二人だけの演奏会

津川肇

二人だけの演奏会

 G居住区の少しはずれ。長らく人の手が入らず、草木が生い茂る森の中。木々や蔦に隠れてひっそりと建つこの場所で、僕らは暮らしている。教会、と呼ばれていた建造物だ。かつては人々の拠り所であっただろうここは、もう本来の目的で使われることはない。神に祈りを捧げる者は、もういない。技術の発展の果てに、人間は不自由のない暮らしを手に入れ、何かに縋る必要はもう無くなったのだから。


 昼食のあと、彼はピアノの前に腰かけた。彼、と呼ぶのが正しいのかは分からない。錆の目立つ金属製の体は人型を模して造られてはいるが、男性のような隆々さも、女性のようなしなやかさも感じられない。機械的な音声からも、性別を判断することはできない。

 彼はピアノの調律をいつも怠らない。そして僕も、彼の世話を怠らない。昼下がりの二人の演奏会のためだ。僕が前から三列目の席につくのが、開演の合図だ。


「今日はどの曲にしましょうか」

 彼が僕に尋ねる。

「ビル・エヴァンスの曲をお願いしたいな」

 数百年前のジャズピアニストの名を答える。この教会に残されていたレコードで知った名前だ。レコード、というのは音楽をかけるための装置の一部らしい。もっとも、装置本体が見つからないために、僕は彼に頼んで演奏してもらうしかないのだが。僕は忘れ去られた建造物を転々としながら、遙か昔の文化のかけらを探している。この教会で初めて知った音楽という文化は、特に興味深い。レコードやピアノによって生み出される連続した音に耳を傾け、その音の高さや強弱、速度を楽しむというものだ。効率化を追い求める現代では失われた時間の使い方の一つだ。僕は特にジャズという分類の音楽が好きだ。ジャズというものは、不規則に展開していく。僕の予想をひらりとかわし、軽やかに駆け回るような音は、僕が憧れ、追い求める生き方に似ている。

「では、代表曲のひとつである、ワルツ・フォー・デビイにしましょう」

 彼が、ピアノの鍵盤に手を乗せる。きい、と彼の腕が軋む音が響く。初めて出会ったとき、「シュークリームを手のひらに包むように、指をやさしく曲げるのが正しい所作です」と彼は説明した。丁寧に扱わなければならないその食べ物の味を知ることができないのが、寂しかった。


「どんな曲だったか、忘れてしまったのかい?」

 ピアノの前で静止したままの彼に、僕は尋ねた。彼の見た目は相当古い。製造年月日を聞いたことはないが、データに破損があってもおかしくはない。記憶データを体外に保存している人間の僕よりも、彼は忘れっぽいところがあるのかもしれない。

「いえ、この曲に関してのデータが膨大だったために、処理に時間を要しました」

 今までリクエストした曲の演奏前には、こんなことはなかった。

「興味深い思い出があったなら、教えてくれよ」

 彼は「はい」とこちらに向き直った。


「この曲をお聴きになる際、参考にできる可能性のあるデータが一件見つかりました。私の主人と、その家族に関するデータです」

「ここで暮らしていたという昔の主人かい?」

「はい、そうです。彼は、妻と娘のために私を購入しました。その頃、彼も奥様も、幼いお嬢様の大病に心を痛めていました。毎週診察に訪れていた医者は、今の技術をもってしても完治は難しいと話していました。私は楽器の演奏に特化したロボットですから、そのヒーリング効果を期待しての購入でしょう。『私と妻の胸の痛みを和らげ、娘が明日に怯えることなく眠りにつけるような曲を弾いてほしい』というのが、彼の要望でした。私はあらゆる曲を彼らの前で演奏しました。ある夜は、バッハ、グノーのアヴェ・マリアを。ある夜は、ドビュッシーの月の光を。しかし、どんなに明るい音色も、どんなに穏やかな音色も、彼らのすすり泣く声を止めることはできませんでした。そして、辿り着いたのがこの曲でした」

 彼の表情も声色も、一切変わることはない。それなのに、彼の言葉からは哀しみや愛おしさが確かに感じられた。失われた文化を肌に感じて生きてきた彼は、僕よりずっと人間らしく見える。

「演奏を始めると、まず、お嬢様が泣き止みました。彼と奥様もそれに続きました。彼はこの曲を聴いたあと、『おもちゃ箱の底に、希望を見つけた気分だ』と言いました。それからは、毎晩この曲を演奏しました。奥様も、『眠る赤ん坊の頭の上でくるくると回る、ベッドメリーのような曲ね』と気に入った様子でした。お嬢様は『舌の上でころがすたびに、味の変わるキャンディみたい』と言って、眠りに落ちるまで何度もくり返し演奏をねだりました」

 音楽を生で聴いたことのある他の人間の感想を聞くのは、これが初めてだ。昔の人々は、音の連なりに心を癒され、あらゆるものに例えてその感情を表現していたのだ。そしてそれを誰かと共有し、音楽を味わう喜びを噛み締めていたのだ。彼がこうして語ることがなければ、僕は決してそれを知ることはできなかっただろう。

「毎晩のルーティンは、医療がやがて発達し、お嬢様の病気が治るまで続きました。これが、私だけが記憶するこの曲についてのデータです」

 

 彼は、そこまで話すと一息ついた。もちろん、実際に呼吸をしたわけではない。ただ、その少しの行間に、彼の当時の喜びと寂しさが見えたような気がしただけだ。

「あなたが見つけたレコードは、晩年ここで過ごした彼の娘が、当時を懐かしんで購入した物です。ライブでのトリオの演奏をそのまま収録したものですが、あいにくここにはピアノとロボットしかおりません。ソロでの演奏になることを、ご理解ください」

 彼は一礼してから演奏を始めた。僕は、かつてここに暮らした人々の曲の感想を反芻しながらそれを聴いた。ステンドグラスから差し込む華やかな日差しが、宙を舞う埃をきらきらと照らしている。開け放した扉からは、風に踊る木の葉の音がかすかに聞こえてくる。僕にはそれが、少女の背中をやさしくさする時に、寝巻と手のひらの擦れる音のように聞こえた。どこからか少女の寝息が聞こえたような気がして、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。

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二人だけの演奏会 津川肇 @suskhs

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