2.小物という名の犬

「何をしている?」

「ひ、樋口さん……」

「まだ殺すなと言ったはずだ」

 突如として薄暗い部屋に光が差し込み、声が響いた。

 その声に草間は息を呑み、言葉を探すが、反面彼の兄貴分は舌打ちを響かせ、半ばまで侵入させた指を乱暴に引き抜くと苛ついた声を発した。


「ふん、まだ殺そうなんて思ってねぇ。それにこいつはこんなもんじゃ死にゃあしねぇよ」

「いいからもう出ていけ。お前達の遊びの時間は終わりだ、富士田」

 光源の先には二人の男が立っていた。

 樋口と呼ばれた男、銀縁眼鏡をかけたその顔はまだ忘れようもない。隣には憮然とした表情の坊主頭の大男、頭部には何重にも包帯が巻かれていた。


「聞こえたか、富士田、あとは私達でやる。お前と草間は事務所に戻れ」

 草間を突き飛ばして部屋に歩み入った男は、当然のように二人から主導権を奪った。その背にはすぐさま富士田の鋭い三白眼が向けられるが、そこには相手の立場を軽んじる意味合いも混じり込んでいる。

 樋口は彼らの上に立つ人間らしかった。だがその振る舞いには分不相応な様相が透けて見え、しかしそのように感じているのはこの暗がりで内輪揉めを見させられている志摩だけではないようだった。


「……なぁ、樋口さんよ」

「なんだ富士田、まだいたのか? いつまでもぐだぐだ言ってないで早く行け。私に同じことを何度も言わせるなよ」

「確かにあんたは俺達の上司にゃぁ違げぇねぇ。しかしだからとあんたのことを認めてる訳でもねぇ。あんたが俺らの上に立ってんのはあんたが優秀だからって訳じゃぁなく、単に組長のタネっだってだけだからよ」

「ふ、富士田っ! おっ、お前!」

 半笑いの揶揄の後には相手の動揺が広がった。男は何度も眼鏡に触れながら、触れられたくない事情に触れられた怒りに身体を震わせている。

「あんたのご命令どおり、今回は引いてやるよ。けど樋口さんよ、最後に俺から親切な忠告だ。まだこの界隈にいたいなら、そのイカレ男には欠片も油断するなよ。だけどまぁ、それ以前にあんたの手に負えるかどうかも分からんがな」

「い、いいからもう早く出てけ! 三谷、お前も外で待ってろ!」

「さぁ、行くか草間、お偉い上司様のご命令だ」

 貼りついたにやにや笑いを場に残して、富士田は扉の向こうに消えた。後に草間が続き、包帯の大男も無言で退出する。


「……畜生っ!」

 再び闇が戻ると、男は傍のスチールテーブルを力任せに蹴飛ばした。

 自らの復讐に横槍を入れられた富士田は溜飲を下げられる相手を見つけ出し、多少平静を取り戻せたらしかった。だがこの場に留まった男には腹立たしさだけが残った。 

「畜生! 馬鹿にしやがって! 畜生っ、畜生っ、畜生っ!」

 何度も蹴り飛ばすが、怒りは収まる様相を見せない。けれどもしばらくしてもっといい身代わりがいることを思い出したようだった。


「おい、お前」

 樋口は緩んだネクタイを直しながら、床に座り込む志摩に歩み寄った。 

「こっち向けよ色男」

 その場にしゃがみ込み、平手で頬を撲つ。相手がおざなりに顔を上げるのを見取ると、嘲りの表情を浮かべた。

「おっと、こりゃ失礼。残念ながら今日はそうでもないみたいだなぁ」

「……悪いな、元からそうでもない」

 志摩がぼそりと言葉を返すと相手は神経質そうな顔を歪める。どうやら望みの答えではなかったようで、今度は拳で殴りつけてきた。

 毎度の変わらぬ展開に正直またかという思いが志摩の中で過ぎった。同様のこの流れに多少うんざりし始めてもいる。けれど先程の二人に比べれば、格段に楽であるのは確かだった。そのおかげで色々と考えを巡らせることもできそうだった。


 目の前の男、樋口某は塚地の話にも挙がっていた男だった。明神組長の息子であるこの男と塚地、美島、そしていなくなった少女と消えたボス。これらを繋ぐ全体像はまだ自分には見えてこなかった。しかし消えた少女も秦太朗も富士田も自分達も、この一連の出来事の駒でしかないはずだった。


「……あんたがこっち側の黒幕ってことか」

「黒幕? いいねぇその響き。悪くない」

 自らの暴力に昂ぶる相手に志摩は声をかけた。

 それなりの体裁を取り繕っているが、男の印象は酷く薄い。よくある言い方を借りれば、オーラが薄いとでも言うべきか。ヤクザにも見えず見えるとすれば、仕事のできない永年ヒラ扱いのサラリーマンのようにしか見えなかった。


「あんた、俺には感謝してもらいたいねぇ。あのままだったらきっと富士田がお前を嬲り殺してたはずだからなぁ」

「それでよかったんじゃないか。俺を生かしておいても意味がない」

「それは困る! これだ! この傷を見ろ! お前よくも昨日は人前であんな恥をかかせてくれたな! お前を一思いに殺っていいのはこの俺だけだっ!」

 樋口は声を張り上げると、顔の痣を腹立たしげに指さした。その後は再びヒステリックな拳が連続して落ちたが、富士田の拳に比べると酷く陳腐なものでしかなかった。

 樋口はどう考えても小物だった。塚地もあの時『あまり使えそうな男ではない』と言っていた。ではなぜこの男を仲間にしたのか疑問を感じる。明神の息子というだけで無能な男。可哀想だと憐れみにも似た感想を抱くが、別に同情はしなかった。


「そうだ、お前、怪我をしていたな」

 口内に溜まった血と唾を吐き出していると、子供のようにはしゃいだ声が届いた。

「これだ、これ! この傷は昨日、俺が撃った傷なんだよな?」

 プレゼントに喜ぶ子供のように目を輝かせる男は、爪先で脇腹を突く。だが予想以上の血の感触を拾い、その不快さに眉を顰める。しかし自らの功績を一刻も早く見確かめるために、逸る手は揚々とシャツを引き裂いていた。


「……こ、これは……なんだ……?」


 男が零した絶句を志摩は見上げていた。けれどなんだと問われても、答えようもなかった。そこにあるものは目に映るままのもので、それ以外の何ものでもなかった。

 切り裂かれたようなもの。抉られたようなもの。火傷跡のように爛れたもの。それらは相手が見下ろすその身体に無数に散りばめられていた。

 乱暴に縫い合わせた引き攣れた傷痕。自然治癒するしかなく不格好に盛り上がった肉。全てが幾年も前のものだったが、その場所に与えられたであろう過酷な行為は、見る者によってはまだ鮮明に当時を想像させるものなのかもしれなかった。


「こ、これは……」

「ただの傷跡だよ。あんたのその顔の痣と一緒さ」

 脇腹の軽微な傷などすぐさま霞んでいく。相手の目は見なくてもいいものを見てしまった色に染まっていた。志摩は向かい合う相手に微かに笑いかけ、拘束された身体が少しでも寛げるよう座り直した。 


「同じ拷問にぼちぼち飽きてきた頃だ。あんたが聞きたいんなら、ちょっとした暇潰しに俺が面白い昔話を聞かせてやるよ」 

「お、俺は、そんな話など……」

「あんた、小児ポルノって知ってるか?」

「……し、知るか! そんなもの!」

「まぁそうだな、普通に生きてりゃ、全く関わり合いにはならないものだ。そいつは簡単に言うと抵抗できない子供をただいたぶって遊ぶ変態共の娯楽だよ。金を持ってる奴ほどこういうを持ってるもんだ。需要はどこにだってある。腐った金で腐った娯楽を買い、腐った金で儲ける奴がいる」

「それを……それを、なぜ俺に話すんだ?」

「言ったろ? ただの昔話だよ。俺は七才になったばかりのガキの頃から、そんな場所にいたんだ」

 向かい合う男はついに言葉を閉ざし、暗闇に表情を隠して立ち尽くしている。

 薄暗闇の中、志摩は自分が過去に遭遇したものについて蕩々と語った。


「どこかから不憫な子供達を集めてきては、使い物にならなくなったら、またどこかから調達してくる。俺がいた地下の《見せ物小屋》にはいつも虚ろな目の子供がたくさんいたよ。《小屋》のメインは所謂人身売買オークションだ。見た目がいい子供はまずここに配置される。それにあぶれた者や見た目がイマイチな子供は《小屋》のもう一つの売り、客供の買春部屋に放り込まれる。調達された子供達は流れ作業のようにそれらに振り分けられるが、その過程でもちろん逆らう子供はいない。振り分けられたらその日から日々オシゴトに励む毎日があるだけだ。そうするしかないし、そうしないとメシも食わせてもらえないからな。俺が振り分けられたのは、小屋の中でも最低の部類に入る場所だった。そこでは売春よりもっとエグいことを売りにしてたんだよ。客にやらせるのはセックスだけじゃない。加虐だよ。朝、メシを一緒に食ってた同輩が、やりすぎた客のせいで夜中には二目と見られない死体になってたなんてのは日常茶飯事だった。ただその中にいても、俺は運がよかったんだ。耳や指が揃ったまま、生きて出られたんだからな。どうしてだろうと今思えば、鼻を削がれようが目を抉られようが、許しを乞うために泣き叫んだり、相手の靴を舐めたりしない可愛げのない子供だったから、俺はとても不人気だったんだ。それでも十二になった頃、そこで言う《定年退職》になった俺は臓器売買のブローカーに売られた。ほとんどの子供の行く末がそこでしかなく、あの場所から生きて解放される子供は一人もいない。でも俺を運んでた車の事故、その事故の相手がたまたま警察車両、衝突の弾みで荷台の鍵が外れたこと、そんな偶然が重なって俺は逃げ出せた。そうでなきゃ俺も他の子供達と同じ末路を辿ってたはずだ。あの時運よく逃げ出せた上に、こんなにでかく成長できた俺は本当にラッキーだったよ」


 志摩は一息つき、身動ぎもしない相手を見上げた。

「しかしそうは言っても、一番キツかったのはこの臍の上の傷だな。ほら見てみろよ、これをつけたのはあんたみたいに一見普通の奴だったよ。でもそうなんだ。一見普通な奴ほどイカレた奴が多いんだ。そいつは俺が小屋で出会った中でも一番の筋金入りの変態野郎で、切り裂いた傷をべろべろと犬みたいにしゃぶって、それに飽きたらその後は何度もここに……」

「もういい! やめろ!」

 男は叫ぶと言葉を遮った。吐く息は酷く乱れていた。肩で息をするその姿を再度見上げ、志摩は追い打ちをかけるように笑いかけた。

「どうだ? シャツだけでなく下も脱がせてみろよ。もっとエグイもんが見られるぜ」

「お、俺は……」

「まぁ見ても見なくても、俺は全然困らないがな」


 声を詰まらせる男の目は潤んでいた。

 だが態度で拒否を示しても、彼がこの後どうするかは分かっていた。

 男は何も言わずよろよろと屈み込むと、床に膝をつく。志摩は自らの下半身を凝視する頭頂部を見据え、僅かに脚を広げた。

 ごくりと飲み込んだ唾が過剰に喉を通り、その手が下腹部に近づく。

 震えながらも確実な意思を持った両手がベルトに触れ、強引に外そうとする。

 窺い見たその顔には、過去幾度も目にした欲望が蠢いていた。それを冷静に見留めながら、志摩は時間切れだと心の中で呟いた。


「……な……に?」

 驚きの声を漏らしたが、男は自分に何が起こったかまだ分かっていないようだ。

 志摩は振り上げた両脚で相手の首元を締め上げると身体を捻り、喉を圧迫した。

 思い描いた体勢が取れなかったことで力加減が難しいが、両手が使えないのだからしょうがない。男は必死に藻掻いて抵抗するが、もちろん力を弛める気もやめる気もなかった。


「お、お前……だ、騙したのか……?」

「騙してはいない。あんたに見せるのが嫌だっただけだ」

 今言う台詞かと思ったが、それ以上の感想は浮かばなかった。

 男は足で床を掻き、何度もこちらの腿を叩いて足掻くが、敵前で無様に跪いた側に完全なる非がある。次第に抗う力は微弱になり、吐き出す息も弱まっていく。

「だけどあんただけが悪い訳じゃない。多分誰にでもほんのちょっとずつある感情のせいだ」

 意識を手放す直前の相手に志摩はその言葉を零した。

 それが彼の耳に届いたかどうか分からなかったが、別に気にしなかった。




******




 ――暗闇から薄暗闇。

『多分誰にでもほんのちょっとずつある感情のせいだ』

 闇の向こうで誰かが発したその言葉の意味は咀嚼できなかった。

 幕が下りるように暗くなる視界に思考は遮られ、ふと目覚めれば、目の前には黒い服を着た髪の長い男がいた。


「あんたと一緒にいた坊主頭はとりあえずあんたのことを守ろうとしてた。よかったな。富士田だったらお前のこと、すぐ見捨ててたよ」

 相手が発した〝よかった〟に怪訝を感じたが、樋口は直後に察した。確かにそうだ。俺はあいつ富士田に全く信用されていない。


「あんたを人質にしたら、簡単に言うことを聞いてくれたよ。手錠も外してくれたしな。それにしてもあんた、銃を持ってんのはいいが使い所、間違ってるぜ。俺の長い昔話なんか聞く前に使うべきだったんじゃないのか? まぁそのお陰で俺は助かったけど」

 次に目に映ったのは、床に倒れた部下の姿だった。

 あの屈強な三谷が、全く身動きしないのはなぜなんだろう?

 目の前には、壊れかけの椅子に座る黒い服を着た満身創痍の男。

 そして自分は先程までの男のように後ろ手に手錠をかけられ、床の上に転がされていた。


「死んだ方がマシと思う局面は何度もあったのにそれでも死のうとはしなかったのは、もしかして俺はサディストだと思っていたけど案外マゾヒストなのかもな。ま、それはもうどうでもいいか。あー、なんだか沢山喋ったから喉が渇いたよ。俺、普段あんまり喋らないから、こんなに喋ったのはあいつの影響かぁ。でもそれもあんたにはどうでもいいか」

 死に神のような男は独り言のように呟いて、血のついた顔で笑う。

「さて、これからどうしようか、樋口さん。時間はまだたくさんある」

 男の手には自分のものだった銃がある。それを玩具のように弄びながらこちらを見た男の目は、もう笑ってなどいなかった。

 いや、きっと……。

 樋口は心で呟いて、その真実に気づいて目を瞑る。

 彼は最初から一度も笑ってなんかいなかった――。

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