ずっと一緒に

立花 凪咲

ずっと一緒に・・・

雨が窓に当たって、雨滴が合わさって、

そうやって大きな流れを作ってサラサラと流れていく。

そんな当たり前の流れを見るたびに、あの子のことを思い出す。


窓を開けて、雨に濡れて、雨の香りに揺れて


そんな雨の日が来るたびに


あの子といた頃を思い出す。



その日は確かよく晴れた秋の昼頃だった。

私は一人きりで本を読むのが、学年が上がってからの日課だった。

勉強に励む、真面目で、けれど特出したなにかもないような、そんな『普通』の女子高生だった私があの子と会ったのは、私にとってそんな『いつもどおり』の日で、『いつもどおり』が変わり始めた日だった。


────────────


「ここでなにをしてるの?」

正義感のある人とはこのような声を持つのだろうか。

耳を風が撫でるより早く、不快な音が耳を貫いて、物語に水を指した。

「別に何も」

早く帰ってほしい。

「じゃあ出ていかなきゃ。ここは立入禁止だって、知らないわけじゃ・・ないよね?」

「それは貴女もでしょ。知っているならどうして入ってきてるの?」

「それは・・その・・・」

正義を振りかざすくせに、それに驕って、自分がそれに反していることに気づかない愚か者。


そんな奴らばっかりだ。


「じゃあ、別にいいでしょ」

そいつがどんな顔をしているのかわからない。けれど、知る必要もない。

柔らかい言葉なんて、たとえ嘘だとしても言いたくなど無い。

「・・わかった、ならお互い様ってことで、誰にも言わないでよ」

しばらく黙った後に、彼女は笑みを浮かべて私の隣に腰掛けてきた。

どうして。

そんな言葉さえ言わせない有無を孕んだ行動。

だから、せめてこの愚か者の顔でも拝んでやろうと思って、私は物語から現実に目を向けた。

「貴女は・・」

「別にいい、でしょ?」

そう言って目の前の生徒はキザに片目を閉じて、「秘密だよ」とハンドサインを出した。




これが私の人生に今も残る彼女、赤岩アズマとの出会いだった。


────────────


互いに無言が続く。

私達の均衡を破る鏑矢を射ったのは、人工的な、ピッチのズレた鐘の音。

「ね、貴女の名前を教えてよ」

「どうしてですか」

「だって明日も会えるかもじゃない?」

「・・明日も来るつもりなんですか?」

「明日も来るよ。私が何しようと勝手でしょ?」

「・・それは」

「で?名前は?」

「・・黒河、黒河くろさわカナメ。覚えなくて結構です」

「黒河カナメ、ね。うん、覚えとくから」

また会話が途切れる。

気まずさが私達の間を駆けて、私のほうが先にクラスに向けて足を運び出した。


────────────


廊下は授業まで五分も残っていないというのに、おしゃべり好きな人たちで溢れている。

「あかりんのクラスは出し物何すんの?」

「うちらはポップコーン!みゆっちは?」

「こっちはサイダー!ほら、流行ってるっしょ?ぶどうのアイス入れるやつよ」

「マ!?それ古いやつじゃね?確か、2年か3年くらい前の」

文化祭まであと二週間。

各クラスは高校の文化祭らしく、各々模擬店を出店し、学校は売上をどこかの団体に寄付するという謳い文句を掲げている。

果たして本当に全額寄付が行われているのか、だれも確認していないのだから真偽は怪しいが。


教室の中も同じだ。

特段仲の良い人も居らず、運の良いことに一番前ではあるが、教室の隅に座れている内は、耳を傾けずとも話が入ってくるということが無いのが救いだ。

・・どうしようか、文化祭は。

去年は二日間とも体調不良ということで欠席したが、二年連続ともなればさすがに家族にも怪しまれるだろう。

学校とは集団行動を学ぶ場所なのだから、母かそれとも父の言葉だったか。

どちらでもいいことか。

どうせ私の理解者にはなりえてくれない。

もしこの世に私の理解者がいるというのなら、それは私だけ・・・

あの人は・・・いや、あんな人こそ無理だ。



一人きりを楽しんでいた私のパーソナルスペースに土足で入り込んできて、あまつさえ迷惑に感じていた私の気さえ使ってくれない。


ふと、視線を後ろに向ける。

「作り方覚えてない人は?・・そしたら、今日のうちに当日のシフトも決めちゃおっか。シフトの時間で希望がある人は」

「はいは〜い、うち一番早いとこが良い!」

「俺は一番遅いところで」

「俺も!」


みんなの前に立って、集団の中心でも堂々と話しているあの人は私の

「黒河さん?」

考えていたことが霧散するのを感じながら、人付き合いが苦手なだけの一般女子高生に、心をシフトする。

「・・あ、はい。どうしましたか?」

「えっと、文化祭さ、会計担当になってたよね?・・これ」

名前も覚えていないクラスメイトから見せられたのは5枚ほどのレシート。

まとめろってことか。・・・いや、それが会計の仕事だろ。なに言ってんだ私。

「あぁ・・わかった」

「ありがと!お願いね!」

そういうと彼女は自分たちのグループに戻って、談笑を再開する。

その話題に私への侮蔑が含まれてやしないだろうかと、要らぬ憶測を立ててしまう。

そんなことを考える暇などもったいないと決めたはずだろ。

機械的に手を動かしながら、終業を告げる合図を待つ。

いつだって、私以外が騒がしい時間は残り5分だって短くは感じない。




───






駅のホームで電車を待つ。

朝日に照らされるベンチと、そんな陽の光を遮る錆びきった柱の醸す雰囲気が私は好きだ。まるで世界が美しいものみたいに見えるから。

イヤホンから流れるミュージックは私を世界から切り離してくれるような感覚に陥らせる。口ずさむほどの言葉は生憎と持ち合わせてはいなかったが、それでも耳を通っていくリリックは語感の良いもので、自然と視界が暗んでいくのさえ心地よかった。


繰り返し響くベル音。

イヤホンの壁を越えて、耳の中まで響く音。

寝ぼけた身を震わせる風切り音。

目の前で徐々に速度を落としていく電車が持っていた音。

曲調を変えた電子音。

他の雑音に負けないようにと再開した、私だけに聞こえる電子奏者の次の曲。



多くの人に囲まれているが、それでもこの空間は嫌いではない。

乗客は下を向いてスマホばかり触っている。私だけが例外ではない。

私が特別ではないこと。この空間の中では『普通』の高校生になれること。

それがなにより、私の心に安寧をもたらした。


ふと、顔をあげた。

それはなんとなくの行動で、けれどなにかに誘われたように。

そして顔を上げて、しばらく私は体ごと固められたようだった。


赤岩アズマ。

頭の中に彼女の名前が呼び起こされる。

視線を上げた先で異質に映るあの人は華奢な体にはミスマッチなほど厚い、そして丁寧な装飾をされた本を読む姿をしていて、

それは電子機器に囲まれた電車内では異常な姿で、けれどその姿には確かに触れがたい美しさがあって、彼女をいっそう異質な存在にさせていた。

「なんであの人が」

口の中だけで呟いた言葉に、周囲の人は誰も振り向かない。

私は気づいた。なら、私も気づかれているのだろうか。まだ気づかれていないなら・・

そう考えるよりも早く、視線をスマホのロック画面に下げた。

気づかれてもなんともないはずで、他の生徒と似たような状況にはこの二年半の間には何度だってあった。

彼女がなにか違うというのだろうか。

どうせ彼女も・・

『貴女の名前を教えてよ』

そこまで考えてから昨日かけられた言葉を思い出して、小さく頭を振る。

気にし過ぎなだけだ。


授業中、彼女が発表しているのを聞いていた。

『明日も来るから』

彼女の声が耳元で聞こえた。

『黒河カナメ、ね。うん、覚えとくから』

また、彼女の言葉が聞こえる。

私は無意識を意識した後、細く鋭い息を吐いた。



授業の終わりを告げる鐘が鳴る。

なり終わるよりも早く、椅子や机が引きづられて床を削られる音がすぐに取って代わる。

手洗いに行く人や他クラスに行く人に混じって、席を立つ。


認めなければいけない。

駅よりも混んだ人の流れを抜けながら、そう思う。

私は昨日の出会いを忘れようとしていないことを。

彼女に他の人とは違うなにかを感じていることを。



きっと認めなければいけない。

「良かった、ここで合ってた」

昨日と同じように彼女が来ることを期待していた自分がいることを。

「授業が終わってすぐにどっかいっちゃったから、もしかして〜って思って来たけど」

そこで彼女は言葉を区切って深呼吸をする。それほど急いできたのだろうか。

私のために?・・まさかね。

「あれ、聞いてる?」

「・・えぇ、聞いてますよ」

彼女は私の返答に驚いたように目を見開く。

「どうかしたましたか?」

「い、いや昨日となんか違うな〜って思って。もっとトゲトゲ〜って感じじゃなかった

?」

目を瞑ったり、両手でなにかしらのジェスチャーをしながら話す彼女は、クラスで

「そうしましょうか?」

「うぅん、過ごしやすい方でいいよ。ちょっとびっくりしただけだからさ」

彼女は昨日のように、私の隣に腰掛ける。

昨日と違うのは、彼女は私に許可を求めなかったところと、隣に座られるのを別に嫌がっていない私。

「それで・・」

何かを話そうとして、彼女は言葉に詰まっているようだった。

手を差し伸べるのも会話の流れ的に不自然で、次の言葉を待つ。

待っている時間は途方もなく長いように感じて、それはまるで気管という崖を言葉が登り切ろうとしているようだった。

「何を話そっか?」

「・・そんなことですか」

待った末にそんな言葉だけを言われたのだから、思わず肩をすくめて、溜め息をついた私をきっと誰も責めやしないだろう。

「そんなことって、結構悩んでたんだよ?そんな言い方は酷くな〜い?」

そう言う割に口角をあげて、足をフラフラとさせているのは冗談のつもりだからだろうか。


「なら私から。・・どうして私と話そうと?」

昨日、彼女は私と話さないという選択肢もあったはずだった。

今までここに来ていなかったのだから、普段は別に居場所を見つけているのだろうに、なぜ私に声をかけたのか。

「ん?なんとなく、って言ったら・・怒る?」

「いえ、けど分かりました」

「なにが!?」

きっと私が彼女に対して少ない嫌悪感さえ抱いていないのは、多分そういうところなんだろう。

「・・良いね」

それは、あまりにも唐突な言葉。

「なにがですか」

「笑顔が。すごく良いなって思った」

「・・それも、なんとなくですか?」

「まぁね。それか初めて見たからかも」

「まぁ・・・」

そんなのは当たり前だ。人前で笑う機会なんて、少なくとも学校じゃ有り得ないのだから。

「・・貴女こそ、随分賑やかな人だったんですね。初めて知りました」

クラスの中の彼女は真面目で、リーダーとして申し分ない人に見えていたから、今私の目の前でコロコロと表情を変えては、手足を少し大げさに動かす彼女は別人のようだった。

「ま、こんなの見せられないしさ。こっちのほうが好きでも、そうも言ってられないでしょ?皆は私のことは真面目で、しっかり者だって思ってるしね」

首をほんの少し傾げながら笑う彼女の言葉は、きっと本心で、その心は多分だけれど私に似ている。


少しの沈黙。

小さな溜め息。


「・・連絡先、交換しときますか?・・・要らないなら別に「要る!交換しよっ!今!すぐにでも!」近いんですけど・・・」

「あ、ごめん。ちょっと嬉しすぎて・・・」

身を乗り出して私にのしかかる勢いの彼女を、右手に力を入れてなんとか押し留める。


言葉にはしていなかったけれど、彼女の顔や話し方は『気づいてもらう』のを期待してるみたいだったから。

辛いのを隠したいけれど、誰かに打ち明けたいような、そんな表情かおをしていたから。

「ごめ、RINE《ライン》も交換しない?」

「別に構いませんけど・・いいんですか?」

そんな日頃から話すためのツールで繋がって、どうしようというのだろうか。

そもそも私なんかが・・・

「こっちこそ良いの!?って感じ!なんの文句だって無いよ!」

そう言う彼女が私に向けてくれた屈託のない笑顔は、さっきまでの悩みさえどこかへ消してしまったようだった。


「そう・・ですか。なら、いいですけど」

カメラをかざして、彼女のスマホの画面に表示されたQRコードを読み取る。

表示された名前は彼女の名前そのもので、アイコンは・・絵?

「わぁ!きれー!!ねね、これどこの写真!?」

そういって私の眼前に映し出されたのは、私が使っているなんてことない普通の風景の写真。「ちょっと電車で行ったところにある山の頂上ですよ。別に普通の景色ですけど」

「行きたい!!」

「そうですか?えっと最寄り駅の名前は」

「ね、ねぇ・・・私、電車の乗り換えとかできなくてさ・・」

「あぁ、大丈夫ですよ。一本で行けますから。それでその駅、普通電車しか止まらない駅なんですけど」

「そ、それに!私、すっっごい方向音痴でさ!?」

「そうだったんですか?それでしたら・・地図アプリは入れてますか?大体の場所は覚えてるので・・・どうしましたか?」

画面から視線を離して、彼女の顔を見るとお菓子をねだる子供のような、親とはぐれて迷子になってしまった子猫のような・・・


あぁ、そういう・・

「・・一緒に行きましょうか。機械の案内だと不安かもしれませんしね」

「っっ!!そうそう!アプリの案内だけだと、方向分かんなくなっちゃいそうだし!黒河さんがいてくれたほうが安心できるな!」

パァァっと、彼女の笑顔と声のトーンに調子が戻ってくる。

小説に描かれる笑顔が花開く、とはこんなふうな顔の変わりようを指していたのだろうか。

そうだというのなら、この顔はあまりにも・・

「ん?なにか言った?」

「いいえ、なにも言ってませんよ」

「うそ!絶対言ってた!!」

「なんでもありませんよ」

「ふ〜ん?」

「さて、そしたら、明日行きましょうか。速いほうが良いでしょう?」

「明日!?もも、もちろん大丈夫!」

「では明日、柚月駅に集合しましょうか。そこまでは迷わないでくださいね?」

「え?あ、あぁ!うん!大丈夫!」

タイミングを今の今まで伺っていたかのように、昼休みの終わりを告げるチャイムの音が鳴る。


音の出どころを探るように首を動かした後、諦めたのか彼女はパンッと頬を叩いて立ち上がる。

「それでは、戻りましょうか」



彼女の持つ正反対の二つの顔を知っているのは私だけだと思うと、この後の憂鬱も少しは薄れた気がした。






───



「早く着きすぎた・・・」

暑い。秋も中頃に、紅葉狩りが似合う季節だというのに、手元のスマホは28.0度と無慈悲な温度を示している。

こんなことならもう少し薄着をしてくればよかっただろうか。

しかし、山にいくのだし、虫刺されも怖いし・・

少しでもマシになればと空いた右手で顔を仰いでいると、随分と大荷物な見知った顔を見つけた。

「あ、黒河さん!!」

「赤岩、さん・・その荷物は?」

「これ?ん〜、まぁ色々?」

よくわからないが、詳しく聞いても答えてくれなさそうだ。

「・・そうですか。じゃあ、行きましょうか。ところで・・」

「ん?」

「その服、よく似合っていますね」

気温も考えてきたのか、風になびく白地の薄いワンピースに、およそ山登りに合わないようなサンダル。

そして、一際目を引く藍色のバックパック。

彼女に似合っていて、涼しいだろうが、しかしそんな服装で大丈夫だろうか。

今から行く場所は車道を歩けるとはいえ、少し長い道のりだが・・

背中の荷物の中に着替えでも入っているのだろうか?

「ありがと!あ、その顔、もしかしてちゃんと歩けるか心配してる?」

「えぇ、まぁ」

「ふっふっふっ、意外と歩けるんだから、心配ご無用だよ!」

「そうですか。最悪の場合、荷物くらいは持ってあげますよ」

「ホント!?黒河さん、やっさしー」

「・・冗談ってことにしてもいいんですよ」

プラットフォームで電車を待ちながら、軽口を叩く。

少し前までの私なら考えることもできなかったこと。


電車は思ったよりも空いていて、私達が乗り込んだ車両は私達以外の乗客がいなかった。

向かいの車窓を過ぎていく景色は、彼女にとって珍しいのか目を輝かせては、身を乗り出すほどで。


「そんなに見なくてもまた来たら・・」

「うぇ!?」

「え?あ、いや・・」

「あ・・もしかして、また一緒に行こうって誘ってくれてるの?」


そんなつもりで言ったわけではない。

そんなことを言うつもりではなかった。

けれど、それも悪くないと思う自分もいる。


「まぁ、貴女がいいなら・・」

「嫌なわけないよ!むしろお願いしますって感じ!」

「そう、ですか」

また、この笑顔だ。

連絡先を交換した時と同じ。

私はどうにもこの顔に弱いのかもしれない。

だってこんなにも、嬉しいと思っているから。


その後も、学校のこと、勉強のこと、他愛もない話をした。

この時間は、知るはずがないと思っていたけれど、確かに楽しい時間だった。


『次は@@駅、@@駅。The next stop station is... 』

電車のアナウンスが聞こえる。

どうやら目的の駅についたようだ。

「ここです、降りましょうか」

「おっけー!」


改札を抜けると、そこには数えられるだけのマンションとあとは紅色に色づいた木々だけが視界に入る。

「おぉ〜!これはなかなか・・」

「さ、行きましょうか。なるべく早いほうが良いでしょう?」

「そうだね」


───


私の先導のもと、目的の山の頂上へ登っていく。

後ろを歩く彼女は、駅に着いた頃よりも少し距離が開いているが、しかしちゃんと付いてきている。どうやら、あの靴や荷物で歩き慣れているというのは嘘ではないらしい。

だが・・・

「はぁ・・ふぅ・・・」

息を吹きながら一歩一歩進む姿を見て、さすがの私でも何も思わないところがないわけではない。

「はぁ・・・」

一つ、聞こえないようにため息をついた。


足を止めて、彼女の方へ向きを改める。

「荷物、持ちますよ」

「え、でも・・・」

「貴女よりはマシな装備してるので、大丈夫ですよっと、お、重・・」

彼女の背中に回って、ひったくるように取ったバックパックは想像よりも重く、少し腰をかがめてしまう。

「あ〜、大丈夫?」

「・・息切れしそうな貴女よりは」

「それを言われるとなんにも言えないや」

そう言って彼女は肩をすくめた。

「もう少しなので、頑張っていきましょう」

「おー!」

・・・やはり、持たなくても良かっただろうか?



「おぉ〜!きれいな景色!」

「それは良かったです」

たどり着いたのは、山頂と言うには足りないが、舗装された道で登れるところとしては頂上になる山頂公園。

ベンチに座る私を尻目に、彼女は塀代わりに植えられた花壇の前で足を止めて、木々を切り開いてつくられた景色に目を奪われている。

「よし、これならいい絵が描けそう!」

「絵?」

「ん?ダジャレ?」

「違います!」


「絵っていうのは、その、絵画を?」

「そ。趣味の範囲だけどね」

そういえば、彼女のRINEのアイコンも絵だった。

「それじゃあ、このカバンの中は」

「うん、キャンバスとか色々だね」

「言ってくれれば、もう少し丁寧に運んだのに」

「意外と頑丈だから、気にしなくていいよ。それに、びっくりさせたくて秘密にしてたのは私だしね」

そう言いながら、私の隣に置かれたカバンを漁り、手慣れた様子で準備を進めていく。


「凄い・・」

「そう?普通だよ普通」

準備を終えた彼女は、あのカバンのどこに入っていたのかわからない椅子に座ってキャンバスに向かう。


────────────


「私、絵が好きなんだ」

彼女から一番近いベンチに座り、山頂の風を浴びて、目を閉じていた私に、彼女は不意に話し始めた。

「いや、ちょっと違うか。私は絵を描くのが好きなんだ」

目を開いても、ただ止まることのない右腕と背中しか見えないで、彼女の表情はわからなかった。

返事は、思いつかなかった。きっと求められてもいなかった。


「私さ、高校卒業する頃には、死ぬかもしれないんだ」


彼女の動きが止まった。

その言葉を聞いた私も、時間も、風も、全てが止まった気がした。


彼女の言葉だけが時間を取り戻したように紡がれた。

「だからさ、こうやって私が見たもの、感じたもの、全部遺しておきたいんだ」


その言葉が聞こえて、


やっと、彼女と視線があった。



その顔は学校で見ていたものとも、私だけが知っていたものとも、どれとも違う表情で。

そこにあるのは寂しさと、諦めと、・・・きっと、私が想像できない感情ばかりで。


「ね、付き合ってくれる?」

「・・良いですよ」


そう返事をしたのは、あまりにもその顔に見とれてしまったから。

彼女なら良いか、と思えたから。


後悔しても良いと、そう思えたから。




────────────




それからというもの、私たちは色んなところへ行った。

最初は山だったから次は海に、空が描きたいからとおそろいのスケッチブック片手に日本一高いタワーに登ったり、なんでもない無人駅で降りて日が暮れるまで一緒に過ごしたり。


学校でも時間を見つけては一緒に過ごした。

彼女が描いた絵に憧れて私もスケッチブックを使い果たしたが、彼女のようにうまくはいかなかった。


「慣れだよ慣れ。カナメならきっと上手くなるって!」

「・・そこまでの根気は、別に」

「私はカナメが描く絵、見てみたいけどな?」

「・・・はぁ」

彼女といると、ため息のように息を吐く事が多かった。

彼女の無邪気さに振り回されて、しかもそれに乗せられる私に、どうしようもなく恥ずかしく、言いようもないくらい楽しくて。


だから、きっと、私が彼女に惹かれるのも『普通』のことだった。



───


屋上。

私はコンビニで買ったおにぎりを黙々と食べながら、一つしかない扉を見つめる。

がちゃ、と扉が開いた先には私の待ち人。

「よっと・・」

弁当箱片手にこちらへ彼女は私の隣に、鉄のフェンスがガシャンとなるほど勢いよく座る。

「お疲れ様です、アズマ。また囲まれてたんですか?」

私達が最初にでかける約束をした日から、ちょうど一年。

世間じゃなんてことない日でも、私にとっては『特別』な日。

一年の間で、私達は名前で互いを呼び合うほどでは足りないくらいに、仲を深めていた。

それは、急ぐように。焦ったように。

「まさか『彼女』が待ってるから、なんて言うわけにもいかないしね〜。文化祭だって、近いし」

彼女は茶化すように、誤魔化すように、あの頃から変わらない口調で話を続ける。

「ところでさ、カナメ。覚えてる?今日は

「初めて約束した日」」


二人分の声がぴったり重なる。

私達の視線が昼飯から外れて、互いの瞳にぶつかる。


「やっぱ、忘れてないか」

「・・もちろんです。それで、どうしたんですか?」

「えっとさ、あのときは私が行きたいって言ってでかけたじゃん?」

「そうですね。あの日のことも、今日と同じくらい覚えてます」

「だから、今回はカナメの行きたいところ。なんて・・どう?」

「行きたいところ・・・」

どこだろうか。

ベタなデートスポットはすでに巡りきっている感じもあれば、また彼女が絵を描くのに付き合うというのも悪くないが・・・

「・・最後の、記念日かもしれませんよね」

「・・・そう、だね。うん、そう。最後、だと思う」

彼女は高校を卒業する頃には死んでしまうのだと、そう告げられたのは一年前。

今、私達は高校三年生。つまり、この記念日で、終わり。


なら、そうなってしまうなら。行きたいところは。

「アズマの部屋、なんてどうですか」

「私の?」

「えぇ、ダメですか?」

「まさか。でも、良いの?ほとんどなにもないよ?」

「貴女の部屋というだけで、行く価値なんて十分ですよ」

「わかった。じゃ、次の休みの日に、ね。私の家は・・・・」


───

そして、私は今、アズマの部屋に来ている。

「何もないけど、ゆっくりしてっていいから」

「なら、そうさせてもらいますね」

本当になにもない部屋だ。しかし、だからこそ、そこに彼女がいるのだという実感を持てる。それがとても嬉しい。

「お茶入れるね。コーヒーとか紅茶・・・色々あるけど、カナメは何が良い?」

「アズマと同じものを」

「わかった!ちょっと待ってて」


壁に掛けられているのは丸い電子時計とカレンダーだけ。

部屋は最低限のものしか乗っていないベッドと、教材や画材が散乱した学習机。

そしてどこからか出してきたに違いない、二人用の小さなローテーブル。

本当にそれだけ。

アズマらしい部屋だ。

彼女の生活は、この部屋に集約されているのだ。

高校を卒業すれば、死んでしまうアズマらしい、無駄のない、部屋。

アズマがお湯を注ぐ音と、コーヒーの香りだけが部屋に満ちていく。

「はい、ブラックでも大丈夫だよね?」


「えぇ、ありがとうございます」

一口飲んでみる。うん、美味しい。

「そういえば、アズマが描いていた絵はどこに・・?」

部屋の収納はといえば、クローゼットくらいしかなく、どう見積もっても、彼女が描いてきたキャンバスの全てが入るとは思えない。

「近くにある画材屋さんに引き取ってもらってるんだ。ここにあっても、どうしようもないし。それに、絵は見る人がいてこそだからさ」

それは、そうだ。

彼女が生きていた証は、彼女自身にしか残せない。

それでも、絵が見たかった私としては少しだけ残念だけれど、アズマが決めたことだ。

少しの沈黙の後、アズマから口を開いた。

彼女はコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり入れてかき混ぜている。

その姿すら愛おしく思えるのだから、恋情とは厄介なものだ。

「それで、さ。カナメ」

「・・はい?」

口をつけていたコーヒーカップを置いて、返事をする。

「その・・記念日に、部屋に上がるっていうのは、さ」


「そういうこと、で、いいんだよね?」

「ええ。もちろん」

ここまで来て、それ以外の理由なんて、ない。

アズマが立ち上がって、ベッドへと腰掛ける。そして、隣をポンポンと叩いた。ここに座れということだろうか? 私は彼女の横に腰を下ろした。すると彼女が私の肩にもたれかかってきた。シャンプーの香りだろうか?甘い香りがする。

「私なんかでいいのかな・・・私の後に、もっといい人が現れるかもよ?」

「そんなこと、ありえません。アズマだから、私は貴女を選んだんです」

死ぬその日が近づくから、生き急ぐように、焦るように、私との思い出を作ろうと駆け回った。

少しでも、彼女が生きた証を遺したくて。少しでも、彼女をこの世に引き止めたくて。

本当に、嬉しかった。

でも、まだ足りない。もっと、一緒にいたい。

もっとアズマをこの目に焼き付けたい。

そんな欲望が、私を支配する。

彼女の頬に手を添える。彼女は少しくすぐったそうにして、目を閉じた。

そのまま彼女に口付けをする。唇を離すと、アズマは顔を真っ赤に染めて目を潤ませていた。

そんな表情を見て、私の気持ちは昂ぶっていく。

「アズマ、好きです。」

もう一度唇を合わせる。今度はもっと長く、深く。



唇を離す。


それからのことは、あまり話すべきじゃないかもしれない。



「ねぇ、カナメ」


「なんですか?」

「好きだよ」

そんな幸せそうな顔をされたら、私は。

「私も、大好きです」

もう一度、口づけをしたくなる。

そんな私の気持ちを見透かしたように、彼女はそっと目を閉じる。

あぁ、もうダメだ。止まれない。もっと欲しくなる。もっと貴女の全てが欲しくなる。その欲望が抑えきれなくなって──。

・・・結局その日は、ずっとそうして過ごしていた。

アズマが生きた証を私に刻みつけるように。

私が隣にいた証をアズマに刻みつけるように。



─────


彼女の言葉が嘘じゃないと知ったのは、ある雨の日だった。

去年とは違って楽しめた文化祭を終えたちょうど次の週。

その日は普通に学校で過ごしていた。

『いつもどおり』彼女と昼飯を食べようと、屋上の扉の前で階段に座っていた。

けれど。いつまでたっても、彼女が来ることはなかった。



不思議に思った私は教室に戻って、そこで、私は、窓にかじりつくクラスメイトの群れをみつけた。

群生した人をかき分けて、窓から外を見下ろした私は。

雨の下、担架で救急車に運ばれていくアズマの姿を見つけたのだった。


不思議と、悲しいとは思わなかった。

ついにか、と。そう思っていた。恋もそうなってしまえば、なんとも薄情なものだ。



──────



学校が終わって、教師から聞き出した病院に、私はお見舞いに来ている。受付でアズマの病室を聞くと、どうやら個室らしい。

特別扱いなんて、珍しいこともあるもんだ。

病室に入ると、そこには病衣を着たアズマと、彼女のご両親がいた。

少し気まずい空気が流れるが、気にしていられない。私はそのまま彼女に近づいていくと、声をかけた。

彼女は私を見るなり嬉しそうにして──次の瞬間にはその表情は曇ってしまったけれど──私に笑いかけたのだった。

彼女の両親はなにかを察してくれたのか、私と会釈を交わしてから外に出ていかれた。

「カナメ、来てくれたんだ」

「そりゃあ来ますよ。私は貴女の彼女ですから」

「そっか・・・あはは、ごめんね。ちょっと体調悪かっただけなんだよ、ほんとに」

嘘だ。

「ほら、こんなに動けるんだよ?」

嘘だ。

「もう、心配性だなぁ。だから、大丈夫だって」

嘘だ。

そんな声で、そんな顔で言われても説得力がない。

「もう、長くないんですか?」

思ったよりも、声は震えてしまっていた。

視界がうるんで、彼女の顔さえまともに見つめていられない。



「長く、はないね。もってあと3日。短ければ、明日にでも」

淡々と彼女は事実を告げる。

「そう、ですか・・・そうですか・・・」

私たちはもう、お別れなのか。

私はまだいい。彼女が死んだ後も、生きるから。

でも、彼女はどうなのだろう?私がいなくなってしまえば、彼女はどうなってしまうだろう?

「カナメ」

先程とは違う、強い言葉が私を呼ぶ。

「後追いなんて、許さないよ」

あぁ、ダメだ。

「カナメは生きて。私の分まで」

そんなの、ズルいじゃないか。

この気持ちさえ、抱えて生きろと、そう言うのか。

愛した貴女を失って、それでもなお、生きろと。

そんなの、ズルいじゃないか。

それでも、私は頷くしかなかったんだ。

それが彼女の望みなら、叶えなくてはならないのだから。

それがきっと、私が彼女の、アズマの『彼女』としてできることだ。


───


それから、彼女は3日間学校を休んだ。

私はなにも考えられなかった。

ただ、これからのことを考えていた。

きっとこれが、最後の日になる。

きっと、こうして今日が最期になる。

あと何回、彼女と会えるのだろう。

あと何回、彼女の声を聞けるのだろう。

その考えが脳を埋め尽くしていて、授業もまともに受けられない毎日だった。

3日間毎日、病院に通った。死ぬ瞬間に立ち会えないのが嫌だったから。

そして、今日で。



終わりだ。


病室の扉を開けると、そこにはいつもと変わらない笑顔でアズマが私を見つめていた。

「他の人は?」

「出てもらったよ。カナメとは二人きりで過ごしたいから」

「そうですか」

この病室において、唯一の私の特等席。

丸椅子を引いて、ベッドに背を預けるようにして床に座る。彼女はベッドから体を起こそうとしていたから、その肩を押さえて、寝るように促した。

「ありがとう。カナメは優しいね」

「・・・優しくなんか、無いですよ。全然」

だって、私が彼女にできたことといえば、絵描きに付き合ったこと。それと、彼女の体に傷をつけたこと。

それだけ。たったそれだけなんだ。

「そんなことないよ。私がカナメに優しいって言ったのは、そういうことじゃない」

優しくなんか、ない。

私は、私がアズマの近くにいたい、ただそれだけの理由で生きていたに過ぎないのだから。

「ねぇ、カナメ。今日で最後だと思うから、話したいことがあるんだ」

いつになく真剣な声音で話す彼女に、私は少しだけ驚き、そして身構える。

「・・・なんですか」

「後悔、しないでね」

「・・・?」

少しだけ、不安そうに彼女はそう言った。

それはいったいどういう──────。

「カナメ、愛してる」

アズマから、口づけをされた。それも今までしたことも無いほどのものを。

それが気持ち悪いとは思えなかった。むしろ、気持ちいいくらいだった。

唇が、アズマが、私の下を離れる。

「私も、愛してます」

「うん、知ってる」

彼女はイタズラに成功した子供のように笑う。

「もう、後悔しないようにしたから。だから、あとは、カナメ次第だよ」

それから私は、彼女に色々な言葉を投げかけた。今まで言えなかった言葉。すべては言えないけれど、精一杯の気持ちを。

けど、最後に伝えたい言葉が。この言葉が伝えたい全てだ。

「好きです」

「知ってるよ」

止まらない。

「大好きです」

「私もだよ」

終わらない。

「生きてください」

「ん〜、難しいかも」

終わってほしくない。

困ったように笑う彼女を見てそう思う。

「最後にさ、約束をしようよ」

「・・はい」

「ね、もし私が死んだらさ・・・・




────────────






雨は嫌いだ。

彼女が倒れた日のことを思い出すから。

それからの短い日々を思い出すから。

それまでの長い日々を思い出すから。



山が好きだ。

海が好きだ。

高いところが好きだ。

彼女と過ごした楽しい思い出が残っているから。


カーテンを閉じて、部屋を見渡す。

壁にかけられた絵のいくつかは、彼女が親切にしてもらっていた老夫婦から譲り受けた彼女の作品だ。

その中で一つだけ、目立つものがある。

それは、一つだけ下手くそな作品。


私が描いた、彼女の肖像画。




《私が死んだらさ、私の絵を描いてよ。死んだ後も、絵なら残るでしょ?それなら、私はずっと、カナメと一緒にいれるから》


「一緒なものですか」

ほこりを少し被った額縁を撫でて呟く。

「・・私のものだけ下手くそで、ぜんぜん違うじゃないですか」


呟いた声は、思ったよりも震えていた。

きっと、雨で寒くなったせいだ。

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ずっと一緒に 立花 凪咲 @L1eL1ves

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