ヨルボーと僕と

伊統葵

ヨルボーと僕と

 ヨルボーは八百屋にしては破天荒だった。突然野菜の値段を大幅にあげたり、全然接客をしなかったりした。そんな態度に文句を言う客には暴言を吐いて、終いには「二度と来るな」と言った。そんな人間だから周辺の住民からは危険人物だと認定されていて、その知るところは僕の両親も例外ではなかった。いつの間にかついていたあだ名が寄るべからずの独りぼっち、略してヨルボーだった。


 僕が初めてヨルボーと出会ったのは小学校三年生の時だった。当時の記憶は断片的だったが、後にヨルボーがよくそのことを話題に出すようになったので、記録としては覚えている。


「ヨルボー」


 好奇心旺盛だった幼い僕は以前から聞いていた名の主が気になって、放課後八百屋に立ち寄った。呼びかけても反応がなかったので、僕は入った。先のカウンターには仏頂面をした老人がこちらをじっと見つめて座っていたのが見て取れた。


「帰れ」


 それがヨルボーだと気づいた時には、彼自身は私を邪魔ものだと認識したようだった。その後間近でよく聞くようになる抑揚のない、ヨルボーにとって人を追い払う為だけの声が、発せられた。僕はしかしあまりその意図は分からなかった。


「なんで。ここはお店でしょ?」


 ヨルボーは押し黙った。僕はそれをいいことに店を散策していった。


 そこには色とりどりの野菜がざっぱに置かれていた。掛け軸や写真立て、カレンダーなどはまだましで、冷蔵庫や洗濯機などの普通は居住場所に置くものがあった。店に関係ないものでそんな扱いなのだから、本来整理されていなければならない売り場は悲惨で、値札が隙間に埋もれている様子が散見された。


 ヨルボーの八百屋は今でも古びた雑貨屋という観念が少しだが、確かに占めている。当時の僕にとっては見たことがない景色だったのだろう。好奇心のままに中を進んでいったはずだ。


 奥の隅にあった小さな入り口。掛けてあるカーテンの向こうへ行くと、様子が一変した。頑丈そうな道具らしきものが一面にきっちりと並べてあった。「おい。僕ちゃん。あまり行き過ぎるな」という注意の声も聞かず、僕はその頃には夢中になっていたという。壁に帽子や長い棒などが掛けてある壁の隅で、あるものを見つけた。


「かっこいい」


 丈夫そうな靴だった。その靴は後に登山用だと知ることになるが、当時の僕にとっては単なるかっこいい靴だった。


「僕ちゃん。かっこいいだろ」


 それまで何も言わずただこちらを見つめていたヨルボーは、しゃがんでいた僕の姿を見下ろしてきた。「触ってもいい」と呼びかけると、首を振って「またうちに来い。その時存分に触らせてやる」と僕の背中を軽く叩いた。


 僕は放課後両親がいない木曜日に決まって、ヨルボーと話した。ヨルボーはその時間は大体カーテンが掛かった奥にいた。一応カウンターにいる時も見たことはあるが、暇そうに頬に手をついて座っていた。奥ではいつも登山用品の整備をしていた。野菜を売っている時は客に対してでさえ、峻別の態度をとるのに、手入れをしている時は真剣で、当時の僕でさえ、一歩下がって見ていた。


「終わったら、また言って」


 暫くすると、見飽きて僕はカウンターの席に座った。代わりに店番をやった。客が来たためしはないが、オーナーになった気分になって店内を眺めるのは、それだけで意外と楽しかった。


「山の話を聞かせてよ」


 ヨルボーが奥から出てくると、僕は直ぐに話しかけた。声を掛けられた登山家は「仕方ねえべ」と満更でもなさそうに、手招きをした。奥の部屋には小さなちゃぶ台があって、ヨルボーと僕はそこで座った。ヨルボーは隅に積んである新聞紙やら、雑誌やらの上から分厚いファイルを取り出して、押っ広げた。


「どの山がいい」


 僕は頂上からの景色であろう写真を指差した。僕が好きになった山だった。「男体山だな」と言って、ヨルボーは語り始めた。静かに始まった淡々とした声はやがて、無表情を一転させて、訛りを激しくした。山を語る姿はどれも好きだったが、男体山は特に好きだった。身振り手振りを交え、登山で遭った困難や山から見下ろした景色の素晴らしさを語る老人の目は少年のように輝いていた。


「男体山はなあ、俺が初めて登った山でよお。その時は俺も馬鹿で、単身なのに何の準備もしてなかったんだねー。そしたら、途中おっけてよお。すると、周りの人たちがよお、助けてくれて、荷物ひちょくってもらっだんだ。それに山頂までもやいに来てくれて、ほんとにありがてえ。その時に見た景色が人生で一番良がったねー。俺が男体山を好きになったのは周りの人が優しいかったつーこともあんだべ」


 いつの日か語られたヨルボーの言葉を容易に思い出すことができる。僕もいつしか夢中になっていて、槍ヶ岳や富士山などの有名な山の話よりも男体山の話が好きになっていた。


 物語が終焉を迎えそうになると、ヨルボーは爆弾を抱えているという膝を叩き、「また男体山に登りてえな」と言った。その声色には諦念はなかった。寧ろ楽しみにしている様子だった。「僕も行きたい」と言うと、ヨルボーは顔をしわくちゃにさせ、笑った。


 帰るとき、ヨルボーは「どうせ売れねーべ」と旬の果物を一つ渡してきた。その果物は果物と言うには余りにも甘さがなかったが、幼い僕にとっては十分おやつだった。ビニール袋に包まれたそれを抱えると、僕は八百屋を出た。


 そんな風に交流は続けていた。勿論、周りにひた隠しにしながらであった。ヨルボーもそこらへんは自覚しているようで、僕との関係を口外するようなそぶりを見せなかった。


 例年周辺の小学校は修学旅行で男体山へ訪れることになる。それは僕も例外ではなく、六年生になった時、当事者となった。修学旅行の概要について話された時、教室の皆が不満を述べる最中、僕は心の中で強く拳を握って歓喜を上げた。でもあまりに周りの様子が気に食わなくなって、気持ちが一気に冷めた。僕の友人が行きたい行きたいと何度も口ずさんでいる山に行けるというのに、こいつらは何様なんだと憤りを覚えた。


 その日は丁度木曜日だったので、直ぐにヨルボーに報告することができた。開口一番に言うと、ヨルボーは「えがったなあ! 僕ちゃん!」と頻りに言って、僕の背中を叩いた。そして終いには泣いてしまった。


「人生で一番うれしいだべ。俺の代わりまで楽しんでくんね」


 喜んでくれるのは嬉しかった。同時に周りを気にしている自分に恥ずかしさを覚えた。自分が望んでいる男体山に行けるというのに、いつの間にか、自分の気持ちを失っていたのだ。ヨルボーは行けないことを気にしていないというのに。理解できていなかった自分が情けなくて、恥ずかしくて、僕は教室での喜びを取り返すかのように「ほんとにえがったあよお!」と雄叫びを上げた。


「おーこわがったー。今日のところは早くおわすぞ。僕ちゃんのやつも買わないといけねー」


 ヨルボーはそう言って、両手で抱えきれないほどの果物を袋に入れて、渡してきた。「どうせもう売れやしねーべ」。これが八百屋であったヨルボーを見た最後の瞬間だった。


「失礼ですが帰ってください」


「おまいらに用はない。用があるのは息子だ」


 朝、父とヨルボーが言い争う声が聞こえた途端、僕は起き上がった。「そこにいろ」と言う父を押しのけ、玄関に行くと、ヨルボーは開いていた家のドアに寄りかかり酷く息を荒らしていた。僕が急いでヨルボーの左腕を肩に回して、身体を支えた。軽かった。


「修学旅行のやつのプレゼント。早く渡したくてぇ、ちょっとミスっちまった。すまねー」


 苦笑いを浮かべたヨルボーは、その右手に持っていた大きいかばんを渡してきた。それはヨルボーが持っていたザックの色違いだった。重くて腕が千切れそうになった。肩は負担が随分心細く感じて、何ようにも言い難い淋しさを胸に搔き立てた。


 「もうだいじだ」とヨルボーの声が聞こえた途端、僕の左肩にあった腕は外された。背中に軽い衝撃が走る。


「じゃあな、ぼくちゃん」


 支えていくよ――そんな言葉が出かかりそうになった時、老人は千鳥足で歩み始めた。途中、何度も僕の背中を叩いてきた右手を上げた。ヨルボーは格好つけたがりだった。姿が見えなくなると父が駆け寄ってきた。


「危なかったな。大丈夫か。怪我はないか」


 優しい口調で語りかけてくる父の眼がまるで何か怪しいものを見つめるかのように僕を射抜いていた。母が離れたところから僕をじっと得体の知れないもののように見つめていた。


「それ何に使うの?」


 母は僕が手に持っていたザックを見つめていた。「そんなものは捨てなさい」とは言われなかったが、そう言いたげであるのは容易に想像がついた。


 その日の朝食の時、父がさも恐ろしいものと出会ったかのようにヨルボーと出会った状況を声を潜めながら話しだした。家の周りでうろうろしているところに声を掛けたら、急に僕を呼んでほしいと言われたらしい。


「気持ち悪いわね。ヨルボー」


「ああ。本当にだ」


 母がヨルボーの名を口にする度に、それが悪口だと分からずに、気になって叫んだ嘗ての僕が汚されるような気がした。その名で呼んでほしくなかった。初めて両親に酷い嫌悪感を感じた。


 やっと両親の監視がなくなった木曜日、八百屋は閉まっていた。その後、何度も訪れたが、シャッターが下りた状態なのは変わらなかった。結局修学旅行は登山用品を使わずに終わった。


 今もう存在すら覚えていないであろう両親は、数カ月後「ヨルボーは死んだんじゃないか」と口を揃えて冗談交じりに言った。だが、ヨルボーは確かに生きている。僕の心の中でひっそりと。少年の輝きを僕に与えながら。

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