【単行本版試し読み】第4話(全7回)

   2


 十一月に入ると寒さがいよいよ本格化し、北大武道館にスチーム暖房が入った。一階ロビーにはいつもボイラーの音が響き、床が小刻みに振動するようになった。札幌市内は夜が明けるたびに冷たく硬くなっていく。ときどき砂粒のような雪が降り、アスファルトに落ちると風で転がった。私たちは凍えながら道場へ通った。杉田さんによるとこの冷たい風は冠雪した手稲山から吹き下ろしてくるそうだ。

 柔道部員たちは呻き声をあげながら畳の上でごろごろと組み合っていた。ぜいぜいと喉を鳴らし、体全体から汗の蒸気が朦々とあがっている。東北戦はすぐそこまで迫っていた。

「九本目、終わり!」

 ストップウォッチを持つ紅一点のマネージャー、久保田玲子が声をあげ、乱取り相手を交代する。かつて私が一年目のとき当時の主将の金澤さんとの乱取りを避けていたように、いまではこの交代時に私を避けて道場の隅へ隠れるように逃げる一年目が何人もいた。それは上級生から見るとよく判別できる動きで「ああ。金澤さんはこうして俺を見つけていたんだな」とわかった。

 そういった後輩に私は静かに近づいていって「一本やろう」と声をかけた。東北戦までに穴となる一年目を少しでも鍛えなければならない。竜澤も思いは同じなようで、様々な一年目をつかまえては抑え込んでいた。

 私にはもうひとつ日課のようになっている乱取りがあった。主将の後藤さんが必ず私のもとにやってくるのである。

「これから引退の日まで増田と毎日やることに決めたんだ」

 そんなことを言っていた。しかし私は後藤さんをけっこう楽に取るようになっていた。夏の七帝戦前はなかなか取れず大変な乱取りになったのに、このごろは二度三度と私が抑え込んだ。後藤さんはオーバーワークで疲れきっているのではないだろうかと心配になっていた。


   3


 東北戦前日の最後の調整練習も暗いまま終わった。

 私は一階でシャワーを浴び終え、部室で着替えてから柔道場へ出た。今日は合気道部も拳制道部も練習がないので、柔道部員たちはそれぞれ畳の上で同期たちと車座になって話していた。

 私は二年目の同期たちがいる壁際へ行き、座った。そして、竜澤宏昌、宮澤守、松井隆、荻野勇の四人と明日の東北戦について議論を交わした。誰がどの位置に置かれるのかそれぞれの予想を言いあった。

 鞄を提げた杉田さんが道場に入ってくるのが見えた。一年目が代わる代わる挨拶している。しかし何か様子がおかしい。いつもの杉田さんのように朗らかに返したりせず、硬い表情のままこちらに歩いてくる。私たち二年目の前までくると、鞄を畳の上に放り投げ、そこに座った。

「東北のやつら、そうとうなめてやがる」

 私は首を傾けた。

「なんかあったんですか」

「やつら札幌観光に来たらしいぞ」

 杉田さんが銀縁眼鏡の奥で頰を引きつらせた。

「それ、どういう意味ですか?」

「三年の幹部連中が一年や二年たちに言ったらしい、『俺たちは札幌観光に来ただけだから、おまえらだけで片付けろ』と」

 竜澤が眼を細めて杉田さんを見ている。彼が本気で怒ったときの表情だ。私の胸にも強い怒りが這い上がっていた。宮澤たち他の二年目もじっと杉田さんを見ている。優しい松井君まで顔を赭くしている。とても許せることではない。

「どうしたんですか。何かあったんですか」

 五、六人の一年目が集まってきた。

 杉田さんがみんなにゆっくりと説明した。東北大の幹部──つまり三年生たちが下級生に「面倒だからおまえたちだけで片付けろ。札幌観光に来ただけだから俺たちまで回すなよ」と言っていることを。それを聞いて北大の一年目たちも頬を引きつらせた。

 北大と東北大学との定期戦は毎年十一月のはじめ辺りに行われる。もともとは七帝戦と同じく柔道部だけがやっていたものに他の部も追従し、いまでは両大学対抗の総合スポーツ定期戦になった。北大側からは通称「東北戦」と呼ばれ、東北大側からは「北大戦」と呼ばれる。

 北大柔道部は七帝戦四年連続最下位と歩を同じくしてこの定期戦で四連敗を喫していた。北大の戦力低下と入れ替わるように東北大学の力が急上昇してきたのだ。

 東北大は、この二年、七帝戦で二連覇していた。しかもその決勝の内容が凄まじい。二年連続で常勝京大と当たり、十五人が戦って大将決戦でも勝負がつかず、代表戦を何度も何度も繰り返す果たし合いのような試合になった。最後は会場の閉館時間を係から告げられ、時間切れで同時優勝を分け合っていた。三年目以下しか出場資格のない今回の東北戦でその優勝メンバーから外れるのは、主将だった中村文彦さん、蜘手さん、三沢さんの三人の四年生だけである。つまり優勝メンバーのうち十二人がそのまま残って出場してくる。

 三年生には新主将の佐藤稔紀さんをはじめ、斉藤創さん、高橋隆司さん、小野隆之さんと、七大学屈指の超弩級四人を擁し、そのほかの三年生も抜き役ばかりで、二年以下にも好選手をずらりと揃えている。

 一方の北大は、前主将の和泉さんたち四年目七人がメンバーから抜け、五年目の岡田さんももちろん出られないので、十五名のうち八名を入れ替えてオーダーを組まなければならない。たしかに苦しい戦いだ。しかし「札幌には観光に来た」という発言はあまりにも馬鹿にされすぎだった。

 竜澤が黙って立ち上がり部室へ入っていった。杉田さんはその背中をじっと見ていた。

 鞄を持った竜澤が部室から出てきたので私も立ち上がった。いつものように二人で階段を下り、武道館を出た。二人ともジャンパーの下にトレーナーを二枚重ね着するようになっていた。武道館の辺りは墨汁を流し込んだように黒一色である。深閑とした構内の林からエゾフクロウらしき哀しい声が響いている。小粒の雪が二つ三つ舞っていた。

 二人は北極海をいく砕氷船のように、硬質で冷たい空気を割って歩いた。そして白い息を飛ばして明日の試合のことを話し続けた。

「俺たちが抜かないと」

 竜澤が悲痛な声で言った。

「東北相手に無理だよ」

「じゃあ、誰が抜くんだ」

「わからない」

「誰が抜くんだ」

 竜澤が強く繰り返した。

「東がいるじゃないか」

 私は言った。一年目の東英次郎は二週間前、無差別の北海道学生柔道個人選手権で、得意の背負い投げで私大の重量級を次々と投げ、北大としては久しぶりのベスト8入りしていた。

「立技の切れる東にわざわざ立ってくるわけがない」

 竜澤がそう言って首を振った。

 そのとおりだ。

 私も竜澤もわかっていた。私たち二人だって抜き役なんていうのはおこがましい存在なのだ。

 二人は、七帝戦四年連続最下位のチームのなかで、四年目が引退したいま、抜き役にならなければと必死にもがいている程度の小者である。三年目が少なく非力すぎて、私たちに役割が回ってきただけだ。立技なら──相手が立ってきたら──という可能性くらいしかなかった。しかし立技勝負になったとしても、竜澤も私も、そして東も、東北大の超弩級の前には吹っ飛ばされるだろう。佐藤稔紀さんや斉藤創さんらは立技も強いのだ。本当に必要なのは引き込んで下から攻め、返して抑え込む、あるいは絞めや関節技で仕留める本格的な寝技だ。もし相手が自分より強くても下の体勢で脚を利かせて守れる確実な寝技なのだ。四年目の引退で、そういう本格的な寝技師が北大からは完全に消滅した。

 二人は、黙って歩き続けた。

 白い息が街灯に照らされて顔の前を上がっていく。札幌は本格的な雪が降る直前のこの季節が一番寒く感じる。もちろん実際の気温は一月や二月の方がずっと低いが、雪景色の美しさがそれを紛らわせてくれる。しかしいつになったらその白い雪は積もるのか。

 北区と東区の境界を南北に流れる創成川の橋を渡る途中、竜澤が突然立ち止まった。

「監督さんとこ行ってみよう」

 川の上なので強い風が吹き抜けている。

「いまから?」

「東北が上級生を後ろに並べることを監督さんに言っておいたほうがいい」拳を握りしめた。そして「そろそろ塾が終わるはずだからアパートの前で待ってれば監督さん帰ってくるよ。俺や増田君、どこに置かれるかも聞いてこよう」と言った。

 岩井監督は司法試験の勉強をしながら学習塾の講師をしていた。

「俺たちがどこにどう置かれたって勝てないよ」

 私が言うと、竜澤は苦しげに川の方を向いた。長髪が風で荒れているが乱れるにまかせて創成川の暗い水面を見ている。そして険しい表情でまた歩きはじめた。背中がいつもより小さく見えた。「くそ!」と小声で言うのが聞こえた。

 結局、そのまま竜澤の住む足立ビルの前まで来た。

「このままでいいのかな……」

 別れ際、竜澤が言った。私は何か答えようとした。しかし言葉が出ず、そのまま自分のアパートへ向かった。一歩進むごとにこれまでの人生で感じたことがない孤独が胸を襲い、襟首に悪寒を感じて体を震わせた。

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