10.追いつく過去
1.嗜虐の闇
背中が酷く痛んだ。
視界はぼやけている。
閉ざされた薄暗く埃っぽい室内には、饐えた臭い以外何もない。
自分を見下ろせば、今朝取り替えたばかりのシャツにまた血がついている。続け様にシャツを駄目にした事実には溜息しか出ない。新調の選択肢も過ぎらせていると、聞き覚えある声が届いた。
「よう。ようやくお目覚めかい」
届いた声に志摩は不機嫌な顔を向けた。霞む視線の先には真白な真新しい眼帯をつけた男がいる。
「……よお、ちょうしはどうだい?」
顔見知りだと知って応えてみるが、顔が腫れているのか上手く口が回らない。
気づけば背中だけでなく、痛みは全身を覆っている。自由にならない両腕は椅子の背もたれに回され、後ろ手に手錠をかけられていた。自らの現状を把握した口元には、堪えられない自虐の笑みが零れた。
「あんときみたいな声、またあげたくなったか? ふじた」
見上げ様に揶揄を放てば、待ち受けたように拳が腹にめり込んだ。連続して叩き込まれるそれには強烈な殺意がある。滲んだ脇腹の血には仕方がないと舌打ちする。だがその行為を反抗の意と取ったのか、座らされていたパイプ椅子ごと引き倒された。
「志摩さんよ! とっくに立場は逆転してんだぜ! てめぇの言動にゃもっと気をつけるこったな! おい草間! こいつを早く起こせ!」
収まらない怒りを滾らせる眼帯の男、富士田が床に唾を吐き捨てる。
その呼びかけにもう一人の男、草間がにやつきながら近づいてきた。倒れたパイプ椅子をわざと音を立てて戻し、乱暴に身体を引き起こした。
「よう、調子はどうだい? 旦那」
「……上々だね」
意趣返しの揶揄に応えれば、期待を裏切らない拳が瞬時落ちてくる。
「はぁ? 全く口の減らねぇクソ野郎だ! あの時も散々コケにしやがってよ! でもそれももう
「草間ぁ! 馬鹿野郎! 余計なことは喋んじゃねぇ!」
「すっ、すみません……つい……」
「俺達はなぁ、ただこいつを痛めつければいいんだ! この前の礼にな!」
男は投げ出すしかない脚を忌々しげに蹴飛ばすと、間近に回り込んでくる。こちらを見下ろすその口元には、滲む遺恨が零れ出ていた。
「なぁ志摩さんよ、お前を殺すなと俺達は言われてはいるが、物事はいつも思いがけないもんだ。そう思ってても、うっかり殺っちまったらもうどうしようもないもんなぁっ!」
言葉と同時に顔面を殴られ、意識が飛びそうになる。
包帯を巻きつけた右手の怪我など意に介さないように、男は拳を叩き込んでくる。目前の対象が意思を持たない肉塊であるかのようなその行為には、後戻りという言葉は欠片もない。相手の歪みきったその表情を目の端に捉え、志摩はこれまでの経緯を辿っていた。
最後にいたのはボスの部屋だった。
電話で呼び出され、向かったボスの部屋にボスはいなかった。
こちらを振り返った男。
背後からの殴打。
最後に見たのはいつもの無表情な顔だった。
《美島、あとは頼む》
降ってきたのは塚地の声。
《了解しました。明神組の樋口さんに引き渡せばよろしいのですね》
続いたのは美島の無機質な声。
《そうだ、美島。あの女はどうしてる?》
《ボスでしたら、上階の部屋で大人しくしてもらっています》
とっくにあの部屋にボスはいなかった。
彼女の周辺で続け様に明るみになった裏切り。ボスはあの時、自らを戒めた言葉のように一度振り返って見直してみただろうか。敵は外ではなく、内側にいた。自らに最も近い人物を疑うことをしなかったのは彼女の最大の手落ちだったが、気づかなかったのは自分も同じだった。
《美島……志摩の意識がまだあるようだが?》
《あら、嫌ですわ。これは失礼しました》
皮肉で歪んだ口元を見取った相手の紳士ぶった声が届く。そして冷静な声と重い攻撃が最後に降ってきて、そこで記憶は途絶えている。
「クソ……しぶとい野郎だ、全然声も上げねぇ」
響いた声に志摩は現実に戻された。
自分を取り囲む二人の男は同様の暴力を先程から繰り返している。同じように殴ってばっかじゃ殴られる方だって飽きる。見下ろす二人を見上げて、志摩はぼんやりそう思う。どうやらこの二人は嗜虐の創造性に些か欠けている。
「こいつはただ強がってるだけだ! ここまで痛めつければもう何もする気も起きねぇはずだ! 次はこいつの……こいつのクソ忌々しい得物で、俺と同じ目に遭わせてやる!」
言い捨てた富士田が上着を掴み、懐を探った。しかし自らの目とプライドを抉ったそれを見つけられずに、唾を飛ばしながら再度吠える。
「クソっ! クソっ! クソっ! 何で無いんだ? 草間! お前知ってるか!」
「し、知りませんよ。武器ならここに連れてきたあの女が取り上げたんじゃないんですか?」
「クソっ! 畜生!」
望む物を得られなかった腹立たしさは即、与えなかった相手に向いた。より苛烈になった男の制裁を受けながら、志摩は思う。
美島は裏切った相手に武器を持たせておくような阿呆じゃない。目前の怒りにこんな簡単な判断さえ鈍ってんのか? お前。
「クソっ、何見てやがる!」
強く念じた訳でもなかったが、怒れる男と目が合う。
怒鳴られついでに脇腹目がけて強い蹴りが入った。
「ふ、富士田さん! いくら何でもヤバいですよ。ホントに死んじまいますよ!」
「んなこたぁ、構うか! 草間、お前は黙ってろ!」
既に男は聞く耳を持っていなかった。
再び椅子ごと倒され、壁際まで転がる。
「こいつに一泡吹かせてやらねぇと俺ぁ、気が済まねぇんだ!」
ほどけた髪を掴み取り、富士田は顔を上気させていた。薄暗い室内を見回して代用できそうな物を探すが、見当たらない。だが自らの両手を見下ろして、興奮しすぎて逆流する声で呟いた。
「別に……別に他の物でも構わねぇ……」
覆われていないもう一方の目は、はち切れそうなほど充血している。
富士田の脳裏にはあの夜の記憶しかないと、志摩は想像する。
眼窩に差し入れた工具の先。いつまでも叫び続けた屈強な男。
鉄と粘膜の擦れる感触と、その相手に与えたであろう痛覚は忘れない。でもここにいる相手もまた、それを忘却できずにいるようだ。
男の瞳には復讐の情念が充ち満ちている。その手はただ殺すだけでは足りない相手の眼球へと迫っていた。しかし激しい気概とは裏腹に、野太いその指は細かく震えている。
男はシンプルな暴力性でこの界隈を渡ってきた。その簡素なものと似て非なるそれは、男にとって未知の行為でしかなかった。
「結構勇気いるだろ? でも慣れればどうってことない」
怯える指に笑いかけると、相手の表情が醜く歪みを見せる。
溢れる怒りに押し出され、指はゆっくりと侵入を果たす。
男の背後で草間が息を詰めるのが分かった。
顔面の筋肉を強張らせ、畏怖か嘲笑か、どちらの表情を作ればいいのか志摩は悩む。
同じ感触は二十年近く前にも味わったことがある。
二度目となるその感触に逆らわず、志摩は己の記憶どおりに深く息を吐いた。
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