群星の眼下

染谷市太郎

高原

 朝霧が草原を湿らせる。山に囲まれた盆状の土地。カーンカーンと槌を打つ音がする。

 シャルは羊を追いながら、その音に朝の訪れを感じていた。

 毎朝、夜明け前に音は鳴る。この高原に住む者たちは皆、日の出前に起きているのだから、高原に響く槌の音を、夜から朝へと移ろう空を急かせる賑やかな音として受け入れている。

 シャルもまた、羊のや犬の鳴き声に混じるそれを煩わしいと思うことはない。

 山を登り、盆地へと降りる風。霧が押しのけられ高原を朝日が照らす。

 針葉樹と白い岩、それ以外を埋める草原。そしてその上にぽつりぽつりと高床のテントが建っている。

 霧は高原を追い出され、最後に、端に立つ白い建物が現れる。建物の壁が朝日を反射し、その中で逆光を受けた人影が見えた。

 シャルはその青い目を鷹のようにし、それを捉えた。

 槌の音は鳴りやんている。朝の作業は終わりを迎えたらしい。人影は朝日の元、労働の汗を拭っている。建物と同様、乳白色の肌がよく見えた。作業をして熱くなったのだろう、薄着だ。しかしすぐに高原特有の低温に体を震わせることを、シャルは知っている。それが毎朝恒例のことであることも。

 やはり汗が冷えたのだろう。ぶるりと身震いをして、人影は建物に入った。

 シャルも鋭い目を羊たちへと戻し、自身のテントへと戻ってゆく。

 朝の風景が風に吹かれて去っていった。




 その男が、この高原へとやってきたのは今から太陽が七回巡る前だった。

 白いローブを纏い、一目で高原一帯に住むシャルたち遊牧民とは全く異なる暮らしをしてきたのだと分かった。

 男の名前はウィート。麦の意味を持つ。男の金髪は、麦畑の色だと本人が語った。

 シャルは麦畑を知らないため、朝日の色だと思ったのだが、予想が外れた。

 ウィートは遠く、こことは気候も植生も異なる土地で産まれ暮らしてきたらしい。しかし、彼は故郷を離れ、この高原にやってきた。

 目的は、牧師として高原にひっそりと建つ古教会を管理するためだという。

 シャルをはじめ、遊牧民はみな驚いた。なにせ、その古教会は(教会という建物であることも初めて知った)シャルたちがここに来るよりもずっと昔から、ぼろぼろの状態で建造物とも認識されず忘れ去られていたのだから。

 白い石で作られどっしりと建つその教会は、テントを運び暮らす遊牧民の暮らしとは相いれない。

 だから誰もその教会を利用しようとか、あるいは修繕しようとか考えることもなかった。

 そのおかげで、教会は天井が落ち、所々崩れ、風が吹きすさんでいる。

 遊牧民たちがウィートにはじめましての挨拶をされたときは、外部の人間として警戒もしたが、同時にそんな教会に住むのかと心配もした。

 ウィートは、テントも羊も犬も馬も持っていなかったから。

 だが、ウィートは遊牧民の予想とは裏腹に、太陽が七回巡った現在でも教会を修繕しながら元気に暮らしている。


 シャルは干し肉をかじりながら、馬たちの世話をする。

 テントに置いていた水桶は軽い音を鳴らしていた。

 ブルン、と荷を括られた馬が大きく鼻息を鳴らす。

「シャルさん」

 馬の向こうからかけられた声に、シャルは視線だけ向けた。

「川までの道中ご一緒できますか?」

 流れるように喋る。遊牧民とは、異なる言語を使っていたはずなのに。古教会までの道中、習得したのだろうか。

 シャルは視線だけで答え、馬に乗る。

 ウィートを見下ろしながら彼が持っていた桶を受け取る。同時に馬は歩き出した。

 その後を、ウィートの足が地面を踏む音がする。

 日はもう登り切っている。夜の内に凍っていた地面は、昼間の太陽に溶かされぐずつき泥になる。このような凍土の影響を避けるため、シャルたちのテントは高床式になっている。

 針葉樹のわずかな林を抜け緩やかな山を登りきると、高原を一望できる。

 シャルたちが現在滞在している盆地は、この広大な高原の一部にしか過ぎない。盆地として区切る山を、少し下った先に見えるのは草原を横断する川。シャルたちはこの川に沿って、羊や馬の草を追う。

 そして川の向こうの草原のそのずっとずっと向こうには、今いる山よりももっと大きな山脈が連なっている。

「あれを越えたのか」

「ええ」

 雪をかぶったあの山々。改めて眺めてもその長大さは変わらない。感嘆のこもったシャルの問いに、ウィートは笑顔で頷く。彼はいつも笑みを絶やさない。シャルとは対照的に。

 その後川までは無言で歩いた。嫌な時間ではなかった。ウィートが沈黙を嫌っていないことを、シャルはわずかながら察している。

 川では水を汲むだけではない。

 川下で馬を遊ばせている間に、シャルは衣を脱ぎ水を浴びる。遠い山の上の雪が解けた水。しびれるように冷たいが、シャルには気持ちがよかった。シャルの濃い飴色の肌から、砂や垢が川に溶けていく。

 川は場所によっては頭まで浸かってしまうほどの深さがある。近場の岩に衣を置き、ざぷん、と潜った。

 岩がごろごろと並ぶ川底。狙いを定める。一気に水を切り、腕をのばした。

「ぷはっ」

 水面へ顔を上げる。腕の中には収穫物はない。やはり水中は合わない。

「ははは」

 不機嫌なシャルを、見ていたのかウィートは声を上げて笑っている。

「ああ、すまない。おわびに、こちらのもので許してくれないかい?」

 木の枝に三尾ほどの魚が口を引っ掛けられて並んでいる。釣りをしていたようだ。

 シャルはそれらを確認し、口笛で馬を呼ぶ。衣を纏い、桶には水を一杯にした。

 馬へ乗ったシャルはウィートから魚を受け取った。

 背後の足音を確認しながら、盆地へと戻る。




 古教会周辺は、浅い土しかなく、その下はおおきな岩がごろごろ転がっている。そのおかげか、周辺は泥上になることもなく、凍土の影響を考えなくてよい。そのためあの重い建物も長い年月の間、その基礎は崩れることはないのだろう。

 高床式でない建物は、火を焚くにも楽だ。安定した地面で行える。ウィートもそれを理解しているのか、建物を修繕しながら、竈を設置した。もっぱら点と周辺での焚火ばかりだったシャル達には、珍いものであり火力の調節のしやすさから少しずつ利用者は増えている。

 シャルが魚をさばいている間に、竈の利用を目的とした仲間たちも集まってきた。

 竈の火に背を向け、三尾の魚は骨と身と皮に解体されていく。

 カンカン、と鍋のふちが叩かれる音が合図だ。ウィートが用意した鍋に魚を詰め込む。鍋には魚のほかに、水と木の実と香辛料。魚と水以外は、(魚もウィートがとったものだが)ウィートが持ち込んだものだ。

 知らない香りにシャル以外の仲間たちも集まってくる。それにウィートが説明をする。

 人が集まりすぎた。わいわいと賑わう竈の周りからシャルは離れ、手持ち無沙汰に片付けをする。ナイフをぬぐって片付ければあとはおしまい。鍋を待つだけ。

 石でできた柱に背を預ける。教会の天井は、まだ落ちたまま。ウィートは最低限の部分にしか屋根を作っていない。だから夜の藍空に、いくつもの星粒が見て取れる。星の中心に立つ月は、新月の前かか細い線のみを残している。

 星と星、点と点。それらをつないで線を作る。星が不規則に散らばる中で、くっきりと浮かび上がる形。

 シャルは両親に教えられた星の形を思い出す。あそこは馬、あそこは羊。犬、魚、狼。

 かつては、両親に背を預け行っていた星の絵描きは、今は冷たい石に背を預けて、一人夜空を見上げる。

 作った形が二十を超えた頃、じゃり、と石の床を踏む音がした。

 振り返れば、ウィートが鍋をもってにこ、と笑う。

 集まっていた仲間たちは、各々のテントに戻っている。テントでは家族が料理を待っているのだ。

 シャルのテントで待っているのは、犬と馬と羊くらいで、それらも厳密にはテントの外にいる。

 だからシャルはウィートのもとで早晩にあずかることにする。

 椀によそられた汁にウィートが口につけた後、シャルも淡白な魚を含む。

 シャルの仲間たちの多くは、家族単位のテントで過ごす。シャルのように一人を好むものは珍しい。

 仲間たちのほとんどは、外部から婿入りした男を除けば、血族であり、シャルが所属する集団の中心に立つのは、シャルの大叔母だ。

 まだ婚前のシャルは、大叔母のテントに身を寄せてもいい。しかしシャルはその輪の中に入りたくはなかった。人の声が、運動する音が、シャルにとっては温かすぎて肌に合わなかった。

 ちろちろと椀の汁に反射する竈の火に、シャルは目を閉じる。

 教会の隙間風が二人を襲った。骨にしみるような冷たさ。

「灯りを焚きましょうか?」

 ウィートの問いに、シャルは首を横に振る。

「うまかった」

 空の椀を渡し、シャルは立ち上がる。竈の火はもうくすぶるだけになっていた。


 火は嫌いだ。

 シャルは羊たちを確認し、テントに戻る。羊を狙う狼を警戒している犬たちが、シャルの姿を視線で少し追い、自身の任務に戻る。

 テントの中に、光源はない。シャルの青い目はそれでも十分機能する。

 シャルは決して、テントの中で火を焚かない。どんなに寒くとも、火を焚くことはない。

 シャルは火が嫌いだ。火は、シャルの両親を奪った。

 まだシャルが幼いころ。両親と共に過ごしていたころ、高原の寒さにシャルは風邪をひいた。寒さに震える子供のために、両親はテントを温めようと火を焚いた。

 温かな空間で、シャルは心地よく眠っていた。

 子の看病に疲れが出たのか、あるいは気が緩んだのか、どういった原因なのかはわからない。シャルが冷たい空気の外へと放り出されたとき、両親とテントは火に包まれていた。

 水が限られる高原で、消火のすべはない。風に火が巻かれる中、できることは生還の奇跡を願うことのみだ。

 父は炭化した状態で見つかった。母は、燃え盛るテントから逃げ出したが、全身の皮膚が焼けただれ、二日看病を受けたのちに父の元へと旅立った。

 シャルはそのときから一人ぼっちになった。人のぬくもりも、温かさも、火の明かりも、全てがシャルにとって水ぶくれができてしまいそうなほどに危うく、シャルは一人ぼっちを好んだ。

 シャルはウィートが同じ孤独を孕んでいることに気づいている。彼はきっと誰もいない場所を望んでいる。だからあの山脈を越えてきた。

 しかしそれでも、シャルが仲間という集団から離れられないように、ウィートもまた人のしがらみから離れることはできない。

 寒さに沈むような一人を望みつつも、その暗闇の中でどこかに誰かがいることを好ましく思っている。

 シャルは、ウィートが自分と同じなのだと気づいていた。




 朝霧の中で、羊を追う。カーンカーンカーン、と槌の音が響く。

 羊を数え終え、犬たちの朝寝を確認し終えたとき、大叔母のテントに仲間たちと共に召集された。

 大叔母のテントには、各テントの代表者が集まっている。朗らかな空気が漂っている。シャルも特に緊張することもない。これが定期的な召集であるためだ。

 大叔母はひ孫に支えられながら、しわの刻まれた喉を震わせ恒例の言葉を紡いだ。

 移動の時が来たのだ。羊を追い、草を求め、住処を変える時が。

 すでに場所に目星はついているらしく、ここから一昼一晩馬を走らせた先で、場所を探しに行った男たちが待っているらしい。

 皆場所を知らされれば、各々荷をまとめにテントへと戻る。

「シャル」

 静かに立ち去ろうとしたシャルを、大叔母が呼び止めた。

「あの男は、どうするつもりだね」

 大叔母の真意を探りつつも、シャルは口を開いた。


 


 盆地から一つ、また一つと高床のテントが消えてゆく。

 シャルも羊たちを仲間に任せ、荷支度をしていた。太陽がゆっくりと下ってゆく。

 シャルは移動の際、必ず殿をつとめる。はぐれた羊を置いていかないように。

 太陽が山の向こうに姿を消し、最後に空を赤く焼く。東の空はもう藍色で、一番星が存在を主張していた。

「ウィート」

 シャルはこの名を発音するとき、朝日を思う。何があっても夜を裂きやってくる朝日を。

 盆地の中心に立ったウィートは、呼びかけに振り向いた。

 腕には抱えるようにして、白い壺が持たれている。

 ウィートはにこりといつものように、しかしシャルに向けた目はどこか違うところを見て笑った。

「俺たちは行く」

「ええ」

 ウィートはいつものように肯定する。

「お前はここに、残るのか」

 ウィートは、ややあって首を縦に振る。

「ええ」

 赤く燃えた空はもうくすぶるだけだ。藍に塗りつぶされ、新月、月のない夜空になる。

 ウィートは静かに空を見上げた。シャルもつられて見上げる。

 無意識に星と星をつなげ、点と点、線と線で形をとる。不規則に見える星空には、見慣れた文様が浮かび上がる。

「あの星を指針に、歩いてきました」

 ウィートの白い指が空を指す。

 強く輝く星。どんなに太陽が廻ろうと、あの星だけは変わらず空に鎮座する。この広大な大地で、太陽よりも月よりも確かな座標だ。

「俺たちも、あの星を指針に高原を行く」

「ええ、この子に教えられた通り」

 ウィートは白い壺を、柔らかに撫でる。まるでそこに、一人の愛おしい人間がいるかのように。

 壺の蓋が開けられる。香の匂いがシャルの鼻をくすぐった。

 強い風が山を下りて盆地を駆ける。シャルの衣服を巻き上げ、ウィートの金髪をかき上げ、そして壺の中で揺蕩い高原へと還る。風は白い煙のように、壺の中身と共に冷たい空気に溶けた。

 ウィートの目が伏せられ、壺を強く抱きしめた。カラン、と軽い音が響く。それだけだ。

 あれは、ウィートの孤独だ。あそこに、誰かがいた。そしていなくなり、独りになった。

 シャルと同じように。

 真暗闇の中で、群星の下、ただ孤独があることだけを互いに感じ合う。

「シャル」

 シャルは空を指す。

「あの星の名だ」

 それは藍の夜空に隠れるような、青い星。

「いつもはいない。だが、あの星は空にある」

 夜には消え、それでもやってくる朝日のように。

 ウィートは空を見上げた。夜の中、その表情はうかがい知れない。


 シャルは馬に乗る。ウィートは古教会へと戻った。

 孤独の中身は誰も知らない。けれど孤独のためにこの地へとやってきた。

 シャルは盆地を見下ろす山の上、シャルは背を向ける。その背に、古教会にいる彼の気配を感じる。

 馬は歩き出した。下った先で、犬たちが走っている。羊は群れの中。

 あの壺の中身が溶けた、冷たい空気に身を投じる。

 互いの身に孕んだ孤独を感知しながら。

 シャルはこの高原のどこかに、ウィートはあの古教会に、いるのであればそれでいい。

 それだけで、十分だ。


 そしていつか。

 孤独の果てで生を全うしたそのとき、その遺骸を、髪を肉を骨を拾い上げ、灰にして壺に詰めよう。

 そしてそれを抱えて向かうのだ。草原を越え川を越え山脈を越えた先にある麦畑。

 見たこともない、あの金髪のような麦畑で。

 ウィート。いつかあなたの骨を撒く。

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群星の眼下 染谷市太郎 @someyaititarou

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