12.白い花、散る

1.三発の銃声

 明かりも消え、暗闇にそびえるビルは獰猛な生き物のように見える。

 遠くなる地表を眼下に、志摩は記憶を辿っていた。


『花が捕まったまんまです』

 その言葉どおりならここに来た花は全てを知ったはずだ。彼女の現状を思えば昏いものばかりが過ぎり、変わらないその現実を前にすれば二度と目を開けることのない蒼白な顔が脳裏に浮かび、強い感情が湧いていた。

 いつもとは異なる得物の感触が上着の中にある。それに触れ、志摩は目を閉じた。

 これはまともな感情だろうか。不必要なものはここから先にはいらないはずだった。


「こんばんは、志摩さん。どうぞこちらに」

 四十九階に辿り着くと、開いた扉の先には美島が待っていた。彼女はいつもと変わらぬ表情でもう一基あるエレベーターに誘い、隣に並んだ。彼女が待ち構えていたことに驚きはなかったが、この状況下での堂々たるその態度には畏敬にも近いものを改めて感じた。


「俺が戻ってくると分かっていたのか?」

「どうでしょう、半々といったところでしょうか」

「これはどこに向かってる?」

「最上階です。今まで別件で屋上にいたのですが、そちらの用はもう済ませました。早々に戻らないと私の新しい雇い主が古い雇い主を殺してしまうかもしれないので」

「ふーん、別件?」

 新旧の雇い主云々はどうでもよかったが、その言葉が気になった。だが白亜の彫像を思わせる表情に変化は見えず、返答もなかった。上昇する箱の中では沈黙だけが流れ、志摩は長身の自分と肩を並べる相手を再度見遣った。


「なぁ美島。ちょっと訊くが、あんたのファーストネームは何ていうんだ?」

「それは今の志摩さんに必要な質問ですか」

「必要というよりただの興味だよ」

「危ない人には教えませんよ。ただ一つ言えば、あなたが知る美島という名も本当の名ではありません」

「それじゃもう一つ訊く。なぜボスを裏切った?」

「それについては答えます。彼女が嫌いだからです」

「これまではそんなふうには見えなかったがな」

「嫌いな相手に嫌いだと表現してみせるほど、愚かではありません」

「へぇ」

「そして相手の質問に全て真実で答えるほど、愚かでもありません」

「そっか、本当のことなんか誰にも言うはずないってことか」

「どう解釈されても構いません。ところで志摩さん、先程から質問ばかりですね。あなた、そんなに口数が多い人だったでしょうか」

「別にどうだっていいだろ、そんなこと」

「そうですね。どうでもいいことでした」

「でもどうでもよくないことが一つ残ってたよ。美島、あんた、俺の相棒がどこに行ったか知らないか?」


 言葉と同時に到着を知らせる電子音が響いた。

 志摩は隣の相手を見遣った。

 彼女の上着の裾には血がついている。

 今まで屋上にいた彼女。は、そこで一体何をしてきた?

「ああ、そのことですか。澤村さんでしたら、先程私が屋上で始末しました。今はとても大人しいですよ」

 無機質な声が冷淡に響いた。

 辿りついた五十五階フロアでは、塚地が握りしめた銃をボスに向けていた。






 約五分前。

 塚地峰雄は長年嫌悪し続けた女を見下ろしていた。

 自らと同じ道を行きながらも、自らとは全く別の道を歩む女。

 彼は秩序というものを誰よりも愛していた。

 事情が許す限り決まった時間に起き、決まった時間に眠りにつき、栄養価を考えた健康的な食事を毎食摂り、季節の移り変わりを感じながら早朝や夕暮れの散歩を楽しむ。葉巻や酒は嗜む程度、衰えを少しでも引き止めるためトレーニングは欠かさず、何より自堕落な習慣に流されない強い意志を持ち、常に身を律し、自らを省みる。そうでなければ上に立つ者であり続けることはできないと、彼はそう固く信じていた。

 しかし放縦な生活を続け、学も無く、あちこちで大声を張り上げる品のなさを露呈し、愛人を常に幾人も侍らせる自分とは正反対の人間が、《ボス》としてこの街に存在している。その許し難く、信じ難い事実が延々と自分の目の前にあり続けていた。


「だから私はお前が嫌いなんだ」

「ああ、そう」

「長年私は考えていた。なぜお前のような人間が私の上に立っているのか。なぜ私の上に立って全てを手にしているのかと、そればかりを考えてきた」

「へぇー、それはどうしてなのかねぇ?」

 椅子に括りつけられた女は平然と答える。自らの状況も顧みず、いけしゃあしゃあと発言するその様にはより一層の憎悪が湧く。


 塚地はこれまで一度もこの相手を認めたことがなかった。長年彼女と仕事を続けながら、心の底で密かに憎しみ続けていた。しかしある日、彼女の秘密を知った。きっかけは彼女の私的口座から毎年決まった額がある人物に送金されていることに気づいたからだった。送金の事実は何重にも隠匿されていたが、執念深く探ったおかげでその人物を特定できた。送金相手は小暮弘樹という男だった。彼は一見一介のサラリーマンでしかなかったが、身辺を探り続けていくうちににある事実に辿り着いた。

 そこに煙のように現れたのは〝彼女の娘という存在〟。彼女の隠された一面を知り、驚きと共に自分の中で長年溜まり続けた澱が、身体中を埋め尽くしていくのを感じた。この秘密は彼女の唯一の弱み、これはあの女の中身を暴く、最初で最後の最高の機会だと思った。


『関係ない娘を巻き込むなんて、この卑怯者、ろくでなし、鬼畜!』

 自らを棚に上げ、大事なものを死守するために必死の形相を浮かべる相手。その姿を目の当たりにして、滾った。

 女の娘はただ攫ったのでは意味がなかった。若い男を使って誑かし、世の穢れを身体に刻み込んでやることにした。元々娘を殺すつもりはなかった。生きている方がつらいと思わせる方が有効なことは、この女といた長年の間に思い知ったことだった。

 謀の相方には樋口を真っ先に選んだ。明神組での確たる地位を得たい男は計画に簡単に乗ってきた。但し樋口は馬鹿だった。使い易くともあの男はただの駒でしかなく、全て終わった後には消えてもらう予定のその程度の男でしかなかった。


「でもそうねぇ、それはやっぱり生まれついての才能ってことなんじゃないかしら?」

「私は……私は、お前のその厚顔無恥な所が大嫌いなんだ!」

 だがクライマックスは、女の狼狽した姿を見たまでだった。

 娘を奪った相手に浴びせた罵声。やはり大事なのは己のこと。この女にボスの資質など最初から無かった。そう薄ら笑いを浮かべた時までだった。

 今では全てが違う流れを辿っている。先程まであんなにうろたえていた女が、今では鼻唄でも歌い出しそうな顔をしている。あのチンピラが本当に娘を助け出せるとでも思っているのか? しかしこのような状況に陥っているのは、どれもこれも全てあの秘書美島のせいだった。

 目の前の女が予期せず引っ張り出した始末屋ども。計画には邪魔でしかない彼らを上手く始末するつもりが、美島の気まぐれな言動のおかげで遠回りしている。こちら側にいれば使えると思って引き入れた。でもそれが失敗の元でしかなかった。あの糞女! あの木偶の坊、どいつもこいつも馬鹿女どもが!


「ねぇところでアンタ、アタシの娘のことは一体どこで情報を手に入れたの?」

「そんなこと、お前に言う必要はない」

 未だ上から目線の物言いには、再び憤らずにはいられなかった。自分の置かれた状況をよく見ろ! 側近に裏切られ、大事な娘の将来を奪われ、お前にはもう何も無い。しかしなんだ……? この女の落ち着き様は?

「まぁ、どこでもいいけど、でもアンタ本当にそれ信じたの? 本当はアタシが先回りして、間違った情報を仕込んだと思わないの?」

「なんだって?」

「このひきょーもの、ろくでなしぃ、きちくぅ。あれが全部アタシの本心から出た言葉だと思う? あの娘はアタシとは何の繋がりもなくて、アンタのしたことが本当は全部無駄だったとしたら?」

 塚地は相手の顔を見遣った。

 驚愕と疑念が漏れ出しそうになったが、無論隠した。こんなものはこの女の苦し紛れの戯れ言だ。馬鹿女が今更何を言う?


「だけどそれ以前に、アンタって全然ボスに向いてないのよぅ。だってアナタ、悪いコトが好きなんじゃなくて、アタシの地位が好きなだけなんだもの」

「も、もう黙れ! これ以上その汚い口を開くな! 醜い雌豚め!」

「あら、それヒドイ」

「黙れと言っただろう!」

 抑えられぬ激昂は懐の銃器を握り取らせた。怒りは銃口を相手に向けさせた。

 額に押しつけられた冷たい感触に女は黙る。だが銃口の下で猥雑に歪んだ視線はこちらを見据え、忌々しい口は閉じられなかった。

「ねぇ、塚地。アンタの目的はアタシの利権を奪うことかもしれないけど、それ以上にアンタ、アタシのことがホントに嫌いなのよねぇ。同じ理由で、男だか女だかはっきりしない颯と花、男娼上がりの元浮浪児の志摩のことも心底嫌ってる。まぁ、そう思うことは罪じゃないけど、そんなに自分とは違うものがお嫌い?」

 相手の戯れ言に応えず、塚地は引き金に力を込めた。

 この女と話すことはもう無い。絶望を与え、そして全てを取り上げる。そんな女が今更何を言おうと、動揺すらする必要はなかった。


「何も言うな、ボス。いやもうお前はボスじゃない。今から私がボスだ」

 この引き金を引く。

 そうすればこの忌々しい存在はここから消えて無くなる。

 ポーン。

「只今、戻りました」

 しかし間抜けな到着音と、間の悪い部下の登場にその期は逸される。

 声を辿れば、そこには消したはずの男の姿もある。随分と重傷を負っているようだが、相手はまだ生きて立っている。退けたはずの駒の帰還は、己を酷く苛立たせる要因でしかなかった。


「美島ぁ! どうしてここに志摩がいる?」

「戻っていらっしゃったので、お連れしました」

 戻る返答には脱力すら感じる。多大な怒りと疑問符が塚地の脳裏を過ぎったが、続く言葉すら出なかった。だからどうしてそうなる? お前は馬鹿なのか? そのでかい身体の上についている頭は飾りか? この糞女が!

「物事が起伏無く進んでしまっては、面白味に欠けるでしょう」

 だがこちらの心内も知らず、相手は平然と言ってのける。塚地はこの相手を目の前の女の次に消す決断をする。奴がいなくなっても代わりはいる。確か樋口に紹介されたフジタとかいう男。ただのチンピラヤクザなら、金を積めば尻尾を振って何でもやるだろう。この糞女より数十倍は使えるに違いない。


「塚地!」

 自らを苛立たせる相手に気を取られている間に、死に損ないの男は部屋の中を移動していた。その銃口はこちらに向いている。糞生意気な……餓鬼の頃から身体を売って生きてきた汚らしい輩のくせに!

「塚地、銃を下ろせ! 美島、お前も動くな! 新しい雇い主を失いたくないだろう!」

「美島ぁ!」

 その声に被せるように塚地は叫んだ。

 とりあえずこの女に志摩を始末させる。当人の始末はその最後の仕事をさせてからだ。図体ばかりでかい馬鹿女め、最後の仕事を阿呆ヅラで充分愉しめ!

「了解です」

 命令オーダーを受け取った相手は悠然と二丁の銃を構えた。でもなぜかそのまま動きを止め、周囲を見渡して思案した様子でいる。


「どうした美島、早くしろ! 何をしている!」

「ええ、しかし、どうしましょう」

 届いた返事には再度の怒りしか感じなかった。

 何がだ? 一体何がどうしようなのだ! 今更何を迷う? 本当に救いようのない糞カス部下、糞馬鹿女、頼むから今すぐここで死んでくれ!


「一体誰を撃てば、私は一番利益を得られるでしょう」


 なんだって? 

 最頂点に達したはずの塚地の怒りは、急激に萎んだ。

 この部屋には自らが銃を向けるボス、こちらに銃を向ける志摩。美島の二つの銃口は、一つは志摩に向けられているが、もう一つは宙を彷徨ったままだ。


「そうですね、どうやら自分で自分にペイする方が一番よさそうです」

 塚地の額を嫌な汗が伝い落ちた。

 まさか、という言葉が頭を過ぎる。

 無機質な声と共に、もう一つの銃口が新たな標的に向く。

 続けて響いたのは、三発の銃声――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る