3.見上げた先には微かな形を持つ月

 今朝、志摩はボスと会っていた。

「ねぇ志摩、アレはもう何年前のことになるのかしら? きったないズタ袋を被った子供の路上強盗がいるって噂を聞いてさ。早速アタシは部下を引き連れて、物見遊山的に見物に行ったワケよ。そいつはガキなのになかなかの手練れで、その上非情って話でさ、でもまさかそんなのがいる訳ないって半信半疑でいたら、ホントにそのとおりのガキがいてね。頭には噂どおりすっぽりズタ袋を被って、周囲には五月蠅いほど蝿がたかってた。おまけに真夏なのにトックリセーターに長ズボンという暑苦しい出で立ちで、うわぁ……ってとりあえずは引いたけど、とにかく部下にとっ捕まえさせて、どんな顔してるのかとズタ袋を取ってみたら、まぁびっくりよ。何がどうなったら年端もいかない子供があーゆー目に遭っちゃったりするのかしらねぇ……世の無情を感じたわぁ。で、優しいアタシはその子をすごーく不憫に思って、大層な身銭を切って、人前に出られる顔に治してあげたワケよ。はぁ……これってとってもいいお話だと思わない? 志摩、アンタもそう思うわよね? ホント今頃あの子はどこでどうしてるのかしらねぇ……」

「……どうして今そんな話をする?」

「だって志摩がすんごい顔で睨んでくるんだもの! だから恩の二度売りをしとこうと思って!」

「そうだな。あんたが言う何がどうなった顔に戻るかと思ったよ」

「あはは。いやホント悪かったわねぇ、志摩」


 今回の件の顛末。

 まず冒頭の昔話は蛇足で、今回の事件を引き起こしたボスからの謝罪は「いやホント悪かったわねぇ」のそのひと言だけだった。

 そして事の次第。

 ボスに娘など存在しない。小暮潮里はボスの身内でも何でもなかった。

 塚地の背信が確実になりつつあると察したボスは、《ボスの娘であるという小暮潮里の存在》を捏造した。その企みにまんまと嵌った塚地は裏切りを確定させ、明神組の樋口を使って潮里誘拐を実行し、ボスの全てを奪い去ろうとした。

 一方ボスは自分から仕掛けたそれに全く気づいていない体を装い続け、事情を知らない部下自分達をも巻き込み、場をより複雑怪奇に入り組ませて逆に塚地を陥れる機会を狙っていた。


 だがこのはかりごとに不可欠だった《ボスの娘であるという小暮潮里の存在》は捏造でも、《ただの女子高生である小暮潮里という少女》は確かに存在していた。

 古い友人だった小暮弘樹と、会ったこともないその娘をボスはこの計画に利用した。最終的にボス自身には何の傷も後遺症も残ることがなかったが、小暮家の二人、特に潮里には多くの痛みが残ったはずだ。企ての過程で行方を捜索させた事実は一応あるが、それが単なる計画の一端である可能性は多大に残され、ボスが本当に潮里の行方を案じていたかどうかはあまり考えてみることはしたくない。


「お話中、失礼します」

 志摩は届いた声をちらりと見遣った。コーヒーとミネラルウォーターを運んできた彼女は優雅な所作でこちらを見返した。

「どうも、志摩さん」

 彼女――美島はボスを裏切っていなかった。それは最初から最後までだった。

 彼女はボスの指示に従って塚地に寝返る振りをし、間近でその腹の内を探っていた。だがボスには忠実に従う一方で、何も知らされなかった同僚自分を本気で殴り、明神組に平然と引き渡した。気を失って屋上に放置されていた相棒に関しては、本気で始末しようとしていたのではないかと、その疑念はまだ消えていない。


「澤村さんのお加減はいかがですか。少々私情が出て強く殴ってしまったので」

「やりすぎだろ?」

「振りだけでは敵を信用させられません。ですがよかったではないですか、最終的には無事だったのですから。志摩さん、伺いますが、この件についてまだご不満がございますか。一応意見を耳に入れることぐらいはしても構わないと思ってますが」


 言葉を放つ美島はにこりともしない。

 彼女の二つの銃口は、最終的には裏切り者だけに向けられた。

 残された事実だけを鑑みてみれば、確かに彼女の言うとおりのようにも思う。

 けれどあの時塚地に言い渡した『物事が起伏無く進んでしまっては面白味に欠ける』という言葉どおりに、過剰に彩られた演出劇の最中に無駄に放り込まれたようにも思う。結局は全てを見下ろしていたボスの手の内で、好きなように踊らされただけにすぎない。その辺りに関してはまだ不満も残るが美島の指摘どおり、反論の言葉はもう浮かばなかった。


「これはお返ししておきます。一応預かっておきました。自分の得物でやられるほど間抜けなことはありませんから」

「そりゃどーも。あんたの優しいお言葉が初めて聞けた気がするよ」

 志摩は差し出された携帯電話と銀色の工具を受け取った。それらを懐に仕舞い込み、湯気を上げるコーヒーカップに手を伸ばす。けれど残る口内の痛みと、もしかしたらまだ蟠っているかもしれない感情のせいで味がよく分からない。

 彼女達の表情に罪の意識は微塵も見えない。だが元から何かを期待していた訳でもなかった。腹立たしさや恨みもなく、ただこれまでにない虚脱を心の底に感じているのは確かだった。


「まぁ、そういうことよ。この件に関しては飯埜でもよかったんだけど、ほら、彼はいなかったでしょ? 仕方がないって言えば仕方がなかったんだから、もうそんなに怒んないでよ」

 志摩はその言葉に何も応えなかった。不機嫌そうに見せてはいるが、過ぎ去った出来事を振り返ってみることはしたくなかった。無論使い捨ての道具のように扱われたことに腹を立てている訳でもない。自分がそういうものであることは昔もこれからも変わらない不変的事実だった。

「あー、もう! こうなったらアンタの欲しいもの何だってあげるわよ! 志摩、アナタ何が欲しいの? アタシ何でも奮発しちゃうわよ! 金? 女? それとも上物のドラッグ?」

 けれども目の前の女には二度売りされるほど一度目の恩は返している。

 志摩は相手に向き直ると、こう答えた。

「ボス、女もドラッグも必要ない。今回の報酬と長期休暇を今すぐくれ」





******





 深夜。

 ふと目を覚ました志摩は、どこかから風が吹き込んでいることに気づいた。

 部屋を出てリビングに向かうと夜露混じりの風がカーテンを揺らし、はためいている。

 半開きの窓の外、狭いベランダに颯の姿がある。柵に肘をつき、ぼんやり外を眺めている。何が見えるのかと視線を辿ってみるが、何も見えなかった。そこには混み合った家々の屋根と、その合間から僅かに見える夜空があるだけだった。


「どうした、颯。夜はまだ冷える。風邪引くぞ」

 声をかけるが返事はなかった。志摩は肩を竦め部屋に戻ろうとしたが、足を止めて引き返すと隣に並んだ。よくよく見れば歪な夜空の隙間に、星が微かに瞬いていた。

「志摩、俺さ……」

 届いた呼びかけに志摩は顔を向けた。

 暗がりにあるその表情はただの少年のように見える。年齢を思えば確かにそうなのだが、改めて思う事実には蘇る感情もあった。


「……俺は花に一番近い場所にいるけど、直接会ったりはできない……だけど今日、ほんの一瞬だったけど俺、初めて花に会ったんだ……花と入れ替わる僅かなその一瞬。あまりにも短くて話す時間も花に触れる時間も全然なかったけど、俺、初めて花に会ったんだ……」

 隣の呟きには、戸惑いのようなものがある。でもその奥には闇に灯る仄かな明かりにも似たものが垣間見える。

 けれどそのもっと奥、そこには不穏な何かが潜んでいた。

「颯、お前何を不安がってるんだ?」

「志摩……俺、別に不安な訳じゃないんだ。記憶が半欠けなことも傍から見れば間違ってるって否定される感情も、不安に思ったことなんかない。でも前から心のどこかにあった漠然とした何かが、どうしてか大きくなった気がするんだ……もし……もしだけど、俺達のどちらかが突然消えてしまったら、俺や花のこれまでのアイデンティティもそれまでの記憶も何もかもが全部消えてなくなる……なぁ志摩、俺はそのことが自分自身を否定されることより、ずっと怖いんだ。今話してる俺もパッて弾け飛んで無くなる水風船みたいに、俺が俺で、花が花だって認識できるのは俺であり花なのに、それがとてもあやふやなものでしかないんだ。俺は不安な訳じゃないんだ。いつかきっと必ず直面しなければならないその漠然とした何かが、他の全てを凌駕するほど怖いんだ……」


 言葉が途切れ、静寂が続いた。

『澤村さんでしたら、先程私が屋上で始末しました』

 美島からそう告げられた時、自分が思う以上の衝撃を受けていた。一瞬我を失い、銃口を美島の頭に向けることしか考えられなかった。

 その感情には当てはまる言葉はなく、表現できたとしても別のものと区切りがないほど入り混ざっている。屋上で抜け殻のような身体を抱き上げた時にも感じたその感情は、まだ腕に強く残っていた。


「でも、志摩」

「……なんだ?」

「あやふやなのはどうしようもないし、そのことを怖いって感じ続けててもどうしようもない。だから俺、思うんだ。もし俺が消えても、花が残るのならそれでいい」


 届いた声に目を向ければ、その顔には微かだが笑みがある。

 その笑みに笑い返して視線を戻せば、街灯に照らされた細い路地にこちらを見上げる黒っぽい何かがいる。それは胡散臭げにこちらを見ていたが、目が合うと塀や軒を使って器用にベランダまで上ってくる。傍に歩み寄り足元でにゃあ、と鳴き声を上げたそれは、しばらく姿を消していた黒猫だった。


「うわぁ、可愛いね。これ、志摩の猫?」

「いいや、でもたまに来てたな」

 颯は屈み込んで猫の頭や喉を撫でている。いつもは用心深くしていた彼女黒猫も、今夜はされるがままにじっと寄り添っていた。

「なぁ、こいつの頭のぶち、花の形みたいに見えない?」

「ああ、本当だな」

 確かに耳後ろにある白い斑が、四枚の花弁を持つそれのように見える。以前は気がつかなかったが、新たに模様が増えることももしかしたらあるのだろう。


 志摩は隣から目を離し、無言のまま目前の闇を見ていた。

 腕に残る感情は、失うことへの怖れ。先程彼の表情にも垣間見えたものだった。

 今夜は月も見えない。

 だが手を伸ばせば届く温もりが、そこに存在することに僅か安堵する。

 床に座り込んだ颯の膝上では、猫が穏やかな息を立てながら眠りにつこうとしていた。

「このまま寝ちゃうかな」

「……そうだな」

 その言葉に応えて、志摩はもう一度夜空を見上げる。

 暗い空には先程まではなかった微かな月の姿が浮かんでいた。

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