【単行本版試し読み】第6話(全7回)

 おそらくそう言われるだろうと思っていた。岩井監督は、私たち二人には七帝戦でも優勝大会でもいつも「思いきっていけ」のひとことだけで、指示すらしたことがなかった。初めて抜き役として指令が出たのだ。

 テツさんに替わって竜澤が試合場へと上がっていく。

「竜澤さん、お願いします!」

「抜いてください!」

「お願いします!」

「抜いてください!」

 一年目の大声があちこちから飛んだ。つい四カ月前、夏の七帝戦まで私たちが先輩たちに言っていた言葉が、竜澤の背中に飛んでいた。

 竜澤の相手、輿水浩は同じ二年生。小柄だが、今年の七帝戦優勝時のレギュラーメンバーである。練習で東北の先輩たちにボロボロにされながら身につけた難攻不落の寝技をもつ。だが、ここは竜澤に取り返してもらわないと北大に後はなくなる。

 両者ゆっくりと頭を下げた。

「はじめ!」

 主審の声が響いた。

 輿水が腰を落としながら一歩二歩と下がっていく。竜澤もタックルを警戒してやや低い姿勢になってそれを追う。

 輿水が素速く袖を握った。寝技に引き込んだ。

 竜澤が上から速攻。輿水がカメ。竜澤は輿水の頭にまわってすぐに横三角を狙う。輿水が横三を阻止するために竜澤のズボンの裾を握った。竜澤は右膝頭に全体重をかけ、輿水の手を上からスクリューを捻じ込むようにして強く潰しにいく。カメをやる分け役たちの指が亜脱臼を繰り返して歪に曲がるのはこの攻撃のためである。しばらくの攻防のうち、竜澤がその手を捻じ切った。

「なにやってんだ、輿水!」

 東北大陣営から大きな声があがった。輿水はすぐに竜澤のズボンを握り直す。竜澤が表情を歪めてまたその手を潰す。すでにその顔には汗が滴っていた。カメになって下を見ている輿水も汗で畳を濡らしている。竜澤が思いきって再び輿水の手を捻じ切った。

「だめだ、輿水!」

 東北大陣営が輿水を激励する。竜澤は右膝頭を輿水の後頭部に当て、今度はそれを潰しにいく。これによって輿水の右脇を空けようとしているのだ。輿水が必死の形相で耐える。その脇の下に左の踵を捻じ込む竜澤。

「竜澤、それ返せるぞ!」

 五年目の岡田さんの声だ。

「いけるぞ!」

 大学院生の斉藤トラさんだ。

「竜澤! 取りんさいや!」

 和泉さんの大声が飛んだ。

 しかし竜澤が踵を捻じ込んでも、輿水は返される寸前にその踵を押し出すので横三角に捉えることができない。同じ攻防が何度も繰り返された。じりじりと時間が過ぎていく。

 カメになった輿水の顔も、それを横三で攻める竜澤の顔も汗みどろである。抜き役の横三、分け役のカメ。絶対に取らなければならない者と、絶対に分けなければならない者。まさに矛と盾の関係である。

「あと三つ!」

 両陣営のタイムキーパーが同時に言った。残り時間三分の合図だ。

「竜澤──」

 岩井監督が声をかけた。竜澤がそちらを見た。監督は右手のひらを上に向け、軽く上げた。立っていけの指示である。

 竜澤が立ち上がる。輿水が竜澤のズボンに両腕でしがみついた。立技から再開されるのを避けようとしているのだ。竜澤は輿水を引きずってズボンを握る手を切ろうとするが輿水も必死だ。竜澤がもう一方の脚の膝で輿水が握る手を潰し、両手で輿水の背中を強く畳に押しつける。輿水の表情が痛みで歪む。東北大陣営から「輿水、絶対に離すな!」と声があがる。竜澤が歯を食いしばってその手を切り、ようやく立ち上がった。

 開始線に戻る。輿水も立ち上がり、息を荒らげながら開始線に戻った。七帝ルールには場外がないので「場外待て」はない。寝技膠着の待てもないので試合時間ずっとカメをしていても「膠着待て」もかからない。待てがかかるのは一方が寝技をやらない意思を示して立ち上がり、両者が離れたときのみである。

「はじめ!」

 主審が再開の声をあげた。

 輿水が極端に低い姿勢で前へ出て、袖を握った。引き込もうとした瞬間、竜澤がガバッと上から背中を持ち、輿水を引きずり上げるようにして得意の内股を放った。

 輿水が大きく吹っ飛んだ。

 北大陣営から「いった!」と声があがった。

 輿水が畳に落ちた。両陣営が主審を見た。

「技あり!」

 そのコールに、北大陣営と東北大陣営の歓声と怒声が交錯した。七帝ルールは一本勝ちのみで勝敗を決するので技ありでは勝ちにならない。勝利を得るには、一本を取るか、技ありを二つ取って「合わせて一本」とするかのどちらかだけである。竜澤が汗まみれの長髪を振り乱し、上からまた寝技で攻めはじめる。北大陣営の先輩たちからは「いけ!」と、東北大陣営からは「輿水なにやってんだ!」と大声があがる。岩井監督が「竜澤、立て」と指示を出した。竜澤が監督を見て肯き、立ち上がった。

「はじめ!」

 主審の声に竜澤が飛び付くようにして奥襟。内股を放った。北大陣営から大歓声があがった。しかし輿水は体を捻って腹ばいに落ちる。主審のコールなし。それに沸く東北大陣営。竜澤は輿水を引きずり上げるようにしてまた内股。輿水は汗とともに吹っ飛んだが腹ばいに落ちた。さらに竜澤が引きずり上げようとする。輿水がカメになって竜澤のズボンの裾を握りしめた。竜澤はそこで一息ついた。そしてズボンを握る輿水の手を膝で潰して横三角にいく。輿水はカメで耐える。

 そこからは、立技を避けて引き込む輿水を竜澤が持ち上げて主審が「待て」をかけることが繰り返された。そして両陣営の怒声のなか、ついに引き分けとなった。

 私の相手は高橋さんになりそうだ。

 シミュレートしながら呼吸が速くなった。

 高橋さんは引き込んで下から返す本格的な寝技をやる。

 一〇〇キロを超える寝技師にどう対すればいいのか。北大の先輩には重量級がいなかったため、私にはまったく経験がない。高校でも大学でも団体戦では重量級とずいぶん戦ったがすべて講道館ルールである。重量級に寝技に引き込まれたことがなかった。

 頭のなかで考えを巡らせていると、次の一年目の藤井哲也が東北三年の山口孝幸さんの怒濤の攻撃で崩袈裟に固められた。二人差になり、私の相手は山口さんに変わった。考えている暇はなかった。山口さんも私より一回り大きい。

「増田──」

 岩井監督が、抑え込まれている藤井を見ながら私を手招きした。小走りで監督のもとへ行き、そこに正座して言葉を待った。

 監督の眼が、私を見た。

「抜きにいけ」

 わかっていたが、心臓のあたりが熱くなった。

 入部以来初めて言われた言葉である。

 抑え込み三十秒の一本を宣せられた藤井が立ち上がり、開始線で道衣を直して戻ってくる。私は藤井の尻を叩き、代わって畳に上がった。

 深呼吸し、弱気を顔に出さぬよう開始線に立った。

 膝の怪我以来、初めての試合である。

「増田さん、お願いします!」

「抜いてください!」

「ファイトです!」

 一年目たちが大声をあげている。一矢報いなければなめられっぱなしだ。だが、まともに組んだら投げられるかもしれない。寝技に引き込まれたら返されて抑えられるだろう。

 主審の「はじめ!」の声と同時に前へ出た。山口さんが手を伸ばしてきたので応じ、右自然体に組み合った。そのまま一歩、私は下がった。山口さんがついてきた。さらに二歩目を下がった。山口さんがついてきた。三歩目を下がりながら私は素早く右に体を開いた。支え釣り込み足。山口さんが横転した。

「技あり!」

 主審が右腕を水平に上げた。

「よっしゃ!」と北大陣営が沸いた。

 しかし私は寝技にいかず、山口さんから離れて開始線に戻った。

 岩井監督と眼が合った。

 私の本当の狙いは、次の二度目の組み際にあった。いつも乱取りを見ている監督にはそれがわかっている。

「はじめ!」

 主審が言った。

 山口さんが私の襟を取りにきた。

 私は両手でその襟を切るふりをして山口さんの手首を固定し、立ったまま得意の脇固めにいった。

「痛っ!」

 山口さんが声をあげた。かまわず私は引きずり倒し、寝た姿勢になってから肘を極めた。

「よし!」

「そのまま折れ!」

「躊躇するな!」

 北大陣営から拍手と歓声があがっている。

「山口、耐えろ!」

 東北大陣営が叫ぶ。私は折るぞと両腕に渾身の力を込めて伝えた。骨折させると数カ月は練習ができなくなる。七帝戦本番と違い、ここは参ったしてほしかった。さらに力を込めると山口さんが手を叩いた。

「一本!」

 主審が言った。

 北大陣営が一斉に沸いた。立ち上がって監督を見たが、いつものように黙っていた。山口さんが肘を抱えて立ち上がった。主審の「勝ち」という宣告を受けて頭を下げ、私は畳に残った。

 だが、この後どうすればいいのか。

 四人並ぶ超弩級をどうすればいいのか。

 私がどうこうできる相手は一人もいない。

 高橋さんが開始線に立つ。私は深呼吸して帯を結び直し、眼を合わせないように視線を落とした。頭中で作戦を巡らした。何も浮かばない。高橋さんは寝技に引き込んでくるだろう。どうすればいいのか。速攻をかけたらそのまま返されるのではないか。股を割って嚙み付いたら後ろ帯を取られて返されるのではないか。何も浮かばない。どうしたらいい。

 混乱したまま試合が始まった。

「もう一人頼むで!」

 和泉さんの声が遠くで聞こえた。

 そうだ。まだ一人ビハインドなのだと気づいた。

 高橋さんが引き込むのに合わせ、脚の間に入って一呼吸あけようとしたが、ものすごい力で引きつけられた。頭を下げられ腕を引っ張り込まれた。そのまま脇をすくわれた。横に変則的に返され、横四方に入られた。潜り込もうとしたがその動きに合わせて崩上四方固めに変化され、そのまま抑えられた。焦って腰を必死に振ったが隙間が空かない。エビをしたいが首が強く極まっていて動けない。

 三十秒のベルで一本を宣せられ、開始線に戻って頭を下げる。そのあいだ私は何も感じなかった。悔しさすら感じない。これが七帝戦のスタンダードなのだ。俺たち北大柔道部は、ずっとずっと下をとぼとぼと歩いているのだ。

 私と入れ替わりに宮澤が出ていく。

 道衣を直しながら立ったまま試合を見た。

 宮澤は引き込み際に脚を捌かれて、すぐに袈裟に固められた。

 先輩たちが「袈裟で抑えられてどうするんだ!」と怒鳴っている。

 最後の砦、大将の後藤さんも同じパターンですぐに袈裟で抑え込まれた。後藤さんを抑える三十秒の間、高橋さんは笑みを浮かべて東北大陣営を見ていた。

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