蝶の行方は
な
第1話
7月中旬のある日、町外れに雄々しく聳え立つ山岳の中の小さな村、その村の唯一の墓地に、老人が正座し、両手を合わせ、瞼を閉じ、死んだように固まっていた。「おじさん、何してるの?」ふと、少年の声が聞こえた。老人は固く閉じていた目を開き、声がした方向に視線を持っていった。すると、10歳前後とみられるまだ幼く小さな、山の対義語のような小さな少年がそこに立ち、老人を不可思議に見つめていた。赤い長袖のパーカー、黒いスボンを着て、右手には虫取り網、左手には恐らく今まで捕まえてきたのであろう昆虫数匹が網の籠の中で踠いており、頭には緑色のキャップ。あまりに無邪気で能天気そうな声に老人は少し笑みが溢れそうになったが、老人は必死でそれを抑えた。「この村からいなくなった方々の幸せを祈っているんだよ」老人は落ち着いた口調で話した。「君こそ、なぜこんな場所にいるんだ?親御さんはどうしたんだ?」
「綺麗な蝶々を見つけて、追っかけてきたの。でも、見えなくなっちゃったんだ」老人は腕に着けてある時計を確認した。時計の針は正午を指していた。「そうかい、それは残念だったね…」老人は何か言おうとしたが、止めた。どうせ、すぐにこの少年もいなくなるのだ。
「それで、帰り道は分かるのかい?」少年は少しうつむきがちに首を横に振った。老人は疲れたように溜め息をつくと
「とりあえず町に出てみようか」
と提案した。少年は頷いたが、これはその場凌ぎにも成り得ない事を、老人は知っていた筈だ。
町の方角に進み始めて約2時間といったところか。草木かき分け険しい道を辿ってきたが、町の騒音どころか森が終わる気配すらない。老人は少年が不安がっていたため、一旦村に戻ることにしたらしい。少年もこれに渋々同意した。そして、村に戻ろうとして約10分、あっさり村に到着した。この明らかな違和感に少年は気づいていた。
「おじさん、なんか変じゃない…?」
「…」
老人は知っていた。この村に迷い込んで無事に脱出することが出来た人間が一人もいない事実を。しかし、まだ十才前後といったような少年には過ぎた酷であることは明白だった。そして、それが老人の苦悩の種なのである。これを話すべきか、話さずとするべきか。老人は深く息をつき、一旦、話すことに決めたようだった。
「8年前、村の若い奴らがこの村で代々封印してきた祟り神の封印を誤って解いてしまったんだ。そこから、この村から外に通ずる道が一切消えてしまった。今言えるのはこれだけだ」
「え?それ、冗談?」
「信じるかどうかは君の自由だ。ただ、もう森を探索しても意味はない」
少年は少しの沈黙の後、真っ直ぐな声で言った。
「……とりあえず、おじさんの家に泊めてよ」
老人は酷く驚き、目を点にして尋ねた。
「悲しくないのか?」
老人の疑問は最もであった。年端もいかぬまだ幼い子供が突拍子なく世界から断絶されたこの事実を、真正面から受け止めたのである。老人もかなり驚いたようすだったが、喚くよりマシだとでも思ったのだろう。老人はあまり少年に介入せずに我を取り戻し、少年を自宅に案内した。
老人の家は細々と一人で住むには少々大きすぎた。けれども、これで空き部屋も一つは埋まる…はずだ。
老人の家は玄関を開けて正面に二階に繋がる階段、右手には壁、左手には長く続く廊下が風を弄んでいた。老人は廊下を歩いてすぐ右手にある部屋を少年に受け渡すことにした。当然家具などなにもないし、埃が溜まっていたが、少年は気にせずに大の字になって横になると、目を閉じ、暫くすると寝入ってしまった。まあ、仕方がない。老人も部屋に戻り、眠ることにした。それにしても、あの時の哀愁はなんだったのだろうか。この少年にも老人のような、灰色の影が纏っているような気がしてならない。しかし、いくら考えてももう意味のないことだ。一切合切は迷いなく切り離されてしまったのだ。老人は不安と諦念の責を抱き、懐疑などとうに捨てたことを今一度、ようやく思い出したらしい。そうして、彼は明日に期待を寄せながら眠りについた。
起床、辺りはすっかり黄土色である。老人は廊下を歩き、少年の部屋の前まで来て、深呼吸して扉を開けた。
…まだ眠っている。老人は時計を見た。時刻は14時。そんなに眠っていたのか。いやしかし、この老人も、少年もその年にしては非現実的な質のショックと精神的疲労が溜まっていた筈だ。睡眠で全てが取れるわけではないが、充分な休息は必要なのであろう。老人は少年が持っていた網の籠の虫が全て死んでしまっていることを確認すると、老人はもと来た廊下を戻り、少年が起きてくるまで本を読むことにした。老人の唯一の趣味は読書であった。しかし、今ある本もこれで最後だ。今日明日で読みきれるだろうか。
暫くすると扉の開く音がしたが、足音は聞こえなかった。恐らく部屋が分からないのだろう。老人は部屋のドアを開き、手招きをした。
「おじさん、おはよう」
少年は寝ぼけた瞼を擦り、挨拶をすると、すぐ傍の椅子に座った。
「おはよう。もう14時半だ。すっかり寝坊だな。」
老人は本を読みながら抑揚のない声で話した。
「こんなに寝たのは初めてだよ」
「そうか、実は私もだ」
「まあ、そうだよね」
「あぁ…」
「…」
二人の会話はぎこちなかった。酷く当たり前の事だが、昨日会ったショックに苛まれている少年と老人では会話など、掴み所など、有るわけが無かったのだ。
老人が本を読むのを再開した直後に少年が言った。
「そういえば、僕が取った虫が皆死んでしまっていたんだ。それに、カブトムシが一匹少なかったような気がする…」
再び少年は会話を取り戻そうとしたが、老人は無愛想に答えた。
「そうかい、それは残念だったね」
「残念で済まされる話じゃないよ!あの虫たちは僕が三時間もかけて捕まえたのに…」
「虫なんて、そんなものだろう」
「そうかもしれないけど…頑張って捕まえたのにな…」
「…」
少年は昨日とは真逆のように感情的で子供っぽくなっていて、緩急があり、なんだか歯車が上手く合わないような気がした。
「とりあえず、先に風呂に入ってきたらどうだ」老人は話題を変えようとした。
「うん、そうだね。僕もそう思ってた」少年は下手な芝居寄りの抑揚で言った。老人が風呂まで案内すると、少年は老人が部屋に入ったことを確認してから服を脱ぎ、少し温いお湯を浴びた。老人はまたも本を読んでいた。今、大体三分の二といったところ、211ページ目だ。今日を費やせば、あるいは明日、であろう。
……少年が上がったらしい。老人は本を閉じ、自分も浴びるべきか考えたが、2秒後に考えるのを止めた。考えても仕方のないことなのだ。老人は、ふと、昨日も今日もなにも食べていないことに気づいたらしく、冷蔵庫を開いた。冷蔵庫にはかつての同居人が作ってくれた食事、缶詰、食材が少しばかり残っていた。まあ、これだけあれば足りるだろう。少年は老人が用意した半袖の白いシャツに青い半ズボン姿で部屋に戻ってくると、老人はついさっき思い出したばかりの食事を提案した。少年も勿論賛成した。しかし、そうこうしている間にもう時刻は16時を過ぎていた。
食事の後、少年が床に寝転んでいる間に老人は本を読み、時間が浪費されていく。少年は退屈していたが、ときどき眠ったりトランプををしていたため、あまり長く感じたわけではないようだった。そして、瞬く間に日は過ぎる。
翌日、午前11時。起床した老人は少年を起こすとすぐに支度をし外に出るように言い、自分も外に出た。そして、墓地まで来ると、老人は自分の腕時計を確認した。時刻は正午の少し前を指していた。ここに来るまできっぱり閉じていた口を開き、老人は少年に言った。
「年は幾つになるんだ?」
少年は案外単純な疑問に少し不思議そうに答えた。
「10歳だよ、今年で11だけどね」
「そうか…」
少年は老人に対して酷く疑問を懐いていたらしかったが、問いかけるのは止めていた。
ししばしの沈黙が流れたが、老人は時刻が11時57分に差し掛かったことを見ると、話し始めた。
「そういえば、お前が迷い込んだ日に話した話には続きがあってな」
少年は話を聞いた。
「村から出れなくなった人々は不安に駆られていたが、それどころではなかった。祟り神が一日一つ、正午に一番若い命をもらっていくと告げたのだ。しばらくは虫が死んでいき幾分マシだったが、痺れを切らせた祟り神は村の虫や動物を全て抹消してしまった。」
11時58分。
「それから村の子供たちがどんどん消えていき、村は崩壊した」
少年は頭を混乱させているようだった。そんな話が本当にあるのか?でもあの日もこの村は少しおかしかった…などといった具合だろうか。
11時59分、老人は話を続けた。
「そして、3日前、遂に一つの命を残してこの村から誰もいなくなった。翌日、残った一つの命は祈りを捧げながら、眠りにつこうとしたが、できなかった」
「え?そんな…それって…」
「君が来たからだ。正確には君と君の追いかけた虫、捕まえた虫が来たから、だな」
「ちょっと待って…それじゃあ…」
11時59分55秒。
「あぁ、お別れだ。」
「待っ」
12時00分00秒。少年は消えた。老人は絶望の余韻に浸り、祈りを捧げた。少年と出会ったときと同じように。……だが……いつ見てもこの命が消える瞬間は美しい!村の若い衆には感謝せねばならない。こんな感動を与えてくれたのだから!しかし、もうすぐこの村からは命が全て消えてしまう。また他の村を探さねば…いや、今はそんなことより明日のこの老人を待ち望みだけしておこう。もうこの老人も未練はないだろう。あの本だって今日で読みきる筈だ。老人だって、こんな地獄とはおさらばしたい筈だ。そうに違いない!ああ、今から明日の村の景色が楽しみだ!
蝶の行方は な @_Na
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