青い鳥と無色のキャンバス

織園ケント

青い鳥と無色のキャンバス

「なんか最近冷たいよね。」

 リスのように頬を膨らませた女の呟きが、凪のような夜にひっそりと落ちた。現代社会を象徴する残業の鋭光と、古来より人の心を魅了してきた満月の妖光が、現実と夢との皮肉的なコントラストを描き出し、暗い夜に限定的で紛い物の輝きを映し出す。はだけた服を不格好に被ったまま、女の視線は目の前の男へと真っ直ぐに向けられる。カーテンの隙間から室内に入り込む紛い物の輝きと、枕元で灯る橙色の温かい光だけを頼りとするが、十分な光量を有さないそれらでは、男の表情を正確に計り知ることはできない。

「そうか?」

 煙草に火を付けながら男が呟く。彫刻品と見紛う程に整った顔立ちは、男が生まれながらに備えた装飾品であり、天が男に与えた最高級の武器に他ならない。趣味趣向を問わず、広く好まれるであろう魅力を備えた佇まいは、満月の如く人々の視線を集め、心を掌握し、夢へと誘う危険性を孕んでいる。女もまた、男に魅了された人間の1人であり、男を魅了した人間の1人である。男の感情と欲望を独り占めした数少ない者の1人であるが、先ほどまで男が女に向けていた情熱的な感情は今は影を潜めた。亡霊のごとく生気を失った男は視線を虚空へと漂わせるだけだ。

「もしかして、私に冷めた?」

 胸に枕を抱きしめながら女が呟く。強く握りしめた拳には、不安と緊張がこぼれ落ちそうな程抱え込まれ、枕カバーは皺だらけになっている。手足は冷えて、肩が揺れて、崩壊しそうな表情を、外れてしまいそうな仮面を、留まらせることに必死だった。

「冷めるも何も」

 それに続く言葉は口にする必要がないほど、両者の間では暗黙の了解。男と女が、男と女であることの、そうあるための取り決めだった。互いが互いの、犯されざる聖域を守るために。公衆の面前で口にすることなど到底できないような、うちに秘めた猛々しい欲望を満たすために。それは単なる口約束ではない、ある種の運命共同体として互いを欲し、互いを縛る。契約や誓約と呼ぶべき高貴なる代物。だったはずなのだ。

「なんかごめん」

 女の口から謝罪がこぼれる。悪行を為したわけではない。男を傷つけたわけでもない。ただ、どうやら女は踏み込んでしまったらしい。この崇高なる契約を根本から覆してしまう領域に。破滅的な凶器をその胸に内包し、両者の関係を一刀のうちに切り裂くような、忌むべき感情の領域に、踏み込んでしまったらしいのだ。ややこしいことに、女にもそれが確定事項であるという自信は無い。だからこそ「らしい」なのだ。

「なんで謝ってんだよ」

 男は笑った。それは腹を抱える類の笑みではなく、それでいて慈しみの籠った微笑みとも違う。言い表すなら嘲笑に近い、蔑み見下し憐れむような笑いだった。

「うんうん、なんでもないの」

 なんでもない。誰に向けたのかさえ自分でもわからないその言葉を、女はもう一度心の中で反芻する。

「寝る」

 煙草を投げ捨てた男が勢いよく仰向けに寝転がる。女が「おやすみ」と声をかけた数秒後には、男は夢の世界の住人となっていた。暗い夜に再び、静寂が落ちる。憎たらしいほど整った男の横顔を、女はただ見つめることしかできなかった。依然として枕カバーを握り続ける手の力が、ほんの少しだけ強くなったことに、女自身も気づけなかった。


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 女はトキメキに飢えていた。

 女が生まれたのは所謂「普通」の家庭だった。両親は共働きでそれなりの収入があり、裕福ではないが生活に困ることもなかった。学校生活で必要な物は頼めば買ってもらえたし、欲しいと思ったものは、毎月貰えるお小遣いの範囲でやり繰りする事を教えられた。両親は教育熱心で、勉強していてわからないところも質問すれば教えてくれた。テストで100点を取ればみんなが褒めてくれた。

 小中高は地元の公立校に通った。何も無い街だ。駅の周りに多少の飲食店、郊外にスーパーや家電量販店、娯楽と言えばいくつかのカラオケボックスがある程度のもので、他は田園風景が広がっているだけの街だ。長閑と言えば聞こえが良いが、若い女にとって心弾むトキメキとは無縁の街だった。

「卒業後の進路について、考えている事はあるかい?」

「東京の大学に行きたいです!」

 高校の担任に聞かれた時、迷い無く出た答えだった。

 たまの休日に、両親に連れられて訪れた東京の街は、全てが光輝いて見えた。見上げれば首が痛くなる程の高層ビルがいくつも立ち並んでいる。味気ない出立ちの田舎の商店とは違い、デパートに数多く立ち並ぶお店、名前だけは知っているようなそれらは、どれも色鮮やかな装飾が施されており、選び尽くせないほど魅力的な品々に、つい手が伸びそうになってしまった。

 都会を歩く人々もまた、女の羨望の的だった。

 短く切り揃えた黒髪を、光沢のある整髪剤でピッタリと7:3に止め、シワの無いスーツに身を包んで、やけに姿勢良く歩く大人の男性は、誇りと責任を胸に仕事に心血を注ぐ戦士のようだった。

 艶やかな茶髪にカールがかかり、胸元を大胆に開けて、身体の曲線をなぞるようなドレスに身を包んだ女性は、凡人がうちに秘めてひけらかそうとしない自信と余裕を惜しみなく外界へと放出し、その魅力に釘付けになる下衆を嘲る女帝のようだった。

 似たようなマッシュヘアーに、似たようなモノトーンの洋服で、似たような香水の匂いを漂わせる大学生と思しき若者集団。外見による先入観を完全に廃した彼らは、その見た目のみならず、人としての内面にすら無色透明さを感じさせる。何物にも染まらないその自然さが、この主張と魅力だらけの東京に抗うレジスタンスのようだった。

 幸せを運ぶ青い鳥。自分にもきっといつか、そんな巡り合わせがやってくる。この街に住めば、東京に来れば、自分もきっと輝ける。それは女にとってこの上なく、心が躍り、胸が高鳴り、トキメキに溢れた想像だった。

 そんな女の想像は、第一志望の有名私立大に合格したその日、ひたむきな努力と涙の止まらない夜が報われた日、現実のものとして確約されたはずだった。

「はじめまして。」

 居酒屋で初めて会った男は、まるで王子様のようだった。子供っぽく無邪気な笑顔と、大人っぽい余裕を共存させ、微かに漂う甘い香水の匂いが、女の理性を粉々に砕いていった。夢にまで見た東京生活で、白馬に乗ったかのごとく颯爽と現れた男に、女の心は夢とトキメキに溢れた。これこそまさに、女が求めた東京生活だったのだと、その日その時は確信していた。


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 男はくだらない毎日に辟易していた。

 凡人はどうして、少し考えればわかるような事に、いとも容易く躓いてしまうのだろうか。何度も繰り返した作業に、何度も経たはずの思考に、脳の容量を費やすことを放棄して、初心者のようなミスを重ねてしまうのだろう。難しいことではないはずなのだ。ルーティーンワークのような日常の些事や、誰でもわかるような簡単な思考すら満足にできない。それは怠惰という名の大罪であり、愚人が愚人たる最大の理由でもあるのだと思う。頭の回らない愚人と職務にあたること、考える癖すら有さないバカと話をすること、それは男にとって、耐えがたいほどの苦痛であり、日々抱え続けるストレスの大元凶だった。

「愚かだ。実に愚かだ。」

 男は生まれながらにして小器用な人間だった。学校で課される宿題を、やってこない子達が不思議だった。あんなもの、たかだか5分もあれば終わってしまう。運動の出来ない子が不思議だった。自分の体なのに、なぜ満足に動かせないのだろう。周囲に嫌われる人間が不思議だった。何が相手を怒らせるのか、何が相手を喜ばせるのか、それらを理解できない人間が不思議だった。そんな単純なことすら満足に出来ない周囲の人間を、いつしか男は見下すようになっていった。

 大人達は皆、口を揃えて夢を持てと言った。何様のつもりだろうと思った。夢を持てば人生が豊かになるとか、持ち続ければいつか叶うだとか。そんな夢物語を語るのは、ほとんどが夢を叶えられなかった凡人か、大した夢すら抱けなかった可哀想な人間のどちらかだ。そんな奴らは大抵、夢という名の幻想に酔っている。自分はこの程度ではないと、いつか大きく変わる日が来ると。何も為せない凡人でありながら、何か為せるはずだと自らを騙すために、1種の自己防衛のために、夢という高貴な思考を使うのだ。

「本当に愚かだ。バカげている。」

 夢を叶えられる人間とは、夢を現実とする事に、正面から向き合える強い人間だけだ。夢という輝かしい頂に至るまで、薄泥まみれの汚い階段を、身体を引きずって歩かなければならない。その覚悟と意志と行動力がある人間だけが夢を現実と出来る。そんな単純な思考にすら至れないから、貴様らの夢はいつまで経っても夢なのだ。

 憧れと夢の集合地点とされるこの東京に生まれたからこそ、夢の達成が、数え切れないほど多くの、夢の残骸の上に成り立っていることを知っている。夢など抱かない方が、何不自由なく、安定して、生涯を歩けるのだ。

 無気力な男には色がなかった。夢を抱くことなどなく、自分を当てはめられたパズルとし、その歯車としての機動に尽力する。無気力で無意思の男の心は、消し放題のキャンバスのようだった。

「はじめまして!」

 何度目かわからない合コンの場に、遊び相手欲しさに参加した時のことだ。その女は、ひどく目を輝かせていた。生まれた時から温室育ちの、この世の苦しさなど何も知らないような、そんな純粋な目をしていた。あぁ、憐れだ。ここにもまた、幻想に溺れて絶望する愚物がいる。聞けば地方出身らしかった。この東京が、そんなご立派なものでないと知っているからこそ、余計に憐れで仕方なかった。

「はじめまして」

 作りすぎて、作りすぎて、作り物か本物かもわからなくなった笑顔で挨拶を交わした。


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 本物だったのか、まやかしだったのか。一度は形作られて、大きく積み重なった『何か』が、今確かに音を立てて崩れ落ちて行く。もはや真偽などどうでも良い。崩壊するとわかっていながら、止める手立てを知らない者と、止めようという気概もない者。時の流れるままに、崩れ落ちて行く。凡俗はこれを、『すれ違い』なんて名付けているのだろう。

「バイバイ。」

 玄関扉に手を掛けて、半身で向き直った女は呟いた。本来端麗であるはずの顔はひどく浮腫んでいて、丸く大きな瞳は赤く充血している。まっすぐに男を見据えた女の眼光は鋭かった。ビルが建ち並ぶ都会の朝に、小鳥の囀りがこだまする。まだぼんやりとした視界に女を映して、うまく働かない脳を使って、男は言葉を紡いだ。

「世話になったな。」

 先ほどの女の言葉。それが今、この瞬間の別れに対する言葉ではないことが、寝起きで思考の弱い男にも理解できた。女が再びこの場所を訪れる事はないだろう。最低限の義理と、人生の余興としてちょうどよかった関係への感謝と、愚かな人間への拭いきれない侮蔑を込めた言葉。それが、幾度も夜を共にした男から女へ、その関係の断絶を意味する、言わば契約破棄の申し送りだった。

「思ってないでしょ。」

 女の乾いた声が静かに、でも確かに、男の鼓膜を震わせた。男のほんの些細な情ですら、女は受け取ることを拒む。それが意志を固めた女による最大限の拒絶だ。燃え上がった熱が、非情なまでに冷めていく感覚は、関係性の終わりを察するに充分すぎた。

「・・・早く行けよ。」

 互いに見つめ合ったまま、否、睨み付け合ったまま数瞬。現実の尺度で言えば数瞬の時間に、数え切れない程の、共に過ごした瞬間が男と女の脳内を巡った。終わった関係の終わった時間だ。そこに脳のメモリを裂くことすら無意味であると互いにわかっている。

「あんたのこと、好きだったけどね。」

 それが最後の言葉だった。言い切った瞬間、女は扉に手を掛けて、人々が忙しなく歩く都会の朝へと消えていった。女が出て行ったあと、男は扉の前で1人立ち尽くしていた。感情もなく、行動もなく、蝉の抜け殻のように、立ち尽くしていた。

 もうすぐ、夏が来るらしい。

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青い鳥と無色のキャンバス 織園ケント @kento_orizono

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