オーロラの精霊

@murasaki-yoka

オーロラの精霊

「はあ……」


 俺、夜野やの極斗きょくとはベッドの上で仰向けに寝転がりながら、眉を下げて重い息をついた。


 部屋には俺しかいないため、室内には溜息だけが一つ響いた。


 ここはフィンランドのとある宿泊施設だ。真上にある天井は透明のガラス張りになっており、北欧の夜空を映し出している。空に星が点々と光り輝いていた。


 この建物は温かいベッドでオーロラを眺められるというコンセプトで作られた、テントのように一つ一つ独立した宿泊施設である。見た目はガラス張りのかまくら、と言えば伝わりやすいだろうか。


 ガラスといっても車のフロントガラスのような丈夫な材質で出来ているため、多少の衝撃にも大丈夫らしい。一メートル四方の格子にガラスがはめ込まれ、ドーム状を形作っている。


 出入り口の部分は扉を出た所にアーチ状の出っ張りがあり、嵐や吹雪でも中に雪や雨が入り込まないような造りになっていた。


 室内は中央にベッドがあり、暖房器具はもちろんのことシャワー室やトイレも備わっていて、一晩快適に過ごせるように設計されている。


 ガラスで出来た部屋だが、ベッドや椅子など備え付けられた家具から爽やかなウッドテイストの香りが漂い、ぬくもりのある内装になっている。シーツや毛布は肌触りが良く、清潔な洗剤の香りがした。


 さすが北欧、毛布もブラウンの色地に雪の結晶が描かれたノルディック柄だった。


 横に寝返りを打つと、側面に近いガラスにランプの光で映し出された俺の姿が見えた。


 少し跳ねるようにセットした茶色の短髪。焦げ茶の瞳にやや釣り目だが、柔らかい印象を与えられるよう整えた眉。通った鼻筋。薄い唇。

 着ている服は黒地にハイネックのウールのセーターに、裏地があるけれど足ラインがスタイリッシュに見える白のズボンだ。


 自分でいうのもなんだが、身なりにも気を使った俗にいうイケメンの類……だと思う。身長も日本人男性の平均ぐらいあり、定期的にジョギングや運動もしているから、体もちゃんと引き締まっている。

 帰国子女なので社交性は海外で培われたのか、女子とも臆せず話せる。


 今回は本来なら大学の卒業旅行ということで、ここには彼女と来る予定だったのだが。


「何で俺がフラれるんだよ、意味わかんねえ……」


 俺は何度目かわからない溜息をついた。

 旅行の一週間前に彼女に別れを切り出されたのだ。付き合いの期間は一年も満たない短いものだったが、思ったよりも傷ついた。女の子の友達なんていっぱいいるけど、結構ショックだったのだ。


 これだけ惨めな気持ちを引きずるなら、つまらない意地張って、一人で旅行に行くんじゃなかった。


 慰めてくれる男友達をもっと作っておけば……、と思いかけたが、いきなり外国に一緒に行ってくれる友達なんてよほどタイミングが合うか、前々から相談しておかないと難しい。上っ面だけで何とかならない人間関係は本当に難しい。


 ふと、俺は鼻をひくつかせた。何だか食欲をそそるシチューみたいな香りが漂って来た。


 ガラス張りの窓からは、中からも外からも景色が丸見えだ。一応、側面はカーテンを引ける仕様になっているのだが、どうせ誰も通らないし男一人だからということで、俺はそのままにしていたのだ。


 見ると、ひとりの現地の人らしき男性が、俺の部屋の前にある広場にいた。毛皮のついた焦げ茶のコートに、毛皮のブーツを身に付けている。


 広場には雪が積もっているのだが、その人は比較的平らな所で焚火をし、その上に大鍋を吊るして調理をしていた。彼が棒のようなもので鍋の中をかき回すたびに、白い湯気がくっきりと見える。


 あれほど湯気が見えるということは、外は極寒だろう。だが、俺はどうしてもその匂いが気になった。夕方に食べたサンドイッチが物足りなかったというのもある。


 けれどそれ以上に、まるでやって来てほしいと言わんばかりにしっかりと漂うその美味しそうな香りに惹かれたのだ。


 匂いに誘われるように、俺はダウンコートを着てさらに耳当て、ウールのニット帽、手袋にスノーブーツを身に付けると外に出た。


 当たり前だが外はきん、と冷え込んでいた。日本の寒さとは全く違う。外気温は氷点下三十度にもなる時もあるという。雪は降っていないのに、冷凍庫のようだ。


 肌の露出は頬や鼻、目元だけという最低限であるが、それでも寒い。寒いというより痛い。鼻呼吸をしているが、鼻腔に侵入するその空気すら痛かったので、俺は慌ててマフラーに顔を埋めた。


 地面の雪は固く凍り付いている。スパイク付のスノーブーツで踏むと、ザクザクという音がした。


 近くには俺の泊まっているタイプと同じ建物が、一定の距離を保ちながら並んでいる。ほとんどの建物は側面のカーテンが引かれていたものの、オレンジ色の温かみのある光が漏れていて、周囲を仄かに照らしていた。


 この宿泊施設や広場は国立公園の一部となっているため、周囲に民家はなく、針葉樹林に囲まれている。

 宿泊施設から誰かが出てこない限り、今この場にいるのは、俺とその男性の二人きりだった。


 俺が広場に近付けば近付くほど、香りは一段と濃厚になった。

 広場で調理をしていた男性は俺の方を向いた。ぱちぱちと火の粉の爆ぜる音が聞こえる。


 煙が強く出ないよう、炭も使っているのだろう。おかげで煙の匂いで料理の香りがかき消されることもない。

 調理の火と周りの建物から漏れる明かりに照らされて、男性の姿はよく見えた。


 白や銀に近い夜闇に目立つ髪色にまず惹きつけられた。髪質はふわりと柔らかそうだ。たれ目で色素が薄いのか、瞳の色は青く澄んでいる。大きめの鼻に純朴な顔立ち。

 髭はないし年齢も三十代頃と若いけれど、フィンランドということもあって、俺はサンタクロースを思い出した。

 耳当てはしているものの、帽子は被っていないので現地の人とはいえ大丈夫なのか心配になってしまう。


「ああ、いらっしゃーい」


 その人はのんびりした声で挨拶した。低いけれど、相手に警戒心を与えない柔らかい声音だった。

 誰かが訪れたのが嬉しかったのか、瞳の奥が輝いているのがわかる。


「こんばんは。何を作っているんですか?」


 俺も愛想よく聞こえるように、明るい声音で尋ねた。こんばんは、だけフィンランド語で後は英語だ。

 言っても帰国子女なので、日常会話の英語なら問題なく出来る。

 フィンランドの公用語はフィンランド語とスウェーデン語だが、学校教育で幼い頃から習うらしく英語が話せる人も多い。

 さすがにフィンランド語は言語が全然違うので、行く前にさらっと挨拶を勉強したぐらいだが、こうちょっとした挨拶を交わせると、親しみを持ってもらえやすい。ような気がする。


「ロヒケイットだよ。サーモンのスープなんだ」


 ロヒケイットとはフィンランドの伝統料理の名前だ。ガイドブックに載っていた。

 その人は木の器に鍋の中のスープをたっぷりと注いだ。木をくり抜いたような形の深めの皿だ。

 丸みのある流線形で、つるりとしていて触り心地が良さそうだ。

 これもフィンランドの伝統工芸で、確か『ククサ』という名前がついていた。

 贈られたら幸せになれるという言い伝えがあるのだとか。


「はい。あったまるよ。食べて食べて」

 俺がまだ何も言ってないのに、彼は器を差し出した。


「ここ寒いので、中で食ってもいいですか?」

「ダメダメ。せっかくのあったかいスープなんだから、外で食べた方が美味しいよ」

「外が寒いから言ってんだけどなあ……」


 何となく彼のペースに呑まれてしまった俺は、椅子を探した。

 鍋の傍に人一人が十分に腰掛けられる丸太が置かれていて、彼がとんとん、と叩く。なるほど、ここに座れということか。


 座ってみると、意外と焚火で周囲の空気はじんわりと熱をはらんで暖かくて、俺はほっとした。


 俺はスプーンももらうと、じっくりとその湯気立ったスープを見た。

 クリーム状の白いこってりしたスープだ。角切りのジャガイモ、人参、玉ねぎ、そして大きく切ったサーモン。緑のハーブらしきものが千切って散らされている。

 何かと尋ねたら、ディルというハーブの一種なのだと教えてもらった。ディルには魚の臭みを抑えてくれる効果があるのだそうだ。


 マフラーをずらして、ふうふうとしてから、俺は一口食べた。舌の上に熱を持った味が広がった。


「ん!」

 クリーミーな甘味と整った塩味の絶妙なバランス。コクがあるのにすっきりとした味わいのスープだ。

 脂ののったプリプリのサーモンが舌の上で踊っている。初めて食べる味だけど、マジで旨い。爽やかな風味はさっき聞いたディルというハーブだろうか。

 じゃがいもはホクホク、玉ねぎはとろっとしていて、人参も柔らかい。野菜それぞれの甘味がしっかりと感じられる。


「旨い!」

 俺は思わず声をあげた。美味しい時はつい母国語が出てしまう。


「外国の言葉だけど、気持ちは伝わったよ」

 その人は口元をほころばせながら、満足そうに頷いた。


 俺はもぐもぐと忙しなくスプーンと口を動かした。一口食べるごとに、体も芯から温まっていくようだ。この寒さで冷めないよう、温かいうちに食べてしまいたい。そして何より旨いので、手と口が止まらなかった。


 俺が食べるのをその人は嬉しそうにずっと見ていた。そういえば、この人は食べないのだろうか。自分が食べるために作ったのではないのだろうか。

 俺がそんなことを考えていると。


「もうそろそろだね」

 その人は空を見上げた。

「え?」

「オーロラ。今から出現するよ。僕にはわかるんだ」


「でも、どれだけオーロラの出る条件が揃っていても、見られるかどうかは運によるって」

「君が見られるのは、とっておきのオーロラだよ。大丈夫。僕を信じて」

 そして彼は俺の隣に座って、穏やかな眼差しをこちらに向けた。


「一緒に見よう」


 まるで俺の寂しい心を汲んだように、彼は目を細めて笑う。

 ただの観光客の一人である俺の気持ちなんて知るわけがないのに、この人がくれたその一言が、泣きたくなるぐらい嬉しかった。


「すごく、楽しみです」

 俺はからになった器を横に置くと、空を見上げた。月や雲はなく、星が散らばる深い闇。

 静かに眺めていると、北側の空に徐々に薄い緑の光の帯が見えてきた。


「あ……」

 俺はよく見ようと目を見開いた。


 じわじわと広がるように光が揺れている。まるで踊っているかのようだ。

 高度にしてどれぐらいだろう。始めは薄かった黄緑に近い色が、徐々に若草のような鮮やかな緑に色づいていく。

 それと同時に光は縦に波打ち始めた。


 光が呼吸をするように、高く長く伸びていく。

 蛍光の緑の線が高くになるにつれて、頂点に近い方は紅色に変化していく。オーロラは高度によって色が変わるのだ。


 やがて爆発したかのように波が広がり、見える限りの地平線の彼方まで空いっぱいに広がった。この現象に音がないのが不思議なぐらいだ。首を思いっきり逸らすと、真上にも目に染みるような光のウェーブが見えた。

 空の磁波が渦巻いているのがわかる。地球が生きている。そう感じた。


「すげー……」

 開いた口から感嘆の声が漏れていた。

 なんというか、地球や宇宙の壮大さを感じ取ってしまう。

 一人で来た後悔や寂しさが、ちっぽけなことに思えた。この景色が見られるなら、行かないという選択肢の方があり得ない、と今なら思えた。


「この地域の人たちは、オーロラを奇跡の贈り物だと考えて信仰したんだ。綺麗、という言葉では表現しきれないぐらい素晴らしいと思わない?」


 彼の問いかけに、俺も万感の想いを込めて頷いた。

 けれど今、綺麗だと感じるのは、一人じゃないから、というのも大きい。

 一緒に見てくれる人がいるから、こんなにも美しく見えてしまうのだろう。


「この美しさを、凍った夜空の下で見てほしかったんだ。ガラスのない、澄んだ空気の下でね」


 横を見ると、彼の髪がオーロラの光で美しく反射していた。

 ゆらゆらと揺れる光に合わせて、数秒ごとに色合いが変わっていく。

 幻想的な姿だった。


「……一生忘れられない思い出になりました」


 多分俺は、オーロラを見るたびに今日のことを思い出す。

 眩いまでの感動に加えて、冷え切った寒さの中で食べた温かいスープの味や香りを思い出すし、ぱちぱちという焚火の音が脳裏によみがえるだろう。


「どうして、誘ってくれたんですか?」

 俺は尋ねた。すると彼は俺の胸のあたりを指さした。


「だって君の寂しい心が伝わってきたから」

 俺は驚きと共に瞬いた。


「え、どうして俺の気持ちが……」


 オーロラの光で揺れる彼の髪色を見ながら、俺は不思議に思った。あんなに高い位置にあるオーロラが、美しく反射する様を。

 そして彼は、何故オーロラが出現するタイミングがわかったのだろうか。出現したオーロラがとっておきになることも。どうして。


「あなたは……一体……」


 俺が尋ねるとオーロラの髪を宿したその人は、謎めいた、けれど優しい笑みを浮かべていた。


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