誰のため

霜降十月

1,きっと知らない

「踏みつけた 桜の花びら……短歌です。……続き、知ってます?」

 彼女はそういった後、期待と不安のこもった目でこちらを見つめている。僕は「待って……」という曖昧な言葉で時間を作る。

「わかんない」

 僕がそう言うと、目の前の彼女は俯き「そっか」と呟き、顔を上げて再び僕の目を見つめた。彼女は笑っている。じっと僕の目を見て、何かを伝えようとするかのように、彼女は微笑んだ。



 僕は数十分前を思い出す。彼女との出会いは人気のない駐輪場だった。人のいない駐輪場は数時間前の喧騒が嘘のように静まり返っていて一種の特別感と、安心感を覚える。角を曲がり、一人の仰向けに寝転がっている少女が目に入る。それが、彼女との出会いだった。

 まるで初めからそこにあったように自然な景色だった。僕はただ、その芸術のような独自の世界を見つめていた。

 停止したような世界の中、止まっていた思考が再び動き出す。そして僕はこの景色が異常であり、ただ見つめているだけではいけないことに気づく。

「あの………………あの!」

 僕が近づき、何度か呼びかけると彼女は目を開けた。僕は安心すると同時に、一つの疑問が思い浮かぶ。

「えっと……なにしてんの……」

「疲れてさ……」

 彼女はそっけなくそう言うと上半身を起こし、こちらをじっと見つめる。

「あ……湊……先輩……ですよね?」

 彼女の声のトーンが上擦る。驚いて、咄嗟に出たような言葉だった。彼女が口に出したのは間違いなく僕の名前だ。だが僕は彼女を知らない。

「……そう、だけど」

「えっと、小説とか……書いてましたよね? ……見ましたよ、昔」

 彼女は早口で話す。僕は小学生のころ、何度も小説を書いては図書室においてもらっていた。

「うん」

「面白かったですよ」

 彼女は微笑みながら言う。これがお世辞かどうかを判断する術を、僕は持ち合わせていない。

「私も小説とか、書いたりはしてるんですけど……一回も完成させれたことなくて……」

 彼女はそう言って、笑った。自嘲的な、乾いた笑いではあったが、その表情からは確かに自信が感じ取れた。

「そう……頑張ってね」

 僕は心からそう思った。そしてその場から立ち去ろうと、自分の自転車の方へ向かう。「まって!」その声とともに、僕の制服の袖が引っ張られる。

「せっかく会えたので……もう少し、話、しませんか?」

 彼女はしっかりと僕の袖を握っていた。決した強い力ではない、それでも彼女の手は確かに、僕をこの場に押しとどめた。

 

 

 「私、松坂文音まつざかあやねって言います。呼び方は……好きにしてください」

 松坂はそう言うと空を眺め、数秒後に僕に視線を戻した。

「そうだ、早速ですけど、明日、海に行きましょう。冬の海です」

 彼女がふと思いついたように呟くのに対して僕は「僕も?」という、意味のないであろう質問をする。

「そうです。理由を付けるなら……ボディガードですかね」

 彼女はどこか遠くを眺めながら言う。今の言葉に意味はないのだろう。

「うん、いいけど、なんで海?」

「そりゃあ、なんとなく……ですよ」

「いいですか?」松坂は人差し指を立てる。「私は形にならない何かを言葉にしようとしています」

 だから理由なんていらないと言いたいのだろう。彼女はその言葉に「先輩ならわかると思いますけど」と付け足し、視線をまっすぐ僕の方へ向ける。

「明日も平日だけど……」

 それが僕の答えだ。わざわざ学校を休むほどではない。

「私にとっては、家にこもるのが平日です」

 彼女は逸らすことなく、こちらに視線を送っている。視線が合わないのは、僕が逸らしているからだ。

 今日学校に来たのも、何となくなのだろう。それだけ彼女は自分の感覚を大切にしているということだ。これは明らかに今の僕にはできていないことだ、将来だのなんだの考えるうちに、今の自分をないがしろにしているのかもしれない。僕は半端な人間だ。

「わかった……いいよ」

 僕ははっきりと答えた。彼女のまっすぐで、それでいて不安定な瞳に向けて。

 彼女に特別な何かを感じた。形にならない何かを言葉にする、彼女はそう言っていた。それをどうやって実現するかも、僕は知っている。だからこそ興味がわいた。彼女がどうやって形のない何かを言葉にするのか。

「高校も決まったから、大丈夫」

 彼女に向けて話したが、自分の罪悪感に対しての言い訳であり、口に出す必要のない言葉だった。



 翌日、いつもどうりの時間に家を出た僕は学校に休みの連絡を入れ、駅へと向かった。待ち合わせよりかなり早いというのに、彼女は駅の前に立っていた。彼女は僕の姿に気づくと大きく手を振って、それから手招きをした。

「ごめん、待った?……とか、言わないんですか?」

 彼女は口を斜めにしながら言う。

「ごめんは言わない」

「待った?とも言ってないですよ」

「待った?」

「待ってないです」

 彼女の口角が少し上がった。きっと僕が突っ込むのを待っているのだろう。普通に突っ込むのも癪なので「いつ来たの?」と、僕は返した。

「……今来たところです」

 そう言って彼女は微笑んだ。

 電車の中では周囲に多くの高校生がいる中、中学の制服というのは少し目立つのではないかと考えたが、僕以外誰も気にしてないと思い込むことで、その不安を消すことに成功した。

 僕たちは電車の中でほとんど会話をしなかった。

 電車が町から離れるにつれ、電車が閑散としていく。僕たちは思い出したかのように会話を再開しつつ、目的の駅までたどり着いた。

 改札にカードをかざし、1460という表示を見ると僕は「うわっ」と呟いた。

「ああ……昼は奢りますよ、誘ったのも私なんで」

 彼女はお金についてまったく気にしていないのだろうか、しれっとそんなセリフを言う。不登校なのに敬語が話せているのも家が太い故なのだろうか、前提条件に不登校は敬語を離せないという僕の偏見が入っていることに気づいて、考えをリセットする。きっといつの間にか話せるようになっていたのだろう。僕もそうだ。

「ほら、見えてきましたよ」

 彼女がそう言うと、僕は顔を遠くに向ける。海だ。心なしか、彼女の歩幅が大きくなったような気がする。

 僕たちはあっという間に砂浜の近くへとたどり着いた。海特有の潮風や波の音が、視覚以外でも自分が海に来たということを脳に伝える。僕の横にいたはずの彼女はいつの間にか僕の前を走って、砂浜に飛び込んでいく。

「先輩! 海ですよ!」

 彼女はこちらを向いて手を振っている。年相応の、子供のような笑顔だった。

 海に来たのは何年ぶりだろう。遠くから眺めたことはあっても、ここまで近づいたのは小学生ぶりだろうか。

 僕は砂の感触をしっかり足で確かめると、その場に腰を下ろした。

「いやぁ……寒いですね」

 砂浜を歩き回るのに満足したのか、彼女はそう言って僕の隣に座ると、こちらを向いて笑った。さっきとはどこか違う、落ち着いた笑顔だった。

「こういうのもいいですね……友達と来るのもいいですけど」

「友達、居たんだ」

 彼女の性格を見るに、友達が居ないほうが逆に不自然だろうう。

「去年までは、ちゃんと学校行ってたんですよ、結構人気物でした」

 彼女はそう言うと砂浜に倒れこみ、空を見て眩しそうに目を細めた。

「でも、何となく嫌になっちゃいましてね……」

「何となく……」

 言葉にできない感情を、何となくや感覚という言葉で表しているのだろう。

「小説なら……間接的に表すことができます」

 彼女は起き上がり、後ろに着いた手に体重をかける。

「感情を言葉にできなくても、読者に伝わればいいんですよ。同じ感情を呼び起こすように。……そしたら……間接的に言葉にできます」

「……理論的には」

 理論的にはできる。だが技術的には難しいだろう。単純な感情ならともかく、複雑な、言葉にできない感情となると、狙って作ることは相当難しいだろう。

「だから、こうやっていろいろとやってみてるんですよ」

 彼女はそう言って微笑んだ。これは何と表現すればいいのだろう。この笑顔を文章で表現できるのだろうか。

「先輩は……もう何か書いたりしないんですか?」

「しないよ」

 僕はそう言った。

「まあ……深くは聞きませんよ、湊壮太さん」

 彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。湊壮太、湊は本名だが、壮太は偽名。ネット上で使っていたペンネームだ。

「何で……知ってるの?」

「深くは聞かないでください」

「じゃあ表面的に」

「先輩は昔から同じ名前を使ってます」

 僕がネットを始めてから数年は使っていた名前だ。昔の自分がどこかでへまをしてばれたのだろう。疑問点は多いが今はそれで納得し、深くは聞かないことにした。

「お腹……空きましたね」

 僕たちはしばらくその場に座っていた。波の音と自分の呼吸に意識を傾けながら。

 生命……不思議な感覚だった、波にのまれそうな……。

 僕は立ち上がった。

「あ、……何か食べに行きます?」

 細かい砂を踏みしめ、僕は海へと向かう。

 靴に塩水が入り込む、不思議と不快感はなかった。膝まで水につかると、僕は後ろに倒れこんだ。冷たい、眩しい太陽が一瞬視界に映るも、すぐに水が僕の視界を覆った。水に反射する光と共に何かが見える気がした。僕にはそれが、息さえ忘れるほど美しい何かのように思えた。

「ちょっ……先輩? 何やってんですか⁉」

 体を動かさずにいると、自然と体は浮かんでくる。これが浮力だ。授業なんかよりもよっぽどわかりやすい。

 目が水面を超えて浮かび上がる。空は見えなかった。松坂が見えた。

「海だな……って、思った」

「……はい」

 声とともに水飛沫が飛んでくる。暫くすると、横から息の音が聞こえてくる。

「海ですね……」

 波の音、息の音、彼女の声。きっとこの先も変わらないのだろう。そう考えながら僕は目を瞑った。




 

 


 




 



 

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