血の道は海へ

区院


 秋。どうやら長くつづいた、隣国との戦争が終わったらしい。それも私たちの国の勝利で。このウィンクル村の広場の時計台に備え付けられた、村で唯一のラジオからそんな放送が流れた、らしい。


 らしい、と不安定な情報なのは、私が村の人の会話を一方的に盗聴して得た情報だからだ。開いた窓から聞こえる村の人たちの会話は賑やかで、ざわざわと束になって揺れている。みんな喜んでいる。だから、私も喜ばなくては、いけない。


 埃っぽい一人きりの小さな家で、私はまず、顔を洗うことにした。一日の始まりは顔を洗うことから。お母さんの口癖だった。2年前、お母さんが空襲で死んだあとも、その口癖は私の中に残り続けている。もうそれぐらいしか、お母さんと私を繋ぐものがない。


 鏡に己の冴えない顔が映る。もう18歳になるというのに、相変わらずの童顔だ。戦争が始まる前はよく綺麗だと褒められた長かった髪も、今は水の節約のために耳の辺りで切りそろえられている。それが余計に顔の幼さを際立たせていた。


 小さなバスケットに2個のパンと、ミルクの入った瓶を入れて、家を出る。いってきますは言わない。この家は戦死したお父さんの、お兄さん、つまりは私のおじさんが所有する家で、今は私が一人で住んでいる。自分以外誰もいない家の空白にはもう、慣れてしまった。それに、会うたび私を値踏みするような眼で見てくるおじさんに会うのは、正直疲れる。一人の方が気楽でいい。


 人の賑わいに気が付かれないように、音をたてないように。ゆっくり戸を閉めてすたすたと歩きだす。


 こんなに人の賑わいが重たいものに感じるようになったのは、お母さんを火葬したときからだ。


『セレスティア教徒だというのに、母親を燃やしたりなんかしたのか!』


 誰かの声が未だに耳に残り、離れない。


 この国の国教はセレスティア教だった。セレスティア教に身を置く者は必ず、死の国へ行ったものの亡骸をそのまま海に帰さなければならない。私はお母さんに対し、それをしなかった。空襲にあった町は死体だらけで、海まで死体を運ぶことができたのは、上層階級の人間だけだった。私のように家族を失った町の人たちは集まって、親や兄弟、息子や娘たちの死体を燃やした。燃やすために、お母さんの血まみれの死体を引きずってできた血の道を、私は生涯、忘れることはないだろう。


 だけど空襲にあっていない町や村の人たちからしたら、死体を燃やした私のような罰当たりな人間は、海に帰れなかったお母さん同様、もう死の国にはいけない。配給が私だけ少なくても仕方ない。村の人から冷たい視線を向けられても仕方がない。分かっている。そんな現況を嘆くのも疲れるだけだから、私はもう自分を取り巻くすべてに対して、考えることをやめた。お母さんを海に帰してあげられなかったことは申し訳なく思う。だけど、私も死の国には行けないから、お揃いだ。


 長い坂をのぼって、丘に辿り着く。大きな木の下で休憩する。丘からは前住んでいた街が小さく見える。復興しかけても、度重なる空襲で荒廃し、とうとう街のシンボルである大きな時計塔が崩れた、黒く哀しい街が。


 苦楽ごった煮のこの戦争は、3年前からつづいていた。本で読んだ遠い昔の戦争よりは、短い期間で終わった。まぁ、失ったものを数えるには長いも短いも関係なのだけれど。


 この国は勝った。みんな喜んでいる。お母さんは生きていたら喜ぶだろうか。身体が弱かったのに徴兵されて、戦死したお父さんも。そんなことを思うだけ無駄なのに、そんなことを思ってしまう。


 額にじんわりと滲んだ汗を腕で拭って、私はまた歩き出す。


 少しして、赤茶色のレンガの屋根に、薄茶色の土壁の家が見えてくる。自然と早足になる。小走りでドアまで向かい、私は3回ノックする。


「先生、いますか?」

「いるよ。入っておいで」


 落ち着いたバリトンの声が返事をする。私はドアを開けた。


 まず鼻を掠めたのは、絵具の匂いだった。家の中は画用紙が散乱している。部屋の奥に目をやる。やはり、とでもいうように、今日も先生は絵を描いている。


「先生、戦争が終わりましたよ」


 大きなキャンバスに戦闘機の翼を描いている先生の背に、声を投げかける。先生は金色の肩までの髪を揺らし、こちらへ振り向いた。澄んだスカーレットの瞳が私を捉える。先生は何かをかき消すように、がしがしと右手で後頭部を掻いた。


「知ってる。卵屋のおばさんがわざわざ知らせに来てくれたよ。全く、僕のことを『戦地にもいかず筆を握っている臆病者』なんて言ってたくせにね。あの性悪おばさん」


 先生はあからさまにため息をついた。よっ、と小さく呟き、立ち上がって私のところへとやってくる。彼の纏う白い服に、絵具の飛沫がたくさん飛んでいる。


「アリア、君も知らせに来てくれたの? だとしたら君への評価を改めなければならない」

「そんな無駄なことしません。先生がこの戦いに興味がないこと知ってますから。絵をとりにきました」


 私がきっぱりと言うと、先生は「君のそういうところ好きだよ」と笑った。


 先生は絵を描いて生計を立てているすごい人だ。だけど変わり者で、愉悦と堕落と村への悪態で生きている。


 先生はいいとこの家の妾の子で、その教養の豊富さと絵の才能と、やけに高いプライドで、貴い身分にも平民にも馴染めなかった。村の人たちはみんな、先生のことを金色のカブかかしと呼んでいる。カブかかしというのはこの辺の言葉で、図体は大きいのに脳みそが空っぽという意味だ。本人はそんなことどうでもよく、最低限の生活と画材さえあればいいと、いつしか言っていた。私は先生のそういうところが好きだった。恋愛感情ではない。尊敬とかそういう、憧れに似た気持ちだ。


「全く、戦いに勝った途端にこれだ。普段厄介払いしている僕に対しても、余計なお

せっかいを押し付けようとする。みな、勝利の美酒に酔いたいだけなのさ。自分が銃を握っていたわけでもないのに」

「まぁまぁ。私も少し浮かれていますし、大目に見てあげてください」

「そう? 君も浮かれてるの?」

「だって戦いの絵じゃない、先生が好きに描いた絵を見ることができるかもしれないですから」

「残念。君も若いね」


 先生は顎に手を当てて、何かに納得するようにうんうんと頷く。


「多分、仕事が増えるだけだよ。今度はこの戦争の立役者や武器、戦闘機たちを褒め称えるような絵を描けってね」

「そういうものなんですか?」

「そうだよ。だけど、さっきの君の言葉は僕のやる気を引き出した。仕方ないから、これから増える仕事もやってあげるよ」


 私は村の人たちから依頼されて、この村に来た2年前から、先生の助手をしている。先生は新聞や本の挿絵などを描いて生計を立てている。それを預かり出版社等に届けながら、家事全般を行う。それが私の仕事。一昔前までいう召使のようなものだ。ちなみに私の前に同じ仕事をしていた編集者、召使は六人いた。全員先生の性格に耐えられず、ある日突然来なくなった、と先生が以前口にしていた。私は先生の仕事にも普段の生活にも深入りせず、罵詈雑言、何を言われても何も思うところを持たないところを買われて、運よく仕事を貰えている。


 先生は最近は主に、戦争を称賛する絵を、無理やり描かされている。本人は戦いなど一切興味がなく、戦争が始まった当初は絶対に描くものかと言っていたらしい。が、風景画などを描くことが社会の圧力でよくないものをして扱われるようになり、収入が全くなくなってしまった。おまけに実家からふんだくってきたらしいお金も底をつき、だから仕方なく、1ミリも興味のない権力者やら戦闘機やら戦艦やらの絵を描いて日銭を稼いでいた。


 先生にミルクの入った瓶を渡す。先生は瓶を手に、またキャンバスに向かった。


 いつものように床に散らばった画用紙をかき集める。どれも綿密に描かれた戦闘機やら戦艦やら、勇ましい兵士やらの絵。でもその中に、猫の絵や草花のスケッチが混じっている。先生が自分で「落書き」と呼んでいるものだ。私はその落書きが好きだった。口には出さない。


 画用紙をまとめ終わったころ、先生が口を開いた。


「ねぇアリア、君はこれからどうするんだい?」

「え?」

「僕の仕事の面倒を見るほかに、やりたいことないの?」


 唐突な問いに私は言葉を探す。ざわりと秋の風が、窓の外の木々を大きく揺らした。


 先生は気まぐれで、私について私に尋ねてくることがある。好きな食べ物は、好きな風景は、好きな色は。私はいつも、言葉に困ってしまう。自分でも自分のことがわからない。いつから、こんな私になったのだろう。家族と幸せに暮らしていた頃は、どうだったっけ。


 そんな私を見て、先生は「じゃあ今から見つけに行こう」と作業を中断し、私を外に連れ出したり、食卓に誘ったりする。要するに作業を中断したいときの合図だ。


「やりたい、こと」


 小さく呟いた自分の声が、どこにも行けずに床に落ちる。考えもしなかった。新しい何かを始めようと思わなくなったのはいつからだろう。自分の意志というものが自分自身でも分からなくなってしまったのは、いつから。


 かたん、と軽い音が鳴る。先生が筆を置いた音だとすぐに気がついた。視線を揺らしながら固まる私に向かい、先生は顔を向ける。その顔はどこか真剣で、私は心臓が跳ねた。いつもなら愉快そうな笑みを浮かべて、休憩や現実逃避を提案するというのに。


「僕も落ちたものだね。村の奴ら同様、どうやら戦争が終わったことを、何かの節目と感じているようだ。

「それは、仕方がないことですよ。だって、3年もつづいた戦争ですし」


 私はたどたどしく返す。はは、と先生は軽い笑い声を漏らす。


「この節目に君が何かを望むのか、気になってしまった。もし何かをするなら、手助けしてあげないこともないよ。金もあるし、これから仕事も増えるだろうから」


 節目、望み、手助け。私にはもったいないくらいの言葉が、空間に漂う。何か先生が喜ぶ答えを返さなきゃ。そう思うのに、頭が働かない。愚鈍。のろま。そんな重苦しい空っぽな事実の言葉が、足を引っ張っている。


「……ごめんなさい、わかりません。いつものように、先生と一緒に見つけさせてください」


 つまらない答えをしてしまった。私は申し訳なさを感じながら、視線を床に向ける。秋の柔らかな陽だまりが射しこんでいるというのに、視界は少し、灰色だ。


 先生が少し間を置いて、よいしょと小さな呟きと共に立ち上がる。こちらにずんずん、と、何かを切り裂くような大股歩きで歩いてくる。


 先生と至近距離で目が合う。もしかして、怒らせてしまった。謝罪の言葉を紡ごうと小さく口を開く。


 その瞬間、先生が私の両肩に手を置いた。


「じゃあ、僕の配偶者になるというのは?」


 開いた口が固まる。はいぐうしゃ。その言葉が「配偶者」に変わるまで、少し間があった。


 先生はこんな冗談を言う人じゃない。痛いほど知っている。


「あの、先生、ちゃんと寝ましたか?」


 もしかして疲れているのだろうか、と思わず疑問を投げかけてしまう。


「9時間寝てる。酒も飲んでない。もしかして僕、冗談で求婚するような趣味の悪い男だと思われてる?」


 求婚。その単語に私は瞬きを繰り返した。可愛げのある女なら顔を赤らめて頷くところだろうか。しかし私は可愛げなどとうに捨てた女だった。ただただ、動揺の色しか顔に出せない。


「そんなことは。だって先生は、才のある方で、博識で……」

「僕のこと嫌いなのか?」


 肩を握る手の力が弱まる。先生は至極真面目な、だけど少しだけ眉の端を下げた顔で、私を見下ろす。子供のような表情に、私はどうしてか心臓の端が痛くなった。


「滅相もないです。心の底から尊敬してます。ただ、私なんか、貴方様にはもったいないと、思いまして」


 その言葉の後が出てこない。先生を尊敬している。尊敬しているからこそ、自分なんかにはもったいない。それは事実だ。


 私は先生が好きなのか、好きじゃないのか、配偶者になりたいのか、なりたくないのか。そんなことさえ分からない自分がなんだか虚しくて、情けなくて。好きな食べ物や色や風景は、先生が教えてくれた。私は、私は。


 子供の様に唇を噛み、その場に立ちつくした。


 そんな私の頭に、ぽん、と手が優しく置かれる。先生の大きな手。


「そっか。もったいないとか、そんなことはないのだけれど、君が思うなら否定はしない」


 先生は怒っていなかった。悲しんでいるようにも見えなかったし、不機嫌になっているわけでもない。その様子にどこか安堵しながら、私は小さく息を吸う。


「あの、私、分からないんです。自分が、どうしたいのか」


 ぽつりと零すような声で、私は言葉を紡ぐ。先生はゆっくりと頷いた。


「ならいつも通り、これから見つけていけばいいさ。返事は気が向いたらでいい。一生保留にしてくれてもいい。その代わり、僕のお手伝いはやめないでくれ。君がいないと仕事にならない」


 先生はふわりと擬音が似合うような、柔らかい笑みを見せる。初めて見る顔だった。


 それが余計に、私に得体の知れない感情を与えた。



 夕陽もとうに沈みつくし、星と月が夜を照らしている。今もなお、窓の外から聞こえる賑わいの声は止まない。私は誘われてないから知らなかったが、村では大規模な宴会が行われているらしい。


 私はベッドの上、ランプの横で、かさりと音を立てて古本のページをめくった。この古本は先生が挿絵を描いた初めての作品で、私はよくこの本を手に取る。気づいた

ら取っている、とでも言うべきくらいに、頻繁に。


『___少女は清らかな笑顔で、少年のもとへと駆け寄る。そしてそのまま思いきり抱きつき、幸福を煮詰めた顔で声を上げて笑った。秋の昼のことだった。』


 本の一文を読んで、自然と昼間の先生の言葉を思い出してしまう。私もこの本の少女の様に、清らかな笑顔で、幸福を煮詰めた顔で笑うべきだったのだろうか。


 考えごとなど久しぶりにしたから、頭が重くなっている。私はぐるぐると首を大きく回す。


 ____じゃあ、僕の配偶者になるというのは?


 思い出した言葉に、首の動きが止まる。私は本を優しく閉じ、靴を履き立ち上がってテーブルのもとへと向かった。


 先生はどんな気持ちであの言葉を口にしたのだろう。いつから、私なんかのことが好きだったのだろう。


 言われて嫌だったか、と問われれば、嫌ではなかったと返すだろう。先生はすごい人だ。強くて、正直で、真っ直ぐな人。初めて会ったころはよく怒られてたけれど、あれは私が仕事に不慣れだったからで、距離感を保って淡々と仕事に打ち込むにつれ、先生は私への態度を柔らかいものにしてくれていた。


 ____返事は気が向いたらでいい。一生保留にしてくれてもいい。


 先生のその言葉にどこか救われていることに、気づいている。


 テーブルに優しく、古本を置く。そのまま人差し指で、本の表紙を撫でた。ざらついた感触が妙に心地よかった。


 先生から貰った言葉をぐるぐると、脳を回して分かった。自分は空っぽだ。だから、ちゃんと先生の言葉を聞こう。明日、先生と話そう。どうして私を配偶者にしたいのか、私のどんなところを好いてくれているのか。きちんと話して、先生と向き合おう。先生のまっすぐな目に応えたいと思った。同時に、もしかして自分は、先生のことを好きなのではないか、とも。


 そう心で決めた刹那だった。ドンドン! とけたたましく、ドアが鳴る。びくりと肩が跳ねた。同時に、先生の言葉を噛みしめていた穏やかな心に、影が差す。


「おい! いるんだろ!」


 威圧感のある大きな声に、心の中で毒を吐く。もう、静かにしててよ。そんなことを思いつつ、ドアを開ける。


 当然とでもいうように、おじさんが私がドアを開けるのを待っていた。おじさんの顔は赤い。つん、と酒の匂いが鼻を刺す。思わず手で鼻を覆いたくなるほどの、酒臭さ。だけど眉一つ動かすとおじさんの機嫌を損ねることを知っているから、私は感情を押し殺して息を吸う。


「こんばんは」

「はぁ!? なんだその顔は! それより戦争が終わってめでたいときに、顔を出さないとはどういうことだ!」

「お水を持ってきますので、どうぞお座りください」

「自分の家みたいに言うんじゃねえ! 誰が建てた家だと思ってんだ、まったく……」


 ぶつぶつと何か言いながら、大股歩きでおじさんが家の中に入ってくる。おじさんの言葉全てを聞き取ろうとは思わない。おじさんは、がたん! と大きな音を立てて椅子に腰かけた。


 私は外に出て、井戸へと向かう。秋の夜風が肌を撫でて、少し寒い。


 たまに訪れる苦しい時間が、今日も始まってしまった。ため息を押し殺す。おじさんはたまに酒を飲んで、私の家に「お話」をしにくる。簡潔に言うと説教だ。煙草を吸いながら、誰のおかげで生きていけるのかを説くために、私の睡眠時間や自由時間を奪いに来る。


 どうしてか、今日は来てほしくないと思う自分がいた。先生からの言葉が、おじさんの怒鳴り声で上書きされることが嫌だったのかもしれない。


「____たく、____は、___で」


 あぁうるさいうるさい。窓の中から聞こえる、鳴き声とでも言うべき声に、思わず眉間に皴が寄る。普段なら取るに足らない怒鳴り声など、あぁそうですかと聞き流せるはずなのに。もしかして私は浮かれていたのだろうか。戦争が終わったことに、先生からの求婚に。


 水を汲み終えて、私は自分の両頬を両手で叩いた。切り替えよう。どうせ少しの我慢だ。呪文のように言い聞かせる。


 スタスタと早歩きで家の中へと歩き出す。窓から煙草の匂いが漏れ出していた。同時に何かが焦げるような臭いも。


 今日は火を使う料理はしていないのに、どうして焦げ臭いのだろう。もしかして火をかけっぱなしだったのか。疑問に思い、ドアを急いで開ける。


 臭いの元は、おじさんの手元の煙草からだった。正確にいうと、煙草と、私の大事な本から。


 おじさんが火のついた煙草を、本の表紙にじりじりと押し付けている。心臓が鈍い音を立てた。


「本が」


 思わず小声で呟く。私は慌ててテーブルに駆け寄り、本を奪うようにおじさんから離した。


「何すんだよ! 人が気持ちよく煙草吸ってる時に」

「これは灰皿ではありません。本です。燃えてしまいます」


 見えない何かを抑え込んで、言葉を放つ。自分がどんな表情をしているか分からないが、いつもより顔が重い。


 そんな私をよそに、おじさんは鼻で笑った。


「いいんだよぉ、本の表紙は燃えねえんだから」

「そんな」


 そんな馬鹿な話あるわけないでしょう、子供じゃないんですから、人が大事にして

る本によくも。様々な言いたいことを押し殺す。急いで本をパラパラと速くめくる。焦げたのは皮の表紙だけで、本の中や先生の挿絵のページは無事だった。


 今回ばかりは。私の中に小さな炎が宿る。


「おじさん、私に『お話』するのは構いませんが、物に当たるのはやめてください」

「はぁ!? お前も俺に指図するのか!」


 私は視線を逸らさない。なぜか、今ならこの男に一言物申すことができると思った。それほどまでに、私は知らない間にこの本を大切に思って、それほどまでに、この男への不満を蓄積していたのだろう。


 おじさんが立ち上がる。そのまま私の胸ぐらを掴み、締め上げるように力を込めた。


「うっ」


 思わず目を瞑る。苦しい。


「出来損ないの弱っちいアイツの娘の癖によぉ!」


 おじさんが言うアイツとやらが、おじさんの実の弟で私のお父さんだということはなんとなくわかった。でもお父さんは身体が弱いだけで、おじさんの何倍も優しくて、博識で、面白くて、強い人だった。


 言い返してやりたい。でも、首元が苦しくて声が出ない。


 何も言えない私に飽きたのか、おじさんは叩きつけるように手を離した。床に倒れた身体をゆっくりと起こす。


「ゲホッ、ゲホ!」


 私は首に手を添えて、咳をして息を整える。


「ったく、もう少し髪が長けりゃ抱いてやってもよかったんだがなぁ」


 おじさんは私を見下ろす。私は声が出ない分、感情を込めて睨み返した。おじさんはゆらゆらと定まらない黒目を私に向けて、酒臭い吐息で笑った。


「お前の母親も、空襲なんかで無様に死ぬ前に抱いてやりゃあよかったぜ」


 吐き捨てるような声だった。


 空襲なんか、無様、お母さんが?


 おじさんは未だ不満げだが、少し満足したようで、ふらふらとドアに向かって歩き出す。


『アリア、空襲が止んだら、いつもの広場の木の下で集合ね』


 お母さんとの最後の会話が脳裏をよぎる。降り注ぐ燃える筒、焦げていく街のにおい、河に入り、死体を踏んで逃げたときの足裏の感触。


 そして、お母さんの亡骸を引きずってできた、血の道。


 眩暈がするほど頭の中で蘇る光景に、私は短く息を吸った。今、この瞬間、自分が何をしたいか。何をすべきなのか。今、気づく。


 この世で最大の侮辱を受けて、のうのうと生きていけるほど、私はできた人間じゃなかった。


 ドアを開けて出て行こうとする背中に向かい走り出す。思い切り地面を踏んで、私はその背中を蹴り飛ばした。


 おじさん、いや、男が無様に地に倒れる。倒れたまま、こちらに振り向いた。


「てめぇふざけて……」

「うるさい! ふざけてるのはお前だ!」


 男の言葉を遮り、思い切り言葉を放つ。自分でも記憶にないくらい久しぶりに、私は大きな声を出した。男は怯んだのか、声を途切れさせた。


 肩で息をする。身体中の血が熱く巡る。こんな蹴りごときじゃ足りない。許せない、許してたまるか。よくも、よくも私の家族を。


 男はゆらりと上半身を起こす。その様子を、私は鋭い剣で刺すように睨みつけた。


「な、なんだよ、せっかく戦争が終わってめでたいときに!」


 お気楽でめでたい頭だとありあり分かる言葉が、心臓の引き金を引いた。


「黙れ、黙れ!」


 身体の奥から炎が迫り上がる。私は感情のまま、男の体に馬乗りになり、胸ぐらを掴んだ。


「戦争がなんだ、勝利がなんだ! お前ごときが! 軽々しくお父さんとお母さんのことを口にするな!」


 激流のような言葉と、炎のような感情が溢れてやまない。男はぐぇ、と潰れたみたいに呻き声を出す。その声を聞いて、私は手を離した。このまま首を絞めてやりたいとさえ思った。お父さんとお母さんの代わりに私が手を下して、こいつを今後一生黙らせなくては、とも。だけど、僅かに働いた理性が手を離させた。その理性はお父さんとお母さんの優しい笑顔の姿をしていた。


 私は肩で息をしながらゆらりと立ち上がり、何も持たずに走り出した。


 秋の夜だというのに身体が熱くて、頭がのぼせている。それでも足は止まらない。風を切る。地面を蹴りつづける。


「はぁ、はぁ……!」


 大きな歩幅で坂道を登る。


 ぐり、と足が変な捻り方をした刹那、私は前に転びかけ、急いで足を踏み出し、なんとか体勢を立て直す。それでも足は、止まらない。


 坂を登りきり、丘から遠くの街を見下ろす。明かりひとつない暗闇だけが広がっている。息を切らし立ち尽くす。


 お父さん、お母さん。私、もうどうしようもないくらい、怒ってるの。空っぽなの。独りぼっちになったあの日から、ずっと、ずっと。


 閉じ込められた熱が心臓を動かしている。暗闇から送られてくる肌寒い風に背を押され、私はまた走り出した。


 夜の闇の中で、赤茶色のレンガの屋根に、薄茶色の土壁の家が見えてくる。明かりのついた小さな家。先生が、いる。そう思った途端、心の奥から得体の知れない、生温い感情が込み上がってくる。いつもと変わらず家はそのまま存在しているだけなのに、私にはどうしようもなく渇望した光景だった。


 足をさらに早める。自分でも分からないくらい、足の疲れが消えていく。 


 ドアを目の前にして、私はゆらり、ゆらりと足をゆっくり運んだ。こん、こん、と冷たいドアをノックする。木のドアの冷たさに、ふと、頭が冷めていく。


 先生、ごめんなさい。こんな時間にごめんなさい。あなたがおそらく、勇気を出して求婚してくださった夜に、ごめんなさい。


 でもどうか、声を聞かせて。


「先生、先生」


 冷えた喉で紡いだ掠れ声で、彼を呼ぶ。鼓動がうるさい。どくり、どくりと音を鳴らす心臓を携えて、声を待つ。


「アリア?」


 小さな声がドア越しに聞こえる。がちゃり、と鍵を開ける音がする。


「夜にくるなんて初めてじゃないか。どうした? ちなみに絵の描きなおしはしないよ。僕、いま夕飯食べてるか____」


 先生と目が合う。先生の口が止まる。


 私は両目から一筋ずつ、涙を流していた。音もなく、鼻をすすることもなく。言葉通り、流れるような涙だった。


「先生、私、わたし……」


 声が震えてやまない。涙など、お母さんが死んだとき以来だった。私は真っ直ぐに

涙を拭うことなく、息を吸う。


「せ、先生、わたし、やっぱりあなたにふさわしい人じゃない」


 自分で言って、自分で心が痛くなる。鼻水が出そうになって、俯いて腕で鼻を拭った。先生が何か言いそうに、口を小さく開く。だけどその言葉を聞くのがどうしてか恐ろしく思えて、私は一歩踏み出し、胸の真ん中に手を置いた。


「おじさんに侮辱されて、思わず首を絞めて殺そうとして、き、気づいたんです。私の、空っぽの身体を突き動かすのは、怒りです。煮えたぎる怒りが、私を動かしている。こっ、こんな負の感情しかない女、嫌いですよね。あなたの傍にいたいと思うのに、あなたの傍にいる資格が、私には、ない」


 ぎゅっと服の胸元を握りしめる。悔しくて、怒りが未だ収まらなくて、自分の身を刺している。


 今なら分かる。私という生き物は、家族をみな失った日、死んだのだ。何も自分で考えられない屍になってしまった。何もできないくせに、恨みばかりを抱く何者かになってしまった。


 先生との時間で少しずつ、思い出していった。好きな色、好きな風景、温かな食卓、綺麗な絵たち。そのきらめいた幸福の時間を無意識のうちに追い求めて、だからいま私は、先生の元へとやってきたのだろう。


 胸元を握りしめたまま、下を向く。涙を拭う余裕もなく、私は子供のように目から雫を垂らし続けた。


「アリア」


 俯く頭に、優しい感触が降ってくる。先生の手だとすぐに気がついた。


 おずおずと顔を上げる。先生は痛いほど真っ直ぐな顔つきで、私の頭を撫でた。


「ありがとう」


 その言葉に僅かに目を見開く。温かな声は確かに、私の鼓膜を心地よく震わせた。


 先生は優しい手つきで、私の頬に手を伸ばし、指で涙をすくった。


「わざわざ言いに来てくれて、ありがとう。ゆっくりでいい、ゆっくり、話をしよう。どんなことでも全部聞く。他でもない君の話なら」

「ほんと、ですか?」


 先生は頷く。


「僕を誰だと思ってるの? 泣いている君に嘘をつくほど、僕は愚かじゃない」


 月明かりの下、先生はいつもの口調で言った。先生はどうしてこうも、広い海のような人なのだろう。最初の印象はいいとは言えなかった。しかし、傍にいたかけがえのない時間が、私たちを繋いでくれた、知らないうちに私の心を助けてくれていた。


 聞いてくれる。全部。その言葉がどうにも嬉しくて、仕方がなくて、私の中で何かが切れる。身体中にほとばしっていた熱が、穏やかに涙と共に流れて薄れていく。


「嫌い、きらい」


 子供みたいな小さな己の呟きに、身体の力が抜けていく。


 私はその場にへたり込んだ。地面に両手をつき、ぐっと指に力を込めた。


「み、みんな嫌い! 許さない!」


 爪に砂が入る感触がする。冷たい砂をぎゅっと握り、そのまま勢いよく振り払った。夜の闇に土煙が溶けていく。


 心に漂っていた暗いものが、言葉になって放たれる。


「村の人たちも、お父さんを殺した敵国の兵士も、お母さんを燃やした戦闘機も、気持ち悪い眼で見てくるおじさんも、戦争なんか始めたこの国も! みんな、みんな、大嫌い」


 私を形づくる激しい感情。私はずっと嫌いだった、大嫌いだった。


 先生の顔を見上げる。先生は変わらず、至極真面目な顔で私を見てくれている。その綺麗な表情に、何故か涙がまた溢れた。


「先生、私は生きる怨念です。先生のような素敵な人に会わせる顔がない。なのに、こんなときでも、あなたを頼ってしまう、縋ってしまう」


 鼻をすすりながら言葉を紡ぐ。風が強く吹き始める。離れたところにある木の葉たちが揺れる音がする。


 私の鼻をすする音と風の音だけが鳴る世界で、ざ、と擦れる音がした。先生が地に膝をついた音だった。


 ふわり、と優しい風が頬を撫でる。先生はゆっくりと、私を抱きしめた。


 私の耳元で、先生は短く息を吸う。


「許さなくていい。君の恨みも悲しみも全部、僕にぶつけていい。君が望むなら村に火を放って、住んでいる者の家を一軒一軒巡りながら窓を割って、奴らの血が広がる中で踊ろう」


 先生の言葉に、また瞳から涙が溢れ出す。また一つ鼻をすする。顔を歪ませて、先生の肩に滴をこぼす。


 許さなくていい。私は、この恨みを抱いたまま、もう一度歩き出していいのだろうか。


 先生がゆっくりと身体を離す。私に視線を合わせる。


「君は美しい怨念だ。そんな君だから、僕は君を愛した」

「せ、先生……」


 震えた声を零す私の頬に手を当て、先生は微笑んだ。


「一緒に怪物になろう。一緒に堕ちるとこまで堕ちていこう」


 プロポーズというにはどこか禍々しい単語しかない。だけど怨念たる私には、優し

くて、綺麗で、救いだった。


 彼となら、どこまでも行ける。愛も恋も分からなかった私は、涙を流しながら頷いた。



 同じベッドに入り、同じ毛布をかぶっている。人の温もりを感じながら眠るのはいつ以来だろうか。


 家に帰るとまだおじさんがいるかもしれない。そう先生に相談すると、じゃあ今日は泊まっていきな、と提案してもらった。結婚を約束した男女なら、今から性的な接触があってもおかしくはない。だけれど先生は「さっきまで泣いていた妻を抱く勇気はない」と堂々と言った。勇気がないなんて言いながらも、その言葉の裏に隠された私への優しさを、宝物のように抱きしめる。


「ねぇアリア、明日は何がしたい?」


 枕を私に譲り、丸めたタオルを枕代わりにした先生は、どこか愉快そうな顔で私に尋ねる。


「明日、ですか」

「そう。昼間聞いた、これからしたいことは少しずつ考えて、まずは明日何をしたいか考えよう。何か食べたいとか、何か見たいとか」


 少しずつ、少しずつ。先生のその優しさが、嬉しく感じた。


 何も浮かばなかった昼間とは違い、今は晴れやかで、清廉な光が胸に宿っている。光の中で私は、お母さんの顔を思い出した。


 私はゆっくりと微笑み、口を小さく開いた。


「海を、見に行きたいです」



 数百年前に起きた戦争をテーマにした展覧会は、今日もチケットが完売した。


 厳かな国立美術館の展示室。たくさんの人が並ぶ中、ひとつの大きな絵画が人々の視線を集めている。成人男性が3人両腕を広げたくらいの大きさの絵画。美術の教科書にも載るくらい有名なとある作家の代表作の解説には、こんなことが書かれている。


『タイトル:血の道は海へ 

 妻の実体験を絵にした、作者の代表作。海へと続く赤い道が印象的な風景画。母親の死体を引きずったときにできた血の跡を、石を混ぜた絵具で生々しく表現している。今も風化を見せず、当時の画材では再現不可能なほど、あまりにリアルなその血の色に、本物の血を使用しているのではないかという考察さえ存在している』


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