4.私のために

 僕は久しぶりに言葉と向かい合ってた。ここ数週間に起こったこと、それは確実に僕の心に何らかの変化を与えただろう。それを形にできるかを考えていた。

 浮かんでは消えていく、刹那的な感情。それを形にするのに、何の理由があるのだろう。今まで僕は、自分を救うためだと考えていた。自分の心の中を言葉にし、それを誰かが読み、共感してもらうことが救いだと考えていた。しかし今の僕は幸福すぎる。人間関係、家庭、進路、そのすべてが安定している。小説が書けていたころに比べて、僕は完全に救済されたといってもいいだろう。

 救いは理由にならない。僕はなぜ小説を書くのだろう。思考は手をすり抜けていく。

 考えが行き詰まってきたので、いったん考えを中断した。こんな時に限って、やたら外の世界が魅力的に見える。僕は靴を履いた、玄関を開けた。

 一瞬で世界が広がる、この感覚は思考を自由にしてくれる。

 何も考えず、ただ歩く。橋を渡る。空を眺める。茜色の夕焼けは空を包み込み、巨大な火の玉が視界の外へと着実に進んでいく。

「先輩!」

 まっすぐ向けた視線の先に彼女は立っていた。息を切らし、膝に手をつきながらも自信にあふれた視線は確実に自分をとらえていた。

「小説……書いてください」

 彼女はそう言った。

「なんで?」

 僕はそう尋ねた。僕が小説を書けなくなった理由を彼女に問いかけたのだ。

「……私のために」

 彼女ははっきりとそう言った。

 単純な答えだった。読んでくれる人がいる、それは創作の理由になる。

 「すごい」「面白かった」「続きが読みたい」その言葉を思い出した。小学生のころ図書室の司書の先生がかけてくれた言葉。僕はその言葉に動かされて小説を書き始めたのだ。

 読んでくれる人がいて初めて物語は成立する。

「そうだ、うん、わかった」

 僕は家に戻った。彼女はそれを引き留めることはなかった。一瞬振り向いた時見えた彼女の表情がひどく美しく見えた。


 卒業まであと三日、僕は卒業式の日をタイムリミットとし、小説を書き始めた。書きたいことはすでに決まっている。あとは表現するだけだ。

 漂う思考を捕まえて、自分の目線に持ってくる。手をすり抜けることはない。僕は再び世界の形を知ることができた。世界は輪郭をもって言葉になる。






 桜の木の下、鬱陶しい青い日差し、彼女は間違いなく僕の目の前にいる。一歩踏み出す足元には、散ってしまった桜の花びらが土に還るのを待っていた。

「踏みつけた桜の花びら二人きり僕らを見下ろす世界の下で」

 僕は言葉を口にする。

「……いつか言ってた、短歌の続き」

 あれは僕が書いたものだ。続きももちろん覚えていた。わざと知らないふりをした。あれを肯定してしまうと自分は永遠にあの短歌にとらわれてしまう気がしたから。今ならはっきりと否定できる、その意思を込めての短歌だ。

「……そんなすっきりと笑うんですね、本当は」

 僕はいつの間にか笑っていた。





 彼女は原稿用紙から目を上げた。少し口角を上げ、僕の目を一瞬見つめた後、感慨深そうに空を見つめた。遠くからは別れと将来の希望に浮かれた生徒の声が聞こえてくる。桜の木の間を縫い、春の光が僕らを包んでいく。

「よかったです、すっごく」

 彼女はそう言って眩しい笑顔を浮かべた。

「……どうも」

 僕は斜め上の方角に視線を移した。わざわざ原稿用紙に印刷するほど自信のある小説だったが、実際こういわれると少し照れ臭かった。

「でも、私は道路に寝転がったりしません」

 小説の内容は僕と彼女の関係をモチーフにした、半分実話の小説だった。

「してたよ、ちょうどあのあたりで」

 僕が指さした方向には二度と訪れることのない駐輪場、彼女と初めて出会った場所が、変わらずそこにあった。

「あれは道路じゃないです」

 彼女がすかさずそう言った。一瞬の沈黙の後、僕のほうが我慢できずに吹き出した。それに彼女も続く。

「やっぱり、そうやって笑ってた方がいいですよ、先輩」

 しばらく笑った後、彼女は目元に浮かんだ涙を拭いながら言った。

「そう? ……そうかもね、うん」

「そうですよ」



「さて、帰ろっか」

 僕は桜の木の下を出て、校門のほうに体を向ける。

「……先輩! 続き、まだ描きますよね」

 振り向いた先にいた彼女が笑顔でそう言いながらこちらに近づいてくる。

「君がそう言うなら」

 そう言って僕は中学校を後にした。

 彼女がいる限り、彼女は僕が小説を書く理由になってくれる。

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誰のため 霜降十月 @apdgpennam

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