最終章(灯り)

五月の連休を利用して僕はこの街に帰って来た。失ってしまった何かを見つけに。城跡公園でその何かを思い出そうと瞼を閉じた。あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。瞼を開くと夕暮れ時になっていた。公園にいた子どもも大人も帰っていなかった。昼間、暑いからジャケットを脱いでいたが、今は、少し肌寒く感じた。誰もいない公園は蕭条としていた。


僕はベンチから立ち上がった。そして、ゆっくりと歩き始めた。あの時、父は何故、幸崎さんに自分の左手の過去を話したのだろう? 色々と理由を説明していたけど、あれは、父の告解だったのではないかと僕は思う。では、何故、幸崎さんだったのだろう? 父は幸崎さんの中に自分を見たからだ。幸崎さんは父と同じぐらい性急な人だ。副主任助手に選ばれてからヤクザに襲われて左指の自由を失うまでの話は、父の性急さそのものだと僕は思う。他の誰かが助手に選ばれていたとしたら、その人がヤクザに襲われることなどなかった。幸崎さんも同じだ。たとえ、人事制度に問題があったとしても、三回も表彰された優秀な証券会社の社員が、突然、ハンバーグ屋に転身したことは性急を超えて無謀だった。僕には、幸崎さんの転身が、パラシュートなしで飛び降りたスカイダイビングのように今も思える。


そして、その無謀な幸崎さんは、幸運にも父に救われた。父がサチザキとスタックスの共同経営を幸崎さんに提案したのだ。ただ、共同経営ではあったが、実際には、父が全てを指揮した。サチザキには商店街の近くに住んでいた父の知り合いのコックに手伝いに来てもらうようにした。引退して孫の遊び相手をしている人だったが、まだ十分に働ける人だった。そして、幸崎さんは、昼間はサチザキで働き、夜はスタックスに通い、父の下で修業した。関元副主任直伝のデミグラスソースの作り方も父から教わった。父に鍛えられ、幸崎さんは一人前のコックになった。


中学三年の夏休みが終わり、少ししたある日のことだった。履甚の前を通ると、公矢君と美星ちゃんを遊ばせている江美香の祖母に会った。

「友弘君。私は、あなたのお父さんにもお母さんにもあなたにも謝らなければならないことがあります」

江美香の祖母が、突然、そう言って話を始めた。

「長男の功造が商店街を追われてから、それと入れ替わるように安森さんがこの商店街に店を開きました。私は、了治さんを見て、功造が帰って来たのかと思いました。背格好も似ているし、どことなく雰囲気も似ていたからです。私は了治さんに功造を重ね合わせました。私は、理不尽な形で商店街を追われた功造のことに納得していませんでした。その思いを了治さんに託しました。商店街の住人を見返して欲しい。都会に出て指をケガしたけれど、故郷の商店街でもう一度、やり直す姿を見せて欲しい。そうすれば、功造を永久追放にした人たちも、きっと後悔するに違いない。やり直せたはずの若者の可能性を断ち切ってしまったのだと。実際に、了治さんは店を開店してから毎日一生懸命に働きました。私は、ようやく心が晴れました。持って行き場のない憤りも消えました。でも、五年ほどした頃、了治さんは突然、店に出なくなりました。何故なのか、その理由が分からない私は、今度は、持って行き場のない憤りを安森さんとご家族に向けてしまうようになりました。友弘君。事情が分からなかったとはいえ、長い間、ご迷惑をおかけしました。了治さんと羽津恵さんには改めてお詫びに伺います。あなたにもお詫び申し上げます」

僕は、江美香の祖母に言った。

「お会いできませんでしたが、僕は、甚田功造さんが好きです。誰よりもこの商店街を愛していたからです」

それを聞いて、江美香の祖母は微笑んだ。そして、

「長原会長よりも、深情けだったけどねえ」

と呟いてから、アーケードを見上げた。

それは、かつて甚田功造が見上げたのと同じアーケードだった。


ある日、僕は江美香に尋ねた。何故、店の事務机で勉強するのかを。彼女は言った。伯父が商店街を追放されたのを知った日から、商店街の住人に甚田功造の姪はこんなに頑張っている。一生懸命に商売をして成功した伯父に似て、姪の私も頑張り屋なんだと思わせたかった。彼女はそう言った。僕は、自分が店のテーブルで勉強していた理由を説明した。彼女は、それを聞いてお互い負けず嫌いねと笑った。それから、僕は、毎回テストで学年一番になるぐらい一生懸命勉強するのは、伯父のことだけではなく、彼女に何か目標があるからではないかと尋ねた。彼女は言った。「近い将来、この商店街は無くなる。どれだけ会長が頑張っても、時代の波には逆らえない。その時、私は、このアーケード商店街を追われた伯父の悲しい思い出も、それから、友弘君や長原君との楽しかった思い出も、全て私の手で終わりにしたい。良かったことも悪かったことも、全て私の手で。そのために、私は、遠い大学にある建築工学部の都市空間デザイン学科で、街の再開発デザインを勉強したい。そして、この街の再開発が始まった時には、私も、再開発事業に参加して、このアーケード商店街と永遠にお別れする。そのためには、まず難しい入学試験に合格しなければならない。だから、私は一生懸命勉強している」

僕には、彼女の気持ちがよく分かった。テーブルと事務机の違いはあるけど、僕ら二人は、同じ思いを抱きながら勉強していたからだ。そして、それは、ひと言では言い表せないアーケード商店街への僕らの想いだった。


それから数年後、江美香の言う通りになった。僕が高校三年の秋のことだった。地元の普通科高校に進んだ僕は、推薦入試で大学に合格した。そして、僕は学校から帰ると毎日、店の手伝いをしていた。ある日、魚迅の大将がスタックスに入って来て、「再開発が議会で決まったよ」と言った。地方議会で可決されたということだった。商店街の誰も反対運動を起こさなかった。誰も役所に押しかけることもなかった。長原会長でさえ声を上げなかった。江美香の言った通り、誰もが時代の流れを感じていたからだった。


街は一瞬にして消える。僕はそのことをこの時、初めて知った。

再開発計画が決まって、商店街の人々はそれぞに移転先を探し、新たな場所に店を開いた。とはいえ、それは、肉辰や魚迅のように大きく商売をしていた店の話であり、この時を機会に廃業する店も多くあった。スタックスとサチザキは、商店街を中心とした再開発地区から離れた国道沿いに店を移した。新しいスタックスには、今まで無かった駐車場が完備されていた。僕は都会の大学に進学したのだけれど、帰省するたび、いつも、すぐアーケード商店街に向かった。誰もいなくなった商店街を見るのは辛かった。でも、商店街そのものは、まだ壊されずに残っていた。だから、僕はその誰もいなくなった商店街を見ると安心もしたのだ。大学三年生の夏休みだった。帰省して荷物を自分の部屋に置いた僕は、すぐアーケード商店街に向かった。アーケード商店街は無くなっていた。周りの風景も一変していた。大手建設会社によって建てられた二階建て住宅が整然と建ち並ぶ住宅街になっていた。僕は違う場所に訪れたのかと思った。表通りも裏通りも何もかも無くなっていた。ただ、肉辰のおかみさんがいつもリサーチに行っていたスーパーは残っていた。それを見て、僕は、自分が立っている場所が、サチザキがあった辺りだと分かった。


四十歳の今、故郷に帰ってきた僕は、何を見つけたのだろう?

僕は、十五歳のお盆休みに父と登った石垣の上に向かっていた。小さな城跡である。段数の少ない緩やかな石段で、子どもの頃は、もっと高いと思っていたのだけれど、すぐに登れてしまった。街一面が夕焼けに包まれていた。僕は、この時、初めて、故郷に帰って来たと思った。街を見下ろしても、もうアーケード商店街はない。全てが変わってしまったが、夕暮れ時の澄んだ空気を吸って、僕は、ようやく自分の故郷に帰って来たと思った。石垣の上の東屋は塗りかえられているだけで昔と変わらなかった。僕はベンチに座った。急に亡くなった父が身近に感じられた。

「父さん。僕は何を間違ったんだろう? 会社に入ってから、僕なりに一生懸命やってきたんだ」

僕は、もういない父に語りかけた。

返事はなく、言葉は宙に浮いたままだった。

僕は赤い空を眺めていた。しばらくすると、涙が出て来た。空がにじんで見えた。

それから僕は、もう一度、父に語りかけた。

「父さん。僕は、今、嘘をついた。この街に帰って来て、はっきり分かった。僕は他人を見ないようにして突っ走ってきた。それは、父さんが、副主任助手になってから、先輩コックのことを顧みずに、上だけを見ていた頃と同じだったんだ。しかも、僕は父さんよりずっと頑なな性格だ。気づいていたのに、その自分を変えようとしなかった。だから、異動になった。そして、本当は、こうなることが分かっていたのに、僕は意地になってそういう自分を変えようとしなかった」

空がもっと赤くなった。

「もし、僕にも右山さんみたいな友だちがいてくれたら。でも、そうなると僕も、ヤクザに襲われることになるから、その部分だけは勘弁してもらって……、とにかく、親身になってくれる友だちがいたら、僕はもう少し、優しく生きられたかもしれない」

夕焼け空に向かってそう呟くと、僕は、母にも僕にも優しかった父と違って、妻にも子どもにも距離を置いている自分に気づいた。

僕はいつからか変わった。大夢町アーケード商店街の頃の僕から、今の僕はあまりにも遠いところに来てしまった。あの頃の純粋な中学生にはもう戻れない。でも、今のままではいけないと僕は思った。

今度は、妻と子どもと一緒に父の墓参りに来よう。

そして、今から、スタックスに行って、母に会おうと思った。

父は突然、死んだ。急性心不全だと医者は言った。もう十年になる。その日、僕は取引先との大事な打ち合わせで、母から連絡があったのに、すぐに故郷に帰らなかった。父が死んだ次の日の夜遅くに、父の通夜の最中に帰った。その日から、母と絶縁状態になっていた。


駅前でタクシーを拾ってスタックスに向かう間に、長原と江美香のことを思い出した。長原は、今、米を販売するのではなく、米を作っている。この国のコメ離れを食い止めるべく、誰もが美味しいと進んで食べる、そんな米を作ると、奥深い農村部で生活しながら、米を作っている。その村の女性と結婚し、二人の間に、小学六年生の男の子がいる。毎年、年賀状を送ってくれる。美しい田園風景の中に、家族三人が笑顔で並んでいる写真が、いつも印刷されている年賀状だ。

江美香は、街の再開発事業に参加できなかった。再開発事業が始まった時、彼女は、アメリカの大学に留学していたからだった。探求心の強い彼女は、都市空間デザインについてもっと学びたいと留学したのだった。今も、アメリカに住んでいる。というより、もう日本には戻って来ない。何故なら、江美香は留学先の大学でアメリカの学生と恋をし、結婚したからだ。江美香は、今、そのパートナーと二人で建築事務所をしている。彼女からも、毎年、Merry Christmas and Happy New Year と書かれたクリスマスカードが届く。

クリスマスカードには、いつも、二人の姿と一緒に模型が写っている。二人が作ったアーケード商店街の模型だ。精巧に作られたものではなくて、アーケードを強調したおもちゃのような模型だ。僕は、毎年、そのアーケード商店街の模型を見るたび、あの頃の自分を忘れてしまった悲しみで胸が痛くなる。でも、もしかしたら、今年の冬には、彼女からのクリスマスカードを見て、幸せな気持ちになれるかもしれない。僕はそう思って、タクシーの窓から、外を見ると、すっかり陽が暮れていた。そして、妻に電話をしようとした時、タクシーはスタックスに着いた。


僕はタクシーを降りて、運転手に料金を払うと、店の入り口に向かった。窓から見える灯りは、僕が子どもの頃、過ごした大夢町アーケード商店街にあったスタックスと同じ輝きだった。僕は一瞬、商店街にいる錯覚を起こした。とっさに空を見上げた。そこには夜空が広がっていた。でも、天井はなかった。アーケード商店街はもうない。けれど、それは今も、僕の心の中にある。そして、これからも、ずっと僕の心の中に生き続ける。アーケード商店街とは、そこに生きた人々の人生の集積であり、それを優しく見守っていたアーケードの存在だった。それは、僕にとって、かけがえのない思い出であり、同時に、今も道に迷った時に帰るべき心の場所なのだ。店の入り口に向かって、駐車場のアスファルトの上をゆっくりと歩きながら、僕は、見上げれば空に天井があったあの頃のことを思い出していた。



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見上げれば空に天井があったあの頃 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

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