第2話 土地神代理

  千景ちかげはとりあえず話だけ聞くということで彼女と合意した。

「じゃあ明日、お昼にこの屋上で会いましょう。私は合鍵を持っているし、君は鍵なんてなくても入れてしまうみたいだしね。」

 彼女はすでに決まったことのように言い残して、屋上を出ていった。もちろん、鍵を閉めて。彼女と話をするために一度柵から降りていた千景は、否応いやおうなくもう一度柵を登る羽目になったのだった。

 その日の帰り、千景は朝の約束通り鳥のような妖とロッカーで待たせていた妖に道を渡すために美原山のふもとまで来ていた。

 高校からは一般人だと徒歩20分、千景には全力で走って数分の距離だ。普段から人が寄り付くような場所でもない。特に、麓でも住宅街に面していない側は一般人が入るには険しすぎる。千景は道を通し全ての妖を送った後、山の中に入って上を目指して歩き始めた。

 ここの山が、言い伝えとして残っている土地神の住んでいたところだ。

 そして現在。

「やあ千景じゃあないか。今日も来たのだな?我も会いたかったぞ〜。」

 そこには別の妖が住み着いている。

朝月あさつき、まだ山奥じゃないんだから話しかけないでくれよ。人に見られたらどうするんだ。」

「釣れないの〜。われは土地神ぞ。もっと敬え?」

「土地神代理、だろ。朝月はもっと俺を丁寧に扱ってくれ。人間には朝月の妖気は強すぎるんだから。」

「んもう、そんな口の聞き方をする奴はぬしくらいじゃ。」

「朝月が見える人間が俺だけなんだ、当たり前だろ。」

「そうじゃった、そうじゃった。だが丁寧に扱ってやらんでも主なら我の妖力にあてられることもあるまいが。むしろ吸い取ってしまえるだろうに。ほれ、これで良いか?」

朝月は千景に後ろから抱きついていた白く細い腕をほどき、その場でくるっと回ると幼女の姿に変身した。元の姿と同じ白いロングヘアに現代に合わせた淡いピンクのワンピースを着ている。普段はスレンダーで綺麗なお姉さんという表現が似合う見た目に、白無垢のような着物を着ているため、千景も初めてこの幼女姿を見た時はかなり驚かされた。

「…朝月、年齢詐称ねんれいさしょうにもほどがあるぞ?」

 悪態をつく千景に、朝月がわざとらしくびっくりした顔をした。

「なんと!可愛げがないのう。ついこの間まで”あしゃつき〜”と我の名前も呼べなかった童が。」

「言っておくけど、10年以上前の話だからなそれ!」

全く、妖の時間感覚は本当にずれている。千景は呆れてため息をつく。並んで歩き始めた二人は、傍から見ると歳の離れた仲の良い兄と妹であった。しかし、話の内容はそんな見た目とは全くそぐわないものだった。

「ーってわけで、一般人にバレてしまって…。」

「前代未聞じゃな。聞いたことがないわ、あの門が見えるなどという人間が宮の氏族以外にいるなんぞ。まさか、我の姿も見えたりしてな?」

「まさか!宮の氏族でも朝月を目視できるのは俺だけなんだぞ?」

「冗談じゃ。そもそも主が我を目視しているだけで我からすれば冗談のような話なんじゃ。それこそ、主も我にとっては前代未聞の童じゃったのう。宮の氏族のくせに全く霊力を己で生成できないなぞ、見たことがなかったわ。」

「なんでそんな奴を次期当主に選ぶかな…。」

「わっはっは。我には先見の目?とやらがあるのじゃ!実際のところ、今の主には誰も敵うまいよ。」

 朝月はそう笑って誇らしげにドヤっと千景を見上げた。当の本人はそんなつもりもないため、はいはい、と流してどうやってこの問題を報告すべきか悩んでいた。

 朝月は流されてしまったことを不服に思い、千景の悩む横顔をじとっと見上げる。そして、妖の感覚ではほんの数分前のような出来事、千景と初めて対面した日のことを思い出していた。



 それは、穏やかな夏の朝だった。

 美原山から、土地神である”みはら”がいなくなってからもう幾年が過ぎたのか朝月にも分からない。それでも朝月はみはらのため、この山で不在の土地神に代わってその地の最高位の妖として君臨し続けていた。

 元来、朝月は人間が大嫌いだった。

 全てはみはらのためであり、ここに住む人間のためではない。

 ここでみはらに役割を与えられた人間たちも、朝月にとってはみはらが選んだだけでそれ以上でも以下でもない。人間は総じて人間だった。みはらのいない世界など、もはやなんの価値もない。本気でそう思っていたのだが、それでもここにとどまり続けたのは、みはらは必ず戻ってくると確信していたからだった。

 いつか、必ず、何千年経とうとも。

 だからみはらはここに朝月を残し、宮の当主を選定する役目を与えたのだと朝月は確信していたのだ。

 そして千景と初めて対面する一ヶ月前、朝月が山の中にある社で寝転がっていると、産声が聞こえてきた。おそらく一宮の女が赤子を産んだのだろうと朝月はぼんやりと空を見上げながら思う。その女が身籠もった身体で、自分のいる社まで何度も赴いていたのを朝月は知っていたからだ。一宮の人間とはいえ、脆く弱いくせにその身体でよく登ってくるものじゃ、と朝月は嘲笑っていたものだった。

 一ヶ月後、またいつものように宮の氏族はこの山に赤子を連れてくるだろう。子どもが生まれると、彼らは決まってその一ヶ月後に赤子をこの山の頂上近くにある小さな社に連れてくる。朝月は気まぐれにその赤子へ桜の紋章を右腕に刻印した。彼らはどうやらそれが当主となるにふさわしい証なのだと思っているらしかった。

 実際には、朝月が気まぐれで刻印しているだけで大した意味などない。ただみはらに当主の選定を任されたが、人間と直接会話などしたくないと思って始めてみたことだった。それを先人はどうやら上手く勘違いしてくれたらしい。人間にとっては何十年に一度のイベントでも、妖である朝月にとっては数分ごとに訪れるどうでも良いイベントのようなものなのだ。

 だからそう。今回も、そうなるはずだった。

 しかし、予期せぬことというのは何千年と存在していてもあり得るのである。

「主、我が見えておるな…?」

 朝月にとって、全く想定外の出来事だった。

 一ヶ月後連れてこられた赤子は、女に抱かれながら真っ直ぐ朝月を見上げ、両腕を伸ばしていた。朝月が空中で移動しても、目線と腕が追いかけてくる。朝月にとっては信じられない光景だった。

 人間嫌いだった朝月は、今まで一度も人間の前に姿を晒したことはない。

 もちろん、一つの例外もなくだ。宮の氏族にも妖力で優っているため、朝月が意図的に隠している姿を見られることはなかったのだ。

 それが、なぜ、この赤子には見えているのか。

 朝月は疑心と同時に、おもしろい、と思った。

 この時点で、この赤子に自分以上の霊力は感じられない。妖力と霊力は似て非なるものだが、等価なのである。自分が持つ妖力より多くの霊力を持つのであれば不可能ではないが、そうではなかった。それどころか一宮の家に生まれたはずの赤子から、ただの人間と変わらない霊力しか感じられなかったのだ。

「わっはっは。気に入ったぞ。主は我を見るか。良いぞ、主には我と共に過ごすことを許してやろう。」

 見られているのだから許すも何もないのだが、このような返しになってしまうのが朝月の残念なところだった。

 そうして朝月は、赤子から伸ばされた右腕に軽く触れ、桜の紋章を刻印したのだ。



「主がここまで成長したのも、我のおかげよのう?」

「何言ってんだか。俺は朝月に育てられた覚えなんてないからな!」

「よく言う。昔から主は下等な妖に追いかけられてはこの山に逃げ込んで、”あしゃつき助けて〜”と喚いておったろうに。」

「…そんな昔のこと引っ張り出してくるなよ…。」

阿呆あほう。我からすればほんの数分前の出来事のようなもの。人間というのは本当に桜の花のようじゃ。」

 朝月が元の姿に戻って社の屋根の上に降り立った。そしてどこか遠い目をして小さく呟く。

「散るのが早すぎてつまらん。」

 千景には、まるで朝月が何かを思い出しているようにも見えた。

 白く長い髪が風に揺れて、朝月がどんな表情をしているのか千景にはもう見えなかった。しかし、下から見上げるその姿は、最高位の妖にふさわしい神々しさがあった。

 朝月の降り立った社は桜の木に囲まれていて、春になるとそれは美しい景色が広がるのだが、傾斜がきつく、整備された山道もないため一般人は簡単にたどり着くことができない。

 昔はここにも社と別に人の営む神社があったらしいが、今は廃墟となり崩れそうなほど劣化が進んでいる。一般人から幽霊と呼ばれているもの、もとい霊力の塊は朝月がいるため廃墟に寄り憑くことはない。朝月の妖力の方が圧倒的に強いため、簡単に近づくこともできないし、近づいても霊力がすり減って最終的には消えてしまう可能性すらあるからだ。

 ここは唯一無二、朝月の絶対領域。

 朝月の意思が全てで、朝月の裁量で何もかもが決まるのだ。

「にしても主は本当に気配がないのう。我でも察知するのが難しいわ。主が我の領域に入っても、そこらの人間が入ってきたのと同じような感覚にしかならん。そろそろどうにかせい。」

「どうにかしろと言われてもな…。自分で生成した霊力がないんだからどうしようもないんだよ。」

 そう、千景は霊力を生成できないのだ。

 この世界で認識されている力には2種類ある。霊力と妖力だ。霊力は生命が生まれる時にその身体に宿す生きものとしての力であり、言わば生きるために必要な力である。ちなみに幽霊は霊力だけがこの世に残された生命の残滓である。何もできずそこに浮遊しているものが多いのは実体もない残滓にできることなど限られているからだ。

 逆に妖力は、妖力があるから妖たることができる力だ。人間によって意図的に生み出された力と言っても良い。なぜなら、妖それ自体が、そこにあると認識されて初めて存在しうるものだからだ。そこにあるという認識さえあれば妖は存在し、その存在に付与されるのが妖力なのである。

 そして宮の氏族などの妖が見えてそれらに干渉できるものは、一般人とは違い、生まれ持った霊力と別に身体の中で霊力を生成し操ることができる。生成することで霊力を削ることなく与えられた力を行使できるのだ。ただ、生成した霊力が生まれ持った霊力と文字通り同じものであるかは解明されていない。解明する方法が解らない、というのが今の宮の氏族並びにその他霊力を生成できる人間たちの間での見解だった。

 ともかく、霊力を生成できる人間というのは一般人より多く体内に霊力を持っているため、朝月のような妖力の強い妖は自分の領域に侵入したそれを察知できるのである。無害な人間などは察知する必要もないらしく、いわばレーダーに引っかからない状態のため、同じく自分で生成できない千景は朝月の絶対領域内に入っても気づかれない。

「そういえば千景よ、こんなところで油を売っていて良いのか?主の父がものすごい勢いでこちらに向かってきているような気がするんじゃが。」

 朝月は社の屋根から千景の横にフワッと降り立ちながら言った。

「いっそ気のせいであって欲しいけどな。俺も父さんの霊力がすごい勢いでこっちに向かって来るのを感知してる。」

 千景もそれに答えると、一人と一匹はその方角に視線をやった。

 刹那、自然現象では起こり得ない大きなかまいたちが千景と朝月の間を抜けて背後の木を切り付けた。余波の風が周囲に生えている木々を激しく揺らした。

「主よ、今日こそはってしまっても良いか?どうせあと数年しか生きられぬじゃろうて。」

「まあまあ、父さんも悪気はないんだから。」

 指を鳴らす仕草をして今にも本気で殺してしまいそうな朝月のキレっぷりに、千景は両手を朝月の前に出して苦笑いをする。

 朝月はみはらのものである美原山が傷つけられることをひどく嫌っている。

 だが朝月は千景以外の人間には見えない。感知すらされない。

 それはここに千景しかいないと他の人間には思えるような状況な訳で、千景の父であり、現一宮当主である一宮凛太郎りんたろうも例外ではなかった。朝月が嫌がっていることを千景以外の人間は知らないのである。姿を見せないのだから当然ではあるのだが、朝月はそれでも姿を見せる方が嫌らしい。凛太郎が崇拝する、紋章を刻印してくれる存在の意向であったとしても凛太郎自身は知る由もないのだ。

「千景、美原山に行く前に私へ報告するべきではないのか?」

あんなに全速力で来たにもかかわらず、凛太郎の息は全く乱れていなかった。

 いつも修行の時に着ている動きやすい軽めの和装であることから、家で修行中に琉生から何か聞いた…とまあそんなところだろう、と千景は思った。

 凛太郎は腕を組んで、千景にゆっくりと近づいていく。もちろん朝月の姿は見えていないため、このまま進むとぶつかる事になるのだが、朝月がその存在を露呈することを許すはずもなかった。

 朝月は自分に向かって進んでくる凛太郎の上へと軽く飛ぶとそのまま社の中へと消えていった。

 これはもう出てこないな...と千景は横目で確認して凛太郎に気づかれないように、はぁー…と小さくため息をついた。

 朝月にどうやって報告するか相談しようと思ったのに、何の妙案もないまま凛太郎と対面してしまった。

 事実をそのまま話すとしても、彼女の”交換条件”とやらがまだ何かわかっていない。彼女は同じクラスの同級生で、しかも見える人間に初めて会ったと言っていた。千景はこの力のせいで大変な目に合うことも多かったため、見えることの大変さをよくわかっているつもりだった。

 そんな彼女が、千景が見えることや一連の妖を妖魔郷に送るところを見た上で相談したいと言っていたのだ。

 この機会を逃せば、彼女は記憶に干渉されて千景の能力を知らなかったことになり、また一人で悩んでいくことになるだろう。

 それはあまりにも残酷だ、と千景は思った。

 これがもし、藁にもすがる思いで千景に話しかけていたのだとしたら。

 そんな人間に何の説明もせず、見なかった事にしてしまうのか?

 否、だ。

 千景にそんな選択肢はなかった。

「当主、失礼ながら申し上げますと報告を怠った訳ではありません。妖を一組、妖魔郷へ送っておりました。今しがた報告のため帰宅しようと思っていたところです。」

「なら良い。帰るぞ、千景。」

「はい。」

 凛太郎は社に背を向けると、足音も立てずに来た時と同じスピードで移動を始めた。千景もその後に続く。千景がちらっと後ろの社に目をやると、朝月が着物の袖で口元を隠し、ニヤッと妖艶な笑みを浮かべていた。くだらない、とでも言いたげな表情だと千景は思ったが、朝月本人に確認するほどのことでもない。そのまま凛太郎の後ろ姿に視線を移し、帰路に着いた。



 凛太郎と千景が家に着くと、すでに琉生は帰ってきていた。やはり琉生から情報が漏れたのだと千景は確信した。今日の一件があった後、琉生に軽く事情を話しておいたからだ。

 昔ながらの母家は改装され、玄関は来客が多くても大丈夫なように広く作られている。そこに見えるだけで靴が6足。一大事ということもあってなのか、今日は一宮の人間とおそらく日下部さんが来ているな、と千景は思った。しっかりした作りの草履が1足、大きめのスニーカーが2足、パンプスが1足、子どもサイズのスニーカーが1足、そして下駄が1足。それぞれ、千景の祖母、11歳上の兄、琉生、2歳上の姉、3歳下の弟、そして日下部幸春くさかべゆきはるのものだと千景は瞬時に認識した。

 幸春は、混妖人を取りまとめている混妖会の第4支部日下部団の団長で、千景が幼い頃から一宮と混妖会の間を取り持っている。幸春は先天的せんてんてき混妖人で、琉生の上司でもあり、琉生に先天的混妖人としての力のコントロールの仕方を教えた人でもある。

 そう、混妖人にも2種類あるのだ。先天的混妖人と後天的こうてんてき混妖人だ。先天的混妖人というのは、生まれた時から妖と混ざっていた人間のことである。どのような状況下で生まれるかは未だ分かっていない。

 それと区別されて存在するのが後天的混妖人だ。彼らは総じて幼い頃に妖に心を喰われ過ぎた人間だ。

 妖は例外もいるが、基本的には人間の恐怖心、嫉妬心、邪心などが好物でそれを喰らう。喰われ過ぎた人間は犯罪に手を染めたり、精神的な病気になってしまうため混妖会の定めでは心を喰らう行為は禁忌タブーとされている。禁忌を犯した妖は制裁が加えられても文句は言えない。もちろん、存在を消滅させられても、である。

 喰われた人間が大人であれば心が喰われ過ぎても再帰可能だが、子どもは心が成長途中のため再帰不可能となってしまう。言わば心のない人間、心臓だけが動いている状態になってしまうのだ。

 ただ、妖と混ざることで新しく心が生まれる人間の子どももいる。そうして生まれた彼らを後天的混妖人と呼んでいるのだ。ただ、別人格となってしまうため元の家族の元では生きていけない子どもたちが殆どである。そのため、世間では”神隠し”として扱われているが、彼ら後天的混妖人は混妖会に所属し育つことになる。天的混妖人と後天的混妖人の違いはいくつかあるが、先天的混妖人は人間より寿命が20〜30年は長く力も強い。後天的混妖人は元々何の力も持っていない人間であるため、寿命は一般人とあまり変わらないし、力は混ざった妖によってかなり個人差がある。

 「概要は琉生から聞いているから、千景はどんな判断が適切かを踏まえて私に報告しなさい。これも次期当主としての役割だからね。着替えたら、道場に来なさい。」

「はい。」

 先に草履を脱いだ凛太郎は千景の方を見ることなく伝えると、そのまま右の廊下を進んでいった。一番奥にある修行用の道場へ向かったらしい。千景は左の廊下を進んで自分の部屋へ行き、制服のネクタイを緩める。

 凛太郎は、公私をきっちりと分ける真面目な人間だった。一宮の氏族こと、妖魔郷のことが関わると途端に厳しい物言いになる。その時は千景も”当主”と呼ばなければならないし、敬語で話すように幼い頃から教育されてきた。根は優しく、千景自身も家業のことで非情な決断を迫られたこともないし、今回も記憶を消すという手段までは取らないだろうと千景は考えていた。

「ま、俺のせいでもあるしな…。」

「なんだ、反省してんのかよ。」

 着替えをしている千景が独り言を言うと、いつの間にかドアの前に立っていた琉生が答えた。もちろん、千景は見ずとも感知しているため琉生がそこにいても驚きはしない。

「屋上にまさか人がいるなんて思わないだろ?」

「そうだな、あそこは立ち入り禁止のはずだしな。」

 制服のネクタイを緩めながら、千景は思い出したように琉生に話しかけた。

「あの女子生徒について、情報が欲しいんだけど。」

「蒼井司紗。明るくて女子にも男子にも好かれるタイプ。正義感も強くて、悪いことをしている人がいたら相手が自分より大きい男でも関係なく注意しているのを何度か見た。父親が有名なグループ会社の社長で資産家。今は高校近くの家に母親と家政婦一人と住んでいる。父親と兄がいるみたいだけど、一緒には住んでいないらしい。」

 琉生からの詳細すぎる説明に千景は、上半身は裸で修行用の和服の袖に腕を通す仕草のまま停止した。その千景の表情から琉生は千景の考えを読み取ったのか、不満そうな顔をする。

「うちの諜報班ちょうほうはんは優秀なんだよ!俺がストーカーまがいに追跡したりした訳じゃねえからな!」

「何も言ってないだろー?この短時間でそこまで調べられないだろうから、前々から個人的に情報収集してたのかなーなんて思った訳ではないから安心してくれ。」

「おい、心の声が漏れてるぞ?」

「ま、琉生なら上手くいくんじゃないか?容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、おまけに混妖人。彼女も見える人間らしいし。」

「そんなんじゃねぇって言ってるだろ、ばーか!」

 琉生は少し頬を赤らめてそう叫ぶと、風を操ってドアをバタン、と勢い良く閉めた。

 実際、琉生が頬を赤らめたのは少し血が上っただけだと千景には分かっているのだが、学校と家での琉生の態度が違い過ぎてついいじりたくなってしまうのだった。

 琉生は、学校では何でもそつなくこなす人気者だが、家ではみんな、特に兄弟たちからはいじられ役な可愛い一面を持っていた。

 こんな琉生の姿を学校の女子たちが見たらファンが減りそうだな...と千景はどうでも良いことを考えながら着替えを終えると、道場へ向かった。

 ガラガラっと道場の引き戸を開けると凛太郎が一番奥で背を向けて座っていた。余談だが、一宮の道場では跪坐きざで座ることが習わしである。跪坐は弓道など武道ではよくある座り方らしいが、敵が来ても素早く動けるようにと言う点で一宮でも取り入れられていた。

 この世界にいる妖は、基本的に実力主義で一度負けた相手には逆らおうとはしない。一宮ではそれを実力行使で優位に立ち、妖魔郷へ送るというのが基本である。いつ妖が来ても対処できるように準備しておくという教えから、千景もこの座り方を幼少期から叩き込まれていた。

 引き戸を閉めて、凛太郎と間合いを取りつつ千景も座った。

「では次期当主としての意見を聞こう。」

千景が座るのを見計らっていたかのようにすぐに凛太郎が声を発した。背を向けているのにわかるのは、凛太郎が千景と同じく周囲の霊力の変化に敏感だからだ。千景は無意識に自分の半径50m以内を感知するが、凛太郎はせいぜい5mである。ただ、これも長年の修行の成果であり、宮の氏族でもトップクラスの能力者であることは間違いなかった。周囲の霊力に敏感、と言う点では千景の方が優れているというだけなのだ。

 千景は一呼吸置いて、ゆっくり口を開いた。

「はい。今回の件は異例の対応策が必要だと考えています。すでに日下部団所属の遠山琉生一等級員から伺っているとは思いますが、同じクラスの蒼井司紗という女子生徒は妖だけでなく妖魔郷への入口も見える人間です。すでに蔵の書物を調べましたが、これは一宮に現存する書物にも例がない事象でした。よって、彼女を混妖会の監視下に置き、一度交換条件を聞いてから今後の対応を決定しても遅くはないと考えています。」

「書物はいつ調べたんだ?」

凛太郎が千景と向かい合う形で座り直した。凛太郎が眉をひそめて千景を見つめる。千景も一切動じずに見つめ返して、お互いが腹の探り合いをするように見つめながら会話を進めた。

「朝にこの事象が発生したため授業の欠席は止む無しと判断し、昼までは蔵にこもっていました。午後から高校に戻って授業に参加しました。当主は家にいらっしゃらなかったようですので、蔵の鍵は九十九つくもに開けてもらいました。」

 九十九とは名前の通り、この家に99匹いて一宮に仕える妖である。彼らは30cmほどでぬいぐるみのような形をしていて、指はないが手足があり、一宮家の一切の家事や大工仕事、庭の手入れなど何でもこなすスーパー家政婦のような存在だ。会話をすることはできないが、感情もあるし、言葉も理解している。その中の1匹が一宮の蔵の鍵を管理しているのだ。蔵の鍵を持つのは一宮の当主とその1匹だけだが、千景以外の人間には九十九の区別がつかないため、実際に蔵の鍵を利用できるのは当主である凛太郎と千景だけだった。

「きちんと調査してから決断を下すのは良い。判断内容も概ね、私と同じだ。だが、授業をサボるのはあまり褒められたものじゃない。高校卒業後は一宮の次期当主としての制約が増えるだろう。今のうちに高校生として楽しむことも大事だと私は思っている。」

「はい、以後気をつけます。」

楽しむ以前に友達もいないんだよなー、と千景は表情を変えずに答えながら思った。

 この家業が続く限り、楽しい高校生活なんて送れるはずもないと半分、いや九割千景は諦めていた。そして、せめてカーストの中位ミドル層くらいにでもなれれば...と今日の朝に思ったことと同じ思考を繰り返すのである。

 凛太郎もその返事を聞いて、千景が考えていることは何となく分かっていた。なぜなら、自身も高校生の時に友達がいなかったからだ。高校では授業に参加せずに屋上で昼寝をしたり、道を渡して妖を妖魔郷に送ったりと千景と同じような生活をしていた。千景に楽しめと言うのは自分ができなかったからでもあるのだが、残念ながらそんな親心が千景に伝わることはなかった。

「では、千景の意見を聞いた上で一宮当主としての見解を述べる。」

 何度この瞬間を体験しても緊張するものだ、と思いながら千景は凛太郎の次の言葉を待った。

 監視で済むか、記憶の改ざんか。

 千景は無意識的に唾を飲んだ。

「該当の女子生徒を日下部団所属、遠山琉生一等級員の監視下に置く。監視の下で交換条件の聴取を行う。聴取のやり方、内容については、千景に任せる。但し、日下部団から諜報団員を派遣し聴取内容はその場でこちらに伝わるよう手配を行うこととする。条件を聴取した上で、再度今後の判断を下す。以上。」

 凛太郎の言葉に、表情は変わらないが千景は安堵していた。

 やはりできることなら記憶の改ざんはしたくなかった。自分の不注意で見られてしまったようなもので、責任の一端はある。と、千景は思った以上に自分が反省していたことに気がついた。

「承知いたしました。ご配慮、感謝いたします。」

「そんなものはない。当主として、これが懸命と判断したまでだ。」

凛太郎は静かに立ち上がると千景の横を通りすぎて道場の引き戸へ向かう。千景も自分の横を凛太郎が通り過ぎたことを確認し、立ち上がった。

 道場を出るまでが修行。

 一宮ではこれを幼い頃から叩き込まれる。しかし、一旦道場の外に出ると、今までの張り詰めた空気が嘘のようになるのだ。

 千景が道場から出ると、エプロンをつけた九十九の二匹が凛太郎に向かって嬉しそうに両腕をあげており、凛太郎も微笑ましい様子でそれを見ていた。どうやら夕食ができたらしい。

「千景、夕食だそうだ。父さんも着替えてから行くから、千景も着替えておいで。」

 道場から出て、話が終わるやいなや凛太郎はすっかり父親モードになっていた。一宮の当主として厳しくしなければならないところはさっきまでのような調子だが、それ以外は至って普通の優しい父親なのだ。千景や他の兄弟たちにとって、凛太郎の呼称が”私”から”父さん”へと変わっていることが、モードが切り替わった合図のようなものだった。

「へぇ、今日は鮭のムニエルか...。楽しみだな。」

 千景はその場でしゃがむと駆け寄ってきた九十九の一匹の頭を撫でながら、少し口角を上げた。

「九十九がそう言っているのか?今日は人数が多いから大変だったろうに。ありがとうと伝えてくれ。」

「大丈夫、こっちが言ってることは伝わってるって前にも言っただろ?」

 千景の手に戯れる九十九たちを見ていた凛太郎は腕を組みながら、全く末恐ろしいな、と思った。九十九は感情表現豊かで見ていればそれなりに考えていることは分かるが、何を伝えているか理解できる人間は今まで聞いたことがなかった。

 宮の氏族にそんな人物がいたという記録も残っていない。

 桜の紋章を刻印された次期当主の子が、自身で霊力を生成できないと分かった時には宮の氏族会議にまで発展して大変だったが、とんだ杞憂だった。千景は類を見ない能力者になる、そう凛太郎は確信していた。

「じゃあ、父さんは着替えてくるよ。千景も早く支度しなさい。みんな居間でお腹を空かせて待っているはずだ。」

 そうだな、と返事をしようと顔を上げた千景の前に、もう凛太郎の姿は無かった。

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紅涙の妖奇譚 ハルカゼ @haru-kaze207

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