3.あなたを知りたい

 考えてみると、私は彼のことをほとんど知らない。深くは聞かない、彼はそう言って当たり前のように他人と自分の間に決定的な一線を引いた。彼の小説にはその線の向こう側が見える気がした、だが彼はもう小説はかけないと言った。

 創作について、彼は朝食よりは好きと言った。彼は朝が嫌いなのだろう。あの時だけは、彼の心からの声が聞けたような気がする。

「創作……」

 私は服を着替え、靴を履き、玄関のドアに手をかけた。冷たい、少し湿った風が頬を撫でる。私は彼の創作の原点へと向かうことにした。

 私が彼の小説を始めて見たのは小学生のころ、学校の図書館に展示されていたものだった。恐らく授業か何かで書いたのだろう、多くの小冊子が並んでいた。興味本位で私はそれを一冊は読んだが、他には手を付けなかった。

 ある日、上級生のクラスの前を通ることがあった。基本的に小学生は休み時間になると外に遊びに行く。たったの15分だというのに、昔は十分長く感じたものだ。その中で一人、机に座って熱心に何かを書いている人が目に入った。彼が何度も書いて、消して、読むのを繰り返すのを私は眺めていた。理由は今でもわからないが、私はただ目を引かれていた。

 数日後、図書室の展示の配置が少し変わっていた。一冊増えた小冊子が一番前に展示されている。その小冊子と彼の姿はすぐに結びついた。私はすぐにそれを手に取った。文章は当時の私でもわかるほど下手ではあったが、内容は私を確実に感動させた。センチメンタルな気分になったのではない、読んで字のごとく感情を動かされたのだ。私は物語の余韻を噛みしめながら、彼がいた教室へと向かった。ただ彼に伝えたかった。あなたの小説を読んだこと、感動したこと、そして「続きを書いて」と言いたかった。

 教室の前、ガラスを挟んだ向こう側、彼は一人で机に向かっていた。手元には原稿用紙、間違いなく彼は小説を書いていた。

 彼の物語の続きが読めることに安心したと同時に、彼が小説を書いている、その光景に私は一種の神聖さを覚えた。踊る鉛筆、思考を巡らせるときの表情、その一つ一つがひどく美しく見え、邪魔することはできないと思った。

 私は結局彼に声をかけることができなかった。


 彼が小説を書くたび、図書室の一角に冊子が重なっていった。私は一人のファンとして、彼の作る物語に熱中した。

 彼が小学校を卒業した後、彼が使っていたペンネームと同じ名前がネット上に存在していることに気付いた。そして、文章を読んでこれは彼だと確信した。それから彼の作風が変わっていたことにも。彼は今までの文章とは打って変わり人の内面に踏み込むような、少し文学的な内容の文章を書くようになった。しかし、それからの作品は一度として完成することはなかった。序盤から更新はなく、しばらくすると削除されてしまう。彼はそんな作品を生み出し続けた。得体のしれない不安や恐怖、彼はそれを表そうとしていたのだろう。

 そのような調子で約一年、彼はアカウント自体を消してしまった。私が最後に見た彼の創作物、それは短歌だった。偶然拾った、くしゃくしゃのプリント、おそらく国語の時間に書いたであろうそれは提出されることはなく、通学路に転がっていた。


 踏みつけた桜の花びら夏の日に自分の姿がよく見えたから


  

 私は数年ぶりに小学校の敷地に足を踏み入れた。玄関、靴箱、昔はどうしようもなく巨大なものに見えたそれらが私の想像どうりの等身大の姿で私を迎えてくれた。幸いなことに、図書室への道のりで人に出会うことはなかった。もし人と出会ったら妹の名前を出そうかと思っているが、妹が私の顔を覚えているという保証はない。

 私は図書館のドアをゆっくり開くと、中に足を踏み入れた。左手のカウンターにはいつもどうりの様子で司書の先生が座っていた。先生の方を見つめていると、私に気付いて顔を上げた先生と目が合う。

「……文音あやねちゃん?」

「……そう……です」

 先生は私のことを覚えてくれていた。図書室も私のことを変わらず迎えてくれた。しかし彼の小説だけはどこにもなかった。そこだけ確かに変わっていた。

「あの……永瀬湊ながせみなとっていう子、覚えてます?」

 私は意を決して司書の先生に尋ねた。

「ああ、湊くんね……ばっちりと覚えてますよ」

 先生はいつもと同じカウンターで、今までに幾度となく私に見せてきた微笑みを浮かべながら答えた。

「彼の書いた小説って、覚えてます?」

「まだとってますよ、見ます?」

「……はい」

 先生はそう言って椅子から立ち上がり、棚から数冊の小冊子を取り出した。

「懐かしいねぇ……湊くん、来年は高校生だっけ……どう? 元気してる?」

「はい……元気そうです」

 私は先生がカウンターに置いた小冊子の内一つを手に取り、開いた。

「ねえ、湊くんに伝えてくれる? また君の小説が読みたいって」

 先生も小冊子のうちの一つを開き、感慨深そうな表情でそれを眺めていた。

「はい……」

 ハッとした。分かった気がした、彼に足りないもの、必要としているもの、小学生時代に有って今はないもの。

 彼が完成させることができた作品と、出来なかった作品の違い。それは読者の有無だ。小学生のころの彼には間違いなく二人の読者がいた。私と、あの先生だ。先生はきっと彼に伝えていたのだろう。面白かった、また読みたいと、私が昔伝えれなかったその二言。今なら伝えられる。


 私は駆け出した。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る