7.俺は魔王じゃない!

 掴んでいた律花の手が、ずるりと抜けた。

 後ろでドサッと音がするのを聞き、弾かれるように振り返る。俺の足元にウサギのマスコットの下がるリュックがあった。

 視線を上げた先で、巨漢に抱えられた律花がもがいていた。


「律花を放せ、変態野郎!」

 

 背を向けた男にリュックを叩きつけたが、その巨体が動じることはない。

 俺のことなんか眼中にないのか。

 巨漢は走り出した。その肩に担がれた律花が抜け出そうとしても、やはり動じない。


「待ちやがれっ!」

 

 律花のリュックを拾い上げた俺はその背を追った。だけど、どんどん引き離されていく。

 周りには誰もいないし、あれだけ目立つ巨漢を見失うことはないだろう。それでも、引き離されるにつれ、焦りと不安が込み上げてきた。

 このままじゃ、明日は来ない。──嫌な考えが脳裏をよぎった時だ。

 

「このままでは、マズいですね」


 冷静で低い声が響いた。

 いつの間に現れたのだろうか。金髪を揺らしたルドベキアが、静かに微笑んだ。

 

「力を貸しましょうか、魔王様」

 

 薄い唇が弧を描く。

 俺は魔王じゃない!──叫ぼうとしたその時、前方から律花の悲鳴が聞こえた。

 いつの間に、俺たちは駅の外に飛び出していたのか。巨漢が路地へと入っていくのが見えた。


「このままでは、お嬢さんが連れていかれますよ」

「そんなこと、させるか!」

「そうは言っても──」


 巨漢が入っていった路地を曲がり、俺は愕然がくぜんとした。

 そこにあったのはくらい穴だ。巨漢はその穴をくぐろうとしている。


「律花を放せ!」


 声を上げると、巨漢は足を止めて振り返った。


「おや。興味を示したようですね。でも……魔王でないなら、あなたはここで殺されるでしょう」


 淡々と告げるルドベキアの言葉を聞きながら、俺は巨漢の周りに赤い炎の玉がいくつも浮かぶのを見た。


「俺は……」


 訳が分からなかった。

 突然現れて俺を魔王と呼ぶ男も、律花を連れ去ろうとするこの巨漢も。何もかもだ。だけど俺は──


「──律花を助ける! 力を貸せ、ルドベキア!」 

「仰せのままに」


 嬉しそうに笑ったルドベキアは、どこからともなく一冊の本を取り出した。あの本だ。

 巨漢が言葉にならない雄たけびを上げると、赤い炎の玉が俺に向かって放たれた。


「あきちゃん、逃げて!」


 律花の悲痛な叫びが響く。

 お前を置いて、逃げられるわけないだろう。俺はまだ、好きだって言ってない!

 また、って、決めたんだ。


「さぁ、参りましょう、魔王様」

 

 俺はルドベキアが差し出す本に手を伸ばし、表紙を開いた。

 小さな星の輝きが浮かび上がり、整然と並んだ。

 眩い光に包まれた俺は降り注ぐ炎を受け、それを払って踏み出した。感じたことのない熱が拳に集まる。

 巨漢の腹に俺の拳がめり込むと、律花の体が放り出された。

 咄嗟に掴んだ腕を引っ張り、抱え込んだその時だ。突然の激しい耳鳴りが起き、眩い光に視界を奪われた。

 

 次に目を開くと、そこは、まるで西洋の城の中だった。

 高い天井に煌びやかな壁画。アーチ状の窓は綺麗なステンドグラスが輝いている。


「……律花?」

「魔王様、よくぞお戻りくださいました」

「おい、律花はどこだ!」

「ご安心ください。魔法で自宅に送りました」

「……魔法」


 信じたくない言葉だったが、さっきの今では信じざるを得ない。


「なら、俺も家に帰せ」

「それは無理です」

「どうしてだ!」

「魔王様は、記憶と魔力を取り戻していません」

「俺は魔王じゃない! それは人違いだって言ってるだろう!」

「私が間違えるはずはありません」


 きっぱりと言い切ったルドベキアは、あの本を取り出した。ルーキス・オリトゥスの記憶だ。


「さぁ、今一度、この本を手にお取りください」


 分厚い本が突き出された。

 これを開いたら、俺は魔王になるのか。そもそも、魔王になったら俺はどうなるんだ。興味がないと言ったら嘘だけど──


「出来ない。俺には、家族もいる。帰らなきゃいけないんだ!」

「困りましたね……では、こういうのはどうですか?」


 少し考える素振りを見せたルドベキアは、にこりと笑った。


「今、と、このを繋ぐ門が発生しやすい状況です。そこを悪鬼シャイターンが通り抜けています」

「シャイターン?」

「あちらの世界では、人に憑りつかないと存在できない、悪い霊ってとこですね」

「それに憑りつかれたヤツが、律花を襲ったのか?」

「そうです。その悪鬼退治を手伝ってくれませんかね」

「どうして俺が!」

「悪鬼の好物は清い心。処女の輝く心は特に美味しいとか」


 ルドベキアの目が細められた。

 つまり、あの変質者は律花をこのよく分からない異世界に連れてきて、食おうとしたってことか。


「一度狙った獲物をそう簡単に逃すとは思えません。あの娘は、大切な恋人でしょう?」

「律花は、恋人とか、そう言うんじゃ……」

「おや。でしたら、見殺しにしますか?」

「そんなこと出来るか!」


 ルドベキアは満足そうに口角を上げると、ルーキス・オリトゥスの記憶を出した。


「では、悪鬼シャイターンを滅ぼす力を、しましょう」


 こいつの目論見が何なのか、この時の俺には考えもつかなかった。

 あの胸糞悪い変態に憑りついている悪鬼ってのをぶちのめせば終わると思っていた。

 ただ、律花を守りたい。

 この時の俺はそれしか考えず、本に手を伸ばしていた。

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幻鏡界の魔王~俺はただの中学生だ!魔王になんて絶対ならない!!~ 日埜和なこ @hinowasanchi

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