第三章(左手の過去)6

六.

スタックスを開店して五年の歳月が過ぎた。友弘が生まれていた。了治の父と母が友弘の顔を見によく遊びに来た。了治は左手の使い方が難しいため、調理を中断することがあった。そんな時、羽津恵が代わって調理をした。羽津恵自身も知らなかったが、彼女には料理の才能があった。了治が料理を作るのを見ているだけで、すぐに作り方を覚えた。更に、了治が驚いたのは、羽津恵は、デミグラスソースの作り方まで、了治が作るのを見て、いつの間にか、覚えしまっていたことだった。

「俺のホテルでの七年の努力って何だったんだろう」と了治は羽津恵に笑って言った。


十二月の定休日の朝のことだった。休みの日でも、了治は店のシャッターはいつも開けておくので、その日も開けに行くと郵便受けに一通の手紙が入っていた。手紙を見ると宛名は、安森了治様とあり、差出人は書かれていなかった。消印は滲んで分からなかった。早朝の薄暗い店の中は、吐く息も白かった。羽津恵と友弘は寝室でまだ眠っていた。丹前を着た了治は、寝室には戻らず、店のテーブルについて、もう一度、手紙を見て考えた。差出人が書かれていないのは、書けない理由があるからだと思った。その瞬間、これは右山の手紙だと気づいた。了治は、急いで封筒を開けると中の便箋を取り出した。


安森了治様


あの日から、五年が過ぎました。スタックスという店名は、君らしくていいですね。よく寮の君の部屋で音楽を聴かせてもらったことを覚えています。君が故郷でスタックスという店をやっていることを調べるのが僕には精一杯でした。何故なら、あの日以来、僕は逃げ続けているからです。今、この手紙を書いている場所も、君に伝えることはできません。

本当は、一日も早く警察に出頭しなければならない。そのことが分かっているにもかかわらず逃げ続け、五年も経ってしまいました。


僕は罪を償わなければなりません。いつまでも、逃亡生活を続けていてはいけない。五年が過ぎた今、ようやくその決心がつきました。ただ、その前に、どうしても君に伝えておきたいことがあり、この手紙を書いています。それは、あの事件についてであることは言うまでもありません。僕の浅はかな考えが、君の左指の自由を奪ったことに関する話です。五年前の十二月のあの日のことです。君はもう思い出したくないと思います。でも、どうかこの手紙を最後まで読んでください。僕が君を本当の友人と思っていたことの証として、真実を書きます。


君もホテルの厨房の誰もが、僕が、君と関元さんに嫉妬して、僕の友人である元暴力団員(F)に君を襲わせたと思っていると思います。そして、関元さんが、僕に何の断りもなく、君にデミグラスソースの作り方を教えたことに僕の嫉妬は頂点に達し、遂には、君を襲わせた。誰もがそう思っていると思います。何故、誰もがそう思っているのか? それは、僕が誰もがそう思うように振る舞ったからです。あるいは、君を襲った時、Fがそう振る舞ったからです。君が襲われる当日の朝、僕が寮を出たのも、全て、僕が君に嫉妬して事件を起こしたと思わせるためでした。


では、一体何のために僕がそんなことをしたのかを今からお話しします。


理由は、あまりにも早く出世をする君への先輩コック達の嫉妬が抑えられないところまで来ていたからです。関元副主任の助手に抜擢された時から、それは始まったのだと思います。でも、君は案外、人のそういう気持ちに鈍感なところがあるので気づいていませんでしたが、君は仕事がよく出来るため、以前から一部の先輩コックからは嫌われていました。

君が助手に抜擢された時から、デミグラスソースの作り方を関元さんに教えてもらうまでの間に、一部の先輩コックにとどまっていた君への妬みや憎しみが、ほとんど全ての先輩コックの間に広がりました。

君は、覚えているでしょうか? その中に、Tという男がいたのを。料理の腕は一流のコックでしたが、酒やギャンブルの好きな素行の悪い男でした。そのTが、皆で君を懲らしめるべきだと言いました。皆、賛成しました。僕は、先輩コックの大部分はTの言う「懲らしめる」ということの意味がはっきり分かっていなかったと思います。でも、Tは粗暴な男でした。明らかに、暴力で制裁を加えるつもりだと僕には分かりました。僕は何とかしなければならないと思いました。ちょうどその時でした。僕は偶然、仕事の帰りにFに会いました。Fと僕は幼なじみでした。Fは子どもの頃から、乱暴者で、高校を中退して暴力団に入った、Tとは違って、謂わば筋金入りの不良でした。Fに誘われ一緒に酒を飲みました。そこで、君を取り巻く危険な状況を話しました。プロの不良だけに、こういう状況を切り抜ける何かいい知恵を与えてくれるかと思ったのです。Fは問題を起こして組を破門されていました。だから、組員の目があってあの街では生きにくいから、逃げるつもりだと言いました。そして、僕にも言いました。「お前も、街から逃げてもらうことになる。それと、ムショに入ることはないが、お前にも前科がつくがいいか?」と言いました。私は、一体何をするつもりなのかと尋ねました。すると、Fは言いました。他のコックはその気がなくても、Tに煽られたら、人間は、自分でも何をするか分からないものだ。最悪の場合、集団リンチになる。だから、先に、お前が嫉妬に駆られて、その友だちを俺に襲わせることにすればいい。お前も嫉妬しているんだろ? 少しでも、そういう部分があれば皆、納得する。その話を聞いて、僕は、真っ先に、襲うとは具体的にどういうことなのだとFに聞きました。するとFは、コックだから、指の二、三本へし折ったら、みんな納得する。納得するというより、自分たちがしようとしていたことはこんなに恐ろしいことだったのかって思う。そして、それ以降、二度とそんな考えは起こさなくなると言いました。僕は焦っていました。そのため、Fに、その提案を一箇所だけ修正させて、依頼してしまいました。修正した箇所とは、指の二、三本をへし折るのではなく、左指の二本ぐらいを捻挫させる程度にすることでした。骨折などしたら、君の料理人生命にかかわるとFに言い、その上で、依頼しました。つまり、指を絶対に折るようなことがあってはならない。そんなことをしなくても、夜道で元暴力団員に襲われたという事実だけで十分に、先輩コック達を委縮させられると考えたのです。ただ、繰り返しになりますが、その時、僕は焦っていました。そのため、Fの本質を忘れていました。君を襲う前までは、Fも僕の言ったことを覚えていたのだと思います。Fも、条件つきの依頼に「俺とお前の罪も軽くで済む。いいアイデアだ」と言ったからです。でも、一旦、狂暴になるとFはそんなことは忘れてしまいます。Fが組を破門になったのも、その狂暴性を扱いきれないからでした。僕は馬鹿でした。君を助けるつもりが、君の左指の自由を奪ってしまったのです。


僕は、君がデミグラスソースの作り方を教えてもらったあの時、既にホテルを辞めると決めていました。君が助手に抜擢された頃から、自分の限界を感じていたからです。僕には料理人は続けられない、だから、新しい道を探そう。そういう気持ちになっていたのです。関元さんと君がデミグラスソースを作り上げたあの朝、厨房に偶然、居合わせた僕は、二人に心の中で、さようならを言ったのです。去る人間に、嫉妬心は湧きません。僕は君をずっと応援するつもりでした。


僕は、浅はかで愚かな人間です。君の人生を台無しにしてしまいました。君なら、総料理長にもなれたのに。

五年の歳月が過ぎ、僕は何から逃げて来たのかようやく分かりました。

僕は警察に出頭するにも値しない人間です。

僕が君に本当の罪の償いをするのなら、死をもって償うしかありません。

僕は、今から永遠に旅立ちます。

さようなら。


右山一巳


了治は手紙を読み終えて、茫然とする中、呟いた。

「俺が悪いんじゃないか……。俺が右山にしなくてもいいことをさせてしまって、あいつを犯罪者にしてしまった」

そして、手紙が遺書であることに動揺していると、店の電話が鳴った。了治は、急いで電話を取った。どこか知らない街の警察署からだった。右山はその街にある古い商人宿にこの三日泊まっていた。前の二日は早朝に起きて散歩に出かけたのに今朝は起きて来なかった。気になった宿の者が部屋の外から声をかけたが返事がなかった。そこで、中に入ると右山が自ら命を絶っていた。右山のズボンのポケットにスタックスという文字と電話番号を書いたメモがあったので、今、連絡した。電話の向こうでこう説明があった。この日から、了治は厨房に立てなくなった。以降、長い年月、レコードプレーヤーの前に寝転がる日々を過ごしたが、彼の頭の中には、ずっと右山の死が渦巻いていた。

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