【単行本版試し読み】第7話(全7回)

   3


 試合後、そのまま北大と東北大の合同乱取りとなった。

「北大は強い人の胸を借りにいけよ!」

 松浦さんが珍しく厳しく言って、北大勢を回って尻を叩いた。

 両校ともレギュラーではない者も参加して二十組ほどの乱取りが始まった。抑え込まれているのは北大選手ばかりになった。抑え込まれていない者も、ある者はカメになり、ある者は下から抱きついて二重がらみで必死に守っている。試合以上に悲惨な光景だった。

 道場の隅に立つ北大四年目のOBたちは名指しで大声をあげていた。

「タカシ! 逃げろ!」

「テツ! 何やってんだ!」

「後藤! 意地をみせんか!」

 一方の東北大の若手OBたちにはときどき笑顔も見えた。

 五本目の乱取りを終えた。

 私は息を荒らげながら立ち上がり、壁際に座り込んで剝がれたテーピングテープを巻き直しはじめた。先ほどからある人が気になっていた。中村文彦さんだ。東北の四年生で前主将、超有名選手で私の憧れの一人である。いまでもおそらく東北大最強を保っているのではないか。その二期上に主将を務めた強豪、中村良夫さんがいたので、七大学では「良夫」「文彦」と下の名前で呼ばれたり「中村良夫」「中村文彦」とフルネームで呼ばれたりする。その文彦さんが道場の隅で柔道衣に着替えているのが見えたのである。

 私は、抑え込まれている一年目たちに声を飛ばしながら文彦さんが着替え終わるのを待った。そして乱取り七本目の合図があると、着替え終わった文彦さんのところへ走っていった。

「お願いします」

 緊張しながら頭を下げた。

「俺と?」

 文彦さんが眼を細めて私を見た。

「はい」

「いい根性してるな」

 文彦さんは笑いながら道場の中央まで誘った。

 七大学の頂点にいる文彦さんの強さを知りたかった。立技ならもしかしたらなんとかなるかもしれないと思った。

 向かい合い、私はもういちど頭を下げた。

「お願いします」

「よし」

 文彦さんが鷹揚に言って、私の襟を握った。

 組み合った。

 岩のような硬質のパワーを感じた。文彦さんが投技をかけてくる瞬間を待つ。返し技──掬い投げか裏投げで叩きつけてやるつもりだった。私の立技の得意技である。

 文彦さんが素早いフットワークで横へ動く。私は腰を引いてついていった。文彦さんが軽く一歩ステップした。私は下がった。瞬間、文彦さんが身を翻して体落としにきた。私は股に左腕を入れて持ち上げようとした。しかしそのまま天地が引っ繰り返って畳に叩きつけられた。素速く手を突き立ち上がって逃げようとしたが、文彦さんに脇を掬われた。そのままねじ伏せられた。潜り込んでカメになろうとするところを瞬間的に腕挫十字固に極められた。鋭い痛みが肘から肩を貫いた。手を叩いて参ったした。驚きしかなかった。パワーもスピードも技術も差がありすぎる。

 道衣の乱れを直しながら立ち上がると、文彦さんはすぐに襟を取りにきた。虚を衝かれた私はのけぞった。北大生にはない獰猛さだ。道衣を直している最中だ──言い訳だとわかってはいても文彦さんに文句を言おうと顔を見た。その眼は先ほどまでのOBの柔らかいものではなく、現役のそれだった。この人は俺を潰そうとしている。それがわかった。

 文彦さんが小内刈り。私はたたらを踏んで耐えたが、足を取られ、大内刈りで押し倒された。身を捻って腹ばいに落ちるのが精一杯だった。そのまま腕を縛られて崩上四方固で抑えられた。暴れるたびに首や脇が極められていく。北大一年目が恐怖に顔を歪めながらこちらを見ている姿が目に映った。二十秒ほどで文彦さんは抑え込みを解いて立ち上がった。

「待ってください──」

 私は乱れていた道衣の上を急いで脱いだ。文彦さんは不満そうに腰に両手を当てて待っている。

 帯を結び直しながら師範席のほうを見ると、岩井監督がこちらを見ていた。文彦さんが腕を伸ばしてきて私はまたのけぞった。私の胸を頭と肩で押すようにしてまたも私の足をとって大内刈り。実力以前に、スイッチの入り方、勝負への厳しさに差がありすぎた。

 横では竜澤が現主将の佐藤稔紀さんと立って組み合っていた。

「こい! こらっ!」

 竜澤が髪を振り乱して声をあげた。その瞬間、佐藤さんの内股でふわりと宙に浮き、畳に叩きつけられた。北大の一年目たちが引きつった顔で見ていた。そのまま竜澤は寝技で攻められている。北大でたった二人しかいない抜き役は子供扱いされていた。そのショックはやられている私たち自身よりも、私たちを見て、いつかあんなふうになりたいと苦しい練習に耐えている下級生たちのほうが大きいだろう。

「横見てるんじゃない」

 文彦さんが言って、私の胸をどんと突いてそのまま襟を握った。

 私は文彦さんのバックにまわって背中を抱きかかえた。文彦さんは「よし。いい動きだ」と褒めながら小内刈りにきた。そのまま同体で畳に倒れ込んだ。そこから文彦さんは立たせてくれず、寝技で攻撃され続けた。何もできない。話にならない。文彦さんなら道都大学の連中も寝技で取ってしまうだろう。実際、部誌『東北大柔道』の戦績を見ると、京大と同じく、東北大のレギュラー陣たちは講道館ルールの優勝大会で強豪私大の巨漢の立技を捌いて寝技に持ち込み、一本勝ちしていた。

 私はまわりで見ている一年目たちの蒼白の顔が眼に入るたびに申し訳なさでいっぱいになった。文彦さんに翻弄されながら、北大が七帝トップ校と覇を競う日は永久に来ないのではないかと絶望感に打ちひしがれた。

4

 夜の打ち上げコンパはいつも飲む十八条や二十四条ではなくススキノで行われることになった。

 私たち北大生は黙ったまま北十八条駅から地下鉄に乗り、黙ったままススキノ駅の階段を上り、黙ったまま飲食店ビルのエレベーターに乗った。そのあいだ私の頭のなかには《羊群声なく牧舎に帰り、手稲の嶺黄昏こめぬ》という『都ぞ弥生』の二番のフレーズが繰り返し流れていた。自分たちが夕暮れにとぼとぼと牧舎に戻っていく羊の群れと重なったのである。大座敷には昼の試合観戦には来ていなかった北大の重鎮OBや、東北大の札幌勤務OBの顔もたくさんあった。

 私たち現役北大生には居心地の悪い酒席だった。

 誰も自分から東北大生に話しにいかない。自分たちの席で、うつむいて酒を飲んでいた。一方の東北大陣営は悠々と明るい酒を飲んでいた。

 そのうち年配のOBたちが失礼にあたると判断し、私たちに東北大のOBたちに酒を注いできなさいと促した。酒を注げば当然「おまえも飲め」となる。そして「もう一杯どうだ」となる。各OBたちに繰り返しているうちに、今日の試合へ向けギリギリまで追い込んだ体にアルコールがまわり、朦朧としてきた。東北大のOBたちはみな機嫌よく私たちに話をしてくれる。しかし酔うほどにこちらは落ち込み、北大のテーブルに戻った。そして同期たちと弱気の発言のやりとりをした。北大はどうなるんだろう、七帝で勝てるのか、そんな日がくるのかと。

 酔眼で白くなっていく視界に、後藤さんと斉藤テツさんの二人が岩井監督の前に座っているのが見えた。後藤さんもテツさんもこれ以上ないほど背中を丸め、うつむいていた。濡れネズミのようなその姿を見るのが辛くて私は眼を逸らした。この雨はいつ上がるんだろう。この雨さえやめば誰も濡れることはないのに。

 そのとき、一年目の川瀬が私の横に来て畳に片膝をついた。

「和泉さんが呼んでます」

 川瀬の視線の先には一升瓶を持って手酌している和泉さんと、その同期の松浦さんたちがいた。皆、あぐらをかき、静かな表情である。怒っているわけではなさそうだ。竜澤が和泉さんの向かいに座るのが見えた。竜澤にも声がかかったようである。私はそこへ行き、竜澤の横に座った。

「飲みんさい」

 和泉さんが焼酎の一升瓶を握った。竜澤がテーブルにある空のコップを持つと、和泉さんはそこに半分ほど注いだ。私も近くにある空のコップを手にした。和泉さんはそこにも注いでくれた。

 そして、ひとつ大きな息をついた。

「わかっとると思うが東北のやつらに札幌観光に来たと言われて、このまま済ますわけにはいかんで」

 私と竜澤は同時に頭を下げた。

 言葉は出なかった。

「あんたら二人については入部んときからずいぶん問題になった。カンノヨウセイで竜澤が泣いて暴れて外へ飛び出したこともあった。追いかけて慰めるトシを突き飛ばしたときはOBや四年目から『退部させろ』ちゅう声もずいぶん出た。そんあとも女人禁制の部にマネージャーを入れたり他の部の幹部たちと大喧嘩したり、あんたらのやんちゃぶりに眉をひそめるOBがたくさんおった」

 初めてそんなことを聞いた。竜澤も驚いたようで顔を上げて和泉さんを見ている。

「じゃがの。あんたらが将来の北大にはどうしても必要じゃ言う者もたくさんおった。北大がかつての栄光を取り戻すとしたら、それはあんたらの学年が上級生になるときじゃと思うておうた。わしもその一人じゃ」

 最後の一言が震えた。いつのまにか和泉さんはコップを手に静かに涙を流していた。その横の松浦さんたちもテーブルに視線を落として泣いていた。

 和泉さんが続けた。

「四年連続最下位とはどういう状態か考えたことがあるかいね。わしら四年目は入学してから卒部まで、一度も北大が勝ったところを見たことがないということじゃ。あんたたちの代にたくさんいい素材が入ってきたとき、わしらは喜んだ。じゃが一人辞め二人辞め、沢田征次まで辞めてしもうた。今じゃ六人しかおらん。じゃがまだあんたらが残っておる」

 私は唾を飲み込んだ。

「あんたら二人は北大柔道部を好いてくれておる。どのOBが何といおうとそれは間違いない」

 和泉さんがコップの焼酎を半分ほどあおった。

「ええか。もっと自覚を持ちんさい」

 二人は黙って肯いた。

「外での悪さはいくらでもせい。二十歳前後の大学時代といえば、人間として一番の成長期にある。じゃけ、将来への肥やしとしていろんな経験をしておきんさい。失敗したらわしら上がいくらでもケツ拭いちゃる。じゃが道場で何をすべきかは、よう考えんさい」

 和泉さんが七月の七帝戦後の飲み会で言っていた「後輩たちへ繫ぐんじゃ」という言葉を思い出した。現在の幹部である三年目は非力な体格で後ろへと繫ごうと日々の練習を耐えている。私たち二年目はそれに応えられているのか。私はうなだれて焼酎を飲みながら後藤さんたち三人の三年目のことを思った。


(この続きは3/18発売の単行本でお楽しみください)

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七帝柔道記Ⅱ 立てる我が部ぞ力あり 増田俊也/小説 野性時代 @yasei-jidai

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