第32話 春に包まれているかのような

 時彦を見上げた純太はパァッと顔を輝かせるが、すぐに表情を曇らせた。まるで、とても脆い宝物に触るかのように、ビクビクと恐れている表情だった。


 何故、そんな表情をするのか。時彦はその理由を直ぐに察し、目を伏せた。


 その時、床に体を打ってのたうち回っていた司乃が、頭を抑えながら立ち上がった。そして純太や女性たちに気が付く。


ててて……。もう、紅華ちゃんったら、何もあんな乱暴に――あれ、早水さんが何でここにっ? しかも、お婆さんに息子さんまで。え?」

「私が呼んだんです、師匠」

「え、紅華ちゃんが?」

「はい」


 紅華は雨の精霊である早水家の面々と困惑する司乃と時彦をダイニングテーブルに座らせ、事情を説明する。背筋がシャンッと伸びた品格ある老婆と純太を見やる。


「二ヵ月以上前でしたか、買い物の帰りに香澄かすみさんと純太くんをたまたまお見かけしたんです」

「あ~、確か電子部品か何かを買いに行った日だね。珍しく外に出たと思ったら、大荷物を抱えて帰ってきたからよく覚えてるよ」


 それで? と視線を問いかける司乃に、純太の祖母である香澄が口を開いた。


「その日、私は孫と映画を見に行っていたのです。しかし、久しぶりに人間の領域に出た事で少し疲れてしまい、いつの間にか純太の手を離してしまったのです。そしたら純太が派手な格好をなさった若者とぶつかってしまって」


 司乃が険しい表情になる。


「純太がお召し物を汚したのだと言われ、人間の常識に疎い私はどうすればいいかと戸惑ってしまって。その迷いが伝わったのか、純太が怖がって泣いてしまい……」


 情けない限りです、と老婆は視線を下げた。司乃が首を横に振る。


「いえ、難癖をつけた若者が悪いのです。どうせ自分たちの方が純太くんにぶつかったのでしょうし……」


 事実、その通りである。というか、若者たちは純太を蹴とばしかけたのだ。それに服も汚してなどいない。


「純太くん。同族が怖い思いをさせてごめんね」

「ううん、大丈夫。だって、お兄ちゃんが助けてくれたから」


 純太は時彦を見やった。司乃は「ああ、なるほど」と頷き、推測を述べた。


「謙虚な時彦くんはいつの間にか消えていて、早水さんたちがお礼を言えずに困っていた。そこで紅華ちゃんが繋ぎをしたわけね」

「はい。つい先々月の例の件の時にたまたまその話題がでまして。それで、雨の精霊の力の不安定期である梅雨が明けた後、紹介するという話になったんです」


 香澄と遥香が背筋を正し、時彦に頭を下げた。


「天井さん。あの時は本当にありがとうございました」

「私からも、お母さんと息子を助けていただき、本当にありがとうございます。息子はあの日から天井さんをヒーローだと言っており、お会いしたいと思っていました」


 そして純太が、雨上がりの空のような笑顔を浮かべた。


「お兄ちゃん、ホントにありがとう!」

「い、いや――」


 癖なのか、時彦は思わず首を横に振ろうとしてしまう。けど、その前に紅華が耳元でコソっと言った。


「時彦さん。感謝は素直に受け取るものですよ」

「うっ」


 時彦は恥ずかしそうに視線を動かし、


「どうしまして」


 柔らかくはにかんだのだった。



 Φ



「純太。また、今度会おうな」

「……うん」


 すっかり日も暮れ、早水家は帰宅することとなった。純太が帰るのを少し嫌がっていたため、時彦はまた会う約束をした。


「じゃあ、私は早水さんたちを送ってくるから」

「分かりました」


 どうやら司乃は早水家を家まで送るらしい。夜遅くというのもあるが、まだ梅雨が開けて間もない。日本に暮らす雨系統の精霊は梅雨の時期やその前後は力が不安定になりやすいそうで、万が一の時のためだそうだ。


 カヤンやスヴァリアたちも体を動かしたかったのか、司乃についていった。

 

 司乃たちを見送った紅華と時彦は家の中に入る。廊下で時彦は紅華に尋ねた。


「……その、紅華。純太は僕について」

「大丈夫ですよ。純太くんはとても賢い子です。秘密は守ってくれます。でなきゃ、私も師匠の前で時彦さんを紹介しませんから」

「そうか」


 リビングに戻った時彦と紅華は、なんとなく隣り合ってソファーに座った。二人とも妙に気まずくなり、ソワソワと視線を彷徨わせながら黙ってしまう。


 時彦が意を決して口を開く。


「あの、今日は、ありがとう」

「はい?」

「誕生日会。提案したの、紅華だろ? 凄く嬉しかったから……」


 笑う時彦の黄金の瞳は愛し気に細められていた。その横顔に紅華は目を見開き、頬を少し赤くした。


「どういたしまして。時彦さんが喜んでくれて嬉しかったです」

「ああ」


 穏やかに笑った時彦は、話を変える。


「そうだ。来週に生地が届く」

「生地ってローブのですか?」

「ああ。頼んでいた知り合いからメールがきてな。生地が届いたら、すぐにローブの修復と新しいローブに取り掛かろうと思ってる。あと、作業着の方は明後日までには完成すると思う」

「そうですか! ありがとうございます、時彦さん!」


 紅華は嬉しそうに笑った。


 そして何かを思い出したのか、「あっ」と声を上げ、立ち上がる。突然の紅華の行動に時彦が首を傾げる中、紅華は慌てて自室に消え、綺麗に包装された小箱を持って戻ってきた。


 恥ずかしそうに目を伏せながら時彦の隣に座った紅華は、その小箱を時彦に渡した。


「これは……?」

「誕生日プレゼントです」

「え、けど、昼間に――」


 昼間の誕生日会の時に時彦は紅華から既に誕生日プレゼントを貰った。コーヒーが好きだという時彦に合わせたマグカップだった。


 なのに、また誕生日プレゼント? と時彦は疑問を口にしようとして、紅華が遮るように叫んだ。


「選べなかったんですっ! さ、最初は候補が十個以上あって、どうにか二つまで絞ったんですけど、それでも選びきれず……。というか、全部買おうとしたら椿さんに怒られまして……」

「……」


 目を伏せた紅華は、ポショポショと恥ずかしそうに言った。その様子に時彦は驚いたように目を見開き、それから思わず噴き出してしまった。


「ぷっ」

「ッ、時彦さん。今、笑いましたねっ!」

「い、いや、違うんだ。その、凄く可愛らしいと思って」

「かわっ!?」


 紅華は真っ赤になった顔を両手で隠しながら、時彦に背を向けた。背を向けられた時彦は、自分の言葉が紅華の気分を悪くさせたのだと勘違いし、慌てて弁解する。


「ち、違うんだ。僕のために悩んでくれて嬉しかっただけで。変な意味とかはないんだ」

「……分かっていますよ」


 変な意味がなかったことに何故か少しばかりの悔しさを感じつつ、紅華は嬉しそうに微笑んだ。


 時彦はほっと胸を撫でおろし、小首を傾げた。


「その、紅華。開けて見てもいいか?」

「……ええ」


 時彦は丁寧に小箱の包装をほどき、蓋を外した。中には、ハンドクリームが入っていた。


「……つけてみてもいいか?」

「ええ、是非」


 時彦は手に取ったハンドクリームの蓋を開けた。途端、優しい春の匂いが鼻をくすぐり、目を見開いた。


 時彦が手に取ったのは、舞い散る桜の花びらような柔らかい白のクリーム。それを手にゆっくりと広げていく。


 細く、それでいて男性らしい無骨さも感じる指で、自分の手のひらを撫でクリームをなじませていく。手首、手の甲、手のひら、指先、爪の間まで、丁寧に丹念に。


 そのたびに水仕事や裁縫で荒れた肌が潤い、時彦の白く血色のよい手がしっとりと輝く。


 その仕草は愛情深く大切な存在を優しく扱うかのようで、紅華はドキッと目を奪われた。


 そして時彦は最後の仕上げとして余分なクリームをそっと拭き取り、クリームに包まれた手のひらを自分の顔に寄せた。


「……いい匂いだ」


 黄金の瞳は柔らかく濡れていて、遠い遠い過去を懐かしむような微笑みが時彦の顔に浮かんだ。


 時彦は息を飲んでいた紅華に微笑んだ。


「ありがとう、紅華。本当に、本当に嬉しい」

「……どういたしまして」


 紅華は掠れた声でどうにか返事を返した。


 それから、時彦と紅華は他愛もない会話をした。ずっとした。


「それでですね――」


 胸の奥から湧きあがってくる感情に混乱していた紅華は、その会話の内容をあまり覚えていない。夢心地のような気分だったのは確かだ。


 そして突然、時彦が紅華の肩にもたれかかった。


「すぅすぅすぅ……」


 どうやら時彦は寝てしまったらしい。


「……疲れたんでしょう。誕生日を祝われたのが嬉しかったのか、かなりはしゃいでましたし」


 紅華は時彦の頭を優しく撫でながら、昼間の時彦の様子を思い出す。ボードゲームやテレビゲームなど色々な遊びをしたが、時彦はその全てを全力で楽しんでいた。


 いつもの時彦ではあり得ないほど、笑っていた。


「……けど、このままじゃ風邪を引いてしまいますね」


 紅華は起きないように時彦をそっとソファーに寝かせる。自分の部屋から予備のブランケットを持ってきて、時彦にかけた。


「枕はないので、これで我慢してください」


 そして再びソファーに座った紅華は、まるで言い訳の様な言葉を呟きながら自身の太ももの上に時彦の頭を乗せた。膝枕だ。


「ふふ」


 気持ちよさそうに眠る時彦の寝顔に紅華は頬を緩ませた。


 けど、途端、時彦の寝顔が歪んだ。


「……ごめん。ごめん。ぼくが、ぼくがいなければ……」

「ッ」

「ひとりにしないで。いなくならないで……」


 悪夢を見ているのか、時彦は小さく涙を流しうなされていた。


 紅華はその小さな涙を指で優しく拭った。一瞬だけ、覚悟を決めたかのような険しい表情を浮かべ、それから優しく時彦の頭を撫でた。


「……大丈夫です。私は絶対時彦さんの傍にいます。隣いますから」

「…………すぅすぅすぅ」


 紅華に頭を撫でられて安心したのか、時彦は小さく穏やかな寝息を立てたのだった。






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 読んでくださりありがとうございます!

 

 中途半端で申し訳ないのですが、一旦ここで完結としたいと思います。

 理由としまして、単純なスランプとカクヨムコンへ投稿する新作の執筆に時間を充てたいと考えたからです。

 本当にここまで読んでくださったのに申し訳ありません。





また、新作『ドワーフの魔術師』を投稿しています。

ドワーフの魔術師がエルフの戦士と一緒に世界を旅するお話です。ぜひ、読んでいってください。よろしくお願いします。

https://kakuyomu.jp/works/16818023213839297177

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魔女と食事をしたら、甘い魔法に堕とされて逃げられなくなっていた。 イノナかノかワズ @1833453

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