クジラの唄
空峯千代
クジラの唄
私が小学生の時、家族で一度だけ水族館に行った。
あれは、まだ両親の仲が良かった頃。土曜日の朝、お父さんの車に乗り、お母さんと3人で出掛けたことを覚えている。まだ小さい私にとってはどの水槽も大きくて、中でも一際大きかった水槽を見た時は子供ながらに驚いた。
一番大きな水槽を眺めた私は、他の魚達を見下ろすように浮かんでいた生き物を、咄嗟に「クジラだ!」と思い込んでいた。後から考えてみれば勘違いで、あれはジンベイザメだったらしい。けれど、私にとって、水の中を泳ぐ巨大な生き物といえばクジラであることに変わりはない。
全体像の見えないそれは、小さな私の目を釘付けにする程に大きく、恐ろしかったはずなのに、とても美しかった。
人生2回目の水族館は、私一人。17回目の誕生日である夏の日、放課後に誰も誘わず水族館へ行った。
クラスの子達は皆いい子だ。誕生日プレゼントに、化粧品や期間限定のお菓子をくれる友達は何人かいる。けれど、「特別な日である」誕生日を一緒に過ごせるくらいの親友はいない。遊びに誘って断られたり、微妙な空気感にならないように考えたり、細々と考える面倒臭さを感じるくらいなら一人で出掛けた方が楽だった。
夏の教室は、人口密度と気温でずっと暑い。水族館に着くと、館内はひんやりとした空気が満ちていて快適だった。
人の少ない平日の午後に薄暗い館内を歩く。人気のない水族館は、誰かに焦らされることがない。それに、自分のペースで好きな場所を好きなように見ることができる。ぼーっと水槽を眺めている時間は、何も考えなくていい。
小学生以来の水族館は思いの外楽しかった。水槽の端から端を泳ぐペンギンや、猫みたいな目つきのサメ、共生の勉強で知ったクマノミとイソギンチャク。水槽の中や魚達の説明をまじまじと眺めていく。階段を上った先では、紫やピンクのライトに照らされた水槽でクラゲが幻想的に揺れていた。
水槽の前で立ち止まり、眺めては進んで...を繰り返す。クラゲのゾーンを通り、アーチ状の天井を抜けると、いつか見た巨大な水槽が目の前にあった。
アクリル板に近寄ると、ショートカットで模範的にセーラー服を纏っている高校生がぼんやり映っている。水槽の中には、小さい魚の群れや、身体を広げて泳ぐエイが、舞うように泳いでいた。その真上を、薄暗い影が覆っている。
…………あの日見たクジラだ。
本当はジンベエザメで、クジラではないと頭では分かっている。それでも、小さな魚も水槽の外にいる私すらも、その影で覆い隠してしまいそうな体躯に、暗い海で泳いでいるクジラの姿を想像してしまった。
水槽を覗いたあの日以来。私は孤独を感じた時に、頭上をクジラが泳いでいく光景を想像するようになった。周りが見えない程の暗い海で寂しそうに鳴いているそれは、他ならない私の心臓に棲んでいるような気がしている。
水族館を出ると、晴天だった空はすっかり暗くなっていた。外は雨が降り始めていて、蒸し暑さと湿気が混ざる。まるで時季外れの梅雨のようだった。
肌にまとわりつく湿気に気分を落としながらも、足は学校へと向かう。水族館を出る前に鞄を開けると、明日提出の課題を忘れていたことに気付いてしまったのだ。仕方がない。17歳になって早々、課題を忘れるなんてことは避けたかった。
学校に着く頃には夜7時を回っていたが、幸い教室は鍵が開いていた。教室の電気も点いている。こんな時間に誰が残っているんだろうと思いながら扉を開けると、同じクラスの七実ちゃんが俯いたまま席に座っていた。
七実ちゃんの机には、清涼飲料水のペットボトルと濡れたスマホがあって、その下の床はビシャビシャに濡れている。飲み物を零してしまったんだと分かって、「拭くの手伝うね」と声を掛けると、七実ちゃんは「スマホを壊したくなったの」と呟いた。聞き間違いだろうか。もう一度聞こうとすると、同じ言葉が返ってくる。
「真水以外だと防水機能があってもショートするかもしれないから」
そう続ける七実ちゃんの目が笑っていないことに気付いて、聞き間違いでも冗談でもないことを理解する。
七実ちゃんとは小学校が同じだった。
彼女は真面目な大人しい子だ。顔立ちが整っていて、先生からもよく褒められる。高校生になっても相変わらずで、成績優秀で友達の多い、絵に描いたような優等生。
今日も私が誕生日だと知って、メッセージを添えたマフィンを、わざわざ買ってプレゼントしてくれた。そんな七実ちゃんが、何で私に変なことを言い始めるのか分からない。得体の知れない怖さで嫌な汗が流れていく。
「さんちゃんだから話すけどね、私あんまり家族のこと好きじゃないの」
今日はメッセージも見たくなくてスマホを壊そうかと思っちゃった、と笑顔で話す七実ちゃんの目には光が見えない。
「なんで私には教えてくれるの?」
「だって、さんちゃんも家族と仲良くないんでしょ? わかるよ、そういうの」
言い当てられて、ドキリとした。思わず、七実ちゃんをキッと睨む。しかし、七実ちゃんは何一つ顔色を変えない。よく見てみると、彼女の目は光が失せていて、何もかも諦めているように見えた。…………彼女と目を合わせると、あの恐ろしい生き物と目を合わせているような感覚になる。
家族と仲が良くない子は、「普通じゃない」。だから普通を装うために頑張っていたのに、あの目には何もかも見透かされているんじゃないかと錯覚してしまいそうになる。
「小学校でさんちゃんのご両親が授業参観に来てたこと、一回も無かったよね?」「クラスの子と家族の話になった時も微妙な顔してたでしょ」「私はずっと思ってたよ、この子も私とおんなじなんだって」
七実ちゃんの言葉は、無遠慮だった。
普通なら怒っただろう。「変なこと言わないで!」と言い返すべきかもしれない。本来なら不愉快になるはずの言動に、不思議と安心感が生まれていることに驚いた。その瞬間、気付く。
…あのクジラを見ていたのは、七実ちゃんもだったんだ。
彼女は取り繕っていただけで、本当は私と同じ。皆と違うことを隠して、笑って、教室で日々を過ごしていたんだ。そう思うと、切ないような、抱きしめてしまいたいような気持ちになった。
七実ちゃんでさえ薄暗い影に覆われているのなら、もう何を信じればいいのか分からない。何の問題も無さそうに見えるこの子に苦しみがあるなら、誰にだって地獄はあるんじゃないか。そう思わずにはいられない。
教室の外はもう雨が止んでいて、陽の沈んだ空と湿った空気だけが残っていた。
あれから七実ちゃんとよく話すようになり、夏休みに入って初めて一緒に水族館へ行くことになった。
気温は日が経つ毎に増していて、今日は一段と暑い。容赦ない太陽の日差しに目を細めていると、白いキャミソールにロングスカートの七実ちゃんが手を振りながら歩いてきた。
私服の七実ちゃんは、すらりとしたスタイルに、清楚なファッションが良く似合っている。アイドル顔負けの可愛さだ。長い黒髪もサラサラで、髪の毛が揺れると、せっけんのような香水の香りがする。水族館に着くまではごはんの話や学校の話をして笑っていたけれど、本心では自分が彼女の隣を歩いている理由がわからなくなっていた。
「さんちゃん、熱帯魚の水槽に珊瑚もあるよ」
「私は漢字の三だけどね」
水族館に入館した後、私達は歩調を合わせながら水槽を順番に眺めて回った。水槽にいる珊瑚達は、熱帯魚と景色に溶け込んでいて酷く鮮やかだ。同じ名前なのに、私とは随分と違う。
七実ちゃんはゆっくりと見て回るタイプで、お互いに何か言わなくても、水槽の前で進んで止まってを繰り返した。
「久しぶりに見たけど、ペンギンってもっと愛嬌があるイメージだったな」
「希望を持つのはいいけど、期待はしちゃ駄目だよ」
歩いては止まって、歩いては止まって…そうして例の大きな水槽の前に辿り着いた。
小さい頃も今も、あの生き物は恐ろしい。水槽の前に立っていると、アクリル板に映る私達を呼んでいる声が聞こえてきそうな気さえする。それなのに、上を向くと視界を覆うほどの巨大な身体が、私の存在を世界から隠してくれるような期待を抱いてしまっている。
あの大きな身体に付いた口がじわりと開いて、私をゆっくりと吞み込んでいく想像に救われている私がいるんだ。
巨大な水槽に浮かんでいる影をじっと見た後、七実ちゃんは「クジラだ」と静かに呟いた。
クジラの唄 空峯千代 @niconico_chiyo1125
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