2.墓穴の底
遠くで、何かの音が響いていた。
目を開けると、そこは深い穴の底だった。
地面にぽっかり空いた土の底に自分はいる。見上げた昏い空には欠けた月が浮かび、あの夜に掘り進んだ森の穴の底に自分はいるようだった。
湿った土と、深い森の匂い。
再び目を閉じると、より深い闇に包まれる。
無限に続くであろうその圧迫感に思わず瞼を開ければ、ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りが目に入った。
僅かな光が届くだけの高い天井には、清らかな天使の姿が描かれている。周囲にずらりと並んだ長椅子には多くの人が頭を垂れて座っている。
不意にその場所に恐れを為し、立ち去ろうとするが、ふと見れば手にはいつの間にかロザリオが握られている。途端身体ががたがたと震え出し、勢い余った力で鎖は無惨にも引き千切られた。暗い床には白い小さな玉が散らばり、その音に前方の椅子にいた一人の男が振り返った。
黒い服を着たその男の顔はよく見えない。男はしばらくすると何事もなかったように前を向き、再び頭を垂れた。低く届いてきた鎮魂歌に居たたまれなくなって視界を閉ざせば、また違う場所にいた。
吹き上げる強風と、初めて味わった背筋が凍えるほどの死の恐怖。
あの場所で全てを諦めた時、その身体はただ落下した。
暗い空と星と月。落ちていく姿を見下ろす女の白い顔と、反射する夜光。一瞬で流れ落ちる光景が閉じられない視覚に次々送り込まれ、全身を打ちつけたコンクリートを突き破っても、まだ落下は続いた。
繰り返された記憶と、取り返せない過去。
目を閉じて、右の瞼に浮かぶのは炎。いつも自分の後ろをついてきたあの子は、春に新しく来た若い職員に性的虐待を受けていた。そんなものからあの子を遠離けたくて男に火を放ったら、あの子まで燃えてしまった。彼女が死んだのは自分のせい。自分がいたから、あの子は死んだのだ。
左の瞼に浮かぶのは、赤い色と白い花。充分な食事の代償に身体を投げ出すことなど、何でもなかった。しかしその行為が颯の手を血で汚した。あの時もこの時も、颯が居場所を失ったのは自分のせいだった。なぜ自分はあの子や颯の傍にいることを許されたのだろう。
自分など最初からいなくてよかった。彼らのためにも最初からその存在を許されるべきではなかった。
気づけば再び、穴の底だった。
この場所で朽ちていくことが唯一の望みだった。できることなら自分がいた事実も消えてしまえばいい。
自分の存在を示す全てがこの世から消え去ることを強く望んだ。
『消えてしまえばいいなんて言うなよ。俺達は二人で一つ、だろ?』
目を開けた場所は、また違う場所だった。
白いだけの何もない部屋。
そこには双子の兄、颯の姿がある。初めて対面した彼は白い服を着て、目の前に立っていた。向かい合うその姿は本当に鏡を見ているようだった。
『……二人で一つ? だから何? そんなことがあっていいはずない! そのことが最初から間違っていると颯は思わないの? 私がいなくなれば、颯はもっと制約無く生きられる!』
『俺は今のままで構わない。花はどうなんだ? 俺がいなくなればいいと思う?』
『そんなことを言ってるんじゃない! そんなことを思ったことなんかない! 私が言いたいのはそんなことじゃなくて!』
『じゃ、いいだろ? このままで』
颯は部屋の窓に歩み寄る。
そこから見える風景は赤かった。
赤く見えるそれは死体の群れ。腐臭を放つ屍が、累々と積み上げられている。
自分達が歩いた道も、これから歩む道も同じように赤い。でも後戻りもできずにその道を行くしかなかった。
『俺達、こうやって話すことができるなら、これからはもっと上手くやれる。もっと自分達をコントロールできるようになるかもしれない』
『……そう思う?』
『俺は花に会って確信した。そう思うよ』
いずれこの部屋も赤く染まる。そこには颯と私の死体が積まれる。
颯もそのことをきっと知っている。
けれど彼は何も言わず白い花を差し出し、もう一度笑いかける。
だから私は笑い返す代わりに、颯の手にある花を奪って意地悪を言う。
『もしそうなったら、私はずっと私のままでいるかもよ』
『花はそんなことしない』
『そんなの分かる? 今日、初めて会ったくせに』
『初めてじゃない。ずっと昔から傍にいたって、分かってただろ? 花』
手にした花は二輪あった。
その一つを颯の髪に挿して、言う。
――分かってるよ、颯。
自分の髪にも挿したその白い花は、嗅いだことのない香りがしていた。
******
「……分かってただろ? 花……」
颯はゆっくりと目を開けた。
忘れてはいけない夢との決別。身体の半分はまだ向こう側にいるが、その感触が望まなくとも次第に薄れていくのは分かっていた。比重を占め始めた現実での最後がいつだったか考えてみる。しかし夢の残滓に縋りつく感情とぼやけた感触が邪魔をして、思考自体を拒否をしていた。
「やっと目が覚めたか」
届いた声を見上げると、ベッドの傍には見慣れた男の姿がある。
「……志摩」
「颯。お前、丸二日眠ってたからな」
こちらを覗き込んで様子を確かめた彼はそう言って、何かを思い出したように立ち上がった。
「腹減ったろ。メシ、食うか?」
「うん……確かに減ってはいるけど、俺、それよりこの二日の間に何があったのかそっちの方が気になるんだけど……」
「まぁいいから、とりあえずはまず食え。話はあとだ」
そう言って志摩は部屋を出ていった。一人になった部屋で思考を再度働かせてみるが、やはり無理だった。しばらくすると食べ物のいい匂いが漂ってくる。すると途端に腹がぐう、と鳴る。思考は停止していても、食欲は貪欲に機能していることにただ苦笑する。
「あのさ、志摩」
「なんだ?」
「ちょっとその顔、酷くない?」
「そう言うな。これでもマシになったんだ」
志摩が即席で作った炒飯を黙々と消費していたが、正面にあるその姿は多少ではなく、かなり酷い。
彼は季節に拘わらずいつも長袖のシャツを着ているが、その袖口からはみ出すように血の滲んだ包帯が見える。顔には痣や切り傷。腫れは引いているようだが、紫や緑の変色が残るその顔は少々見られたものではなかった。
「マシになったって、それで? 整形に失敗したフランケンシュタインの怪物とメシ食ってるみたいだ」
「……怪物か。確かにそのとおりだがやめろ。口の中がまだ切れてて、あまり笑えないんだ」
見たとおり怪我は酷いが、元々そんな柔な人間でないと分かってる。だがその彼がここまで痛めつけられた出来事があったと推測すれば、やはり詳細が気になった。でも彼はあとで話すと言った。それが語られるのを炒飯を平らげながら待っていると、唐突な問いが届いた。
「颯、お前どこか行きたい所はないか?」
「へ? ふぃふぃふぁいほこ?」
炒飯を口に含んだばかりで返しが妙になる。
「パスポートもどうにでもなるから、外国でもどこでもいい」
「……ええっと……どうして急にそんなことを?」
「ボスに休暇をもらったんだ」
炒飯を飲み下して再度問うと彼はそう返した。しかし行きたい所と言われてもすぐには思いつかなかった。それにこれまで自分達の職に〝休暇〟の文字など存在したことはない。もう一度表情で疑問を投げかけてみると、相手の顔には無理に作った苦笑が浮かび上がった。
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