第三章(左手の過去)4

四.

デミグラスソース作りは、仕事が終わった後の料理指導の時間に行われた。日中の忙しい時間にソース作りを教えることは無理だから、この時間を充てるのは妥当なことだった。だが、了治は、右山に見つからないために、あえてこの時間に行っているようで後ろめたい気がした。


関元は、この前のような世俗的な感じではなかった。むしろ、いつになく緊張していた。

「安森君。デミグラスソース作りは時間がかかる。今から始めると徹夜仕事になる。調理の工程は複雑ではないが、一般的なデミグラスソースの作り方とは違う点が幾つかある。そして、それこそが、このホテルの初代総料理長が考え出した独創的なポイントだ。君もしっかりと身につけて自分のものにするように。そのために、初めてのデミグラスソース作りだが、君が中心になり、それを私が手助けする形で進める。今日は、私が君の助手に徹するから、分からないことがあれば、何でも聞いてくれればいい」

ホテル伝統のデミグラスソースの作り方を教える時には、最近のあの関元でさえ、謙虚になるのだと了治は思った。


了治は、関元が用意した材料を見た。牛すじ肉、玉ねぎ、ニンジン、セロリ、トマト、赤ワインなど一般的なデミグラスソース作りに使う材料が調理台の上にあった。更に、幾つかは、通常はデミグラスソース作りには使わない意外な材料があった。

「これらの材料も、ソース作りに使うんですか?」

「そうだ。老舗ホテルに比べて歴史の浅いこのホテルを一流に押し上げるために、初代総料理長が苦心して作り出したデミグラスソースの材料だ。安森君。私はこの材料を見るたびに、デミグラスソースに込められた初代総料理長の強い思いを感じるんだ。そして、君なら、その思いを感じ取ってくれると信じている」

了治は、関元の熱のこもった言葉に気圧されるように頷いた。


「では始めよう」と関元が言った。了治は、牛すじ肉をフライパンで焼いた。関元は野菜を切って、フライパンで炒めた。そして、火を通した牛すじ肉と野菜を鍋に入れて煮込み始めた。ここから、デミグラスソース作りは、通常、長時間煮込んだ後に、その煮汁を濾して、スープにし、更に煮込んでいくという工程に入る。だが、「安森君。ここからが秘伝のやり方だ」と関元が了治に教えながら、このホテル独自のデミグラスソース作りが進んでいった。初代総料理長という人は、非常に研究熱心な人だったということは了治も知っていた。でも、それは話で聞いて知っているだけだった。それが、今、関元の指導の下、初代総料理長の独創的なアイデアの数々を実践し、了治は、その人物の想像力の豊かさと料理への愛情の深さに魅了された。了治は、時が経つのも忘れて、関元とともにデミグラスソース作りに没頭した。


早朝の冷たい空気が厨房にも広がっていた。そして、その空気の中に、デミグラスソースの香りがあった。一晩かけてデミグラスソースが完成したのだった。

「安森君。見事だ。私の手助けがあったとはいえ、初めてで、ここまで完成度の高いデミグラスソースが作れるとは、正直なところ、思っていなかった」

「副主任のお陰です。それにしても、初代総料理長の独創性には驚きました。凄いデミグラスソースですね」

「安森君にも、このデミグラスソースの凄さが分かったかね? 先日、君は、デミグラスソースを作るのは、右山君に悪いと躊躇していたが、作り上げた今、後悔しているか?」

「いえ。後悔なんてしてません。感謝しています。関元副主任。本当にありがとうございました」

了治がそう言うと、関元は久しぶりに笑顔を見せた。

そして、関元は、出来上がったデミグラスソースの入った鍋に向かって一礼した。了治も一礼した。

「また、一人、このホテルのデミグラスソースを作れるコックが生まれました」

関元は、初代総料理長にそう報告した。


この時、二人以外にも、厨房に人がいた。右山だった。入り口のところに立っていた。右山は昨日、寮の鍵を無くした。昨日は管理人に頼んで部屋を開けてもらったのだが、その後、どこを探しても鍵が見つからなかった。そこで、もしかしたら、厨房で落としたのかもしれないと、業務が始まる前に探しに来たのだった。右山は、何も言わずに入り口のところから、ずっと了治と関元を見ていたのだった。了治は、ふと誰かの視線を感じて、入り口のほうを見た。でも、その時には、もう右山の姿はそこにはなかった。


そして、再び、忙しい毎日が続き、十二月に入ったある日のことだった。その日も、了治は、厨房で仕事に追われていたが、「少し話がある」と関元に呼ばれた。場所は、宗田と田本が商談に利用する応接室だった。

「この話は、まだ誰にも言わないで欲しい。実は、副料理長が来年の一月から、系列のホテルの総料理長に就任することになった。そのホテルの料理が悪いため、乞われて厨房の建て直しのために総料理長になる」

関元はそう言った。

了治は言った。

「田本さんなら、必ず、建て直しに成功すると思います。頑張って欲しいです」

だが、関元は、焦り気味にこう言った。

「そんなことじゃないんだ。問題は、その後のポストのことだ。石村さんが副料理長に就任することは間違いない。そして、私が調理場主任に就くことも間違いない。問題は、私の後任の調理場副主任を誰にするかなんだ。私は、安森君。君を推薦しようと思う。どうだね? 嬉しいだろ?」

了治は呆れた。関元は、どこまでも自分の精神的支柱である了治に傍にいて欲しいのだ。それだけの理由で、了治を副主任にしようとしているのだった。

「関元副主任。俺はまだ二十五歳です。厨房のベテランのコックの中には、俺の父親より歳上の人もいます。俺のような年齢とキャリアの人間が副主任になれるはずがありません」

了治はあまりにも馬鹿馬鹿しいので、それだけ言うと、部屋を出て厨房に戻った。そして、関元の話を忘れて、仕事に没頭した。


だが、それから数日して、了治は、総料理長の部屋に呼ばれた。宗田は了治にこう話した。

「私も、田本君も石村君も、君を高く評価している。その若さで、助手としての業務だけでなく、関元君自身のサポートまで行っている。素晴らしい。ただ、関元君から副主任に君を推薦された時は驚いたよ。そして、いくら君がよく出来るからといって、年齢とキャリアを考えると、副主任は無理だと判断し、関元君にそう言った。でも、関元君はどうしても検討して欲しいと譲らなかった。そこで、私と田本君と石村君の三人で、もう一度、考えたんだ」

了治は何か嫌な予感がした。

宗田は続きを話した。

「安森君に調理場副主任ではなく、調理場主任助手として頑張ってもらおうということになった。君の若さで副主任に就任すると不愉快に感じる者もいるかもしれない。だが、関元主任の助手という形で昇格するなら、受け止められ方も違うはずだ。つまり、引き続き、関元君の助手ということで、今までと変わらず働いてもらえばいい。これなら、引き受けてもらえるね?」

宗田の話を聞いた了治は、主任助手などという今まで無かったポジションを作ってまでして、自分に関元のお守りをさせたいのだと呆れた。そして、ため息をつくと、彼は、一つだけ質問した。

「右山はこのことを知っていますか? あいつがどう思っているか気になります」

「大丈夫。君が気にすると分かっていたから、右山君には、関元君が直接この話をした。話を聞いた右山君は、君ならやれると思うと言って賛成したよ」

宗田は笑顔で言った。

了治は、それを聞いて、ほっとした。そして、主任助手の件を承諾した。


クリスマス前のその日は、雪が降っていた。クリスマス当日は、ホテルのレストランは忙しい。だから、羽津恵と二人で、その日にクリスマスと主任助手就任のお祝いをしようと、彼女の好きな小さなレストランを予約した。偶然だが、ホテルの寮から、比較的近い。だから、歩いて行けた。了治は仕事が忙しくて、予約時間より少し遅れた。そのため、ホテルを出る前、レストランに電話をすると、「かしこまりました。お連れ様はもう店のほうにいらっしゃいますので、お伝えしておきます」と言った。いつもの品の良い店員だと了治は思った。了治は、雪の降る冷たい夜の道を歩きながら、早く暖かいレストランに行こうと急ぎ足になった。


レストランの近くに来ると、道が細くなっている。そこは、昔、飲み屋街だった。でも、もうどの店も廃業して、僅かの距離だが、灯りのない場所になっていた。羽津恵がこの道を無事に通れたかが心配だった。だが、先ほどの電話で彼女の無事が確認できて了治は安心した。真っ暗な夜道は、男の了治でも一人で歩くのは怖い。雪が先ほどより多く降って来た。了治は早くこの道を抜けようとした。その時だった。向かいから歩いて来る男の声がした。

「もう十二月か。今年も貧乏なまま終わる。俺は金に縁がないのかねえ」

了治が声のするほうを見ると、男の影が見えた。大きな男だった。思わず、了治は身構えた。

「子どもはお年玉がもらえるけど、大人は年が明けても何ももらえない。不公平だよな。俺も子どもの頃に戻りたい」

男は酔っているらしく、かなり大きな声で、そんなことを言っていた。了治は、関わらないように、うつむいて歩いた。


男はふらふらしながら歩いていた。そして、男と了治は、すれ違った。何も起こらなかった。了治は、ほっとしてレストランを目指した。暗いこの道からも、もうすぐ抜け出せる。そう思った時だった。すれ違ったはずの男が、了治の真後ろにいた。

「俺、本当は、シラフなんだよ。酔ったふりしてただけなんだ」

男の声は先ほどと違い、冷静だった。

「俺はあなたのことは知りません。だから、話しかけられても困ります」

「あんたは知らなくても、俺は、あんたを知ってるんだよ」

「俺は知りません。ですから、もう行きます」

「まあ、そう急ぐなよ」

その声がしたのと同時に、了治は後ろから男にはがいじめにされた。全く抵抗できない力だった。了治は、その力の強さに、この男は素人じゃないと思った。首を絞められて声が出なかった。息もできなかった。窒息すると思った。その苦しみの中、了治は、必死で抵抗し、逃げようとした。すると、男の右腕だけが了治の体から離れた。了治はこの時だと思い、逃げ出そうとした。だが、男は左腕だけで、了治を道路にねじ伏せた。了治は、いきなり顔をアスファルトに叩きつけられた。口の中を切ったらしく血の味が広がった。男は黒いジャンパーのポケットに右手を入れていた。そして、ポケットから球体を取り出した。僅かな光にその球体が反射するのを見て、鉄球だと了治は思った。


男は了治に馬乗りになっていた。そして、男の右膝と左手を使って、了治の左手を無理やり広げさせると、人差し指と中指だけを狙って、鉄球で叩き潰した。了治は、痛みのあまり絶叫したが、暗い夜道には誰もいなかった。男は鉄球を了治の二本の指に三度振り下ろした。了治は鉄球で指の骨が砕かれるのが、はっきりと分かった。男は、鉄球を振り下ろすのをやめた。それから、男はゆっくりと立ち上がると、倒れている了治に言った。

「右指だと、お前が日常生活でも困る。料理人の人生を終わらせるためだけだから、左指にしてくれって頼まれたよ。優しい奴だぜ」

了治は左指の激痛に意識がもうろうとしながらも、男の話はかろうじて聞こえた。

「右山に頼まれたのか?」

「俺、今、ヤクザだけど、あいつだけだよ。昔と変わらず友だちづきあいしてくれるのは。だから、依頼料もタダにしてやった。普通なら、最低五十万だぜ」

了治は、男のその声を最後に意識がなくなった。


意識が戻った時、了治は、病院の救急外来のベッドに寝かされていた。羽津恵が泣いていた。

了治は、はっと気づいて左手を見た。包帯が巻かれていた。

「羽津恵。俺の左指はどうなった?」

羽津恵はそのことには答えず、了治がレストランに来るのが遅いので心配になって見に行ったら、道に仰向けに倒れているのを見つけたと言った。「了治さん」と何度か名前を呼ぶと、「左指が潰された……」といううめき声がした。左手を見ると人差し指と中指が黒ずんで腫れていた。それで、救急車を呼んだと言った。

「俺の左指はどうなるんだ? 正直に答えてくれ。どうなるんだ?」

「まだ、分からない。本当よ。今、救急車で運ばれて来て応急処置を受けたばかりだから」

「ヤクザにやられたんだ。右山の友だちだって言ってた」

「そうなの? その話をすぐに警察の人に伝える。刑事さんが、今、救急外来の外にいるから」

羽津恵は、事件の真相を知って、救急外来の外に飛び出して行った。

残された了治は、一人、ベッドに横になりながら呟いた。

「ぐしゃって指の骨の砕ける音が聞こえた。俺の左指はもうダメだ。右山。そんなに俺に嫉妬していたのか? だったら、あんなヤクザに頼まずに、俺に言ってくれれば良かったんだ。俺たち、友だちじゃなかったのか? 悲しいよ」

了治の目から涙が溢れ出てきた。涙はいつまでも、とまらなかった。



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