからのことも、すでに経験済みということである。健一の方が経験も立場も上なので、秋田が健一によって変わることができたというのも頷ける。

 だが、秋田は健一の本当の姿を知らなかった。

――石狩先生は、僕の師匠であり、恩師なんだ――

 と思っている。

 健一も学生時代に、恩師と呼べる人がいた。

 その人は健一の気持ちを理解してくれていて、計算高いところも理解していた。

「君のその性格は利用されないようにしないといけないよ」

 と言われ、

「僕が利用することはあっても、利用されることなんかありませんよ」

 と、自分が表に出ることは決してしない性格だったのに、血気盛んなところはその根底にあった。

「本当にそう言い切れるかな?」

 恩師は、そう言って、健一に含み笑いを浮かべた。

 健一はこの手の含み笑いが一番嫌いだった。カーっと頭に血が昇り、顔を真っ赤にして、冷静ではいられなくなっていた。

「どうしてそんなことが言えるんですか?」

 恩師が含み笑いを浮かべる時、それは自分の発言に絶対の自信を持っている時だった。

 元々恩師は自分の発言のほとんどに自信を持っていて、そこが健一の心を掴み、

――あんな人になりたい――

 と思わせる要因になったのだった。

 恩師は、表情を変えることもなく、健一に向かって呟くように言った。

「策を弄する人は、自分がする時、相手に気づかれないように細心の注意を払うが、意外と相手にされることに関してはまったく考えないものなんだよ。しかも、相手にされてしまった時のショックは半端ではなく、立ち直れないこともあるくらいなので、よほど気を付けておかなければいけないと思うよ」

 この言葉はかなりきつめの口調に感じたが、後から考えれば、この手の話をする時は、どんなに柔らかく言おうとしても、きつめになるのは必至だった。そういう意味ではこの時の恩師の言い方は、一番柔らかかったのかも知れない。一応、温かみを感じることができたからだ。

 この時の言葉は、健一にはかなり鋭く突き刺さったまま、離れなかった。

 そのおかげで今の自分があるとも言えるのだが、この言葉がなかったら、恩師の言うように、ショックを受けて、立ち直れなかったかも知れないとも感じた。

――研究員として研究している以上、その宿命から逃れられないんだろうな――

 一人考え込んでいた。

 その時に浮かんできたのが父親の顔だった。

 自分の父親が謎の失踪をしたというのも、同じように何かが原因でショックを受けて、そこから逃れるために失踪したのではないかと思った。しかし、それなら少しして姿を現せばいいだけのこと、それもできないほど大きなショックを受けたのか、それとも、本当に何かの犯罪に巻き込まれたのか、いまさらそれを証明することはできない。

 しかし、今自分が解き明かそうとしている秋田助手の父親の死の秘密が、ひょっとすると自分の父親の失踪に関わっているのではないかと思えたとしても、それは無理もないことだろう。

 秋田助手の話を聞きながら、健一は自分なりの推理を立てていた。

――おかしなことが多すぎる――

 しかし、女や子供が父親が勤めていた研究所から言われたことを鵜呑みにしたのも分からなくはない。

 相手が会社であっても、臆してしまうであろうに、相手は会社よりも閉鎖的な研究所である。一般人の妻や子供に理屈が分かるはずもない。

「心臓麻痺で亡くなったので、その見舞金です」

 と言われれば、

――額が違う――

 と思っても、それだけ秘密主義の社会でのことなので、見舞金も破格でもありなのだろうと思ったのだ。

 母は、お金を受け取ってから、父のことをなかなか話すことはなかった。

 秋田の母親は性格的に、ショックを受ければ、それに対して逃げ出したいという弱いところがあった。

 夫が死んでしまったという危機的な状況に陥った時、子供を育てていかなければいけないということはいくらお金をもらったとしても、変わりのないことだった。そんな時、死んでしまった人のことを話すことで後ろ向きになってしまう自分が嫌だったのだろう。秋田も少しは母のことを分かっているつもりだった。だから、父のことを話さない母に何も言うことはなかった。

――感謝こそすれ、責めるなどできるはずもない――

 と思っていたのだ。

 だが、この時の孤独という感覚が秋田の中に芽生えたせいで、孤立を悪いことだと思うことはなくなり、学生時代のあんな性格を培うことになってしまったのである。

 秋田が研究所に勤めるようになってからは、母親との会話も回復していたが、さすがに研究所の話をするわけにはいかず、母親からの話を聞くことが多くなった。それだけ秋田の生活は、研究所を中心に繰り広げられていたのだ。

 健一は、その時には漠然とした思いでしかなかったが、自分の父親の失踪が、秋田教授の変死に何か関わっているということを知るのは、もう少ししてからのことだった……。

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