第三章(左手の過去)5

五.

診察室でレントゲン写真を見せながら、主治医は説明した。

「もし、安森さんの左手の二本の指が、全て粉々に砕かれていたとしたら、左手の人差し指も中指も切断するしかありませんでした。でも、奇妙なことに砕かれているのは、二本の指とも第二関節の骨だけです。ですから、切断手術は避けられます」

了治と羽津恵は、並んでその説明を聞いた。そして、羽津恵が、

「それなら、また、二本の指は、元通り動くようになるということでしょうか?」

と主治医に尋ねた。

すると、主治医はこう答えた。

「残念ですが、元通りに動くようにはなりません。関節の骨が粉々に砕かれているため、手術をしても関節を再生することは不可能です。ですから、このまま、指を固定して、骨折が治癒した時点で症状が固定したとするしかありません。つまり、はっきり申し上げますが、二本の指は曲げることが出来なくなり、今後、指としての機能は果たせなくなります。但し、切断手術は避けられるため、外見上、左手は、従来と変化はありません。特に我が国では、手指を失うことは、ある意味において、社会的な誤解を招く可能性があります。そのことを考えると、あくまでも、私の個人的な感想ですが、骨折が関節だけにとどまったことは不幸中の幸いだという気がします」

了治は主治医に言った。

「関節だけを狙ってやったんだと思います。今、思い出すと、そのヤクザは落ち着いていました。呼吸も乱れていませんでした。やり慣れている感じでした」

「確かに、暗闇の中で、あなたを押さえつけた状態で、こんなことができるのは、やり慣れているからでしょう。しかし、こういうことをやり慣れているとは恐ろしい男です。ただ、疑問なのは、そのヤクザは、あなたの知り合いの依頼を受けてやったそうですね。だとすると、関節だけにとどめたのは、後で指を切断しないために手加減をしてくれと、あなたの知り合いから頼まれたからでしょうか? もしそうならば、依頼者は、何故、そんな配慮までしたのでしょう? あなたのことが憎くて依頼したはずなのに?」


主治医の疑問に了治は、あの夜、ヤクザが言ったことを思い出した。料理人の人生を終わらせるために左手を狙うよう、右山から依頼を受けたとあのヤクザは言った。だが、後で指を切断しなくていいように、手加減してくれと、右山がヤクザに頼んだとは思えない。そんな医学知識は右山にはない。だから、ヤクザの判断でそうしたのだろう。あの男のこれまでの経験から来る“リンチの相場観”によって関節だけを潰したのだ。決して、手加減をした訳ではない。ただ、医師が言うように、右山の躊躇が、了治にも伝わって来た。左手にしてくれと頼むぐらい躊躇したのなら、やめておけば良かったじゃないか? 俺も酷いことになっているが、お前は犯罪者になってしまった。右山は今、どこにいるのだろう、と了治は思った。


右山もヤクザも、まだ捕まっていなかった。了治が襲われた日から、一週間が経っていた。男子寮の右山の部屋に警察が捜査に入ると、部屋はそのままだった。だが、預金通帳がなかった。銀行に照会すると、了治が襲われる前日に預金が全て下ろされていることが分かった。また、了治が襲われた当日は、風邪で仕事を休んでいたが、実際には、その日の早朝、右山がボストンバッグを持って部屋を出るのを先輩のコックが見ていたことが分かった。もうかなり遠くに逃げている可能性があった。ヤクザの捜査をすると、アパートはもぬけの殻だった。暴力団関係者に聞き込みをしたところ、「問題を起こして組を破門されたらしい。その後、どうしようもなくなって、この街を出て行くつもりでいた。その時に、昔の仲間から今回の依頼を受けたのだろう。だから、街を出るのを少し遅らせて、最後に一仕事してから逃げたのではないか」という答えが返ってきた。


了治がヤクザに襲われた夜、総料理長の宗田と副料理長の田本、そして、調理場主任の石村が駆けつけた。救急外来で僅かしか了治の様子が見られなかったが、三人は、了治の命に別条がないことを確認すると、ひとまず帰って行った。そして、次の日の朝、再度、様子を見に来た。主治医から既に左指が元に戻らないことを聞いていたが、了治にはそのことを黙っていた。代わりに、「若いからすぐに良くなる。一月から主任助手だ。みんなが待ってるぞ。早く元気になれよ」と言って三人は帰った。


関元は一週間が過ぎても見舞いに来なかった。了治の左指はギプスで固定されていたが、体は健康だから、すぐにベッドから起きて、デイルームで一人過ごした。羽津恵は仕事に戻っていた。先輩コックの一人が見舞いに来た。そのままデイルームでしばらく話をした。了治は、関元のことを聞いてみた。

先輩コックは言った。

「ずっと考え込んでる。いつもみたいに、アルコールにも頼ってない。だから、余計に話しかけられない」


先輩コックが帰った後、了治は、予想していた通りになったと思った。了治が入院したことで、関元は元の彼に戻ったのだ。了治という精神的支柱を失い、関元は、再び脆い心を持った関元に戻った。そして、衝撃的な事実を次々と知った。了治がヤクザに襲われ、左指を潰されたこと。そのために、料理人としての人生が終わったこと。更に、それをヤクザに依頼したのが右山だったこと。しかも、右山が了治をヤクザに狙わせた理由は、了治への嫉妬であり、その嫉妬の原因を作ったのは関元だった。原因とは、おそらく右山以外に了治にもデミグラスソースを作らせたことだ。主任助手への了治の昇格もそうだろう。そして、どちらも、関元の発案だった。今、関元は自責の念に激しく苛まれているのだろう。だが、関元は知らない。了治がコックを諦めていないことを。二本の左指が使えなくなった今も、彼は、生涯、料理人として生きるつもりでいる。了治には揺るぎない信念があった。脆い心の持ち主関元愁を、調理場主任にまで昇格させただけあって、了治は、タフな心の持ち主だった。


了治は入院中に、羽津恵を連れて帰郷することを決めた。この左手では、ホテルで働くことはもう無理だと判断し、他にコックを続けられる道を考えたところ、アーケード商店街が頭に浮かんだ。羽津恵と二人で喫茶店を開き、そこで軽食を出すことなら、今の自分にもできる。二人で故郷に帰ろう。了治はそう決めると、羽津恵にその話をした。羽津恵は、最初、驚いたが、すぐに頷いた。彼女には帰る故郷もない。今のホテルもいつまで働けるか分からない。それに、彼女には都会の空気が合わなかった。了治と一緒に行くしかなかった。了治は、両親に電話をした。この時までヤクザに襲われたことを始め、何も話していなかった。父と母は驚いた。そして、今から電車ですぐそちらに向かう。夜遅くになるが、病院に着けると父が言った。それ対し、了治は来る必要はない。自分はもうホテルを辞めて帰郷するつもりだからと伝えた。羽津恵のことや喫茶店の件までは電話では話せなかった。病院の公衆電話から遠方の自宅までは電話代がかかりすぎるため、長い話は無理だった。


二週間で退院になった。手術もリハビリもしないため、それ以上、入院する必要がなかった。退院の前の夜、了治と羽津恵が、退院後の相談をしていると、病室のドアをノックする音がした。関元だった。僅かの間に老けた気がした。関元は笑顔になる時、特に若く見えたが、今は、憔悴して老人のようだった。関元は無言で頭を下げた。羽津恵が、椅子に座るよう勧めると病室の後ろの隅に座った。


関元は静かに話を始めた。

「安森君の料理人としての人生を終わらせてしまったのは私です。同時に、右山君の料理人としての人生を奪い、更に、彼を犯罪者にしてしまったのも私です。私は、その責任を取って、ホテルを辞めました。そして、その時、料理人も引退しました」

了治は、関元がホテルを辞めたと知り驚いた。

「安森君に出会って、私は夢を見させてもらいました。それは良い夢と悪い夢でした。良い夢とは心が丈夫になったと思えたことです。私は子どもの頃から、ずっと心の脆さに悩まされてきました。生来のものだから努力しても治らない。だから、私は夢を見ないようにしてきました。料理が好きだから、ただ料理作りに打ち込むことだけを考えて生きてきました。その私が安森君と出会ったことで、生まれて初めて、自分が注目を浴びることの喜びを知り、また、人並みに出世をしたいと思うことができました。私はずっと自分のことを落ちこぼれの人間だと思ってきました。その私が、君のお陰で、普通の人と同じ喜びや野心を持てたことは、私にとっては、良い夢でした。安森君からすれば、そんな世俗的な喜びを良い夢だと思うのはおかしいと思うかもしれません。だが、私のような人間にとって、普通のこと、つまり、平凡で世俗的な喜びを感じられるということは、自分が人並みの人間であるという証なんです。安森君。ありがとう。お礼を言います」

関元は、心に脆いところはあっても、一流ホテルのレストランの副主任であり、腕の良いコックだ。誰が見ても人並み以上の人物だと了治は思った。でも、関元の脆い心の中を了治は知らない。関元のこれまでの苦悩も知らない。だから、何も問わないことにした。

関元は話を続けた。

「悪い夢というのは、それが夢であることを私が忘れたことです。私の心は強くなった訳ではない。安森君の支えで、それと同じ状態になっているだけでした。君がいなくなれば、私はすぐ元に戻る。この当たり前のことを私は忘れてしまったのです。私が主任になると決まった時、私は君を副主任に推薦しました。君が近くにいなければ、私はすぐ元に戻るからです。一見、君の存在を忘れていないように思える私の行動でした。でも、あの時、私が本当にすべきだったことは、主任になることを辞退することでした。君が常に傍にいないと主任が務まらないということは、それだけで、私には主任を務める力がないということです。それに、一人では主任という職務の重圧に耐えられないことは、これまで何度も主任の代理を務めた経験からもよく知っていました。だから、辞退すべきだったのです。そして、私は副主任として、これまでと同じように主任を補佐しながら働くべきでした。それが私に最も適した生き方だったのです。それなのに、私は全く自分を見失っていました。今、私は、愚かな自分の振る舞いを後悔しています。でも、そのことより、もっと私は悪い夢を見ていました。私は、強者になった錯覚から、弱者の苦しみと痛みを忘れてしまいました。そして、遂には、弱者の存在すら忘れました。それは、右山君の存在を忘れてしまったということです。安森君にデミグラスソースの作り方を教えたことは間違っていないと今でも思っています。現実に、会議でも総料理長、副料理長、主任も賛成してくれました。既に安森君に話したように、先輩コックは、皆、実際には、デミグラスソースが作れます。右山君も作れます。そう考えた時、副主任助手の君だけが作り方を知らないのは認められないことです。会議でも全員意見が一致しました。ただ、私は、事前に右山君に説明することを忘れました。何故なら、右山君の存在そのものを忘れていたからです。もし、私が右山君にきちんとそのことを説明していたら、この度の事件は起こらなかった。そのことを考える時、私は、もう二度と厨房に立ってはならない。私は、料理の世界を去ることで、僅かでも、君たち二人への贖罪としなければならないと考え辞表を提出しました。そして、今夜、安森君に最後の別れを言いに来ました。こんな出来の悪い私を君が一生懸命に支えてくれたことは、決して、忘れません。さようなら」

そして、関元は静かに立ち上がり、そのまま立ち去ろうとした。

「関元さん。待ってください! 俺はこれからも、コックを続けます。羽津恵と二人で故郷に帰って、小さな店をやると決めました。俺はこれからも料理人として生きるんです」

病室を出ようとする関元の背中に、了治は声をかけた。

関元は振り返った。そして、了治の顔を見た。

「安森君。私は、これまで数々の優秀な助手に出会いました。あなたもその一人です。でも、あなたのことは、こう呼ばせてください。あなたは、私の生涯におけるたった一人の愛弟子です。愚かな私のために、あなたは左指の自由を失ってしまいました。でも、あなたなら、きっとやれます。羽津恵さん。彼とともに幸せになってください。デミグラスソースの作り方をあなたに教えて良かった。故郷に帰って店を開いた時、きっとあのデミグラスソースが、二人を助けてくれるはずです」

その後、関元は涙が溢れ出て来るのを隠すように、急いで病室から立ち去った。その瞬間、了治はホテルでの七年が終わったと思った。


翌日、退院しホテルに行くと、そこに関元の姿はもうなかった。ベテランのコックが、既に新たな副主任になっていた。副料理長の田本が系列のホテルに移る話は無くなっていた。関元が辞め、了治も去る。他のホテルの厨房の建て直しをしている場合ではなくなったからだ。

「安森君。この度のことは何と言っていいか分からない。でも、君が、故郷で、新たに店を開いて料理を続けてくれると聞いて、我々は救われた思いがした。君ならできると信じている。頑張ってください」

総料理長がそう言った。田本も石村も了治を見て頷いた。


了治と羽津恵は、すぐに了治の故郷に帰った。了治の両親は、羽津恵の存在に最初、驚いたが、すぐに誠実な人柄の彼女を信頼するようになった。父から商店街会長長原天への口添えをしてもらい、了治は大夢町アーケード商店街にスタックスを開店した。

ちょうどその頃だった。了治を襲ったヤクザが逮捕された。ホテルから実家の骨董屋に連絡があった。父が慌てて店に来て話した。ヤクザは田舎の食堂で無銭飲食で捕まった。そして、警察署で身元の照会をすると、傷害容疑で全国に指名手配されている元暴力団員だと分かり、再逮捕されたということだった。

「今、副料理長の田本さんから電話をもらった。警察から連絡があったそうだ。男は金が無いのに、遠くまで逃げたから、電車賃だけで有り金使い果たしたそうだ。それで、無銭飲食をして捕まったらしい。何だか情けない男だな」

了治は父の言葉を聞いて、安堵した。捕まり方は情けなくても、襲われた了治は、あのヤクザの恐さを知っていたからだった。

右山は行方が分からないままだった。今、ヤクザが捕まったと聞いて、僅かだが、事件が過去のものになった気がした。だが、ヤクザが捕まったのと、右山が逮捕されるのは全く違う。右山が逮捕された瞬間から、再び、了治の中に事件が生々しい苦しみとして蘇ることになる。だから、了治は右山が逮捕されることを恐れていた。心の奥底では、右山がこのまま永久に捕まらないで欲しいとさえ思っていたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る