第3話 白ノ剣

 ――スルリ。

 夜の窓、もとい鏡を抜けたわたしは、鏡の国に降り立とうとして。

 ――どっしん。

「いったぁ……」

 想定の場所に床がなく、無様におしりから着地しました。

「シロ、大丈夫? すごい音がしたけど」

「へ、平気……。よくあるから。ルーシーちゃんは、平気?」

「うん、私は大丈夫」

 振り返ったわたしの目の前にあるのは、大きな鏡です。だ円形でふちがごうかに彫刻された姿見は、わたしの身長を優に超えています。

 わたしはいま、ルーシーちゃんの魔法で鏡の国に来ています。――ルーシーちゃんの代わりに、聖女として聖剣を抜くために。

 聖剣を抜けなかったルーシーちゃんは、別世界の自分なら抜けるかもとわずかな希望をたくし別世界との交信を始めたそうです。その交信を偶然受け取ったのがわたし、出野いづるの詩露しろ。……学校では「おばけ」呼ばれる、ただの小学五年生。

「ねえルーシーちゃん、ほんとにわたしに抜けるのかなぁ……。わたし、聖女でもなんでもない、ただの子どもだよ」

 急に不安になって鏡に向かって話しかけます。わたしとルーシーちゃんの居場所は入れ替わり、いまはルーシーちゃんがあの窓に向かって話しているはずです。

「大丈夫、シロならきっとできるわよ!」

 数分前にわたしが言ったような無責任なセリフを、今度はルーシーちゃんが言いました。わたしが少しだけくちびるを尖らせたのを察したのか、

「それにね、パラレルワールドっていうのはシロの世界だけじゃないの。もしシロが抜けなくても、私はまた他の世界の私を探して頼んでみるから、そんなに気負わないで。試しにやってみてくれるだけでいいの」

 ルーシーちゃんは少しだけ早口でそう言いました。

「なあんだ。じゃ、わたしが抜けなくても平気だね」

「それはまあ、抜けた方がいいんだけど……。でも、抜けなくても気にしないで、ってこと!」

 彼女の言葉に少しだけ胸が軽くなります。正直、「やってあげるよ」とは言ったものの、「抜けなかったらどうしよう」と、ずっと考えていました。なにしろこの聖剣には世界がかかっています。ルーシーちゃんとはまだ会ってそんなに経っていませんが、彼女は別世界の自分なのです。もしわたしも聖剣を抜けなくて、そのせいで鏡の国がほろんだりしたら……。考えるだけでお腹が痛くなってきます。

 でも、わたしがダメでもまだ他の人がいるのなら。彼女の言う通り、気負わずに試すだけ試すのもいいでしょう。

「ベッドの横に台座があって、そこに聖剣が置いてあるわ。そう、そっち、左側」

 ルーシーちゃんの声に従いベッドの脇へと歩いていきます。わたしの部屋なんて三歩も歩けばすべての家具へたどり着くのに、このお部屋は鏡とベッドまでの距離が十歩以上ありました。

 そしてたどり着いたベッド脇。そこにある台座は、台座というよりごうかなサイドテーブルという感じでした。わたしの腰くらいの高さで、四本の脚には小さなタイヤが付いています。けれどサイドテーブルと違って、一番上は物を載せるための天板ではなく、布張りになっていました。張られているのは、わたしのベッドよりいいものなんじゃないかというような、いかにもな深い赤の布。そして、その上に横たわっているのは。

「これが、聖剣……」

 わたしは小さな声でそう言って、おそるおそる手を伸ばしました。

 そういえば、わたしの名前を聞いたときに、ルーシーちゃんは「白は聖なる色」と言っていました。その時は何も思わずに聞き流していたけれど、なるほどこの聖剣を見るとよくわかります。

 「闇が世界を覆いし時、白の聖女が聖剣を抜いて世界を救うだろう」。そんな伝説と共に受け継がれた聖剣。少し毛の長いの布の上に置かれたそれは、柄の先から細かい装飾が付いたつば、そしてキラキラと宝石が埋め込まれた鞘の先端まで、すべてが白でした。

 まばゆいばかりの、真っ直ぐ見ることがためらわれるほどの、白。

 聖剣の持ち主であるルーシーちゃんに頼まれてここにいるのだから、わたしがやろうとしているのはまったく悪いことではないはずです。……けれど。持とうとする者を縮こまらせるような、風格みたいな何かが、その剣にはありました。

 とはいえここまで来てこの剣を抜かないわけにもいきません。わたしはまずそれを持ち上げようとして、

「お、重……!」

 即座に手を放しました。剣はほとんど浮いていなかったみたいで、音も立てずまた台座の布に沈みこみました。

 ……うん、これは、ちょっと。鞘ごと持ち上げて引き抜くのは、無理。

 わたしは作戦を変え、剣を台座に寝かせたまま柄を引っ張ることにしました。左手で鞘を押さえ、右手で柄を横に引っ張ります。

 ……実を言うと、わたしはちょっと期待していました。ルーシーちゃんが抜けなかった聖剣、わたしには抜けるんじゃないかって。

 だって、「別世界の自分に頼まれて代わりに世界を救いに行く」なんて、とっても主人公っぽいじゃないですか。物語の主人公なら、ここでかれいに聖剣を抜いて世界を救い、その世界の王子様とかお姫様とかと結ばれるところじゃないですか。

 だから、わりとるんるん気分で力を込めて。

 ありったけの筋力で引き抜こうとして。

 押したり引いたり、横に揺すったり。

 …………あらゆる手段を用いて、体感十分が経過しました。

「む、無理。抜けない……」

 全力で格とうしたものの、聖剣はぴくりともせず、とうとうわたしは柄から手を放しました。その手をひざに付き、荒れた息を整えます。

「抜けると思ったんだけどなあ。ダメかあ」

 恨みがましく聖剣をにらみましたが、当然それでなにか変わるわけではありません。わたしはついにあきらめ、鏡の前に戻りました。

「ルーシーちゃーん、いる? ……ごめんね、聖剣、抜けなかった」

 わたしは精いっぱい申し訳なさそうな顔をして謝りました。抜けなかったのは残念だけど、ここはわたしの世界じゃないし、他の世界にもアテはあるみたいだし。そんなに気にすること、ないよね。

「……そう。わかったわ。じゃあ、お互い元に戻りましょう。シロ、来たときと同じように、鏡に両手をついて」

 ルーシーちゃんの顔はかげったけれど、それ以上は何も言いませんでした。わたしは「うん」と頷いて言う通りにします。

 わたしたちは向かい合うようにして互いの両手を合わせました。そしてルーシーちゃんが呪文を唱え始めます。意味はわからないけど、五分くらいはある呪文。来たときはその呪文の後に鏡――というか窓――が光り、引き込まれるようにして鏡の国に入り込んだのでした。

 ルーシーちゃんが静かになります。呪文を唱え終わったようです。――少しだけなごり惜しいけれど、この鏡の国ともさよならです。もうちょっと観光とかしたかったかも。

 鏡がゆっくりと光――。

 …………。

 光りません。

「……ルーシーちゃん?」

 無言で数秒見つめ合って、先に声をあげたのはわたしでした。……ルーシーちゃん、失敗しちゃったのかな?

 ルーシーちゃんは慌てたように、

「ご、ごめんなさい。もう一回やるわね」

 と言い、再び呪文を唱え始めました。

 けれどそれから五分くらいして呪文が終わっても、一向に鏡は光りません。そんなことを、数回繰り返して。

「……シロ、ごめんなさい……。どうやら、こちらの世界に魔力が少ないのと、闇の軍勢の力が邪魔してるみたいで……」

 小さな声で、わたしがこの数十分必死に考えないようにしていたことを口に出します。

「お互いの世界に、戻れないみたい…………」

「そ、そんな…………」

 わたしが鏡の国に来たのは、ルーシーちゃんの「代わり」に聖剣が抜けないか「試す」ためで。ダメでも「すぐ帰れる」と言われたからで。

 戻れない、なんて。

 鏡の国滅びゆく世界から帰れない、なんて。

「そんなの、聞いてないよ……」

 ツヤツヤ光る銀色の鏡の表面。それが真っ暗になったみたいに。

 わたしはただぼうぜんと、そこに立ち尽くしました。

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鏡の向こうの聖女シロ 氷室凛 @166P_himurinn

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