2.君と何かの輪郭

 彼女、松阪文音と出会ってから一週間と二日が経過した。僕は今週、三日も学校を休んだ。彼女は五回だ。

「先輩、私の家行きましょう」

 彼女は昨日そう言った。彼女が気まぐれに行きたい場所を言い、二人でそこに行く。僕はその行為が嫌いではない。彼女とはとても気が合う。ただぼんやりと教室で同じ景色を眺めるよりもよっぽど楽しい。

「今日は、親いないんですよ」

 マンションの三階、彼女は玄関の前でこちらに振り向き、そう言って笑った。

「きょうも、違う?」

 具体的な根拠はないが、何となく予想できる。

「あたり」

 彼女はそう言いながら玄関のドアを開ける。玄関に靴はない。部屋はワンルーム、片づけはしているようだったが、部屋の隅々に諦めのの見える部屋だった。

「……一人暮らし?」

「私の家って言ったじゃないですか」

「そっか」

 僕は適当な位置に腰掛ける。深くは聞かない、それがいつの間にか二人の間の暗黙の了解になっていた。

「で、今日はなぜ家に?」

 彼女は僕の隣に座りながら、いつもどうり「なんとなくです」と、答えた。特に意味はない行為、それ自体にきっと意味があるのだろう。

「理由を付けるなら、今日が雨だから……ですかね」

 彼女はそう言いながら窓の外に視線を向ける。黒くて、大人しい空。それに湿気のこもった独特のにおいが、雨が降ることを確信させる。

「ペトリコールっていうんですよ、この匂い……知ってます?」

「……ロマンのない言葉だね」

 人間は様々なものに名前を付ける。多くの概念や意味を短い言葉に閉じ込め、他人に伝えやすくするため。ただし、それは相手が言葉の意味を知っている前提での話だ。相手が知らない言葉に意味があるとするなら、自分が納得するためだろう。自分が何度も体験した何かに名前を付け、そういうものだと定義し、納得する。

「文学も、似たようなものなのかな?」

 いつの間にか僕は、その言葉を口からこぼしていた。

「何かを言葉にして、納得する。……そんな行為」

 彼女は僕の言葉を聞いた後、しばらく黙っていた。いつになく真剣な表情で、静かな窓の外に見つめ返されながら。

「……先輩は、納得できたんですか?」

 彼女はきっと、僕が小説を書くことをやめたことについて言及しているのだろう。

「……無理だと思う」

 彼女は僕の言葉に小さく頷いた。きっと僕と同意見なのだろう。


「なにします? 何かして遊びましょうよ」

 彼女は夜明けのように表情を変え、こちらをじっと見つめる。

「何かって……塗り絵でもする?」

「……塗り絵?」

 彼女は一瞬表情を固めた後、納得したように表情を崩す。

「何となくだよ」

「理由なしジョークですか?」

 意味は通っている。意味なしジョークにしなかったのにも特に理由はない。

「そう、贅沢な言葉の使い方だね」

 結局僕たちは何をすることもなく、ただ過ぎていく時間を眺め、時々思いついたとりとめのないことを話した。


「高校って……楽しみですか?」

 彼女はパソコンに何かを打ち込みながらそう呟いた。

「今より楽しくはならないだろうとは……予想してる」

「……うれしいこと言ってくれますね」

「楽できなくなるって意味」

 中学では好き勝手やってきたが、高校でこんなことをしていたら留年してしまうだろう。それはきっと楽しくない。


「雨、降ってますね」

 彼女は窓の外を眺め、ぽつりとつぶやいた。

「……そうだね」

「……なんか感想とか、ないんすか?」

 彼女は悪戯な表情を見せた。

「雨だね」

「そうですね」

 こうやって室内から眺めている雨は好きだ。


「あ……これ、見てくださいよ」

 彼女はパソコンの画面をこちらに向ける。画面に映し出されていた文字列、それは紛れもなく自分の書いた小説だった。

「…………僕の?」

「そうです」

「消したと思うんだけど……」

 公開していたのも一瞬だったはずだ。

「ファンなので、……面白いですよ?」

 彼女はこちらを見つめる。何かを察してほしい時の目だ。

 僕は彼女からパソコンを受け取った。


 自分の書いたすべての小説を読み終えるのに、一時間もかからなかった。どの小説も完結していなかったからだ。せいぜい数万文字程度、そこから先に何を書こうとしていたか、自分でも思い出せない。それでも、当時の自分の思い出すのには十分だった。それだけ面白かった。

「どうでしたか?」

 彼女はタイミングを見計らったかのように僕に声をかける。

「良かったよ、面白かった」

「続きは?」彼女は少し上擦った声で言う。

「どうかな……」

 書くことは可能だろう、だが今の自分には、自分の納得できるものはかけないのだ。

「書けないかもね、昔の自分はいないから」

 その後は僕たちの間にほとんど会話はなく、雨上がりと同時に僕は彼女の家を後にすることにした。


「あの!」

 玄関のドアに手をかけたタイミングで、後ろから少し震えた声が響く。

「書くこと……好きですか?」

 後ろを振り向くと彼女は立っていた。いつもどうりの表情、姿勢で。しかしそれが今日は今にも崩れそうな、不安定なものに見えた。

「朝食よりは好き」

 それが僕の素直な意見だった。

 

 

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