ようこそ、珈琲店・ポーズへ

江葉内斗

ようこそ、珈琲店・ポーズへ

 五月某日、午後一発目の授業を受けていた時のこと。

 僕は、突拍子もなくこう思った。


 (ああ、それにしてもコーヒーが飲みたいっ!!!)


 僕は、高校生でありながら、無類のコーヒー好きである。

 なぜコーヒーが好きなのかというと、それが僕にも分からない。気づけば好きになっていた、とでも言おうか。

 それとも、こういう風に例えるか。

 動物とは、誰しも欲求という悪魔に魂を売り渡した存在である。

 その中でも人間は悪魔を理性で制御することに成功した。

 が、そんな人間でも、というものは存在する。

 そして悪魔は、ある日唐突にその弱点を集中攻撃してくるのである。

 そうなったら、人間の理性ごときではその悪魔を抑えられない。

 もし抑えられたとしても、後悔がかなりの長期間尾を引く。少なくとも僕はそうだ。

 そして、僕にとってはその弱点こそが、コーヒーであっただけ、ということだ。


 とにかく、僕はコーヒーという飲み物が大好きなのだ。

 朝は朝食と共に必ずホットコーヒーを飲むと決めている。親が買ってきたインスタントのブレンドコーヒーだ。

 しかし、インスタントの毎日変わらない単調な味のコーヒーでは、僕のフラストレーションは少しずつ蓄積されていく。

 そして、そのフラストレーションは、あるタイミングを境に決壊し、上記のように体がコーヒーを勝手に求め始めるのである。

 ああ、コーヒーが飲みたい……! インスタントなんかじゃなくて、もっと上質で、深い苦みがあって、コクのあるコーヒーを、微かにBGMが流れるような静かな雰囲気の喫茶店で飲みたい……!!

 そう思った僕はだれにも止められない。たとえ今日の夕食が僕のもう一つの好物であるラーメンだったとしても、コーヒーに対する欲求は収まらない。

 今、直ちにコーヒーの悪魔を鎮めなければ、最低でも二週間は後悔する! 前回悪魔が暴れだした時、僕は不覚にも財布を忘れていた。あの時の失敗は悔やんでも悔やみきれず、翌朝から二週間以上周りに心配されるほどのローテンションで過ごすことになった。

 休み時間、財布を確認する。千円札が一枚。これなら十分だ。

 安心した僕は、そのまま授業を最後まで受け、下校した。



 いつもならまっすぐに家に帰るところだが、今日の僕は絶賛悪魔大暴れキャンペーン中だ。

 この悪魔を抑える方法は、何度も言う通り上質な環境で上質なコーヒーを飲むしかない。僕はいつもの喫茶店へ自転車を走らせた。


 店の入り口に立って僕は絶句した。

 完全に思考から外れていた。まさかこんな落とし穴があるとは思わなかった。


 (定休日……だと……!!?)


 その店の定休日は毎週木曜日だ。

 悪魔を抑えるのに必死になってすっかり忘れていた。

 僕は呪った。自分の運命を。その店の定休日を。

 なぜ今日なんだ……!! なぜ今日に限って悪魔が……!!! なぜ今日に限って定休日……!!!

 このままではまずい……今日の内にコーヒーを摂取しなければ、二週間後のテストで大爆死も免れない……!!

 ただでさえ平均点ギリギリの点数を苦労して取っている状況なのに、前回のようなテンションになってしまったら……ああ考えるだけでも恐ろしくて鳥肌が立つ!!

 とにかく、別の喫茶店を探さねば……最悪コンビニコーヒーでも……

 いや! コンビニのコーヒーは確かにかなりの美味しさだし、価格も安いけれど、あんなところではゆっくりじっくりとコーヒーを飲むなんて不可能!! それじゃあダメなんだ!! 僕はコーヒーと同時にリラックスを求めている!! コーヒーとリラックス、それはどちらか一つでも欠けてはいけない……ニール・アームストロングとバズ・オルドリンのような、松本人志さんと浜田雅功さんのような関係なんだ!!!

 どこかに条件に合った喫茶店はないか……必死に記憶をフル回転させる僕。


 そうだ、あったぞ! 確か一店だけそれっぽいのがあった!!

 いつもの通学路、自転車を走らせるときに、路地裏から一瞬顔を出す看板……確か青地に白い文字で「珈琲店・ポーズ」って書いてあったあの店だ!!

 行ったことは一度もない。チェーン展開された店じゃないみたいだし、何よりいつものコーヒーの味で満足していたのが原因だ。

 あの店、見た目は結構静かで雰囲気よさそうだけど、内装は全然知らないし、何より味はどうなんだ……?

 不安になってネットの口コミを調べようと思って、またも絶句した。

 ネットには「ポーズ」などという店の情報は一切載っていなかった。

 googleマップで検索しても、ホットペッパーグルメで検索してもヒットしない。

 それほどマイナーな店なのか? いや、そうだとしても集客数を増やすためにネットに情報は載せるはずだ。

 一体どういうことなのか? 「ポーズ」とはどういう店なのか?

 ますます興味がわいてきた。どうせ何もしなければテスト大爆死の結末が待っているだけ……ここは賭けに参加したほうが良い。

 行先変更、僕は自転車に乗り、その「ポーズ」という店を探し始めた。



 「確かいつもこのあたりで看板を見るんだが……」

 自転車を走らせて十分、僕はいつも「ポーズ」という看板を見るスポット周辺までやってきた。

 いつも看板が見えるのは登校時だ。学校方面に視線を向けるが、建物が多くて看板が見えない。

 僕は少し考えて、自転車に乗ると、帰り道を走り始めた。

 別に諦めて家に帰るつもりは無い。ある程度走らせたところでUターンすると、今度は来た道をなぞるように進んだ。

 十秒ほどで、目標は見えた。

 「『珈琲店・ポーズ』……あった!」

 目標を確認すると、僕は交差点を左折し、人通りの少ない路地裏に入った。


 看板は、一軒家の青い屋根に立っていた。

 そして、入り口の上にも「珈琲店・ポーズ」という看板があった。

 ここが「ポーズ」……外観はさびれた喫茶店って感じだな……お客さん来てるのか?

 まあ、ネットにも情報がないほどに知名度が低い店なんだから、それはしょうがない。

 問題は内装、そしてコーヒーそのものの味だ。

 僕は内心ためらったが、意を決して入り口の曇ったガラス戸を押した。



 キィ……と小さな音を立てて扉が開く。

 「いらっしゃい……」

 この店の店主であろう人の声が聞こえた。

 僕は店の中を見渡した。

 正面にはバーカウンターがあって、厨房側の中央に白髪交じりの五十歳くらいの店主(?)が座っていた。

 正面の五つの席以外に椅子は用意されていない。

 清潔度は、意外にも良好な状態で、フローリングや壁や天井には汚れ一つ見当たらなかったが、日当たりが悪いのか、薄暗くて、五月後半なのに涼しかった。

 「お客さん、この店初めてだね……どうぞ席に座んな」

と店主が正面の椅子を指さす。

 「あ、はい……失礼します」

 どこか神秘的な要素に戸惑いながらも、言われるがままに席に着いた。

 席に着くと、僕は喫茶店には必ずと言ってもいいほど存在するとある要素がないことに気づいた。

 「あの、メニューはどちらに……?」

 「メニュー? そんなものうちにはないよ」

 店主は平然とそんなことを言った。

 僕は激しく動揺した。

 (メニューがないだと!!? そんなの創作の世界でしか聞いたことない……メニューがないってことは得意な一種類のコーヒーだけで勝負するか、あるいは訪れた人に最適な品を提供するのか……どちらにせよイレギュラーだ!! これは当たり外れが大きいぞ……)

 「えっと……じゃあ何があるんですか……?」

 「……この店はね、特別な人しか入れないの。あんた、どうしてもコーヒーが飲みたくなってここに来たでしょ?」

 店主はそう言いながら、戸棚からコーヒーミルとコーヒー豆を取り出す。

 「わかりますか? 

 この店主にはいろいろと見透かされている。そんな気がした。

 「この店は入る人によって内装が変わるの。あんたは多分、静かな空間で何も考えずに、おいしいコーヒーが飲みたいって感じだね。だからこんな陰気臭い雰囲気になっちゃって……」

 そんな愚痴を叩きながらコーヒーを手際よく淹れている。

「す、すみません……」

 内装が変わる? どういうこと?

「いや、いいんだよ……来る人の希望に合わせるのが、『珈琲店・ポーズ』の役目だから。はい、アンタが今一番飲みたいコーヒーだよ」

 店主が差し出したコーヒーは、白いマグカップに白い皿という、オーソドックスな組み合わせに、どこまでも引き込まれそうな真っ黒のコーヒー。見た目的には何の変哲もないコーヒーだ。

 僕はまず、コーヒーの香りを体験した。すぐに気づいた。

 「パナマ・ゲイシャ……!!」

 「良く分かったねぇ。あんた若いのに通だねぇ」

 ゲイシャというと日本の芸者を想像する人も多いと思うが、ここではエチオピアのコーヒーの産地の村の名前である。


 (以下、ただの解説につき、読み飛ばしても良い。

 1970年から80年ごろ、中南米でさび病という植物の病気が大流行し、パナマでコーヒーの生産量が大幅に減少するという事態があった。

 そんな時、疫病に強いとされているゲイシャ種をエチオピアから輸入したのが、パナマ・ゲイシャの始まりである。

 ゲイシャ種は世界各地で栽培されているが、2004年、国際オークション「ベスト・オブ・パナマ」において、エスメラルダ農園のゲイシャ種が当時の最高落札価格を記録したことをきっかけに、パナマ産のゲイシャ種は注目されるようになった。)


 僕はパナマ・ゲイシャが大好きだ。行きつけの喫茶店でたまに注文するが、一杯二千円以上する高級品だ。そう簡単には注文できない。

 しかもこのゲイシャ、かなり香りがだ。結構質の高いゲイシャじゃないか? 予算が足りない気がしてきた……

 僕は恐る恐る尋ねた。

 「あの……これいくらですか?」

 「千円」

 店主は答えた。

 「千円!!? こんな高級そうなコーヒーを!!?」

 青天の霹靂とは、まさにこういうことだろう。こんなコーヒーを千円で提供されることに、ものすごく申し訳がないように思い始めた。

 「だってあんた、千円しか持ってないでしょ?」

 この店主はどこまで見透かしているんだ……

 「うちはコーヒーの値段は決めて無くてね……相手の所持金で判断するのよ。相手が常に財布に五万円入れているようなボンボンなら、四万円くらいむしり取るかな」

 そんなことを言うと、店主は静かに笑った。

 「まあ、飲みなよ。コーヒーは冷めるとおいしくなくなっちゃうからね」

 店主が改めて僕にコーヒーを勧める。僕が気付いてコーヒーに視線を落とすと、湯気は消えかけていた。

 「じゃあ、いただきます」

 僕はマグカップを手に取り、一口コーヒーを啜った。


 コーヒーを少し口に含んだ瞬間、僕の世界はコーヒーに包まれた。

 焙煎されたばかりのコーヒー豆の香ばしい香りが、口腔から湧き上がって鼻腔を刺激する。

 何も入っていないブラックコーヒー特有の苦みと、パナマ・ゲイシャ特有のフルーティーな酸味が僕の舌の上で踊り狂う。

 僕の幸福度パラメーターは最高潮に達し、たちまち悪魔を撃退した。

 もうこれ以上のない満足を感じていた。

 これだ。

 これこそが、僕の求めていたコーヒー。僕の求めていた環境。

 静かな日陰で、何も考えずに上質なコーヒーの味に浸る。こんなに幸せなことはあるんだろうか。

 ……思わず、笑みと涙がこぼれ、木製のカウンターにシミを作った。

 この幸せの絶頂のままなら、死んでも良いとすら思ってしまった。


 いつもはコーヒーをじっくり楽しむタイプなのだが、あまりのコーヒーの美味しさに、気づけばもうマグカップのそこに黒く途切れた円が描かれているのが見えていた。

 ああ、もう終わりか……僕は満ち足りたうえで、物足りなかった。もう少し、あのコーヒーの味に触れていたいと思った。

 「……ごちそうさまでした」

 僕はそれだけ言って千円札をカウンターに置いた。

 「毎度ありー」

 店主は不愛想に千円札を回収した。

 僕が席を立とうとすると、

「ああ、ちょっと待ちな」

店主が声をかけた。

 「あんたなら知ってると思うけど、コーヒーの値段ってのはね、コーヒーそのものの値段だけじゃないのよ。店の雰囲気とか、その店に居座る権利とか、そういうのも含めて千円って言ったの。もう出てくなんてもったいないよ」

 ……そういえばそうだ。いつもならコーヒーの余韻に浸りつつ、飲み終わってからあと十分は椅子に座っている。なのに、今日の僕は飲み終わってからすぐに店を出ようとした。

 なぜだ? 一体僕は 店の内装が変わるとか言ってたのが引っ掛かっているのか? それとも所持金を看破されたことか? あれ、そもそも僕はなんでこの店に入ったんだっけ……


 「あーダメダメ、あんた考えてるでしょ」

 行き詰った僕を見かねたのか、店主がいつの間にかカウンターの向こうから、隣の席に来ていた。僕は正直声を出して驚いた。


 「この店の名前は『珈琲店・ポーズ』だよ? なんでそんな名前かわかる? ポーズって言ったって姿じゃないよ? のポーズだよ。ゲームとかで見るでしょ」

 僕はハッとなった。「ポーズ」という店名に、僕はずっと引っ掛かっていたんだ。

 なんでポーズ? 僕も姿勢だと思ってた。一時停止って意味だったのか!

 店主が続けた。

 「この店ではね、考え事は禁止。何も考えちゃダメなの。思考を一時停止ポーズさせて、コーヒーの味に身をゆだねること。それがこの店のルールよ。だからあんたも何も考えずに、もう少し余韻に浸ってなよ。はい、これは私のおごり」

 店主がまたコーヒーを差し出してきた。さっきと同じ香り……一分前に飲んだパナマ・ゲイシャの香りだった。

 僕はさすがに恐縮した。

 「イヤイヤダメでしょ!! これ確実に一杯四千円以上するはず……」

 店主は呆れた声で、でも力強さを感じる声で言った。

 「あのねえ、私の話聞いてた? 考え事はだめ。何も考えずに飲みな」

 店主が僕の目を見ながらそんな風に言うから、僕は迫力に気圧されて、しぶしぶマグカップを取った。

 いや、本当は嬉しかった。こんなおいしいコーヒーを、二杯も飲めるなんて。この人は天使だ。店主であり天使だ。

 そうして僕はまた素晴らしいコーヒーの世界に入り浸り、それから二十分くらい目を閉じながら、カフェインが体内を循環するのを感じていた。



 再び目を開けた時、そこに喫茶店などなかった。



 本当だよ。何もなかったんだ。

 気づけば少し広めの空き地。そしてそれを視界にとらえている僕。

 あれは夢だったのか? いや、あの時飲んだコーヒーは確かに本物だった。

 そして財布から消えてなくなった千円札……あの光景は確かに現実だった。

 一体あの店主は何者だったのだろう……「珈琲店・ポーズ」というのは何だったんだろう……

 まあ、いいや。僕は今ものすごく満足してるし。日も暮れかかっていることだし、もう帰ろう。

 次に悪魔が暴れだすときのために、しっかり貯金しとかなきゃ……



 「『珈琲店・ポーズ』、それは、コーヒーが必要な人の前に現れて、理想の環境とコーヒーを提供する……そんなお店。もし見かけたら立ち寄ってくださいな。あんたたちがその時一番飲みたいコーヒー用意して待ってるから」



【ようこそ、珈琲店・ポーズへ】:完

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ようこそ、珈琲店・ポーズへ 江葉内斗 @sirimanite

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