【単行本版試し読み】第5話(全7回)
第2章 札幌には観光に来た
1
翌日、洗濯済みの柔道衣を抱えて道場へ行くと、すでに主将の後藤さんはじめ殆どの部員が道衣に着替えており、道場の隅に座って指や足首にテーピングテープを巻いていた。レギュラーではない一年目も全員が着替えている。試合後に合同乱取りがあるからだろう。函館にある水産学部へ移行したばかりの同期、工藤飛雄馬の顔もあった。大鏡の近くに座ってテーピングしている飛雄馬が私に気づいて軽く片手を上げた。
引退した四年目や五年目、そして札幌在住のOBが大勢応援に来ていて、久しぶりにたくさんの人がいた。しかし、部員もOBたちもみな蒼ざめ、顔を引きつらせている。「札幌観光に来た」という東北大陣営の放言がすでに広がっているようだ。来春には藤女子短大を卒業して北海道警への就職が決まっている久保田玲子も顔を見せていたが、やはり怒りに強張った表情で座っていた。
壁際であぐらをかいて座っている和泉さんがこちらを見た。頭を下げた私を、しかし和泉さんはじっと見ている。もういちど頭を下げたが黙礼も返さず、視線も動かさない。
緊張しながら私は部室に入った。着替え終わった竜澤とちょうど入れ違いになった。服を脱いでトランクス一枚になり、ロッカーから自転車チューブや包帯、テーピングテープ、晒などを出し、床に座って膝やら手首やら腰やらに巻いていく。それを終えると、持ってきた岩崎製の道衣に着替えた。試合本番では必ず岩崎を着ることにしていた。
部室の外が急にうるさくなった。
東北大の連中が来たようだ。
心臓の鼓動が一気に速くなる。帯を結び、表情を殺しながら道場へ出ていく。竜澤が両腕を組んで壁にもたれており、ちらりと私に目配せした。東北大の連中がなごやかなのを言っているのだ。
たしかに緊張感がない。みなリラックスしている。夏の七帝戦のときより、さらに体が大きく見えた。とくに幹部連中は背丈も体の厚みも、北大のそれを圧倒していた。いつもなら七大学で一番気心の知れたチームなので歓談したりもするのだが、侮辱されているのだ。北大勢は誰も近づいていかず、東北大が着替えるのを黙って見ていた。
岩井監督が北大柔道部旧交会の武田泰明会長と畠中金雄師範と一緒に道場に入ってきた。
後藤さんが走っていって頭を下げた。そこに杉田さんも行き、五人で何か話している。武田会長と岩井監督の表情が曇った。もしかしたら杉田さんが件の発言を伝えているのかもしれない。畠中師範は北海道警から招聘された人で北大OBではないのだが、やはり険しい表情をしている。
しばらくすると、後藤さんが両手を上げ、パンパンと叩いた。
「北大集合!」
みな小走りに集まっていく。
私は緊張を気取られぬようゆっくりとそこへ歩んだ。竜澤が両肩をまわしながら、やはりゆるりとした所作で近づいてくる。東北大学からどう見えるか。それを考えていた。そして北大の下級生たちの眼にどう映るか。それを考えていた。
「創や佐藤まで引っ張り出したい」
普段から一番交流のある大学なので「創」などと下の名前で呼ぶが、後藤さんの眼は血走っていた。集まった部員たちをぐるりと見た。そして眼鏡を外してレンズの曇りを道衣の袖で拭き、掛け直した。
「いいか。これまでやってきた苦しい練習を信じて立ち向かってほしい。たしかに強敵だけど、気持ちで負けないように」
皆はうつむいてそれを聞いていた。
「よし。じゃあアップだ。頼む」
後藤さんが隣に立つ川瀬に言った。
部員たちが道場に広がっていく。向こう半分のスペースは東北大のために残さなければならない。東北大もそのスペースに広がっていく。二校の「イチニ、サンシ、ゴウロクシチハチ」の声が重なるように響いた。
「北大、二人組になって立技打ち込み二十回×五セット」
後藤さんが大声をあげた。
私は一年目の守村と組んで交互に打ち込んだ。スチーム暖房が効いて道場が暖かいので、ちょうどいい具合に汗ばんでいく。
「よし。北大集合!」
後藤さんの呼集に集まった北大勢を岩井監督がぐるりと見まわした。そして東北大に聞こえないように小声でオーダーを発表していく。いつもそうだが岩井監督は紙に書かずともオーダーはすべて頭のなかに入っている。
私は三将だった。
竜澤が五将、東英次郎は中堅に置かれていた。
十五人のうち一年目が七人。改めてその現実を考え、暗澹とせざるをえなかった。誰が抜かれてもおかしくない。いや、一年目どころか私や竜澤も、東北大学にとっては十五人全員が穴であろう。彼ら東北大の抜き役陣をトラやライオンに喩えれば、私や竜澤や東はオオカミか。いやオオカミですらない。イノシシくらいだろう。トラやライオンから見れば、オオカミもイノシシも、ウサギもネズミも同じ食い物でしかない。
東北大陣営も離れたところに陣取って、やはり小声で何か話し合っていた。
東北大学の札幌在住のOBたちもやってきて、北大OBに頭を下げてから自陣の横に固まって座った。
2
東北大と北大のオーダーが黒板に順に書かれていく。
名前が一人記されるたびに両陣営からざわめきが上がった。
東北大は「俺たちにまわすな」と言っている三年生の超弩級四人が本当に後ろに並んでいた。普通はこれだけ駒が揃っていれば、大将に主将の佐藤稔紀さんを置くのは常道としても、他の強者は全体に散らしてチームの勝ちを揺るぎなくするはずだ。完全になめられている。
東北大学 北海道大学
(学年) (学年)
先鋒 小林文則2 工藤飛雄馬2
次鋒 西川 治2 守村敏史1
三鋒 脇野真司3 荻野 勇2
四鋒 金子 剛1 石井武夫1
五鋒 塩見祐二3 松井 隆2
六鋒 大森泰宏2 川瀬悦郎1
七鋒 平山 健2 城戸 勉1
中堅 長谷部諭3 東英次郎1
七将 永峰共能1 溝口秀二1
六将 輿水 浩2 斉藤哲雄3
五将 山口孝幸3 竜澤宏昌2
四将 高橋隆司3 藤井哲也1
三将 小野隆之3 増田俊也2
副将 斉藤 創3 宮澤 守2
大将 佐藤稔紀3 後藤孝宏3
しかし並んだ名前を見るとその超弩級四人までたどり着けるのかさえ疑わしかった。四人以外にもずらりと実力者が名を連ねている。先鋒から大将までまったく穴がない。優勝チームとはつまりこういうものなのだ。絶望感しかなかった。
この強豪相手にもし後輩たちが死力を尽くして前半を引き分けていけば、私の相手は小野隆之さんになる。七帝戦本番で昨年も今年も活躍した七大学屈指の抜き役である。背が高く手脚も長い。懐の深い体型を活かして相手の背中につき、ネルソンからの回転縦四方が強力だ。いったいどうすればいい。引き分けるイメージがわかない。目眩がした。脳も心臓もふわふわする。
主務の杉田さんが東北大側へ試合前の挨拶へ行き、しばらくすると蒼白の顔で戻ってきた。
「最後の四人、じゃんけんで順番を決めたらしい」
なんてことだ……。
「北大、集合!」
後藤さんがまた全員を集めた。そしてこの試合の意味について話しはじめた。何を言っているのかまったく頭に入ってこない。それは他のメンバーも同じようで、落ち着かない眼で聞いている。主審に促されて十五人のメンバーが試合場に立った。近くで向き合うと東北大はさらに大きく見えた。私は眼の前にいる小野隆之さんを強く睨みつけた。しかし小野さんの眼は涼やかなままである。相手にもしていないようだ。主審が先鋒を残して下がるように指示する。
七帝ルール十五人の抜き勝負。すべて終えるのに二時間かかる。国内にも海外にも類のない、場外なし一本勝ちのみの試合である。
先鋒の二人が向き合った。飛雄馬は白帯スタート組だが夏過ぎから大きく伸び、竜澤にも私にもいっさい取られなくなっていた。とくに立技のフットワークが軽快で、相手にいいところを持たせない。先手先手の立技をやり、寝技になったら堅いカメをもつ。先鋒は動きのいい斥候を配置するのが常道だが、飛雄馬も相手の小林文則も、まさに先鋒向きの選手である。
「はじめ!」
互いに袖を持った瞬間、小林が引き込んだ。飛雄馬がそれを捌いて立ち上がった。その後も同じ展開が続く。両者とも息があがり汗まみれになってきた。お互いに相手の良いところを出させずに、探り合いのまま試合は終わった。
しかし次鋒の一年目守村から北大は攻められっぱなしになった。誰もがボロボロにされ、必死になりながら引き分けている。
私と竜澤は並んで立ち、腕を組み、ときどき大声をあげた。
北大勢が取られそうになるたびに、和泉さんら先輩たちも強い𠮟責の声をあげている。
緊張感のある引き分けが一時間近く続いた。終始攻撃されながら北大選手は必死に守っている。
しかし、後ろには東北大の超弩級四人が座っているのだ。どうあがいたって、あそこで全員抜かれる──。
監督を見た。いつものように静かに指示を送っている。
中堅の東英次郎が期待を担って開始線に立った。
北大陣営から声援を受け、いつもの「よし、こい!」という気合いで三年の長谷部さんに対した。はじめ立技から上になって攻めるが、ここも取れないだろうと私は踏んでいた。長谷部さんは二年のときから七帝戦に出て京大との二年連続決勝戦でレギュラーを張った鉄壁の分け役だ。今では攻撃力も相当にある。昨年、つまり私が一年、長谷部さんが二年時の東北戦で当たった私は、途中から攻めまくられて肋骨を折られ、這々の体で引き分けた。とにかく体幹の力が強い。下級生のころから強力な上級生たちと毎日乱取りをしていたからに違いない。私の予想通り、東英次郎は長谷部さんに余裕をもって分けられた。
均衡が破られたのは七将同士の戦いである。
東北の永峰は一〇〇キロを超える重量級。北大の宮澤と滝川高校の同期で親友、高校柔道部のキャプテンだった。昨年北大を受けて失敗し、宮澤だけが入学した。北大は一浪での入学を待っていたが東北大学に入学してしまった。一年目の白帯スタート組、溝口秀二では荷が重すぎる。なにしろ柔道経験自体がまだ七カ月ほどしかないのだ。しかし試合が始まると相当に粘りを見せた。鬼のような形相で攻める永峰に対し、溝口は必死に分けにいく。上から潰され、カメになり、そこでしばらく頑張った。北大から「頑張れ!」「耐えろ!」と多くの励ましが飛ぶ。しかし一〇〇キロの体でプレッシャーをかけられ続け、力尽きたように返された。下から永峰に抱きつき脚を二重がらみにして守る。二人とも眼を開いていられないほどの汗で畳が濡れていく。そのうち永峰が力ずくで脚を抜いて横四方に抑え込んだ。
「一人ずれたな……」
私は緊張しながら竜澤に話しかけた。
しかし横にいると思ったら答が返ってこない。後ろを振り向くと、松井隆を相手に内股の打ち込みをしていた。すでにその体からは湯気があがっている。
斉藤テツさんが溝口秀二に代わって開始線に立った。
若いOBたちが小声で話している。
「テツに頑張ってもらわないと」
「立っていけばなんとかなるだろう……」
一六〇センチ六〇キロの体は、巨漢の永峰の前では頭を垂れる子供のように見えた。だが小学生時代に町道場通いをしていたテツさんは立技のステップワークが良い。一方の永峰はまだ一年生なので引き込んでの下からの寝技はできないだろう。だからテツさんが引き込むか、あるいは永峰が投げて上にならない限り、なんとかなるのではないか。なにしろ永峰は浪人しているのでまだ体力が戻っていない。溝口秀二を取るのに手間取ったため肩を上下させ、両手を膝についていた。後ろから東北大の先輩たちの激励が飛ぶたびに振り返って肯いているが、顔から滴る汗は止まらず、道衣の袖で頻りに拭っている。
試合が始まった。テツさんは永峰の立技を捌いて時間を稼ぐ。永峰の呼吸はまったく戻っておらず、あまり攻撃してこない。やはり完全にスタミナ切れしていた。途中でテツさんがこかされて両陣営大騒ぎになったが、すぐに立ち上がって窮地を脱した。テツさんも息を荒らげながら必死になっている。両陣営から「あと半分!」の声が同時にあがった。残り三十秒。ここは引き分けだ。
竜澤が岩井監督に呼ばれて走っていく。斜め前に正座した。監督の指示に何度か肯き、一呼吸して立ち上がった。帯を解いて道衣の前を直し、ゆっくりと戻ってくる。
「なんて言われた」
私が聞くと、帯を強く結び直した。
「抜きにいけ、だ」
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