11.愛してると言ってくれ

魂の別離(別れ)

 腕を庇いながら息を切らせ、勢いよく開けたドアの向こうには男が一人だけいた。

「志摩……さん?」

 秦太朗は薄暗い部屋で、その顔を確認するように指差した。

 ここに辿りつくまでの長いようで短い経緯。生意気な少女と街で一番高いビルに向かい、美女とおじさんのようなおばさんとむかつくおっさんに出会い、その美女には腕を折られ、でもなぜか突然解放されて、片腕でどうにかこうにかMT車を運転してここまでやって来た。しかし酷い暴力を受けたらしき相手のその顔を見取れば、まず発する言葉はこれだろうと思った。


「……ていうか志摩さん、それ大丈夫なんスか? つーか生きてたんスか?」

「ああ? 生きてなけりゃ、ここにいる俺はなんだ? 幽霊か?」

「え? あの……えっと、スミマセン……」

 志摩は言い捨てると、部屋の隅にある洗面台の蛇口を捻った。ざあざあと流れる水で彼は手や顔についた血を流している。

 自分も志摩も無傷ではない、そのことは敢えて言葉にしなくても分かることだった。でもそれ以上の危機状態にいる人間が他にいるのも確かだった。


「……志摩さん、俺はここに来られたけど、花が捕まったまんまです……」

 呟いた声には「そうか」と、肩越しの返事が届く。

 閉じていく扉の隙間から見えた相手の顔。頼りなげにも見えたそれを思い出せば、逸るような罪深い感情も蘇った。


「志摩さん、オレ……」

「なんだ?」

「いえ……やっぱり何でもないです」

 言いかけた言葉は続かなかった。花と寝てしまったなど、今口にしようとしたその言葉はきっと誰の役にも立たない。これは自分が墓場まで持って行く秘密だった。

 自分が潮里を思うように、花も志摩を思っている。だけど花が志摩の身を案じているように、自分も潮里を早く助け出したかった。とにかく自分がここですべきことは、潮里を見つけること。二階建ての井川ビルは一階が倉庫になっていた。下ろされたシャッターの中はがらんとして何もなかった。もし潮里がいるとしたら二階のこの場所だった。

 薄暗い部屋を見回せば、隣に繋がるもう一つのドアがある。ゆっくりとそのドアに近づき、触れようとするとなぜか緊張が走った。落ち着けと自分に言い聞かせ、ドアノブに触れる。最後に深呼吸をして意を決して開けようとするが、思いがけない言葉が届いた。


「秦太朗、そこは開けるな。開けない方がいい」

「だけど志摩さん……ここには潮里が……」

「そこには誰もいない」

 静かに放たれた言葉はこちらの動きを止めさせるに充分だった。手はノブから離れ、身体は相手に向き直る。こうする理由は分からなくても、それが正解であると感じていた。


「秦太朗、お前ここまで車で来たのか」

「え? あ、はい……地下にあった志摩さんの車です」

「キーはつけたままか?」

「そうですけど……あっ、ちょっと待ってくださいよ! 志摩さん!」

 志摩は上着を手にすると、駆けるように出ていった。その後を痛む腕を庇いながら追うしかなかったが、頭の中は焦る気持ちでいっぱいだった。

 潮里がいるはずだったここは最後の手がかりだった。今はいないとしても、まだ何かが残されているかもしれない。それにもう一人ここにいるはずだった樋口という男。その男こそ、潮里の居場所に繋がる重要な何かを知っているはずだった。


「志摩さん! オレ、美島とかいうでかい女に潮里はここにいるって聞いたんです! もし今はいないとしてもオレ、樋口って奴にどうしても居場所を……」

「潮里はここじゃなく、ヴィラ福山ふくやまっていうマンションの三〇六号室にいる。美並北の明神組事務所の近くにある建物だ。分かるか? 秦太朗」

「え?」

「え、じゃなくて今言ったマンションの場所が分かるか? 秦太朗」

「え? ああ、それなら分かりますけど、でも……」

 秦太朗は飛び込んできた言葉を呑み込めず、呆けた顔で訊き返した。すると踊り場でこちらを見上げた志摩が何かを放った。慌てて手を差し出して受け取ったそれは、キーホルダーもついていないどこかの鍵だった。


「それはその部屋の鍵だ。お前は今からそこに行って潮里を見つけたら救急車を呼んで、一緒に病院に行くんだ。誰に何を訊かれても俺達のことは口にするな。色々あった諸々のことも全部だ。お前が潮里を見つけたのも偶然だと言え。俺達は最初からいない、お前にも会っていない。さっきは否定したが、俺達は幽霊だと思ってくれていい」

「えっ? だけどそんなの……」

「べらべらと碌でもないことを喋るのが、お前の長所だろ?」

 不安な顔を見せる相手に志摩は「にっ」と笑うと、階段を再び駆け降り始めた。

 呼び止めたが、彼はもう振り返らなかった。


 一人残された誰もいない階段を、秦太朗はゆっくりと下り始めた。

 あんなに捜し求めた潮里の居場所を知り、その鍵も手元にある。望んだことばかりだが、何かが足りない気がしていた。

 志摩の言葉。あれはもう二度と会わない相手に告げた言葉のようだった。

 彼らといたのはほんの僅かな時間だった。しかし妙に寂しく感じてしまうこの思いも多分本物だった。

 ふと、秦太朗は階段の途中で足を止めた。

 志摩に入るなと制されたあの部屋。結局確かめることはできなかったが、やはり〝開けないこと〟が正解だったのだろう。

 志摩はどうやって潮里の居場所を知ることができたのか?

 手前の部屋で血を洗い流していたその姿。

 あの部屋には誰もいないのではなく、部屋。

 いつかの夜、彼の手当をしようとして見てしまったもの。身体中に残された数えきれないほどの傷跡。

 彼が過去、どんな目に遭ったのか想像も追いつかない。それを自分の身に置き換えてみることも決してしたくなかった。


 扉を開けて外に出た秦太朗は辺りを見回した。運転を手こずらせてくれた黒い車も彼の姿も既にない。街灯の光も届かない暗がりには自分の姿だけがあった。

 でも自分にはやり遂げなければならないことが残っている。

 手にした鍵を強く握りしめると、秦太朗はその場から駆け出した。




******




 扉を開けると、廊下が続いている。

 その奥にはリビングが見えるが、人が生活している気配はない。

 待合室のように置かれた椅子に雑誌、日差しを遮るように締めきられたカーテン、室内の空気は酷く淀んでいる。

 隣接する部屋は寝室だった。薄暗いその中に置かれたベッドには横たわる誰かの姿がある。身動き一つしないその下着姿の少女はずっと捜し続けた自分にとっての現実、愛しい彼女だった。


「潮里っ!」

 秦太朗は傍に駆け寄ると折れていない方の手で相手の掌を握り取り、何度も名前を呼ぶ。 

「潮里、潮里っ」

 こちらの呼びかけに少女は静かに目を開ける。その虚ろな表情に覇気はなく、手足は痩せ細っている。初めて出会った頃の面影を思い出そうと何度も試みてしまうが、その行為自体が彼女の不幸を如実に表しているようで続く言葉を失う。


「……シン……?」

「そうだよ! オレだよ! 潮里!」

「バカ……バカ秦太朗……」 

「……ごめん、本当にごめん、潮里……」

 彼女の冷たい手が頬に触れる。次第に温かさを取り戻していくその指が力無く頬を抓った。


「本当にオレはバカだよ。バカな上に悪い……オレが本当に悪かった。オレが本当に悪いんだ。潮里がこんな目に遭ったのはオレが全部悪いんだ」

「……バカ秦太朗、あたしのこと好きなら、もっと早く助けに来てよ……」

「ごめん、本当にごめん……オレ、絶対もう潮里をこんな目に遭わせない。一生絶対お前のこと、守るから……一生お前の傍にいるから……」

「……シン……あたし、シンのこと、好きだよ。助けに来てくれたことももちろんすごくうれしい……だけどそれは駄目……もう二度とあたしの傍にはいないで、お願い、シン……」


 秦太朗は届いたその言葉に絶句するしかなかった。 

 彼女に告げた言葉に何も嘘はなかった。何に代えてでも彼女を守りたい、自分はそうしなければならないと心から思っていた。

 しかし彼女から返ったのは拒絶だった。

 無理に浮かべた優しい笑みの後に、触れた手が肩を掠めて落ちていく。

 見返した彼女の瞳は決して冷たくなく、愛おしい者を見るかつての眼差しがそこにはある。けれども彼女の唇から紡ぎ出される突き刺さるような言葉には、息を呑むしかなかった。


「あたし、シンを見る度にきっと思い出すもの、今回自分に起きたこと……だから誰にどう守ってもらっても、誰がどう頑張っても、絶対忘れられない記憶になる……この記憶はあたしに一体化して、あたしの中の別れたくても別れられないトモダチになって、これからもずっと付き合い続けなきゃならない……だけど……あたしは自分で自分を助けて、自分の足でちゃんと立って、これからも後ろじゃなく前を向いて行きたい。だから……」


 閉じた目から涙が溢れ出す。

 自分が知らない間に、少女は自分より大人になっていた。

 彼女の涙を拭うのは自分ではなく、その権利さえない。

 そして、自分が犯した罪の重さを実感する。

 現実が見えていなかったのは自分も同じ。愛してるという言葉で全てを解決できるはずもない。その言葉で全てが上手くいくと思っていた自分が本当に……。


「オレ、ホントにバカだ……」


 呟いたその手を、痩せた手が握り返す。

 与えられたその最後の温かさに涙が出そうで、青年は何も言えず天井を仰いた。

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