MEMΦRIES

雨柳ヰヲ

第1話 惑星博物館

 翠色の波が細かな白泡を吹きながら打ち寄せ、音も立てずに砂浜を濡らす。

 真昼の太陽の光が空全体を覆う白っぽい靄の中で飛散する。

 ずっと遠くの方の水平線はうっすらと紫がかっている。ちょうどその上を飛行機が飛んでいて、気流が霧状の雲を碧空ごと割いていく。

 空に開いた隙間の中に銀色の街が見えた。幾何学模様を描く建物の景色だ。少しすると靄の中に霞んで消えた。

 波打ち際に沿って歩きながら水平線上を眺めていたルノは、小さくため息を吐いて朽ちた流木に腰掛けた。流木はイミテイションだ。軽くて丈夫な炭素系の素材で本物そっくりに作られている。

 ルノは片足で砂を蹴る仕草をするが、砂は舞い上がらない。これらは全て映像だ。

 この<惑星博物館>では、「水の惑星」のはるか昔の様子を、精巧に作られた立体映像で細部まで体験できる。

 ルノは学校が終えるといつもこの「南の島」セクションへ足を運ぶ。波の音を聞きながらだと宿題が捗るのだが、今日はその波の音が聞こえない。

 システムの故障だろうか。

 ルノは立ち上がり、<惑星博物館>の管理局へ連絡するため交信機を探した。交信機はヴィジョンに馴染むように設置されており、注意深く探さないと見つからない。ルノは観測木屋とボートの中を見て回った。さらには草叢の中に手を入れて探ったが、どうやらこの近くにはないらしい。背を伸ばして周囲を見回し、少し離れた場所に見える灯台に目を留める。灯台はずいぶん離れている。一度登ったことがあるが、やはりイミテイションで中に入ることはできなかった。

 諦めて帰ろうかと考えていると、灯台の方から誰かが歩いてくるのが見えた。

 背の高い、銀色の髪をした少年だ。ルノは彼が近付いてくるのを待った。彼の歩いた後の砂には足跡がついている。つまり、彼はヴィジョンだ。ルノよりも少し年長のくらいの年頃で、聡明さと柔和さを併せ持つ整った顔立ちをしている。

 ヴィジョンの少年の眸にルノは映らない。少年はルノの前を通り過ぎ、歩いていく。ルノは銀髪の少年の細く繊細なうなじを眺めた。後頭部の襟足は丁寧に刈り込まれている。よほど身だしなみを気にする性質なのか、さもなくば他者の手本となるべく厳しく管理されているだろうと思った。それほどに少年の歩く姿は洗練されている。ふと少年が立ち止まり、辺りを見回した。ルノは、自分の不躾な視線に勘付かれたような気がして咄嗟に顔を背けた。少年は誰かを探している。岩場の蔭に別の人影が現れ、こちらへ向かって手を振るのが見えた。銀髪の少年の唇が動いた。何かを言ったようだが、やはり音は聞こえない。ルノはその少年の声を想像した。きっと、澄んでいて、砂浜から海へと返す名残波のような落ち着いた声なのだろう。少年は早足で岩場へ向かっていく。後ろ姿は霞んで消えるまで目で追った。

「ルノ、」

 突然背後から声をかけられ、ルノはびくりと肩を揺らした。振り向くと、よく見慣れた顔がすぐそばにある。

「ラル、驚いたじゃないか。」

 白金色の髪をした背の高い少年が、水色の眸を愉快そうに輝かせている。

「ルノがぼんやりしてるからだろ。」ラルはそう言いながら砂浜に腰を下ろした。

「ぼんやりしてた訳じゃないよ。」ルノも隣に座る。「音が聞こえないから過敏になってたんだ。」

「音?」

「ほら、汐騒も風の音も何も聞こえてこないじゃないか。それに、今日はなぜかビジョンたちもほとんどいない。」

「ああそうか。」

 ラルは辺りを軽く見回す。普段は周囲の変化に誰よりも聡いラルだが、今日に限っては気付かなかったようだ。珍しいこともある。ルノが「システムの故障だと思う。」と言い、再び交信機を探すため立ちあがろうとすると、ラルはその腕を掴み留めた。

「俺が後で連絡しておくよ。それより|遊戯<ゲーム>をしないか。昨日の続きさ。」

「昨日?」ルノは首を傾げる。

「何だ、また忘れたのか。<12412Φ178418>だよ。ΦΦ 314 819 01111 1974 198124 813 14173417 131419 1914 514176419 1974 1501819 22178194 1241214178418 8131914 4027 1419741718 11438418」

 ラルの声が一瞬途切れた。頭の中に数字が閃き、ルノは目を瞬かせる。

 ラルが手を伸ばしてルノの胸の中心の釦を指先で突いた。虹色に照る星を象った釦だ。釦が一回転すると、ルノの鎖骨から鳩尾の上まで亀裂が入った。音もせず亀裂は左右に開き、ルノの胸の内側が露わになる。そこは暗く、夜の森の茂みのようだ。絡み合う神経繊維の隙間から赤い光が漏れ出している。茂みの中で小さな石が赤い光を帯びて明滅していた。ルノは呆気に取られたまま自分の胸を見下ろしている。

「ルノ、」

 ラルに呼ばれて顔を上げると、ラルの胸元も同じように開いていて、奥から水色の淡い光を放つ石が覗いている。ラルが体を寄せてルノの背中に両腕を回し、互いの胸を重ね合わせた。体の中で、二人の石が揺れて触れ合い、繊維が縺れるのを感じた。耳元でラルが小さく息を吐いた。

 潮風がルノの頬を掠め、波の音が聞こえた。

 穏やかな海上を滑りながら水平線へと向かう。風が吹いて体が浮き上がった。実際には体は浮いておらず、ヴィジョンが動いているだけだ。平たい岩のような象をした雲が近付いてくる。雲ではなく、実際は巨大な空飛ぶ街だ。たくさんの人がいて、たくさんの池や林や建物がある。ルノのそばを小型の飛行船が掠めた。体から重さが消え、ラルがルノの耳元で何かを囁いた。「Φ 174124121417」

「何?」

 ルノの問いにラルが答える前に、今度は降下を始めたため、ルノは恐怖を感じてラルにしがみついた。風が二人の体を受け止める。海面が迫り、ゆっくりと海の中へと入っていく。海の中には黒い靄が渦を巻いている。下へ下へと降りていくと、ぼんやりと光を放つ一帯があった。二人は海底に降り立った。化石化した珊瑚礁が広がっている。周辺にはぼんやりと発光する無数の丸い球が小さな管に繋がれ、海中に吊り下げられている。球は両手に乗るくらいの大きさで、中に何かが入っているようだ。

 ルノは球の一つに顔を寄せ、表面を覆う藻の隙間から覗いてみた。球の中に、誰かの顔があった。首から上の頭部だけが収められている。

 ルノは、濁った海の中の、ずっと遠くの方にまでこれらの球の群生が広がっているのを目にした。

「これ、全部?」ルノはラルに尋ねた。

 ラルは頷き、そばにある球を指差す。

「覗いてみて。」

 ルノは言われた通り球の中を覗き込んだ。

 茶色の癖っ毛が顔のほとんどを覆う、小さな頭部が収められていて、ルノはしばらくじっと眺めた。

「僕?」

 ラルが頷く。

「思い出した?」ラルがそう聞いた。

「思い出したって、何を? これはヴィジョンだろ?」

 ラルは眉を少しばかり顰めた。

「ルノ、これは…」

 ラルの声を遮るように、警告音が鳴り響き、周囲のヴィジョンが乱れる。

「見つかったな。」ラルが低く呟いた。

 ヴィジョンは、惑星博物館の「南の島」セクションの砂浜に戻った。

 警告音は止まっている。

 ルノはラルの視線の先に、銀髪の少年がいるのを見とめた。

 少年は海を背にして波打ち際で立ち止まったまま視線をこちらへ向けていた。その少年の様子にルノは違和感を覚えた。

 彼は、ラルを見ている? でもそんなはずはない、ヴィジョンは<惑星博物館>が作成した映像なのだから、彼にこちらが見えるはずはない。

 ルノはラルと少年を交互に見た。

 少年の唇が動いた。しかし、やはり声は聴こえない。

 ラルも唇を動かした。ラルの声も、なぜかルノには聴こえなかった。

 遠くでコール音が鳴っている。突然、視界が青空に変わった。ルノはいつの間にか砂浜に横たわっていた。あまりにも唐突な状況の変化に混乱し、しばらく横たわったまま青空を眺めていた。

 いつの間にか眠っていたらしい。ルノはゆっくり上体を起こした。

 コール音のする方へ向かう。朽ちたボートの中に旧式の無線機が備え付けてあるのをみつけた。ルノは無線機のランプに手を触れた。無線機から抑揚のない機械音声が流れ出す。

『こちらは<惑星博物館>管理局です。「南の島」セクションのシステム不具合は先ほど解消いたしました。』

 音声が終わり、ランプが消えた。

 静かな汐騒が耳に届く。ふと腕を上げて皮膚の香を嗅いだ。汐の香が肌に染み付いている気がした。

 ラルの姿はなかった。先に帰ってしまったのだろう。ルノは鞄を携え、<惑星博物館>を出た。

 道も建物も全てが銀色の街が広がっている。たくさんの人が歩いている。人の少し上を電車が走り、銀色のエアカーが飛んでいる。そのずっと上の方には白い靄の塊が浮いており、さらにその上にうっすらと銀色の街が見える。宇宙線防護壁に映る街の虚像だ。

 ルノは駅のホームで、帰りの電車を待った。


 2話へつづく

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