極限生活 〜塩結びから始まる藁しべライフ〜
美袋和仁
第1話 マイナスから始まる極限ライフ
「ふざけろよぉぉぉっっ!」
《申し訳ありませんっ!!》
目覚めたら知らない場所。それはまだ良かった。 ……いや、良くはないが、取り敢えず生きていたのだと、軽く深呼吸した瞬間。彼は危うく死にかけたのである。
その詳しい説明を受けて、少年は絶叫した。
時を遡ること半刻ほど前。
詰まる息。焼けるように熱く、痛みを通り越した激痛が全身を貫いた瞬間、少年はその場に崩れ落ち、もんどり打つ。
何が起きたのか分からない。ぶわりと溢れる涙の飛沫を飛び散らせ、痙攣する両手で地面をガリガリ掻きむしる。まるで断末魔のごとき奇声を上げて転げ回る彼を救ったのは女神と名乗る誰かだった。
《すぐにっ! すぐに頭の中で願ってくださいっ! 魔素を分解出来る力が欲しいとっ!》
そんな声も聞こえる状態でなかった少年に、声の主は根気良く叫び続け、最後は慟哭のような声が彼の頭の中に轟き、ようよう悶絶の地獄から抜け出せたのだ。
涙と涎でぐしゃぐしゃな顔。今にも止まりそうなほどか細い呼吸。ぐったりと四肢を投げ出した、彼こと
ひゅーひゅーっと息を荒らげ、片言ながら吐けた言葉が先程の悪態である。
「説明……ぃぃ。あんた…誰よ?」
脳内で土下座せんばかりに謝る誰かに、千里には怒鳴りつける気力もない。だが今は状況も分からないままだ。こうして頭の中に話しかけられるということは、この声の主は何かを知っているのだろう。少年は、そう考えた。
《どこから申し上げましょうか。貴方は事故で死にかかったのですが。覚えておられますか?》
「は?」
間抜けな顔で眼を見開く千里に、声の主はあらためて説明する。自己紹介を添えて。
《わたくしはルージュ。この世界の女神と呼ばれております。あなたは地球で殺されかかりました》
そう前置きして彼女が言うには、千里は大きな飛行機事故に遭い、さらには唯一の生存者だったらしい。
まあ、棺桶から首だけ出しているような瀕死の重症ではあったが。かろうじて生きてはいたらしいのだ。
もちろん、全身ズタズタ。四肢も内臓もボロボロ。本当に呼吸しているだけという状態。死ぬのも時間の問題だろうと思われていた千里だが。……あろうことか、彼は回復の兆しを見せたとか。
少なくとも危険な状態を脱し、昏睡しつつも身体は快方に向かう。
そして酷く狼狽したのは、これを知った航空会社関係。
事故で死亡した場合、事前に購入された事故保険が適用され保険屋が処理をしてくれるが、生きていた場合は、その賠償の全てが航空会社に降りかかるからだ。
賠償はもちろん、その治療費や慰謝料。この廃人同様な被害者の一生を保証しなくてはならない。それこそ億という出費になるだろう。
知らせを受けた関係者は、どことなく危うげな翳りをまといだした。ただでさえ何百人もの死亡事故。その責任は重く、果たすべき事象が山積みな状況。
疲労が色濃くただよう彼等の眼に、仄昏い光が宿る。
幸いというか今は旅行先。ここは海外の病院だ。今なら、少し間違いが起きても誰も気にしないかもしれない。多くの被害者が運び込まれて、てんやわんやの今なら……
「……まさか?」
《そのまさかです。心無い者の手によって、生きられたはずの貴方は殺されそうになりました》
聞けば点滴の落ちる量を早めたらしい。それ自体は些細なことだ。しかし、危篤状態を脱したばかりの身体には致命傷。千里はショック症状を起こし、ぽっくり逝きかかったという。
唖然とする彼の頭の中、しどろもどろな口調の誰かは、さらに続きを説明した。
《あまりに非道な状況です。それで神々による緊急措置が行われました》
「緊急措置?」
《はい。その世界で理不尽に殺されかかった者は、別世界で受けら入れるという、緊急措置です》
柔らかい笑みを含んだかのように軽やかな声。
詳しく聞けば、そういうことはままあるのだとか。
どこの世界でも世は不条理に満ちている。そんななか、二十歳未満で、かつ、生きられるはずだったのに事故や過失以外の何かに命を奪われそうになった者。そんな被害者らにのみ許された措置なのだという。
《少し前にも親の虐待によって殺されかけた子供が別世界に引き取られました。今は養い親の元で健やかにくらしているようです》
……なるほど。
千里は微かに笑みを浮かべた。
そういったニュースを見るたびに、彼はやりようのない憤りを覚えたものである。この世に神も仏もいないのかと。
だが、どうやらちゃんと居たようだ。
未来が幸せだからといって、過去の惨い記憶がなくなるわけではない。それでも今が幸せなら、いずれ上書きされるだろう。
「……理解した。それで俺も別世界に引き取られたわけだな? で、なんでこんな目にあっているんだ?」
千里の記憶は事故のあたりで途切れている。だから、ここで目覚めたとき、己が生きていることに安堵したのだ。なのに次の瞬間、悶絶の激痛で地べたを転げ回るとか…… 笑えない。
しばらく声の主は逡巡し、ぼそぼそと小さく呟いた。
《その…… わたくしの世界に地球人を引き取ったのは初めてで。他の世界の人達は何も問題なく暮らせていたため知らなかったのです》
「何に?」
ようよう落ち着いてきた胸を撫で下ろしつつ、聞き返す千里の脳裏で申し訳なさげな女神様の声が反響する。
《地球人には、この世界の魔素が猛毒になるということにです》
千里は思わず眼を点にした。
魔素が猛毒? 魔素って何?
惚けたまま、彼は女神様の説明を聞く。
いわく、この世界には魔素というモノが存在し、それを生き物は体内で魔力に変換するらしい。その魔力を使って魔法の行使や魔術道具の動力にしたりと、地球とは全く別物の文明を築いている。
そんな世界だ。何にでも魔素は存在した。無論、空気にも。この地に降り立った瞬間、千里は空気中の魔素に侵され、死ぬ目にあったというわけだ。
「ちょっ! 待った、待った! それじゃあ俺は、猛毒の中で暮らさなきゃならないのか? あ……」
慌てて飛び起きた千里は、悶絶している時頭の中に響いていた言葉を思い出す。
たしか、魔素を分解出来る力を望めと……
もうすっかり何ともない。ひょっとしてアレが?
両手の指を見つめる彼の頭に、それを肯定する声が聞こえた。
《そうです。本来、教会で洗礼を受けた時に与えるべき祝福を、今、この場で与えました。間に合って良かったです。本当に》
「祝福?」
《はい。人間が長く努力を積み、一廉までの高みに達した時に与える特別なモノですが、貴方のように別世界から引き取られた人間にはすぐ与えられます。この世界で幸せに暮らせるよう、わたくしからのプレゼントです》
なるほど。それで俺の身体は魔素とやらを分解出来るようになったんだな。
ふむと相槌を打つ千里。しかしそれを見て、女神様とやらの声が哀しげにくぐもる。
《……本来なら、貴方の人生を彩る良い祝福が与えられるはずでしたのに。こんな細やかなモノを。それも、今のままでは、ただ呼吸が出来るだけという不完全なモノ。本当に申し訳ありません》
「へあ?」
女神様の説明を聞き、何か嫌な予感が千里の本能を突き抜けていく。そしてその予感は彼の想像を裏切らなかった。
「つまり…… 今の俺は呼吸しか出来ない?」
《左様でございます……》
低頭平身。まるで五体投地するかのごとく罪悪感まみれな声で彼女は千里に謝り続ける。
祝福とは、さらなる高みを目指すモノ。なので当然、熟練度が必要で、今の千里を生かすため魔素分解の力は空気にのみ働いていた。
「……息が出来るだけ?」
《……はい。水に触れれば爛れるし、何かを食せば魔素の毒が体内に吸収されます》
まじかぁぁぁっ!!
そして話は冒頭に戻る。
「ふざけろよぉぉぉっ!」
《申し訳ありませんーーっ!!》
「息が出来るだけっ? そんなん植物でもやれるやん、バクテリアだって光合成ぐらいするぞ? そんでデンプン作るんだから、あっちのが上等じゃないかっ! 仮にも霊長類が呼吸してるだけって、おまえ……っ」
わちゃわちゃ叫びつつ、はたっと固まる少年。
「……飯は?」
ボソリと呟いてみれば、案の定、頭の中の声の主があからさまに眼を泳がせた。顔も見えていないのに、なぜかそう感じる謎。
思わぬ最悪な状況を自覚し、力なく蹲る千里に慌てたのか、一包みのワッパが空中から現れた。木を丁寧に曲げて組んだ優しい風合いの曲げワッパ。
それを訝しげに眺める少年の頭の中で、女神様が必死に説明する。
《今回のことは、こちらも想定外でしてっ! 地球の神に相談したところ、そのワッパを下さいましたのっ!》
昔懐かしい姿形につられ、千里はワッパの蓋を取る。すると中には三つの塩むすび。その横には四角い紙箱に入った何種類かの錠剤。ペットボトルの御茶もついていて、如何にも取り敢えず感満載な代物だった。
《これは地球と繋がった魔術道具で、日付変更時に更新されるそうです。なので、食べるには困らないかと……》
………三食塩むすび? しかも一度に塩むすび一個? ってことは、この錠剤はサプリか?
「………最低限じゃねぇかあぁぁぁっ!!」
千里は全力で吠える。
「こちとら飽食世代の十代だそっ? こんなんで足りるかっ! サプリつきなら栄養的には大丈夫かもしれないが、味気ないことこの上ないっ! これから先、何十年も? やってられねぇぇぇっ!!」
髪を振り乱して切実に叫ぶ千里。そんな彼にあわあわしつつも女神様が語りかけた。
《あっ、のっ! 一生ではないと思いますよ?》
「あぁ?」
破落戸も顔負けの荒んだ眼差しで、どかっとあぐらをかき、千里は脳内で竦み上がる女神様に話を促す。
《先程も申しましたように、祝福とは新たな高みを目指すモノでございます。なので精進を怠らなくば、しだいに成長してゆき、いずれはどのような魔素にも平気な耐性がつくかと……》
つまり、今の呼吸が出来る状態は初期も初期。レベルでいえば1ということだ。この先、長く生きていけば新たな耐性もついて、食べ物とかも平気になると。
「あ〜…… 理解した。でもさあ?」
《はい?》
「それって、この世界の人間なら誰でも当たり前なことだよね? なのに努力しないと食い物にもありつけない俺って、ここじゃあ野生動物以下じゃね?」
《…………》
女神様の沈黙が、その言葉を肯定していた。
やってらんねーっっ!!
思わず両手で顔をおおい、天を仰ぐ千里。
だが彼は気づいていない。
魔素分解が女神様によって与えられた祝福であることを。誰でも出来ることではないことを。
この世界の人間は魔素を魔力に変換するため常に消費状態。魔素を吸収しなくては魔法も使えない。だがこれは諸刃の剣である。
地球の純粋な酸素が人を死に至らしめるように、過ぎた魔素はここの人間にとっても猛毒なのだ。
それらに侵されず分解出来る稀有な祝福。
その真価を千里が知るのは、かなり先の話だった。
彼の今からは茨の道。御飯を食べる。お風呂に入る。そんな細やかな野望を叶えるために、新たな世界の土を踏みしめる千里である。
「取り敢えずは住処かなぁ。ここらに村や街はあるのか?」
《はい、太陽の方に一刻ほど歩くと小さな街がございます》
一刻。二時間か。けっこう歩くな。
地面を転げ回ったため、草や土で汚れた身体。それらを手で払いつつ、ふと千里は己の違和感に気がついた。
「あれ? 俺、小さくね?」
着ているモノも見覚えのない質素なチュニック。下履きのズボンを直に感じるお股の質感。
「えっ? パンツはっ?」
紐で腰を縛るタイプのズボンをまさぐりながら、オロオロする千里の脳内で女神様が苦笑する。苦笑したのだと分かる謎。
《こちらの人々は下着をつけておりません。よほどの身分を持つ者らくらいでしょうか。下着をつけるのは》
「ええええっっ?」
千里はすーすーする股間が心許ない。しかも覗いたズボンの中にはあるべきモノがなかった。
「……そっか、俺ってば異世界転移したのな。この身体、何歳よ?」
《あ…… 申し忘れてましたね。そうです、その身体は、わたくしがこちらで再構築いたしました。以前の姿と同じままに。ただ、外側は遺さなくてはならなかったので…… 細胞が足りない分、年齢を下げるしかなくて》
つまり俺だったモノから細胞を抜き取って、ここで新たに構築したと。想像するとグロいな。
変化球とはいえ転移で良かった。知識があるとないとでは、これからの人生にも雲泥の差がつくだろう。少なくとも逆境に抗うことは可能だ。力ない幼子のように唯々諾々と流されることもない。
「見たところ十歳ちょい? 十二歳くらいか。まだ子供だな」
《この世界は十二歳で立派な働き手です。十五歳で成人と認められます。なので十二歳に設定いたしました。やや細胞が足りなかった分は、神の力を添えて》
どこぞの料理みたく添えるな。神の力って何よ、曖昧な。しかしまあ、なるほど? 働ける年齢ね。ありがたい。……そして、さようなら。俺の大切だったお毛々様。また会う日まで。
あるべきモノが無くなっていてショックではあったが、年齢を聞けば納得だ。以前と同じ身体というのも嬉しい誤算。転生なら、全くの別人ってこともあり得たのだから、それを考えれば破格の幸運だろう。
こちらで普通に生まれて普通に育つのも魅力的ではあるが、前世の記憶を持つ千里には馴染まなかったに違いない。如何に大切に育てられようと、きっと彼は新たな家族を家族と思えないだろうから。
地球の家族との暖かな思い出が脳裡にこびりついている限り。たぶん、上っ面でしかこちらの家族と付き合えなかったと思う。
子供返りは異世界モノの定番だが、生まれ変わった主人公らが、前世の記憶を持ちながらも新たな両親を親だと認識するのが、いつも千里は不思議だった。
今こうして己がその立場となっても、やはり不思議だと思う。
俺の家族は地球に残してきた家族だけだ。
そしてふと気がついた。事故とはいえ、とんでもない親不孝をしてしまったと。脱け殻だけとはいえ、遺体は遺体だ。
「……泣いてるかなぁ? 泣いてるよなぁ」
遠くに気持ちを馳せるよう空を見上げ、千里の眼にじわりと涙が滲む。それを無意識に拭い、彼は太陽のある方角へと歩き出した。
こんな深い森の中で何かあっては堪らない。人の通った気配もない山道だ。獣道すら見当たらず、七分丈のズボンからはみ出た素足に小枝や長い草がピシパシ当たる。
「地味に痛いぞ、これ。もっと人里近くに連れてきてくれたら良かったのに」
ぜひぜひと息を荒らげつつ、少年は脳内の女神様に愚痴った。
《そうしても良かったのですが、転移者の中には隠遁を望む者も少なくはないので。どちらにも向かえる位置を選びました》
ああ、とまでに千里は得心顔をする。
地球で生きていたころ、彼もいずれは山奥でスローライフを送りたいと思っていたからだ。そういった暮らしに憧れる。
憧れはするが、それは今じゃない。もっと歳をとって世間が煩わしくなる頃の話だ。今はまだ、色々と見て回り、美味しい物を食べて遊びたいと思う。
……その食べること自体が困難な暮らしになったんだけどな。
しかしあの事故の時、千里は死を覚悟した。己の人生が終わるのを。
激しく揺れる機体。阿鼻叫喚な乗客達。劈く悲鳴も、機体の揺れに邪魔され小刻みに途切れ、人は腰を据えねば悲鳴すら上げられないのだなと、妙に冷静に観察していた自分を覚えている。人の生涯なんて呆気ないモノだと。
そしたら、この展開だ。すこぶるつきの僥倖である。
《僥倖ですか? 貴方は心無い人間の欲に殺されかけたのに?》
脳内の思考に割り込むなし。
憤慨極まりないといった口調の女神様。まあ、彼女の言わんもすることも分からなくはない。
「でもさ。万一、殺されなかったとしても俺には地獄のような人生しか残されてなかったと思うんだよね」
にっとほくそ笑む少年。その瞳に浮かぶ昏い光が、彼の気持ちを代弁していた。
少し考えたら分かること。もし殺されなかったとしても満身創痍でズタズタになった身体は回復しまい。死物狂いでリハビリしても効果は出ず、若くして寝たきり生活になるのは目に見えていた。
脳にも障害が残り、生ける屍状態が関の山だろう。それならまだ幸いだ。万一、思考が正常だったりしたら、さらに地獄。まさに生き地獄。考えるだに空恐ろしい人生しか残されていない。
「十代の盛りを寝たきりでリハビリ三昧な生活なんて、どう考えても苦行でしかないよ。それも治る見込みがあれば頑張れるかもしれないけど、そうじゃなかったんだろ? でなきゃ殺されなかっただろうし。人様に下の世話までさせながら生きるくらいなら、自裁してるさ。遅かれ早かれな」
《……それはそうかもしれませんが》
理解を示しつつも納得のいかない声音な女神様。不貞腐れたような彼女がなんとなく可愛らしい。千里は人知れずこっそり笑った。
「ぶっちゃけ、俺は偽装とはいえ殺してもらえて感謝してるぜ。さっき話した地獄に家族を巻き込まずに済んだしさ」
そう、家族は決して千里を見捨てないだろう。生きている限り、彼等は千里のために身を削るに違いない。それを考えるだけで少年の背筋に汗が伝う。
余命短くばともかく、千里は十代だった。あのまま生きていたなら、この先、何十年と家族に世話をかけたはずだ。
それを苦に千里が命を断てば、きっと家族に深い傷痕を遺すことになる。それでも、先々の長い苦労と天秤にかけると、千里には自裁の選択肢しか残らないのだが。
物憂げな苦い笑みを浮べ、少年はぶっきらぼうに呟いた。
「表向きは事故だぜ? 事故。誰にもどうしようもなかったのさ。苦労もなく悲劇も起こらず、万々歳じゃないか?」
千里の本心を思考から読み取ったのか。脳内で女神様の沈黙がさらに深くなる。
俺は本気で感謝してるんだけどなぁ。そいつらが殺そうとしてくれてなかったら、神々の緊急措置とかで人生の続きを貰えてもいなかったわけだし。
くっくっくっと喉だけを震わせて笑い、黙々と歩く彼の視界に森の切れ目が見えた。
「さってと…… 経緯はどうあれ新たな人生だ。楽しめるように精進するかね」
ざかっと森から飛び出した千里は、山裾に拡がる街を見下ろす。
軽く見渡して一望した街はけっこう大きい。気の利いたアミューズメントパークくらいの広さはありそうだ。
《鉱山の街ハルベルトです。小さな迷宮があり、人口二万ほどの小さな街ですが活気のある良い街ですよ》
ホクホク顔が伝わるような声で説明する女神様。
「女神様は、ずっと俺の脳内にいるのか?」
やや不安になり、千里は問いかけた。
今は子供でも、元々お年頃な少年だったのだ。この先もずっと女神様が脳内に棲むとなると、少々不都合なことも起きるに違いない。
焦りを交えた千里の思考をも読み取ったのだろう。脳内の女神様が、一瞬鼻白んだ気配を見せる。
《ずっとというわけではありません。そうですね、貴方がこの世界に慣れるあたりまででしょうか。住処を決め、仕事に着き、御飯が食べられるようになるあたりまで。異存は?》
「ないね。うん、その辺りまではいて欲しい。何しろ右も左も分からないからなぁ」
にししっと笑う千里にふくりと微笑み、女神様が意気揚々と声をあげた。
《では参りましょうか。まずは住民登録です。この森の反対側に小さな部落がいくつかあります。殆ど外界と交流しない人々です。そこを生まれ故郷に名乗ると良いでしょう。距離的にはここから徒歩一ヶ月もかかる場所なので、知る人間にも出逢わないはずです》
「サンクス、住民登録して落ち着いたら別の場所に移動も良いな。小金を貯めて、いつかは美味いモノや広々とした風呂にも入りたいね」
ひゃっほうと駆け出す千里の言葉を聞き、あっと女神様が捕捉を入れる。
《平民はお風呂に入りませんよ? そういった贅沢品は身分ある者に専有されています。正直、金子がかかりすぎますので、庶民には高嶺の花です》
んなにぃぃっっ? パンツに続き、それもかよっ!!
ぐぬぬぬっと拳を握り締め、千里は眼をギラつかせた。
日本人にとって衛生観念と食事は必須だ。それだけは譲れない。逆をいえば、それさえあったら千里は生きていける。毎日とはいわない。異世界事情もあるだろう。しかし、せめて週一。望めるなら三日おきくらいは風呂に入りたい。
他は切り詰めても良い。服など洗い晒しで構わない。家だって寝られる場所があれば良い。樽やドラム缶でも構わないから風呂を………っ!
………身分か。
「偉くなりたいとは思わないけど、金子の問題だってんなら何とかならないかな。稼げる仕事につくとか」
ボソボソ呟く少年の執着に呆れつつ、女神様は仕方なしに答える。
《……お風呂を所有出来るほどの平民となると。豪商か、冒険者でしょうか》
「冒険者? あるんだ、そういう職業っ?」
ぶわっと湧き上がる少年の好奇心。煌めく千里の笑顔に苦笑しながら女神様は肯定した。
《ございますよ。荒事から些事にいたるまで、傭兵顔負けの働きをする者もいれば、王宮の研究者が唸りをあげるくらい博識な者もいる組織です。お手伝いで小遣いを稼ぐ子供も多いので、貴方が混ざっても目立たないでしょう》
いよっしっ! 前世では、そこそこ腕っぷしを鳴らしてきたんだ。ここでも頑張ればやれるかもしれない。
「夢があるねい♪ 冒険者か、ワクワクすんなぁ」
《くれぐれも用心なさいませい。ここは地球と違い、大きく凶暴な生き物が跋扈しておりますゆえ》
大きくて凶暴な生き物? 魔物かな?
首を傾げる千里に、女神様はさらなる説明をする。
要はモンスターだが魔物ではないらしい。というか、魔物とかって概念がないようだ。
こちらでは皆が魔法を使う。人間も野生動物も、植物すらも。なので魔物という境がなく、ここの人間にとってはどれもただの生き物なのである。
そのへんを走り回るネズミだって青白い炎を浮かべて明かりにしていた。これが日常的なら、わざわざ区別もしないだろう。
「ふうん。じゃあ俺も魔法を覚えないとなぁ。不便かも?」
何気なく呟いた千里だが、それを聞いた女神様が再び沈黙した。
同じく再び、千里の嫌な予感がピコンと爆ぜる。
「………なあ、まさか?」
タラリと冷や汗をなだらかな頬に伝わせ、少年が半開きの眼で苦笑した。
それに固唾を呑む気配を見せ、同じく苦笑をはらんだ声音で女神様は答える。
《……貴方は魔法が使えません。その……魔素を片っ端から分解するので、魔力に変換して蓄えられないのです》
んのおぉぉぉぉっ!!
思わず頭を抱えて地面に崩折れ、千里は絶叫した。
「開幕猛毒で死にかかって祝福を無駄にして、さらには、この世界の人間なら誰でも使えるはずの魔法が使えないって、どんな罰ゲームよっ!! なあっ? 俺って、なんか悪いことやりましたかね、女神様っ!!」
盛大に狼狽える女神様が脳内に感じられるが知ったことか。幸せになるために転移したはずな千里は、マイナスを遥かに振り切るデメリットを抱えて、絶句するしかない。
この世界生まれな人間ならば当たり前にやれる事がやれないのだ。むしろ祝福で補って貰っても有り余るマイナス的要素ばかり。
これは不味いぞ。
千里は考える。
誰もが当然のように魔法を使うのであれば、それを鑑みた文明のはず。無ければ普通の生活すら危ういかもしれない。そんなんで仕事などやれるのだろうか。
次々と脳内に浮かぶ不穏な思考。それを読み取ったのか、努めて明るい雰囲気を醸し、女神様が何かを思いついたように囁いた。
《そ…… そんなことより言い忘れてましたわっ! ようこそ、わたくしの世界オンディーヌへ》
そんなこと?
千里の脳内で何かが切れる。ぶつっ! と派手な音をたてて爆ぜた何かに押し流され、いきなり黒々とした雰囲気で満たされた脳内に驚き、顔面蒼白な女神様。
「何が、そんなことだぁぁぁぁっっ!! 死活問題だわ、ぼけぇぇぇっっ!!」
《ひいぃぃーっ! ごめんなさぁぁーいっっ!!》
仰け反る風に叫ぶ女神様に罵詈雑言を浴びせ、千里のマイナス異世界ライフが始まる。
もちろん想像を裏切らず、彼の前途は非常に暗いモノとなるのだが、今の女神様は知らない。それが予想を遥かに越えていくとは、今の千里も知らない。合掌♪
「取り敢えず寝床が要るな。夜露がしのげて横になって眠れる場所」
《なら教会に行きましょう。労働を対価に宿泊出来るはずです》
お? そうなのか。
街の入り口に並びながら、千里は女神様からこのオンディーヌという世界の説明を聞く。
世界観としては地球でいう発展途上国。それなりの文明はあるが、魔法が存在するため文化の発展が遅く、未だにバイキング顔負けな蛮勇の蔓延る世界だそうだ。
だがまあ、その魔法のおかげで植物紙やインク、金属加工などもあり、文明人としての暮らしに不自由はないとか。
ただ、力が全てな世界に有りがちな上下関係が著しく、弱者に権利は認めない風潮らしい。
「うーわー…… 俺、生きていけるかね?」
今の千里は植物どこがプランクトンにも劣る最底辺である。息が出来るだけ。これを周りに知られたら、どうなることか。
思わぬ絶望に両手で顔をおおう少年。
《いっ、いよいよとなれば、教会で下働きをする手もあるかとっ! 神に仕える者を無碍にする人間はいませんしっ!》
必死に千里を慰める女神様。
でもそれって、一生を神に捧げるってことだろ? ……この現状を生み出したアンタには、今のところ恨みしかないんだけど、俺。
じっとりと剣呑な思考を巡らせる千里に慄き、女神様は涙声で呟いた。
《わたくしだって、わざとしたわけではないのですよぅぅっ》
ホロホロとルージュの啜り泣きが谺する千里の脳内。そこへ新たな誰かの思考が割り込んでくる。
《そなたっ! 大概にせぇよっ! ここまで女神がへりくだっていると申すに、なんだ、その態度はっ!》
「うえっ?」
突然の一喝で、少年の頭の中が割れるように揺れた。リアル揺れたような感覚に、千里は軽く目眩を覚える。
《尊様?》
《ルージュのせいではない。今回のこれは、たまたまの不運だ。なのに、この小僧ときたら……》
忌々しげで今にも舌打ちしそうな声の主は男性のようだった。嘆く女神様を慮る反面、千里には辛辣な雰囲気を向けてくる。
みこと?
わんわん振動する脳内に苦戦しつつ、千里は勝手に脳内会議を始める二人の会話に意識を集中した。
《でも、わたくしの事前調査が足りなかったのですわ。まさか、この世界の魔素が地球人にとって猛毒だなんて……》
《誰だって知らぬことはある。神は全知全能であっても、それは自身の世界のみに限ったこと。異世界まで範疇でないわ。そんなことも知らぬ若造が。ルージュを泣かせるなどと、烏滸がましい》
慰めるか罵るか、どっちかにしろよ。人の脳内でイチャつくな、こら。
「そんなん言うなら、せめて飯くらいはまともな物を食わせてくれや。塩むすびだけとか、ありえないだろ」
不貞腐れ気味な千里の言葉。それに憤慨し、尊と呼ばれた誰かは、脳内を劈く勢いで怒鳴った。
《まともだと? 白飯の塩むすびは、極上の糧であろうがっ! 足りない栄養素を錠剤でつけてやったに、何の文句があるとっ?》
極上の糧?
言い返そうと口を開きかけた千里は、ふと手元のワッパの温かさに気づく。ふわりと香る白米の匂い。懐かしいソレを、突然、いきなり理解した。
《……米は古来より神聖な食べ物。何にも勝る御馳走であろうが。特に日本人には。それに、塩は人体に必須ぞ? その両方が揃った塩むすび以上に今のそなたが必要とする糧があるのか?》
その通りだった。
やるせなさすら感じる男性の声。彼は色々考えた末に、このワッパを持たせてくれたのだろう。いずれこの世界に慣れたとしても、きっと千里の望郷の念は消せない。
過去を振り返り、落ち込むことも多分ある。そんなとき、この塩むすびがあれば。この塩むすびが日常なら。どんな場所でも生きていけるに違いない。
「…ちっ。ぅっぜぇ。クサいわ、アンタ」
思わず憎まれ口を叩く千里。
彼の悪態に動じるでもなく、脳内の男性は仕方なさげな笑いをもらした。
《それは我が与えた祝福でもある。精進せよ。さすれば、ワッパも成長するぞ?》
そう言うと、男性はルージュを泣かすなとだけ吐き捨て、彼女に暇乞いをし、千里の脳内から消えた。
「.....ま、期待するよ」
はにかんだ渋面という器用な表情を浮かべ、千里は眼下に見える街へと向かう。
女神と男神の祝福を支えに、彼の異世界ライフが始まった。
~後書き~
初めまして、美袋です。お題を見ると参加したくなる悪癖持ちです。
種ということで、経緯と世界観、主人公の置かれた状況や、これからの目的などを中心に書いてみました。御立ち寄り下さった皆様、既読、ありがとうございました。
極限生活 〜塩結びから始まる藁しべライフ〜 美袋和仁 @minagi8823
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