二〇年後

 母が自殺した話をわたしが書こうと思ったのは、四〇代半ばになったころだ。つまり、あれから一〇年以上経ったこともあり、母の記憶の総括をしようと思った。言い換えれば、母の自殺の衝撃はわたしには即効性がなく、代わりに後になってじわじわとボディブローのように精神的ゲージを削られていき、「なぜ母は自殺したのか?」を書かざるを得ないと思ったからである。

 自殺した当初は平気だった。気に病むことはなかった。夜はぐっすり熟睡して夢を見ることはなかった。しかし、四〇を過ぎると睡眠にも体力が必要となり、眠りが浅く、寝付けなくなり、眠剤を常用するようになる。一部の眠剤は耐性がつくこともあり、飲んでも眠れなくなった。種類を変えて飲むが、また眠れなくなり、頭ではいけないこととわかっているが、寝る前に眠剤とアルコールを飲むようになった。

 ある日わたしは、うかつにも夢を見た。いや夢か幻想か? すでに死んでしまった

はずの母の登場する夢である。母は玄関からにっこり爽やかに笑顔を見せた。黒髪で明るい色柄付きのスカーフをつけ、何やらわたしの生活を手伝おうとしている。若いころの母だ。わたしは飛び起きた。夢は夢でも悪夢であった。

 つい最近、またしても母の夢を見た。わたしは母と姉と同居しているらしく、二人が買い物に出かけて帰ってきたら、わたしは反射的に部屋のドアを閉めて鍵をかけた。しばらくしてノックの音がし、「これ、要りますかぁ?」と母の声がした。幻聴である。生前の母はわたしに対して敬語なんか使ったことはなかった。過去の現実が未来の夢で更新されてしまう、過去の母と未来の母と、どっちが本物だ? とわたしは慄いた。

 書く行為は自己救済である。心がざわつく夜、どうしても書かずには眠れなかった。グリーフワークは、身内の死を第三者に話す代わりに、わたしの言葉でわたしが感じた通りに書く行為である。そのぶん、形になるように書くには時間がかかる。書いては消し、また書いては消す。書きながら、わたしはこの作品が母の墓になればいいと思っていた。

 母は死に、私は生きている。

 だが、母は解放され、わたしは母の呪縛のなかにいる。

 二重思考。好きの反対は嫌いではない、無関心である。わたしは家族に無関心ではいられなかった。関心があるからこそ幻滅し、軽蔑し、逃げたのだ。

 わたしは家族の顛末を書かざるを得ない。しかし最後まで書き終わる勇気も覚悟もない。わたしの家族はとっくに終焉を迎えているのに、それでもなお結末を書く気にならない。

 十数年ものあいだ、わたしはずっと揺れ動いていた。

 子どものグリーフケアという本を読み進めたとき、トリガーが開いた。母が自殺したのはわたしが三四歳のときだった。その死を引きずっているのはとうに五〇歳を過ぎたわたしだが、母の思い出は当然、わたしの幼少期から十八歳未満のころだ。母を思い出すとき、わたしは子どもに帰っている。

 ネットで検索してみたが、「愛する人を失って」「大切な人を失って」という、枕詞に違和を感じた。死んだ母をわたしは「愛する人」とも「大切な人」とも思っていない。

 正直言って母が怖かった。わたしが大学で上京するのと父が単身赴任するのは同時期だった。子育てはとっくに終了し、後は父の世話をするだけだったが、父の転勤先に母は移動せず、湯浴沢の実家に居座った。仕送りをもらって過ごす母は悠々自適そのもの。そのくせ父が留守なのを知っていて、父の住処をそっと探るのだ。

 わたしが上京してすぐ、母から電話があった。父が浮気をしている、というのだ。「四〇過ぎの事務職のおばさんならまだしも、相手は十八歳の学生だよ?」当時は内容も衝撃的だったし、母の声が直接わたしの聴覚神経に鳴り響いて、翌日、父からレイプされる夢を見た。強烈だった。レイプが現実ではなく、夢のなかで起こるから。母の怨念はわたしの精神に直接影響を及ぼし、過剰反応するのだ。

 後から思うと、どうやってそれを調べたんだ、きっと母の妄想に違いないとか、管理職して赴任した学校がまともに生徒と接触する機会がないことは当然だった。それに父は生徒と年が離れすぎている。せめて大卒から赴任した教師でないと世代間ギャップがありすぎて、文字通り話にならない。今なら話半分にして流すことはできるが、当時のわたしはダイレクトに受けすぎた。母の話しかたや思考が直接わたしのなかに流入し、洗脳されかかったのだ。

 せっかく母の元を逃げ出したのに、これじゃ元の木阿弥だ。いつかわたしは気が狂う。実家にいたら確実に気が狂う。だから逃げ出したのだ。東京でもニューヨークでもパリでもどこでもいい、早く母から逃げ出したい。遠くへ、母の支配が届かない、もっと遠くへ!

 言うまでもなく、母の思考と行動は非論理的である。だからわたしが納得しないわけだ。論理的思考から見れば母は永遠の謎であり、わたしが納得し解釈するためには、わたし的に好都合な理由を後から付け加えないといけない。わたしからすると、母の飛躍した言動に、ある文脈を与えなければならない。これはえらく骨の折れる仕事だ。だが完遂せねばならぬ。

 葬儀が終わって四十九日がすんだ後、わたしはシューコさんに会いたくて再び帰郷した。

 シューコさんが趣味の絵手紙を作るための部屋は、かつて母が籠っていた部屋だ。シューコさんは父となるべく早く再婚したかったが、自殺した母が怖くて怖くて、四十九日が来るまで待っていたくらいだった。そのシューコさんを母と同じ部屋にしてしまうなんて。父はきっと黙っていたに違いない。あとは自分の介護をしてくれる女性と再婚するだけで、父は何も考えなかったはずだ。自分の都合の悪いことは話さない。狡猾な父。

「お前、子どもほしくないか? 子どもはいいぞ」父がこう言った。

 わたしは開いた口が塞がらなかった。どう見てもシスヘテロの女ではないというのに、それしか女が存在しないような父の口ぶりはひじょうに腹が立った。つまり、葬儀のときに金髪のベリーショートで黒いレザーパンツを履いてきたわたしに「子どもを作れ」というのか? 自分がほしいだけだろうが。

「父さんはわたしを見ていない! わたしがいままで『子どもがほしい』『結婚したい』なんてあんたに言ったか? 言ってないよな? 思ってもいないことだから当然だ! わたしはレズビアンなんだ!」

 わたしは史上最悪なカムアウトとした。父に対し、ものすごく怒りをぶつけた。そのときわたしは一瞬、怒れる母になったような気がした。初めて彼女ができた高校生のころ、すでに母は勘づいていた。彼女と長電話したり、夜遅く帰宅したり、修学旅行で彼女の絵葉書を送ってくれたりしたからだ。

「あんた、あの子と友だち以上の関係じゃないだろうね?」

 女性同性愛者のカムアウト体験談は、性行為の現場を母親が直接目撃したにもかかわらず、娘のことを同性愛者とは認めなかった。同性愛者の娘はいないことになっていた。なのに昭和一桁生まれの母は、わたしを同性愛者だと疑った。だが、否認もせず応援もしなかった。父はこれまで何にも見ていなかったが、母はずっとわたしを見ていたのだ。

 わたしは最初、コンプレックスという心的複合体を理解してなかった。コンプレックスとは、母を好きだけど同時に大嫌い、母を尊敬すると同時に軽蔑するという二重思考、ダブルバインドなのだ。その証拠に、母と同様にショートカットで気が強く、颯爽として、少し老けている女性が好きだ(若い女の子はちょっと気が合わない)。一人で行動し、自分で決める。いわゆる「(髪が長い・家庭的・献身的という、男性がセックスアピールを感じる意味でフォーマット的な)女性らしい」女性はあまり好きじゃない。なぜ好きなのか自分でもわからない。かといって、独善的で独りよがりで、相手がいるのに相談せず何でも一方的に決める、コミュニケーション不全の母が大嫌いなのだ。理由のわからなさを突き詰めるとしたら、対象はたぶん母になると思う。しかし、母に対する性的欲情はなかったし、母とセックスしたいとはまったく思わない。想像するだけで吐き気がする。

 二〇年以上前のブレインストーミングで、こんなふうにヨーコに説明できればよかった。お互いフリーターの身、友人未満で仕事仲間以上の関係は、お互いに行方知れずになるほかない。

 母は憎しみと怒りで自殺した。たぶん、母の得意な独断と偏見で。わたしも母の自殺に憎しみと怒りをぶつけている。ふと、私と母はまるで同じ感情を持ち、同じ時間と場所から絶対に動じないのだ、と感じた。

 それでは、母を赦そう。母に対する憎しみ恨みの感情を解き放そう。言葉にするのは容易でも、わたしはときどき母に対する怒りが、まだこみ上げる。まだ成仏していない。一度でいいから母に謝ってほしい。「私が悪かった」と反省してほしい。要望はあっても、母はもういないのだ。母がわたしに謝ることなんて金輪際ないのだ。わたしは憤慨と虚しさを感じる。母にしてみれば、謝るくらいなら、反省するくらいなら自殺したほうがましだ、ということか。母は謝りもせず逃げた。なんたる卑怯、なんたる無責任。

「あたしのほうが絶対に正しい、あたしはすべてを知っている、すべての判断ができる」

 そう思っている正常な人間がいるだろうか。

 晩年の母は確実に狂っていた。がしかし、父の誕生日に自殺する計画性は確実にあった(自殺か虐待死かの違いは、遺書の有無だった)。逆恨みで「死んであんたに憑りついてやる!」と怨霊化しようとしたのは明確だ。母は狂っていたのかまともだったのか、永遠の謎である。この謎を解釈するのがわたしのライフワークだ。自宅での自殺は父への当てつけで、娘のわたしのことなど眼中になかったということか。

 母の話には筋書きはない。それは人生と同じで、無意味で虚しい。物語を書くとき、人為的に筋書きを作る。脚色といってもいいが、全部嘘である。わたしは真実だと思って書いているが、書き終わったとたん、それらはすべて嘘になる。ノンフィクションのドキュメンタリー映画であっても、都合のいい部分と都合の悪い部分とのカット編集はする。つまりフィクションとなる。

 ピヨコのことを書こう。その前に、わたしがやっていた副業について書こう。わたしがやっていたのは女体専用セックスワーカーである。知り合いのエロ系ライターにそそのかされ、趣味と実益をかねて、あくまでも個人営業でやっていた。男性週刊誌に取材をして携帯番号を載せる。ある種のバーターだ。あとは電話を待つだけ。細々とした副業だ。

 その電話はピヨコからだった。ピヨコは三児の母で、当時五二歳。夫が亡くなってすでに十年が経っていた。ピヨコと夫の性交渉は頻繁で、毎晩のようにセックスしていた。ところが、夫が原因不明の病気になり、仕事も休職し、ついに入院生活に入る。いろいろ検査したが原因は見つからず、それゆえ治療法もない。ピヨコは毎日看病しに通院した。同い年の夫は次第に衰え、亡くなったときは、まるで七〇ぐらいの容貌だった。

「毎日のように看病を続けていたときは平気だったんだけど、いざ亡くなってみれば、心の澱が十年間溜まっていたんだと思う」

ピヨコがその週刊誌を見たのは四国のホテルだった。夫を亡くして一人傷心旅行へ来たとき、わたしのインタビューを見てなぜか番号をメモした。

「最初はどうしようかしばらく迷ったのよ。だって、あなた二九でしょ? 長男と同い年だもの」

「男の人はどうなの? ピヨコさん、可愛い顔してるからモテるでしょ?」

「男の人はパパだけでいいの」

 十年分の性欲を解消するようにわたしを求めた。「あなたの指、パパが入ってるのと同じで気持ちいい。なぜなの? ねえ、どうして?」セックスするたび、ピヨコは同じ質問をした。わたしは何も答えなかった。答える代わりにピヨコに愛撫した。

 一か月おきの逢引きが二週間になり、毎日になる。セックスは非日常だから刺激的で楽しいものだが、毎日だったら恋人か夫婦同士のマンネリセックスとなる。セックスワーカーとしては頻繁に会うほうが実入りも大きいが、これではいけない。

 わたしは密かにピヨコと距離をとろうと自制した。ピヨコが連絡してもわたしは電話に出なかったり、「その日は都合が悪い」とキャンセルしたり。わたしに敬遠されてると思ったのか、ピヨコはやがて独身の初老男性と付き合い始める。結局、セックスの相手は誰でも良かったのか、「男の人はパパだけ」とは嘘だったのかと、わたしは呆れてしまう。ピヨコとの付き合いは約七年。ピヨコの性欲は異常だと思ったが、「身体を求められる」という一種の承認欲求だったのかもしれない。さっさと別れておけばと後悔した。

 ピヨコと少々重なってはいるが、次の恋人はミユキだった。ミユキとの出逢いは SNS がきっかけで、わたしたちは映画を観た後、カフェで感想をフィードバックしてからホテルに入った。マンネリだったセックスライフが、途端に愉快でカラフルで刺激的になった。

 ミユキはクリトリスの舐めかたが飛び切り上手で、わたしは何回も震え、果てた。

この子は舌に何か工夫や仕掛けでもしているのだろう。陰毛をかき分け、わたしのものを広げてじっくり見物し、左右の陰唇を舌先でゆっくりとなぞり、膨らんだクリトリスを舌でプルプルと弾いて、唇ですっぽり覆うと同時に吸いつつ、舌で先端をコロコロと転がしているようだ。言葉では説明できないけど、ミユキの愛撫ならわたしにもそっくりできる。それはまさにわたしがほしい愛撫、とてつもない快楽のご褒美だった。ミユキのクンニは、かつて女たちから受けた愛撫のなかでダントツだった。わたしはいまでもミユキの蠢く舌と指がほしいと思ってるし、あの子の愛撫に似たセックストイを探し続けている。

 クンニで昇りつめたクリトリスは一瞬痛くてもう触ってほしくない感じだが、わたしがミユキにクンニしているうちに、ヴァジャイナが濡れてくるのだった。それで、セックスのときはわたしがいきなりクンニされるのではなく、先にミユキをクンニでいかせて(彼女はときどきディルドでいくので、わたしがハーネスをつけて密着し、ミユキの気持ちいい顏、いきそうな顏、果てた顏が見える)、わたしの愛液で溢れたクリトリスを舐めてもらうのが、お気に入りのセックスの順番だった。

 わたしはヴァジャイナの挿入では何も感じず、むしろ痛いくらいで、でもクンニとの同時挿入ならたまらなく感じ、ミユキが舐めているところに「挿れて」とねだるくらいだった。ベティ・ドットソン博士曰く「クリトリスは見えないところにも神経が通っている」のだ(ヴァジャイナの周辺近くに)。もちろん、一番敏感なところは目に見えてるんだけど、見えるからといってそこだけ愛撫するのは、もはや物足りない。万が一新しい恋人ができたら、わたしのとっておきの愛撫を教えてあげたい(しかし片麻痺のわたしは以前と同じ愛撫ができるのか?)。

 男性の性的快楽は視覚中心で見えるのが真実だが、女性の性的快楽は感じるのが真実だ。よって、女性の性的快感、オーガズムは、見えないが感じる。男性には絶対わからないだろう。

 ミユキはセックスや女性の身体にタブーがなく活発で、新しいセックストイを自ら試しては吟味する。セックスだけでなく、自分の経血がどういう色でどのくらいの量流れるか、布ナプキンを使ってチェックする姿は、まるで熱心な研究者のようだった。身体は弱い代わりにセックスは旺盛で、セイファーセックス用のラバーでわたしの粘膜を覆っていたにもかかわらず、自ら禁じ手を破り直接舐めた。わたしの味や匂いを感じたかったからだという。

 ミユキはあるときから、「これって母に似てるかも?」とわたしが思うようになった。ケンカしたときは負けん気が強く、わたしはトラブルを避けるため、気のない「ごめん」は決して言わなかった。わたしが一言言えば百倍になってすでに喧嘩腰で返ってきたし、大学も二つ卒業している。母は家庭科で、ミユキは美術の教員だ。ミユキの何気ない言葉でわたしは大いに傷ついた。

「それって、トラウマの再現だと思うよ」

 真奈美にミユキのことを話すと、彼女はぽそっと言った。母のことはあまり詳しく話していないが、ああやっぱり、とわたしは思った。

 ミユキと母が重なって、自分の気持ちを言いたいのに何も言えなくなってしまう。わたしの言うことを片っ端から否定するから、言えば言うほど和解からどんどんズレてしまい虚しくなる。そしてわたしはミユキという災厄を黙ってやりすごす。ミユキは沈黙が苦手らしく、「何か言ってよ!」と怒鳴る。かつての母は暴風雨かハリケーンのようにわたしを襲ってきた。わたしは命からがら逃げるしかなかった。ミユキ=母は容赦なく言葉で追い詰める。逃げ場を失い、貝になったわたしは、しばらく海の底に静かにたたずむ。最大限の不安を抱えたミユキは、とうとう逃げ出してしまい、いつしか去ってしまった。「体力の限界」と彼女は言ったが、本当はどうなんだろう。

 三月に別れたミユキと、八月に偶然再会した。会ったときは何も言わなかったが、後から「妊娠した」とメールで送ってきた。わたしは石になってしまった。いつもなら騒々しい蝉の声が、なぜか虚しく響いた。別れて半年も経たないうちに、ミユキは別人になってしまった。

 そのとき偶然手にしたのが信田さよ子『依存症』だった。なぜだかよくわからないが、それを読みながらわたしは号泣した。ミユキと母が重なったのだ。後になって笙野頼子『母の発達』を読んだ。わたしは爆笑しながら号泣した。「母の五十音」を唱えながら「母の呪縛」を必死に解体し、塗り替え、そして抵抗する筆者の丹念で執拗な綴り言葉は、まるで呪い返しか祈りのようだった。筆者は祈祷師で、すでに亡くなった筆者の母親は悪霊に見えたのだ。

 四〇を過ぎたころ、脳梗塞を発症したわたしは左片麻痺と言語障害の後遺症になり(重度障害者というらしい)、働けないため生活保護になった。先に述べた睡眠の困難の原因は、動かない日常と就寝時の半身の違和感にあった。母の夢を見て恐怖したのはそのころだった。

 後遺症はそれだけではない。麻痺側の皮膚感覚が異常になる。たとえば、シャワーの刺激が痛いと感じる、左の唇だけ熱い汁物が敏感に感じる、食事するとき必ず左の唇の裏を噛む、嚥下するとき誤嚥する。体温調節ができなくなり、現在は暑いか寒いかわからなくなる。

 発症当時は高次脳機能障害も顕著だった。食事の膳の左側だけ認識しない(つまり食べ残す)、アナログ時計が読めない、エレベーターの開閉ボタンが読めない、感情のコントロールが効かない、脳がものすごいカロリーを浪費して、急にエネルギー切れになる、などなど。

「障害の受容」とはいうものの、受容しうる障害があれこれ出てきて忙しい。障害は拒否するか受容するかで悩む者は、ずいぶん時間の余裕があるとわたし思っている。拒否以前に、脳が壊れた身体はわたしにぴったりついていて離れない。不自由な半身がずっとついて回る。同じ脳梗塞で死んでしまうケースもあるらしく、わたしはわたしで片麻痺のままずっと生き続けるのだと思う。でも、ふと「死んじゃおっかなー」と不意をついて出てくる死の感覚が長く続くと、本当に死んでしまうんだよな、とひやひやするが、生と死の危うい綱渡りはいまも続いている。けれども、死の誘惑は一瞬で生を奪う。

 難病や障害を受けると、人は「なぜ自分が?」と思う。省略せずに言うと、「なぜ自分だけ不幸なことが起こるの?」。ショックで視野狭窄が起こっているようだが、難病や障害は数えきれない人々に起こっている。「自分だけ」ではないのだ。いままで障害や難病の世界を知らなかったのは「自分だけ」なのだ。

 部屋で一人パソコン画面をじっと見つめていると、一瞬、全身が凍りついたように固まって左半身に大きな痙攣が起こり、眼球ごと首が左側に激しく引き寄せられた。気がついたら椅子から倒れて床に寝ころんでいた。どうやら失神していたらしい。専門書を読んでいたら偶然、あれはてんかん発作だと理解した。

 週に二回、訪問看護スタッフが部屋に来て、マッサージを受けたり、近くの公園に散歩と称してリハビリを受けたりするが、発症から十年以上経ってるから手足の劇的な回復は見込めず、小康状態だということも承知している。

 友人は、発症当時より言語障害が随分よくなってるという。わたしもそうだと感じるが、依然として、喋るときに麻痺した唇や舌がもつれてうまく喋られないというストレスや、血圧上昇などの負荷がかかり、疲れてしまって頭が働かないから会話を中断することが多々あった。電話はもともと苦手で、病気になって以来、なるべく電話には出ないしかけないし、メールで連絡をとっている。書くのは平気だ。ここ数年、本を読んでは書き、考えては書くのを習慣としている。

 一度は再就職も考えて会社に就職した。わたしのような身体障害者は会社にとって安価で雇える好都合の人員だった。発症した年齢が年齢だし、正社員で採用される会社は皆無だった。中途採用されるのは非正規社員だった。結局、一か月勤務しても生活保護の金額と変わらないから、働いた分だけ時間を損している気がした。だったら働かないで自分の好きなことに時間を費やすほうがいいと思い、それ以来ずっと求職はしていない。そもそも会社に所属せずにフリーでやってきたのだから、障害者になって会社勤めをするなんて性が合わないのだ。会社員は給料が安定した奴隷だとわたしは思っている。

 生活保護受給者は劣悪な住居しか与えられないし、バリアフリーじゃないから風呂も満足には入れない。都営ならバリアフリー住居があるから大丈夫だと思って、数年前転居した。満足とはいえないが、民間の賃貸よりましだ。

 わたしの療養生活は、朝から晩まで一言も喋らないことが多い。もしかして晩年の母もそうだったかもしれない、とふと思う。このまま誰とも喋らないで、いつかわたしも気が狂うかもしれない。いや、訪問ヘルパーや訪問看護スタッフと話はしているから、たぶんわたしは平気だ。

 その訪問ヘルパーも最近は人手不足でどこも困っているという。単身のわたしは家事ぐらい右手だけで賄えるだろうと思っていた。母の葬儀で、父が「膝が痛くて正座できない」と言ったが、わたしも父とそっくりな膝をしているので、将来覚悟していた。しかし、右手の酷使が理由でテニス肘になった。野菜を切って炒めるまで肘がものすごく痛い。他にも右手は使うことがある。ベッドの寝起き、靴の履き替え、衣服の着替え、入浴、読書、キーボードの入力、食事、食器を洗うなどなど。林檎や梨、皮を剥いて食べる果物が、最初は苦手だったが、しばらくすると、時間がかかるが慣れた。バナナは片方の手で持ち、皮は口で剥くから野蛮な感じがした。葡萄は好きだったが、後遺症のおかげで一粒口に入れて皮と実を分けるのが下手になり、食べるのを避けていたが、新種のシャインマスカットが皮ごと食べられるから平気になった。

 まだ駄目だ、わたしは本当のことを言っていない。わたしが母のことを書こうと思ったのは、転居した土地が、B町の地形にそっくりだったからだ。

 究極的に記憶は地形に宿る、たとえたった一人の人物ついての記憶がなくても。この土地に来たわたしは、だんだん思い出してきた。東京の郊外の平野と山地が重なるところも、畑が売られ区画整理され新興住宅地になりつつあるところも、散歩をしていて緩やかな坂道を上ったり下ったりするところも、すべてB町の実家あたりにそっくりだ。

 そして記憶は蘇る。夕焼けに向かって真っすぐな道を歩くとき、子どものわたしと現在のわたしは重なる。ときには自転車で走り、ときには学校から一人で帰宅して。

 わたしはいったい、誰なんだろう。わからなくても家に帰ろう。そこには鬼が棲んでいる。人食い鬼が棲んでいる。わたしは鬼とともに棲む。やだやだやだ怖い、怖いよう。震えながら泣きながら、わたしは帰る。でも帰りたくない。でもそこしか帰るところがない。憂鬱な気分で自分のつま先しか見ずに歩く。夕陽が沈み、空の色が群青に染まるまで。

 万が一わたしが自殺したら、おそらく母が迎えに来たと思っていいだろう。母の迎えをわたしが歓待したと思っていいだろう。死んで地獄に堕ちた母は修羅になった。ならばわたしも修羅になる。わたしはこの世の不条理を味わい尽くして死ぬのだ。

わたしにはもう大丈夫だと言える自信がない。体力もないし気力もない。きっと母の恨みつらみに負けてしまう。わたしにはもう大丈夫だと言える自信がないわたしにはただもう大丈夫だと言える自信がないあたしとあんたはそういう縁があった絆があったわたしにはもう大丈夫だと言える自信がない嘘つけだまれあっちいけわたしにはもう大丈夫だと言える自信がなかったもう大丈夫だと言える自信がないもう大丈夫だと言える自信がないわたわたわたわたしにはもう大丈夫だと言える自信がないわたしにはもう大丈夫だとわたしにはもう大丈夫だとわたしにはもう大丈夫だと言える自信ががががががないあたしが生きた意味は何だったのかどういう意味があったのかすべて無駄だったわたしにはもう大丈夫だと言える自信がまったくない無意味だ無意味しかないわたしにはもう大丈夫だと言える自信がないもういいかげんにしろそっちこそいいかげんにしろあーあーあーうるさいうるさい黙れ黙れだまれだまれだまれいいかげんにしろだまってくれおねがいだから呪ってやる祟って呪い殺してやる死ね死ねしねしねわたしにはもう大丈夫だと言える自信がないあんたは間違ってた常にわたしが正しいわたしにはもう大丈夫だと言える自信がないわたし

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