ラザニア


 自分の機嫌は自分で取るしかないって、わかってる。

 それでも、近くにいる人の感情に振り回される自分が嫌いだ。

 あの人は、きっと、私に対して怒っているんじゃない。

 別の誰かに怒ってる。

 わかってる、私じゃない。


 それでも、その空気を感じ取ってしまう私は、まるで自分が怒られているように思ってしまう。


 力任せにドアを閉める音。

 大きな足音。

 荒い呼吸と無言。

 静けさの中で響くタイピングの音。


 自分が怒られているわけじゃない、私が何か悪いことをしたわけじゃない。

 わかってる。

 わかっているけど、「私は不機嫌です。機嫌が悪いです」と主張してくる。

 本人はそれを自覚していないから、ただその場にいただけで、こんなにも怖くて、不安で、私が機嫌を直してあげないとって、変な正義感さえ覚える。


 関わらないのが一番だって、ビクビクしながら自分の仕事を続けていても、どうしたって気になってしまう。

 他人が他人に怒ってる。

 私が怒られているんじゃない、私が不快な思いをさせたわけじゃない。

 わかってる。

 それでも、そう感じてしまって、なんだか落ち着かない。


 そうこうしているうちに、十二時になって、昼休憩の時間。


「ねぇ……」


 あれだけ不機嫌そうに仕事をしていた上司が、急に私に声をかける。

 多分、今日初めて言葉を発した。


「な、なんでしょう?」

「ラザニア食べない?」

「……ラザニア?」

「ラザニアが美味しい店できたらしくてね、今日のランチはそこにしようよ」


 さっきまでの緊張感はなんだったのか、ランチの誘い。

 別に、一緒に働いていたら、それはおかしいことじゃない。


「ラザニアって、なんでしたっけ?」

「ほら、あのなんか四角いパスタ……的なやつ」


 他の同僚も、それがきっかけで次々と話し始めた。

 それまで無言で仕事をこなしていたのに……


 みんな同じように、不機嫌な上司の機嫌が直るのを待っていた。

 その上司も、さっきまでの機嫌の悪さが急に何もなかったかのように冗舌になっていく。


「あーなんか、洋食系のあれですよね」

「そうあれよ。なんて表現したらいいのかよくわからないけど……とにかく美味しいらしいの。そこ行こう」

「いいですね! 行きましょう、ラザニア食べに!」


 張り詰めていた空気が急に和らいだ。

 ああ、そんなことで直るくらいの機嫌なら、周りが気を使うほどの重い空気を出さないで欲しい。

 本当に迷惑だ。


 そして、私は今朝早起きして、節約のために作ってきたお弁当を放置して、みんなと一緒にそのラザニアを食べに行った。

 お弁当は、晩ご飯でいいや。


 上司が言った通り、ラザニアは確かに美味しかった。

 食後のピスタチオのアイスも、初めて食べたけど美味しかった。


「ねぇ、この後飲みに行かない?」


 退勤後、同僚がそう言って、私は誘われるままついて行った。

 今日は金曜日。

 明日は休み。

 特に予定もなくて、断る理由も思いつかなかった。

 なにより、断ったら空気が悪くなる。

 それが嫌だった。


 本人からしたら、ちょっとだけ残念に思う程度かもしれないけど、そのちょっとしただけでも残念に思わせてしまうことが申し訳なくなるから、ついて行った。

 居酒屋に連れてこられて、帰って見る予定だったドラマのリアタイも諦めて、その同僚の彼氏の自慢話と愚痴を永遠に聞かされた。

 その居酒屋で流れていたドラマが、他局のものだったのがせめてもの救い。

 閉店まで飲んで、家に帰ったのは日付が変わった頃。


 早起きして作ったお弁当は、結局食べられることもなく、すっかり記憶から抜け落ちて、日曜日の朝、思い出して蓋を開けたらカビが生えていた。


 ああ、疲れる。

 なんどこんな日々を繰り返したらいいんだろう。

 誰かの機嫌に左右されて、居心地の悪い思いをずっとして……


 できることなら、一人でいたい。

 誰とも関わらずに、生きていたい。


 お腹が空いて、冷蔵庫を開けたら、使い切れずに残っていた玉ねぎと人参が育ってる。

 卵は賞味期限が五日もすぎてる。

 ろくなものがない。


 こんなに腐らせるくらいなら、私は自炊なんてしない方がいいんだ。

 買い出しに行く元気もなくて、デリバリーを頼もうとスマホのアプリを立ち上げる。


 一番上のおすすめに、ラザニアが表示されていた。

 ああ、そういえば、あの店で食べたラザニアは、美味しかった。


 私は届いたラザニアを頬張りながら、撮りためたドラマを見て、主人公と同じ気持ちになって、悲しくて泣いた。

 恋人に裏切られる主人公の辛さが伝わってきて、私も胸が苦しくなる。

 犯人に殺されそうになって、逃げる子役の少年が心配で、ラザニアを食べる手が止まる。


「おお、助かった!!」


 助けられた少年。

 安心して、テレビに向かって喜んだ。

 次回予告で、主人公の相棒に危機が迫るようだった。

 今度は来週の展開を想像して、相棒が心配になる。


 全部見終わった後、流れて来たのは外国で起こった戦争の続報。

 兵士に拷問されたと、泣いているおじさん。


 ああ、胸が痛い。

 可哀想で、見ているこっちが辛い。


 ひどく疲れて、最後まで見ていられなくて、チャンネルを変えた。


『HSPっていうんでしょう? そういう、とても繊細な人』

『ええ、生まれつき非常に感受性が強く、敏感な気質をもった人のことをそういうんです』


 ……これじゃん。

 テレビで取り上げられていたそのチェック項目が、全部当てはまって、私は納得した。

 こんな辛い思いは、他のみんなも同じようにしていると思ったのに、五人に一人しかいないのか……

 気にしすぎだと思われているのか……


 四人は何も感じずに暮らしているのか……

 なにそれ、うらやましい。


 残りのラザニアを頬張りながら、また泣いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編集】こがれ 星来 香文子 @eru_melon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ