第3話
まさに幽霊の手、というような血の気もなく、骨と皮だけのような薄い手。それが私の足首をがっちりと掴んでいた。こんな赤子より貧弱そうな手を振りほどくなど容易いことだと思われたが、なぜか離れない。足を振っても思い切り引いても、躊躇いつつもう片方で踏んづけてみても、一向に離す様子がないのだ。特に指や爪が食い込むほど強く掴まれているわけでもないのだが。
もう一つ、不思議に思うことがあった。話に聞いていたとおりならば出てくる手は「何本も」ということだった。私の想像では壁から出てきた無数の手が身体中に絡みつき、引き倒され、ずるずるとなすすべなくあっという間に引きずり込まれるのだった。
それがどうだ。たった一本の細く長い(約30メートル)腕が私の足首を弱々しく掴んでいるばかりだ。引っ張られているかと言えばそんな気がするくらいの力を感じるのみだ。
……私の口笛が下手くそだったからか?
馬鹿にされているようでふつふつと怒りが湧いてきた。が、この弱そうな手が見た目に反してしつこく離れないのも事実。私はどうするべきか?このまま棒立ちしていれば朝になってみんなが登校してくるのではないか?
そんなことを考えていると、くいっと引っ張られた。足元を見やると手が引っ張っている。少し踏ん張ればなんてことない力だ。
しばらく引っ張られていたが、私はよろけもしない。
暇のあまり、私はあることに気づいた。何かが聞こえるのだ。
ヒュォー…………ピョー…………
よほど耳を澄まさなければ聞こえない、隙間風かと聞き逃しそうな音。
しかし近くの窓は全て閉まっている。何より、私にはその音にいたく聞き覚えがあった。
私の口笛だ。
その弱弱しい音は壁の方から聞こえており、そして間違いなく私の口笛である。そして更に気づいたのは、例の手はその口笛に合わせて引っ張っているのだ。……弱弱しいのはそのためだろうか。馬鹿にしているのか。
しかし、ほんの、ほんの少しずつではあるのだが最初に比べ手の力は強くなっている。本当に微々たる差なのだが。もはや誤差だが。
いまだ暇な私はここで更なる気づきを得た。残念なことに、それは私の中に絶望の芽を生やすに十分な事実だった。
月の位置が変わっていない。
私の立ち位置は最初と変わっていない。首を決まった角度で向ければ見える景色は変わらない。その視界で唯一変わっていなければいけないはずの月の位置さえも。
相変わらず手は音に合わせ引っ張り続けている。ここで、進展があった。
ぎゅっと引かれた私の足はほんの少しだけ動いたのだ。床板と靴が擦れてズリ、と音を立てる。
長い、長い時間が経った。その間私は立ったり座ったり、寝っ転がったりと色々な体勢をとっていた。余裕そうに見えるかもしれないが、焦りはあった。なんせ見た目に反し頑固な手が外れないことは既にわかっていた上、ちょっとずつ壁の方に引っ張られている。
ピィ〜……ズリ……ピョォー……ズリ……
こんな具合である。
なんだか、運動会の綱引きのようだと思った。「オーエス!オーエス!」の声に笛の音。お互いが奮闘し、綱を引き合う。
現実は情けない口笛の木霊に、これまた情けない細い腕一本が私の足を力なく引っ張っているだけなのだが。
そろそろ、飽きてきた。これはいつまで続くのだろうか。もう数時間は経っているのに、動いたのは一メートル足らず。これではキリがない。かといって手を振りほどけもしない。
ふと、口笛を吹いてみる気になった。
立ち上がり、肩幅に足を開く。
呼吸を整え、唇をやや湿らす。
目の前の暗闇をまっすぐ見つめ、息を吸う。
そして、とがらせた唇から息を吹く。
ピューー…………
人生一、まっすぐで力強い、完璧な音だった。
その瞬間、目の前に白がわらわらと増えた。
何本も何本も、真っ白い手。
右手ばっかりだなぁ、などと呑気に思っていると、あっという間に絡みつかれ、引き倒された。
今までの反動か、急に動いた体はとっさに窓枠を掴んでいた。親指以外の4本で、指先が白くなるほど強く掴んだ。
その指を、一本一本外していくのは、真っ白で細くて頼りない手だった。
人差し指が外れると、私の目の前でひらひらと白い手が嘲笑うように揺れ、次の瞬間には上下もわからないような闇に囲まれていた。
口笛 藤間伊織 @idks
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