13.終わって、始まる epilogue

飯埜彰良の冒険

 梅雨空の鳴尾なるお国際空港に、一人の男が降り立っていた。

 颯爽とロビーを横切る長身のその男は、周囲の視線を一身に集めていた。彼が仕立てのいいスーツを纏った美丈夫であることがその要因として推測されるが、彼の眉間から鼻筋を通ってやや右寄りに唇の端まで下りる長い傷跡もまた、人目を引く要因なのは間違いなかった。


「ここも雨とはツイてない」

 飯埜彰良あきらは雨空を見上げ呟いた。

 彼は周囲の熱い視線や冷えた視線を躱したり受け止めたりしながら、小振りの旅行鞄を携えると、空港の駐車場に向かった。二ヶ月近く放置していた埃だらけのダークグリーンのジャガーに乗り込み、街の中心部に向けて車を走らせる。

 南米での仕事を終えた後、約二週間の休暇を米国西海岸で過ごした。そこで普段降らない雨に当たってしまったのは残念だったが、女も酒もギャンブルも余すことなく堪能できた休暇に悪い感想はなかった。安月給の警官の頃には考えられないことだった。やはりどんな形であろうと人生に上昇と変化は必要だと彼は思った。


 フロントガラス越しに見える景色は、温い雨に濡れそぼっていた。

 眼前に続く街並みは洗練されているようで、しかしどこか陰気で、しばらく見慣れていた赤道近くの国とは目に映るもの全てが違う。

 赤信号を待つ間、横断歩道の上を鮮やかな色合いの傘達が賑やかに渡っていった。濁ったコンクリートの上を水色の傘を差した少女が、まっすぐに背筋を伸ばして歩いていく。その姿を単純に美しいと思い、邪な感情半分で眺める。束の間のヴァケーション非日常の日々に未だ後ろ髪を引かれる思いでいたが、本当に僅かだった。背後に流れゆく慣れ親しんだ景色を目の当たりにすれば、居るべき場所に戻ってきたとただ実感していた。


「お疲れ様です、飯埜さん」

 街の中心で塔のようにそびえるビルは、何も変わっていなかった。いつもの四十九階まで昇り詰めると、窓の傍にいた女性が振り返った。見惚れるほどの美しい立ち姿を見せるのはボスの秘書である美島。彼女は変わらぬ口調で静かに口を開いた。

「御存知と思いますが、ボスが死にました」

「ええ、知っています。とりあえずはご愁傷様。それで葬儀の方は?」

「していません。故人の意向でしたので、墓石もありません」

 挨拶もそこそこに美島が告げるが、それに戸惑うことなく飯埜は応えた。


『アタシの死骸なんててきとーに燃して、生ゴミと一緒に出してくれりゃいいのよぉ』

 以前一緒に呑んだ時、侍らせたキャバクラ嬢の肩を抱いて、笑いながらそう言っていたことを飯埜は思い出す。独特な死生観を持っていた彼女ボスの言いそうなことと思うが、しかしながら死体は適当に消失しないし、その後の処理も一般的に考えれば倫理的衛生的に問題がある。だが何に於いても優秀な秘書は、もしかしたらそのとおりに実行したのかもしれなかった。


「いつから病を?」

「病名を知ったのは今年の初めです。その時には既に手遅れでした。ですが病に冒されていることは以前から気づいていたようです。痛みには随分苦しんだようですが、短い期間で逝けたのは唯一の赦しだったのでしょうか」

「赦し……? あなたにしては随分信心深いことを言うんだな、美島」

「……これは失礼致しました。どうやら慣れない面倒ばかりで少々疲れが出ているようです」

 彼女は眼を細めて笑うと、お茶を用意すると言って出ていった。その背を見送り、一人残った飯埜はソファに腰を下ろすと主のいなくなった室内を改めて見渡した。


 長年この場所で組織を動かしていたボスの死。

 その少し前に彼女の腹心が巻き起こした出来事も、遠く離れた地で情報は得ていた。

 そしてボスの

 娘の名は小暮潮里。彼女はボスが死ぬまでその存在を隠し続けただった。

 ボスは自らの血を引いたその少女を救おうとし、自らの大事な部下を捨て駒として使ってでも、救い出そうとした。塚地はボスの思惑に結果的には嵌ったことになるが、少女がボスの身内と知った最初の情報を得たまでの動きは決して間違ってはいなかった。故にすぐさま明神組組長、明神貞照さだてるの五番目の妾の子である樋口照美てるよしを駒として動かし、少女連れ去りを目論んだのはいい判断だった。そこまでの行動には一定の評価を下していいはずだったが、その後の対応は非常に不細工だった。自分ならもっと臨機応変に上手くやり遂げられていたと飯埜は思う。

 けれどもこれはもう終わったことだった。皆、既に消えた。ボスは死に、塚地は美島の手により再起不能、樋口も同様の結末を辿っている。過ぎ去った出来事をいつまでもしつこく穿り返す主義ではなかったが、残る疑問が一つだけあった。


「明神組とはどう遺恨を残さず、話をつけたのか……」

「それでしたら、ボスが塚地の身柄と引き換えに片をつけました」

 飯埜が顔を上げると、いつの間にか美島が戻っていた。テーブルには紅茶の入った趣味のよいティーカップが置かれ、彼女は向かい合う席に静かに腰を下ろした。

「明神組長とボスは旧知の仲でした。周囲には当然知らせていないと思いますが、彼もボスと同じ業を持つ人間ですので」

「ああ、なるほど」

 塚地がボスを憎んでいたことは以前から気づいていた。彼は自分とは異なる人間を許すことができなかった。しかし彼の息の根を止めたのも、自らと異なる者だった。


「まだ何を考えていらっしゃるのですか、飯埜さん」

 再び顔を上げるとそこには美しい女の姿がある。

 飯埜は彼女の肢体を邪な感情で素早く眺め、ティーカップを手に取ると、過ぎたことにまた思いを馳せた自分を嗤った。

「いいや、何でもない。ただあなたが最後までボスを裏切らなかった理由は何だろうと思ってね。ここまで忠実である理由は何だろうと。私がこの件を調査して最初に知ったのが、小暮弘樹、明里の夫婦に子供ができなかったことだ。でも二人はある女から産まれたばかりの赤ん坊を引き取ると養女にした。私は当然その女の足跡を追ったが、結局行方に辿りつくことはできなかった。その女、つまりボスの娘である彼女が一体今どこにいて何をしているのか、未だ謎に包まれたままの彼女のことをつい考えてしまう自分には呆れるよ」


 飯埜が調査の過程で手にしたのは、小暮潮里の中学時代の写真だった。現在とは違い濃い化粧もなく、抜けるような肌の白さとくっきりした目鼻立ちが際立つその面影は自分の知るある女性を思い起こさせた。

「驚くほど似ていたり、全く似ていなかったり、遺伝子の不可思議さを感じるね」

 目の前の相手は二十代半ばにしか見えないが、実年齢がそれを大幅に越えていることは知っていた。でもそれは昨日の天気予報のように飯埜にとってどうでもいい情報でしかなかった。彼は女性が大好きだった。全ての女性を愛して、その存在を尊敬していた。だが女は魔物とも言う。その言葉どおりの魔物がもしかしたら目の前にいるのかもしれないと、最後にふと思った。


「飯埜さん、私は人としていろんなものが欠落しているのです。過去、最も無責任と言える行いの後始末を小暮にさせたことに関しては語りきれない恩があります。ですから私はこの件について、感情的な思いで語る権利を持ちません」

 美島はそう言って再び薄く笑うと不意に立ち上がり、綺麗に片づけられたボスのデスクに異動した。

「私もまだまだのようですね。志摩さんにも気づかれていたようです」

 飯埜がこの組織に足を踏み入れたのは約三年前。自分より若いが、序列に従っていつもタメ口を利くその男の名を耳にして、反射的に顔を顰める。

 今回の件でも明け方の電話で叩き起こされ、つまらない調査を無理矢理やらされた。会う度に男だったり女だったりする怖ろしく美形の少年とコンビを組んで《後始末》の仕事をするあの男は拷問好きの変態サディストで、人を苛つかせることに長けた馬鹿だが、頭は悪くないようだと思った。


「その志摩さんですが、報酬を受け取る際に今回の代償として無期限の休暇を要求し、受理されました。当分戻ってこないでしょう。いえ、戻ってくるかも分かりません」

 長い髪を後ろで括った黒服の男と、少年でも少女でもない手足のすらりとした彼か彼女。

 乗り継ぎの空港で、彼らを思い出させるよく似た二人連れを見かけた。元々話しかけるつもりもなかったが、その姿はすぐに異国の雑踏に紛れて見えなくなった。


「飯埜さん。私はとりあえず代行を務めています。しかし向かないのですよ、こういう仕事は私には。長く生きているので自分のことはよく分かっています。あの人のような欲望の強い人間ほど、この仕事に向いているのです」

「だから、私に?」

「あの人が今回の件に関わらせないようにあなたを国外へ行かせたのも、そう考えていたからでしょう」

 そう告げてこちらを見た相手を飯埜は見据えた。

 欲するものを中心に物事を捉え、達成するまではそれに付帯する犠牲に心を痛めない。愛しているのは己の地位ではなく、悪事。自己愛が強いだけの塚地には到底無理だったことは、月の満ち欠けが当然の理であるように飯埜には理解できた。


「あなたはどうするんだ?」

 こちらの表情を見取り、彼女は部屋を去ろうとしていた。呼び止めた声に足を止めて、彼女はいつもの無表情で振り返った。

「私はいつでもここにいます」

 彼女が去り、また一人になった部屋で飯埜は窓から下界を見下ろした。

 私達のいる場所はここ。飽いても泣き叫んでも、足を踏み入れた私達はずっとここに居続けなければならない。しかしそれは絶望でもなく、ただそこにある事実でしかない。

 姿を消した彼らにとってもそれは同じ。この場所でなくても、彼らの居場所はここしかない。そのことは彼らにも分かっている。

 だがそれは一つのあり方であり、ここから見下ろすことのできる意味は無数にある。

 絶望と感じるか否かは、それぞれに委ねられている。




〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月と花 長谷川昏 @sino4no69

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ