第2話 「知らない場所」

ーーー心地よいまどろみに真司は浸っていた。

時刻は明け方、浅い眠りと目覚めの境が朧気で、ひんやりとした朝の空気が肌に染み渡るような、そんな揺り籠の中で瞼を瞑っている。


遠くで女の声がする。


一つは聞き慣れた声で、もう一つは知らない。

誰の声だろうか。


二つの声は何か話あっているようだが、その会話は真司までは届かない。


真司が会話の内容を聞こうと身を起こそうとするが、体はぴくりとも動かない。

動かないのではなく、動かそうと意識した場所から泥のように力が抜け落ちていく。


どうしたものかと真司が考えあぐねていると、その思考すら泡沫のように消え、まどろみの中に落ちていく。


二つの声が遠のく。


せせらぎのような心地よい流れに身を任せ、真司は次第に意識を手放していったーーー



ーーー





蒸したように温い夜風が肌を撫でた。

真司が寝心地の悪さに目を開けると、そこには見た事もない情景が並んでいた。

仰向けになっいてる体を上体だけ起こし、辺りを見渡す。


(何か、湖のほとりで心地よく寝ていた。そんな気がしたのだが…)



「お気づきになりましたか、真司様」

背後から声がし、振り返ると真上から涼香が覗き込んできた。

「涼香」


何が起こっているのか理解出来ない真司は、とりあえず視界に映った情報をそのまま口に出した。



「土、水溜まり、昆虫、草木、樹木、鳥、枝葉、雲、星、月…なのか?あれは」


だがそのどれもが彼の知っているそれとはかけ離れていた。

水溜まりと草木には昆虫と鳥類を混ぜ合わせたような生物が生息し、目が一つしかない梟がぎょろりとこちらを眺め、その頭上、紫色の月の下を漂う積乱雲からは色とりどりに輝く星の光が透けて見える。


かろうじて同じなのは足元に広がる土の色だけだった。


「どこだ?ここは」


そこまでの情報を全て処理した後、ようやく真司は自分が今何処にいるか疑問に思った。


「何処か、体に違和感はございませんか。真司様」


涼香がまず第一にと真司の容態を確認する。


「ああ、特に問題ない」

「そうですか、...よかった」


緊張の糸がほぐれたのか、ほっと胸を撫で下ろす涼香。


「まだお前の冗談は続いているか?」

「申し訳ありません、真司様。私はまだ真司様が破顔されるような冗句を会得しておりません」


相変わらず遠回しな言い方だ。

この若干つまらない言い回しと少し困ったように髪を弄りながら話す仕草。間違いない、これは涼香だ。

そしてこの状況は恐らく冗談でも何でもなく、本当に俺と涼香は何処か知らない土地に放り込まれたようだ。


「…正直、流石の俺でもまだ処理しきれていないのだが」


「お前は何か知ってそうだな、涼香。」


涼香の肩がどきりと跳ねた。


「お気づきでしたか…」

若干申し訳なさそうな顔で涼香がうなだれる。


「当たり前だ。何年一緒にいると思ってる。知ってたか?お前、何かを隠す時は必ず毛先を弄るんだ」


「…お恥ずかしい限りでこざいます」


「まあ、いいさ。それより涼香、お前はこの状況について何か知っているのか?」


真司の問いかけに涼香は若干躊躇するような顔色を見せた。


「少々、混乱させてしまうやかもございません」


「構わん、話せ。それに俺が誰かを忘れたか?久世・リーネット・真司だ。この名にかけて、俺が理解しきれないことなどありはしないさ」


自信たっぷりに、そして傲慢に真司が答えた。

その久世家、いや真司らしい振る舞いに涼香は今一度、彼が真司であり、自らの主であると認識した。


「それでは少し、お耳を拝借させて頂きます。」


涼香が胡座をかく真司の前に正座すると、真司が気を失っていた間に起こったことを細かに話し始めた。



ーーー数刻後、余裕ぶっていた真司の顔は変わり果てていた。

眉を中央に寄せ、誰が見ても分かりやすい渋面になっている。


「威勢のいい店員?」

「いえ、異世界転移です。」


「回る風車?」

「いいえ、魔を獲る勇者です。真司様」



「それとなんだ、さっき言っていた、スキル?とやらは」


能力系譜スキルのことでございますね。これは先程言いました、自称女神を名乗る女が私に与えたものです。奴が言うには私に与えられたスキルは主に三つ。

<心身強化><多言術><永劫無知>、これらのスキルの詳細は教えられていませんが、恐らく<心身強化>は肉体及び精神の強化、<多言術>はこちらの言語の理解、そして<永劫無知>は…」


「よし。少し待て、涼香」


淡々と述べていく涼香に真司が待ったをかける。


腕を組んだ真司が空を仰ぎ見る。

その表情はどこか悔しげだ。


(この世に俺が理解しきれないことがまだあろうとは…いや、涼香の言う通りならば、既に「この世」という認識すら違うのか)


「かいつまんで要約すると、だ」


「お前、十文字涼香は自称神を名乗る知的生命体と接触し、異世界と呼ばれるこの地に飛ばされ、その神から授かった、スキルとやらを持って、魔王と呼ばれる存在を討ち滅ぼす使命を受けたと。

そして俺は偶々近くに居たため、やむを得ず巻き込まれた。そういうことだな?」


「その通りでございます」


真司の言葉に涼香が仰々しく首肯する。

だが彼本人、自分が何を言っているのかはさっぱり分かっていなかった。

ただ涼香から聞いた意味の分からない単語を、文脈から意味を予測して並び替えただけだ。


「よくこれで落ち着いていられたな…涼香」


「いえ、私も始めは狼狽えておりました。ただ、前々からこのような事態になるフィクションを読んだ事がありましたので」


「やはり、あれか。お前が集めている小説の類か」


「ええ、その類でごさいます。知っていますか?真司様、結構人気のジャンルなんですよ?」


「そうか…」


そう言われても真司はいまいちピンときていなかった。

いくらこの世界がフィクションに似ていると言われても、今彼が五感で感じ取っているものは全て現実のそれなのだ。



「さて、どうしたものか」


まだ状況には追いつけていないが、気持ちを切り替え今何を優先すべきなのかを真司は考えていく。


例えこれが夢だろうが現実だろうが、ここに俺、久世・リーネット・真司としての意識がある以上、俺は俺だ。

その名においてすべきことをするまで、だ。


(だが、俺はここで、何をすればいいんだ?)


そこまで考えた所で、真司の思考は停止した。

ここが前の世界ならば、彼がすべきことなど山のようにあった。

だが、周りを見る限り、ここには彼を縛る物など何もない。

それ故に彼は少しばかり戸惑ってしまった。



「涼香」

微動だにしない置き物のような涼香に声を掛ける。


「はい、なんでごさいましょう。真司様」


予め用意されていたその返事を涼香は機械のように出力する。


「お前これから、どうするつもりだ」


意図の読めない真司の質問に、涼香は間を置かずに答える。


「まずは、周りの状況を確認致します。見た所ここは樹海のようですので、食料や水に困ることはないと思いますが、この世界の生態系や植生に関してはまだ何も分かりません。そのため…」


「そうではない、もっとこう、長期的なだな」


「長期的、ですか」


「そうだ」


涼香は少しばかり頭を捻り、辺りを見渡した後、視線を真司に戻した。


「一般的に考えれば、真司様を元の世界に帰すことが、第一優先と愚行致します。」


「一般的にか」

「はい」

「では、お前の本音は」


淡い色をした涼香の瞳が、真司を捉える。

主の姿を目にいっぱい収めたあと、涼香は両手を地に付き、頭を額が触れるかどうかという所まで下ろした。


「貴方様の、御心のままに」


その姿勢は、日本古来より受け継がれる、主への忠義を示すのにはもってこいな作法で、久世家でも代替わりの新代への挨拶際には分家の者が皆使用する礼儀である。

涼香の溢れんばかりの忠誠心に、真司は小さな笑みで応える。


(俺の思うがままに、か)


「いいだろう。お前の変わらぬその忠義、確かに受け取らしてもらう」


「はい、ありがとうこざいます」


顔を上げた涼香と真司が二人。夜の森の中、月明かりに照らされ静かに微笑み合う。

しばらくの間、二人はその静寂を共有するように、木々のざわめきを黙ったまま聞いていた。


「少し、楽しんでおられますね?真司様」

冗談交じりに涼香がはにかむ。

「そういうお前も、ちょっと色めき立ってるだろ」


「ふふ」

「ははは」


物音のしない夜の樹海に、二人の笑い声は吸い込まれていった。

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